フロイント

ねこうさぎしゃ

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三つめの願い

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 その日以来、魔物はアデライデによって与えられたフロイントという名を、いつも心の中で繰り返し呟いて、自分自身に向けて名乗っていた。初めは「友達」という意味のその名に何かはわからないもやもやした思いもあったが、アデライデに「フロイント」と親しく呼びかけられると、フロイントの胸にはあふれるような喜びが湧いた。自分には名前がある──その思いはフロイントの中で確かな自信にも変わっていくようだった。
 ある日の昼下がり、フロイントとアデライデは正餐室の暖炉の前に座って、レモンのタルトと先日アデライデがつくったラベンダーシュガー入りの紅茶で、午後のひと時を過ごしていた。するとコツコツと何かが窓を叩く音がして、アデライデとフロイントは思わずドキリと心臓を跳ねさせた。誰かが訪ねて来るなど有り得ない。魔物と人間の世界の狭間の荒野に建ったこの館の窓を叩くのはいったい何者だろう。
 フロイントは警戒し、アデライデは不安におののきながら窓を見た。すると、色鮮やかな羽の例の鳥が、風に吹き飛ばされそうになりながら、黒いくちばしで一生懸命に外から窓を叩いているのだった。フロイントはすぐに嫌悪と警戒の色を濃くし、アデライデは怯えたような表情を浮かべて椅子に座った体を引いた。
 ところが、鳥はふたりの様子に構うことなく、ひたすら懸命に窓を叩き続けた。フロイントが不審に思いながらよく見ると、鳥の足に大きな鎖のぶら下がった鉄の罠が食い込んでいることに気がついた。フロイントが気づくと同時に、アデライデも鳥の足が重そうな罠に捕らえられていることに気がついた。それを見た途端、アデライデは鳥の哀れさに思わず立ち上がり、窓のそばに近寄ろうとした。
「よせ、アデライデ。近寄ってはいけない」
 フロイントは慌ててアデライデが窓の近くに歩み寄ろうとするのを止め、半ばアデライデを自分の体の後ろに隠しながら、窓の外の鳥に向かって剣のある声で怒鳴った。
「何の用だ?」
 鳥は哀れみを乞うような目で、フロイントとアデライデを代わる代わる見つめ、狂ったように羽を動かしていたが、足に食い込んだ罠が重いと見えて、今にも力尽きて地面に落ちてしまいそうだった。
 アデライデはフロイントの背中越しに鳥の苦しそうな様子を見ると、顔を曇らせてフロイントを仰ぎ見た。
「可哀想だわ……。フロイント、なんとか助けてあげられませんか?」
 鳥を哀れんだアデライデがすがるように自分を見上げるのを見ると、「放っておけばよい」と言うことも憚られた。気は進まなかったが、フロイントは鳥に向き直ると、窓越しに呪文を唱え、空気の刃で罠を切って外してやろうとした。しかし、フロイントが放った刃は鳥の足に食い込む罠をはずれ、鳥の足そのものにぶつかってしまった。鳥は苦痛の悲鳴を上げた。それを見たアデライデは驚いて息を呑んだ。フロイントは今度こそと呪文を唱えたが、やはり空気の刃はまるで弾かれるように罠からはずれ、またしても鳥の体に当たって悲鳴を上げさせた。
「あの罠はもしかしたら魔物が使う罠かもしれんな」
「え? それは普通の罠とは違うのですか?」
「使い魔にする魔獣を捕縛するときに使う罠があるのだ。もしそうなら少し厄介だな」
「厄介って、どうなるのですか?」
「掛かったのが魔獣ならば、その魔力を封じられて抵抗ができないというだけだが、人間の世界の生き物が掛かってしまったら、遅かれ早かれ死んでしまうだろう」
「そんな……」
 フロイントは口をつぐむと、懸命に翼を動かして救いを求める鳥を見た。もしあの鳥が魔物世界の生き物であるなら、あのまま罠の持ち主の使い魔になるだけだ。しかしもし人間世界の生き物であるならば、あの鳥には過酷な運命が待っているだろう。フロイントは罠にかかった人間世界の生き物が、魔物世界でどのような末路を迎えるかを知っていた。


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