透明令嬢は暗殺公爵の箱庭で愛でられる

腐ったバナナ

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「……ああ、またか」

 煌びやかなシャンデリアが輝く、王宮の舞踏会。 華やかな夜会の中心で、私は静かに、けれど確かな虚無感を抱いて立っていた。

 すぐ傍を通り過ぎた給仕の青年は、私の肩が当たる寸前で、まるでそこに岩でもあるかのように自然に軌道を変えた。彼は私を見ているのではない。脳が勝手に私を「障害物」として処理し、その存在を抹消しているのだ。

 これが私の日常。 「認識阻害」の呪いを持って生まれた、伯爵家の次女、エリス・ローウェルの真実。

 家族でさえ、私の食事を用意するのを忘れる。 鏡を見ても、自分の輪郭は霧のようにぼやけて見える。 私は生きているのに、この世界にとっては「いない」のと同じだった。

(……帰ろう。誰も、私がいたことさえ気づかないのだから)

 重い脚を引きずり、テラスへと続くカーテンの陰に身を隠そうとした、その時だった。

「――おい。そこで何をしている。風邪を引くぞ」

 低く、地響きのように心地よい声が、私の鼓動を跳ね上げた。 あり得ない。 私に声をかける人間なんて、この世にいるはずがない。

 恐る恐る顔を上げると、そこには漆黒の軍服に身を包んだ、一人の男が立っていた。 夜の闇を溶かし込んだような黒髪。そして、獲物を射抜くような鋭い黄金の瞳。 帝国が誇る最強の武官であり、裏では『暗殺公爵』と恐れられる男、レオンハルト・フォン・アスガルド公爵だった。

 その鋭い視線は、真っ直ぐに、寸分の狂いもなく私の瞳を捉えていた。

「……わ、私が見えるのですか?」

 震える声で問いかけると、公爵は形の良い眉を僅かに寄せた。

「見えるかだと? 冗談はやめろ。これほど見事な宝石のような瞳をした女が、見えないはずがあるまい」

 彼は一歩、また一歩と距離を詰めてくる。 逃げなければ。そう思うのに、生まれて初めて「他人に見つけられた」という衝撃が、私の足を床に縫い付けた。

 公爵の大きな手が、私の頬を包み込む。 その掌は驚くほど熱く、誰にも触れられたことのない私の肌は、それだけで焼けるような疼きを覚えた。

「お前……なぜ、そんなに冷え切っている」 「それは……誰も、私に触れてくれないからです」

 私の目から、一滴の涙がこぼれ落ちた。 公爵はその涙を、親指の腹でなぞるように掬い取る。

「そうか。ならば好都合だ」

 彼の黄金の瞳が、獲物を仕留めた獣のような、歪んだ光を帯びた。

「誰の目にも止まらず、誰の記憶にも残らない。……そんな『透明な宝物』を、今までよくぞ独りで守り通した。これからは、俺が責任を持って管理してやろう」

「え……?」

 返事をする間もなかった。 レオンハルト公爵は私の腰を引き寄せると、軽々とその腕の中に抱き上げた。 周囲には、まだ談笑する貴族たちが大勢いる。けれど、彼らは私たちのすぐ横を通っても、公爵が「虚空を抱いている」ようにしか見えていないようだった。

「お前は、今日から俺だけの隠し財産だ」

 耳元で囁かれた低音に、全身の力が抜けていく。 彼だけに見える、彼だけの世界。 それが、死神が私に与えてくれた、最初で最後の救いだった。

 馬車の扉が閉まる音が、私のこれまでの人生との決別を告げる合図のように、夜の静寂に響いた。
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