灼華楼綺譚

兎沙

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三:眠れる美女

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視界の端々が、いつものように頼りなく溶けている。
だから、俺にとっての客は、いつだって『色彩』と『音』と『匂い』の集合体だ。

(……高い、匂いがする)

部屋に満ちたているのは、この辺りの男たちが好む安直な白粉の香りや酒の臭いではなかった。

どこか都会的な、清潔な石鹸の残り香。
それに、異国の香水と、僅かに混じる上質な煙草の香。

それは、この人が俺の住むこの澱んだ座敷とは、根本から違う階層に属していることを雄弁に語っていた。

「……面白いことを言うじゃないか。そうだ、媚びは見飽きている」

声は、低く、よく響く。
自分の一言が、他人の運命を容易く変えられると信じて疑わない、拒絶を知らない強者の響き。

ぼやけた視界の先にいる我妻壱師は、仕立ての良い上着を着た「洒落た影」にしか見えなかったが、その影から発せられる熱量だけは、嫌に生々しく肌を刺した。

『素』でいろ、とこの人は言った。
馬鹿げている、と俺は思った。

客の機嫌を取り、客の理想を演じ、客の欲望を飲み干すのが俺の仕事だ。
素の俺など何の中身も無い、ただ色が白いだけの骨ばった若造だ。

そんなものを欲しがるなど、この人は金を使って『無』を買いに来たのだろうか。

意味はわからないが、客の求めるものに文句を付ける気も無い。
それが欲しいと言うのなら、そのまま差し出すのが対価に対して誠実というものだ。

「素、ですか。承知致しました」

俺は、伏せていた瞳をゆっくりと上げた。
焦点の合わない赤い瞳で、その「洒落た影」をじっと見つめる。
何を考えているのか悟らせないよう、表情の筋繊維一つ一つを、ただの『無』に固定して。

これが、あなたの望む『素』なんですよ、我妻様。
何も入っていない、ただの空箱。

あなたが飽きるまで、俺はこの空っぽな時間を、あなたに売って差し上げましょう。



こいつなら想像を裏切ってくれるだろう、という期待はすぐに叶えられた。思っていたのとは、だいぶ違う形で。
「承知致しました」と言った直後から切り替えられた沙華の素の様相は、あまりにも『無』だった。

沙華を招き寄せ、壊れ物を扱うつもりで慎重に、その陶磁器のような白い肌に触れた。
冷たいように見えるその表面には、体温も弾力も確かにあるのに、表情がまるで動かない。
触れれば触れるほど、生命に相対している感覚が薄れていき、不安になる始末だった。

話に聞いていた、従順と淫靡などはこの少年の欺瞞であったのだと思い知らされる。
だが、俺はこれまでこいつを買ってきた有象無象の男たちとは違う。
痛みではなく、快楽を。恐怖ではなく、安心を与えてやれば、必ずこの凍った仮面の下から「人間」が顔を出すはずだ。

「……沙華。どうだ、これなら怖くないだろう?」

耳元で囁き、反応を待つ。
しかし、返ってくるのは、規則正しい呼吸音のみ。
遅れて、意図を測りかねて問うような上目遣いと、少し首を傾げる仕草があるだけだった。

まるで、高級なフランス人形を相手にしているようだ。
完璧な造形だが、中身は空洞。
俺の熱が、虚空に吸い込まれていくような徒労感。

いや、違う。必ずどこかにスイッチがあるはずだ。
焦りを押し殺し、さらに指先に神経を集中させた。



長い。
それが、率直な感想だった。

この我妻という男の行為は、ひどく丁寧で、そして遅かった。
通常の客であれば、自身の欲望を最短距離で満たそうとする。それが彼らにとっての正当な対価だからだ。
痛かろうが雑だろうが、早く終わればそれだけ次の客を取れるので、俺にとっても好都合だ。

しかし、この人はどうだ。
まるで傷一つない果実を検品するように、いちいち動作を止めて俺を見つめ、何かを問いかけてくる。

「素でいろ」という注文通り、普段なら演じていたはずの微細な反応は返さなかった。
客を取る立場としてどうかと思わなくはないが、望まれていないものを勝手に差し出すわけにもいかない。

直接的な部位を触られれば、いくら俺でも息が詰まったり体が跳ねたりくらいの反射は起こる。
そんな申し訳程度の反応にすら、どこか安堵したような様子を見せるこの人に、滑稽さを感じずにはいられなかった。

反応が欲しいのなら、最初から素でいろなどと命じなければ良かったのに。
どうにも難儀な人だと思った。

あの破格の金額は、この非効率な時間に対する対価なのだろうか?
金持ちの考えることは、理解できない。

熱のこもった指先が肌を滑るのを、どこか他人事のように感じていた。
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