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宰相ノアとの契約結婚が成立し、私は彼の私邸に居を移した。
ノアから最初に渡されたのは、分厚い外交資料の束だった。そこには、数ヶ月後にアラン王子が主導する予定の、隣国との『関税協定交渉』に関する機密情報が含まれていた。
私はその資料を読み進め、思わず息を呑んだ。
(間違いない……この資料にある交渉の詳細と、アラン殿下が犯す決定的な失策の内容は、前世の記憶と完全に一致している)
前世、この交渉の失敗はアラン王子の大きな汚点となり、結果的に彼の権威を揺るがすことになった。私がノアに提供した「未来の情報」は、この交渉の『裏側』、つまり隣国側の秘密の条件を指していた。
「この資料を、すべて頭に入れなさい。そして、来週の会議では、私の隣で一言も話さず、ただ観察に徹しなさい」
ノアはそう指示したきり、私に個人的な干渉はしてこなかった。あくまで私は、彼の目的達成のための道具なのだ。
しかし、公の場では、彼の態度は一変した。
翌週、王宮の大広間で行われた高官会議。ノアは私を伴って出席した。当然、そこには元婚約者であるアラン王子もいた。
会議中、私はノアの隣で静かに座っていた。公爵令嬢としての知識と、前世の経験から、会議の流れは手に取るようにわかった。
そのとき、ノアが突然、私の耳元に顔を寄せた。
「エステル。少し顔色が悪いようだが、大丈夫か?」
彼の低い声が耳をくすぐる。その距離は、公衆の面前ではありえないほど親密なものだった。私は内心驚きながらも、すぐに契約上の妻としての役割を理解し、冷静に答えた。
「ご心配には及びません、宰相殿下。ただ、少し目が疲れただけです」
「そうか。無理はするな。私の妻が体調を崩しては困る」
ノアはそう言うと、私の手元に置いてあった書類の一部をそっと引き寄せ、自分の分と重ねた。
この一連の動作を見た高官たちは、一様に驚きの表情を浮かべた。
冷酷で知られる宰相ノアが、会議中に妻の体調を気遣い、書類仕事まで肩代わりしている――。
彼らの目には、ノアがエステルに対して、深い寵愛と執着を注いでいるように映っただろう。
(ふむ。これが彼の望む「偽装」ね。周囲に二人の関係が本物であると信じ込ませ、私の地位を磐石にする)
私はノアの冷徹な演技力に感心したが、同時に、彼の徹底的な過保護さにも気づき始めた。彼は私に一切の仕事をさせず、私が一歩でも危険な領域に踏み込もうとすると、無言の圧力で制した。
彼は私を利用しているが、その利用の仕方は、前世で私を無関心に扱い、最終的に見捨てたアラン王子とは根本的に異なっていた。
会議の終了後、アラン王子は私たちのもとへ、苛立ちを隠せない様子で歩み寄ってきた。
「ノア!貴様、エステルに何を吹き込んだ!あんなに親密な様子を公衆の面前で見せるのは、エステルへの侮辱ではないのか!」
アランの瞳は、嫉妬に燃えていた。
ノアは、アランの激情を氷のような視線で受け止めた。
「王子殿下。私の妻との関係に、貴方が口を出す権利はありません。そして、私が妻に注ぐ愛情表現が、なぜ侮辱になるのか」
ノアはそう言うと、私に向き直り、公衆の面前であるにもかかわらず、私の頬にごく自然に、一瞬のキスを落とした。
「妻の顔色が優れない。これ以上、無用な会話で時間を浪費したくない」
その瞬間、アランの顔は怒り、嫉妬、そして後悔の複雑な感情で歪んだ。
「エステル!君は本当に、この男を選ぶのか!君の純粋な愛はどこへ行ったんだ!」
アランは私に手を伸ばした。
私はその手を冷静に払い除けた。そして、無表情のまま、彼に突きつけた。
「殿下。わたくしが純粋だったのは、殿下を信じていたからです。ですが、その純粋さは、貴方がご自分の手で葬り去ったのですよ」
その言葉は、アランの心臓に深く突き刺さったようだった。彼は何も言い返すことができず、ただ打ちのめされたようにその場に立ち尽くした。
私はノアと共に、その場を静かに後にした。私の心には、復讐の計画が順調に進んでいるという冷たい満足感が満ちていた。
(アラン。あなたが後悔するのは、これからよ。私があなたにとって、どれほど価値ある存在だったか。そして、私を失ったことが、どれほど大きな痛手となるかを、骨の髄まで思い知らせてさしあげます)
ノアから最初に渡されたのは、分厚い外交資料の束だった。そこには、数ヶ月後にアラン王子が主導する予定の、隣国との『関税協定交渉』に関する機密情報が含まれていた。
私はその資料を読み進め、思わず息を呑んだ。
(間違いない……この資料にある交渉の詳細と、アラン殿下が犯す決定的な失策の内容は、前世の記憶と完全に一致している)
前世、この交渉の失敗はアラン王子の大きな汚点となり、結果的に彼の権威を揺るがすことになった。私がノアに提供した「未来の情報」は、この交渉の『裏側』、つまり隣国側の秘密の条件を指していた。
「この資料を、すべて頭に入れなさい。そして、来週の会議では、私の隣で一言も話さず、ただ観察に徹しなさい」
ノアはそう指示したきり、私に個人的な干渉はしてこなかった。あくまで私は、彼の目的達成のための道具なのだ。
しかし、公の場では、彼の態度は一変した。
翌週、王宮の大広間で行われた高官会議。ノアは私を伴って出席した。当然、そこには元婚約者であるアラン王子もいた。
会議中、私はノアの隣で静かに座っていた。公爵令嬢としての知識と、前世の経験から、会議の流れは手に取るようにわかった。
そのとき、ノアが突然、私の耳元に顔を寄せた。
「エステル。少し顔色が悪いようだが、大丈夫か?」
彼の低い声が耳をくすぐる。その距離は、公衆の面前ではありえないほど親密なものだった。私は内心驚きながらも、すぐに契約上の妻としての役割を理解し、冷静に答えた。
「ご心配には及びません、宰相殿下。ただ、少し目が疲れただけです」
「そうか。無理はするな。私の妻が体調を崩しては困る」
ノアはそう言うと、私の手元に置いてあった書類の一部をそっと引き寄せ、自分の分と重ねた。
この一連の動作を見た高官たちは、一様に驚きの表情を浮かべた。
冷酷で知られる宰相ノアが、会議中に妻の体調を気遣い、書類仕事まで肩代わりしている――。
彼らの目には、ノアがエステルに対して、深い寵愛と執着を注いでいるように映っただろう。
(ふむ。これが彼の望む「偽装」ね。周囲に二人の関係が本物であると信じ込ませ、私の地位を磐石にする)
私はノアの冷徹な演技力に感心したが、同時に、彼の徹底的な過保護さにも気づき始めた。彼は私に一切の仕事をさせず、私が一歩でも危険な領域に踏み込もうとすると、無言の圧力で制した。
彼は私を利用しているが、その利用の仕方は、前世で私を無関心に扱い、最終的に見捨てたアラン王子とは根本的に異なっていた。
会議の終了後、アラン王子は私たちのもとへ、苛立ちを隠せない様子で歩み寄ってきた。
「ノア!貴様、エステルに何を吹き込んだ!あんなに親密な様子を公衆の面前で見せるのは、エステルへの侮辱ではないのか!」
アランの瞳は、嫉妬に燃えていた。
ノアは、アランの激情を氷のような視線で受け止めた。
「王子殿下。私の妻との関係に、貴方が口を出す権利はありません。そして、私が妻に注ぐ愛情表現が、なぜ侮辱になるのか」
ノアはそう言うと、私に向き直り、公衆の面前であるにもかかわらず、私の頬にごく自然に、一瞬のキスを落とした。
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