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終電間際、君と揺れるバス停で
しおりを挟む私は小川咲(おがわ さき)、27歳。
デザイン事務所に勤める私の毎日は、深夜の残業と、バスに駆け込むことで成り立っていた。
時計の針はとうに日付を跨ぎ、スマートフォンの充電は残りわずか。
吐き出す息が白く染まる、冬の冷たい空気が肌を刺す。
私がいつも駆け込むことになるバス停は、都会の喧騒から少しだけ取り残されたような、静かな場所だった。
大通りから一本入った道沿いに、ぽつんと立つそのバス停。
透明なアクリルの屋根は少し汚れ、街灯の光を鈍く反射している。
座面がところどころささくれた木製のベンチ、その隣には、色褪せた歯科医院の広告が掲げられたままの小さな看板。
オレンジ色の常夜灯が、時刻表と私たちの足元をぼんやりと照らし出す。
ここだけが、まるで時間の流れから切り離された舞台装置のようだった。
この時間になると、バスを待つ人はほとんどいない。
だから、彼がいると、すぐにわかった。
いつからか、そのバス停にはいつも彼がいるようになった。
いつもベージュのトレンチコートを着て、手に文庫本を携えている人。
年齢は私と同じくらいだろうか。
すらりとした細身の体に、どこか憂いを帯びた顔立ち。
色素の薄い瞳は、いつも遠くを見つめているようで、掴みどころがない。
初めて彼を見た時、私は思わず息をのんだ。
まるで、古い洋画のワンシーンから抜け出してきたような、そんな印象を受けたのだ。
私は心の中で、彼のことを密かに「文庫本の人」と呼んでいた。
彼はいつも、最終バスの一本前のバスを待っているようだった。
私がバス停に着く頃には、彼は既にベンチに座り、静かに本を読んでいる。
私が到着すると、彼は一瞬だけ顔を上げて、私に会釈をする。
私も、慌てて会釈を返す。
それだけの、ほんの短いやりとり。
最初は、ただの偶然だと思っていた。
それが、毎日、いや、毎晩となると、さすがに意識しないわけにはいかない。
私たちは、お互いの名前も知らないまま、暗黙の了解のように、このバス停で時間を共有するようになった。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です」
いつからか、会釈だけの関係に、そんな言葉が添えられるようになった。
それなのに、どうしてだろう。
彼の静かな存在が、連日の残業でささくれ立った私の心を、少しだけ癒してくれるのだった。
その日も、私は遅い時間まで事務所に残っていた。
納期が迫るプロジェクトで、連日寝不足が続いている。
頭の中は、クライアントから突き返されたデザイン案のことでいっぱいだ。
「咲ちゃん、お疲れ様。大丈夫? 顔色悪いよ」
優しい声に顔を上げると、そこにいたのは同僚の山口美依(やまぐちみい)だった。
ゆるふわウェーブの髪型がよく似合う、天然そうでいて、いつも周りを気遣ってくれる、私の大切な友人だ。
「美依ちゃんもお疲れ様。
うん、なんとかね。もう、デザインがまとまなくて……」
私は深い深いため息をつく。
美依ちゃんは、私の隣の椅子に腰かけると、そっと背中をさすってくれた。
「無理しないでね。
私は今日はもう帰るけど、何かあったら連絡して。いつでも話聞くから」
「ありがとう、美依ちゃん。本当に助かる。美依ちゃんも気をつけて帰ってね」
美依ちゃんは、ふわりと微笑んで、私の頭をポンポンと撫でてくれた。
彼女の温かい手に、心が少しだけ軽くなるのを感じた。
仕事を終え、私は重い足取りでバス停に向かった。
いつもより三十分は遅い時間で、最終バスまでぎりぎりだ。
…あの人は、もうとっくに帰ってしまっただろうな。
胸に小さな寂しさが灯るのを、疲労のせいだと無理やり思い込む。
バス停のオレンジ色の明かりが見えてきて、私は息をのんだ。
ベンチに、見慣れたベージュのトレンチコートの背中があった。
どうして…?
彼の乗るはずのバスは、もう三十分も前に出てしまったはずだ。
私が驚いて立ち尽くしていると、彼がこちらに気づいてゆっくりと振り返った。
「小川さん。お疲れ様です」
いつものように穏やかな声。
でも、その表情には少しだけ、安堵の色が浮かんでいるように見えた。
「……お疲れ様です。どうして、まだここに? バスはもう…」
「ええ…。読んでいた本が佳境で、うっかり乗り過ごしてしまいまして」
彼は少し照れたように笑い、手に持っていた文庫本を軽く掲げてみせる。
その仕草に、思わず私の口元も緩んだ。
「そう、だったんですね」
本当に、本に夢中だったのかな。それとも…?
ふと、そんな期待が胸をよぎる。
まさかね、と打ち消しながらも、彼の隣に腰を下ろすと、冷え切っていた心がじんわりと温かくなるのを感じた。
彼がこの場所にいてくれる。
ただそれだけで、一日の疲れが溶けていくようだった。
沈黙が続く。
いつも通りのことだ。
でも、今日の私は、なぜかこの沈黙に耐えられなかった。
仕事のストレスと、彼がまだここにいたという小さな喜びが、私を饒舌にさせていた。
彼の隣に座ると、いつも彼が膝の上に置いている生成り色のトートバッグが目に入った。
そこには、三日月と開かれた本をモチーフにした、趣のあるロゴが印刷されている。
デザイナーの性(さが)だろうか、その洗練されたデザインに、私は思わず心を惹かれた。
「あの…。いつも素敵なデザインのバッグだな、と思って見ていたんですけど…」
思い切って話しかけると、彼は本から顔を上げ、少し驚いたように自分のバッグに視線を落とした。
「ああ、これですか」
「はい。そのロゴ…もしかして、本に関係するお仕事ですか? 古本屋さん、とか…」
恐る恐る尋ねると、彼は少し目を見開いて、それからふっと柔らかく微笑んだ。
「…慧眼ですね。
はい。駅の裏手にある古書店で働いています。
古い本を、次の世代に繋ぐのが僕の仕事なんです」
そう言って微笑んだ彼の横顔には、自分の仕事に対する静かな誇りが滲んでいるように見えた。
「すごいですね。新しいものを生み出すのも大変ですけど、大切なものを守っていくお仕事も、とても素敵だと思います」
「ありがとうございます。…あなたは、デザインのお仕事を?」
「えっ、どうして…」
「なんとなく。いつも、街の広告やショーウィンドウを、何かを探すような目で見つめているから」
彼の言葉に、私は頬が熱くなるのを感じた。
私の些細な癖を、彼は見ていてくれたんだ。
その日を境に、私たちの間には少しずつ、けれど確かな言葉が生まれていった。
雨の日には、アクリルの屋根を叩く単調な雨音をBGMに言葉を交わした。
濡れたアスファルトに反射する街灯の光が、まるで川のようだと彼が言った。
バスが到着し、そのヘッドライトが夜の川を照らすと、私たちはどちらからともなく一つの傘に入り、扉までのほんの数歩を一緒に駆け込んだ。
肩が触れ合うその一瞬に、いつも胸が小さく高鳴った。
雪の日には、ベンチの端に積もった雪を払い、自販機で買った温かいお茶で指先を温めながら、遠ざかっていく車の轍を二人で眺めていた。
季節が移り変わる中で、このバス停で交わす他愛ない会話が、私にとって一日の終わりの小さな楽しみになっていった。
ある晩、私は仕事での大きな失敗に打ちのめされていた。
私が担当していたプロジェクトで、私のデザインがクライアントに全く受け入れられなかったのだ。
それどころか、上司からも、
「君のデザインは独りよがりだ」
と厳しく叱責された。
バス停のベンチに座り、私は声を殺して泣いた。
今日まで積み上げてきたものが、全て崩れ去ったような気がした。
もう、何もかも嫌になってしまった。
「こんばんは」
優しい声に顔を上げると、そこに彼が立っていた。
彼はいつものように、私の隣に静かに座る。
何も聞かず、ただそこにいてくれる。
その沈黙が、今の私には何よりもありがたかった。
やがて、私の涙が少し落ち着いてきた頃、彼は手に持っていた文庫本をそっと開いた。
「もしよかったら、少しだけ、僕が読んでいる本を読み聞かせてもいいですか?」
私は、こくりと頷くことしかできなかった。
彼が読み始めたのは、どこか物悲しい、けれど優しい物語の一節だった。
彼の低く、穏やかな声が、言葉の一つひとつに命を吹き込んでいく。
その声と言葉が、ささくれ立った私の心にじんわりと染み渡り、固く凍っていた何かをゆっくりと溶かしていくようだった。
読み終えた彼が、静かに本を閉じる。
「ありがとうございます…」
私は、震える声で感謝を伝えた。
彼の読み聞かせが、私の心をどれほど救ってくれたか、言葉では言い表せなかった。
「いえ。少しでも、あなたの心が軽くなったのなら、嬉しいです」
彼は、ふわりと微笑んだ。
「あの、私、小川咲といいます」
私は、自分でも驚くほど自然に、名前を名乗っていた。
「僕は、高野涼(たかの りょう)です」
高野涼さん、と心の中で呟いてみる。
ずっと「文庫本の人」だった彼に、名前がある。
その当たり前の事実に、胸が温かくなった。
その日以来、私は彼に、高野さんに、もっと惹かれるようになった。
彼の優しさ、彼の言葉、彼の存在。
全てが、私にとってかけがえのないものになっていた。
仕事での失敗は、もちろん私の心に深い傷を残した。
自信を失いかけ、デザインの筆が鈍る夜もあった。
けれど、一日の終わりにあのバス停で高野さんと会える。
ただそれだけの事実が、折れそうになる私を内側から支えてくれていた。
彼の存在は、荒れた心に差し込む一筋の光のようだった。
そうして、高野さんという心の支えを得て、仕事の失敗を乗り越えようと懸命にもがいていた、そんな矢先のことだった。
さらなる絶望が、私を打ちのめすことになる。
私が担当していた広告デザインが、誤って競合他社の製品に酷似していると指摘されたのだ。
社内は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
私は、何度もデザインを確認したはずなのに、どうしてこんなことになってしまったのか、全く理解できなかった。
「小川さん、本当に自分でデザインしたんですか?」
「どこかからパクったんじゃないでしょうね?」
心ない言葉が、私の心に突き刺さる。
上司からは厳しく問い詰められ、頭が真っ白になった。
私は、故意にそんなことをするはずがない。
しかし、証拠を示せと言われても、すぐにできることではなかった。
絶望的な状況の中、私を庇ってくれたのは美依ちゃんだけだった。
「咲さんは、そんなことする人じゃありません!
このデザインは、咲さんが徹夜して、何度も修正を重ねて作り上げたものなんです!」
懸命に訴えてくれる彼女の姿に、涙が溢れた。
しかし、状況は改善せず、私はそのプロジェクトから外され、謹慎を言い渡された。
足元がおぼつかないまま、バス停へ向かう。
ベンチに座る高野さんの姿を見つけた途端、堪えていた涙が堰を切ったように溢れ出した。
私は、彼の隣に座り込むと、今日あったことを、言葉にならない感情のまま、とめどなく吐き出した。
高野さんは、何も言わず、ただ私の話を聞いてくれた。
時には、私の背中をそっと撫でてくれた。
彼の温かい手が、私の心を少しだけ落ち着かせてくれた。
私が話し終えると、高野さんは静かに口を開いた。
「小川さん、僕は、小川さんがそんなことをする人ではないと信じています」
彼の真っ直ぐな瞳には、疑いや不信感は一切なかった。
ただ、純粋な信頼だけがそこにあった。
「ありがとうございます…」
彼の言葉が、私の心にどれほどの安らぎを与えてくれたことだろう。
「何か、僕にできることはありませんか?」
私は、藁にもすがる思いで、問題のデザインのラフスケッチを彼に見せた。
高野さんは、そのスケッチをじっと見つめ、何かを考えるように顎に手を当てた。
「このデザイン…どこかで見たことがあるような…。
あ!以前、僕の店に来たお客様が、似たようなデザインのしおりを挟んだ本を置いていきました」
彼の言葉に、私は一筋の光明を見出した。
「そのしおり、今でも覚えていらっしゃいますか?」
「ええ、確か、店に置いてあったはずです」
「もし、よろしければ…一緒に、そのしおりを探しに行っていただけませんか?」
私たちは、高野さんの古書店に向かった。
夜の古書店は、静かで、どこか神秘的な雰囲気を醸し出している。
古い本の匂いが、私の心を落ち着かせてくれる。
高野さんは棚の間を熱心に探し始め、数分後、
「これです!」
と声を上げた。
彼が手にしていたのは、私のデザインと酷似した、しかし、どこか懐かしい雰囲気のしおりだった。
私はそのしおりを見て、一瞬安堵したものの、すぐに血の気が引いていくのを感じた。
待って…。これを会社に持っていったら…?
「どうしました、小川さん?」
私の表情の変化に気づいた高野さんが、心配そうに声をかけてくれる。
「これ…、私がこれを元にデザインしたっていう、決定的な証拠だと思われませんか…?」
私の言葉に、高野さんもはっとした表情になった。
そうだ、これは私の無実を証明する「免罪符」などではない。
むしろ、私を断罪するための「凶器」になりかねないのだ。
「…どうしよう…」
膝から崩れ落ちそうになる私を、高野さんがそっと支えてくれた。
「小川さん、落ち着いてください。証明すべきは『偶然の一致』であることです。
そのためには、小川さん自身のデザインプロセスを提示する必要があります」
彼の冷静な言葉に、私は少しだけ我に返った。
「デザイン…プロセス…」
「はい。小川さんが、このしおりの存在を知らずに、どうやってそのデザインに辿り着いたのか、その思考の道筋を示すんです。
ラフスケッチや、アイデア出しのメモ、参考にした資料…何か残っていませんか?」
…そうだ。
デザインは、ゼロから突然生まれるものじゃない。
そこには必ず、思考の積み重ねがあるはずだ。
「…あります! 会社のサーバーと、私のデスクに…!」
私は震える声で答えると、すぐに美依ちゃんに電話をかけた。
事情を説明すると、彼女は二つ返事で協力してくれると言ってくれた。
深夜のオフィスに、私と美依ちゃんは忍び込んだ。
私たちは手分けをして、私の潔白を証明するための「証拠」を探し始めた。
「咲ちゃん、あったよ! プロジェクト初期のブレスト議事録!」
美依ちゃんが差し出したデータには、「伝統的なモチーフを、現代的な感性で再解釈する」というクライアントからの要望がはっきりと記されていた。
私は、自分のPCに残っていたデザインの制作履歴を懸命に遡る。
私がインスピレーションを受けたのは、しおりのデザインではなく、図書館で偶然見つけた古い文様集の中の一つのモチーフだった。
その証拠写真も、参考資料フォルダの中に残っていた。
翌朝、私は上司に面談を申し込んだ。
そして、集めた全ての資料を提示し、私のデザインプロセスを一から丁寧に説明した。
「私が参考にしたのは、こちらの文様集です。
ここから着想を得て、クライアントの要望に沿う形でデザインを発展させていきました。
その結果、偶然にもこちらのしおりと酷似したデザインになったものと考えられます。
これはデザインの世界で稀に起こる『コンバージェント・デザイン(収斂進化)』の一例です」
私の説明を、上司は厳しい表情で聞いていた。
しかし、タイムスタンプ付きで詳細に記録された制作過程のファイルを見るうちに、その表情が少しずつ変化していく。
そこには、私が決して盗用などしていない、確かな「産みの苦しみ」の記録が刻まれていたからだ。
最終的に、上司は深くため息をつくと、私に頭を下げた。
「…小川さん、すまなかった。
君のプロフェッショナルな仕事を疑うようなことをしてしまい、本当に申し訳ない」
その言葉を聞いて、張り詰めていた糸が切れ、私はその場に泣き崩れた。
謹慎処分は撤回され、私の潔白は、ようやく証明されたのだった。
その夜、私は再びバス停にいた。
高野さんは、いつものようにベンチに座って本を読んでいた。
「高野さん!」
私は、彼の隣に座ると、満面の笑みで彼を見た。
「おかげさまで、私の潔白が証明されました! 本当に、ありがとうございます!」
「それはよかったですね。僕も嬉しいです」
高野さんも、ふわりと微笑んだ。
彼の微笑みは、いつもより少しだけ、嬉しそうに見えた。
「高野さんのおかげです。
高野さんがいなかったら、私はどうなっていたことか…」
「いえ。小川さんが、諦めずに真実を追求したからです」
彼の謙虚な言葉が、心に温かく響く。
数週間後、私は会社で新しいプロジェクトを任された。
それは、私が本当にやりたかった、地域活性化のためのデザイン。
そして、その舞台は、偶然にも高野さんの古書店がある商店街だった。
私は、高野さんにそのことを報告し、思い切って提案した。
「高野さんのお店も、デザインさせていただけませんか?」
彼は少し驚いたような顔をして、それからゆっくりと頷いた。
「光栄です」
私は、高野さんの店のデザインに夢中で取り組んだ。
それは、これまでのどんな仕事よりも、私の心を燃え上がらせた。
仕事として高野さんの古書店へと向かった。
「この店は、祖父が始めたものなんです。
僕にとっては、物心ついた頃からの遊び場でした」
昼間の光の中で見る高野さんは、夜のバス停で会う彼とは少し違う、柔らかな表情をしていた。
彼は、使い込まれて艶の出たカウンターを愛おしそうに撫でながら、店の歴史をぽつりぽつりと話してくれた。
高野さんの、大切な場所…。
私は、彼の言葉を一言も聞き漏らすまいと、メモを取る。
デザイナーとして、彼の想いを最高の形で実現したい。
そして、一人の女性として、彼のテリトリーに入れてもらえたことが、どうしようもなく嬉しかった。
数日後、私はいくつかのデザイン案を手に、再び彼の店を訪れた。
「テーマは、『物語への入り口』です。
この窓際のスペースにもっと光を取り込んで、訪れた人が気軽に本を手に取れるような閲覧スペースを作るのはどうでしょう。
壁の色は、古い本の紙の色に近い、温かみのあるオフホワイトを基調に…」
私が緊張しながらコンセプトを説明すると、高野さんは私のデザイン画を食い入るように見つめ、それから顔を上げて、驚いたように言った。
「すごい…。まるで、僕がこの店に抱いていた理想を、そのまま形にしてくれたみたいだ」
彼のその言葉と、心からの感嘆が滲む表情に、私の胸は熱くなった。
仕事でこれほどまでに満たされた気持ちになったのは、いつ以来だろう。
本格的な作業が始まると、私たちは毎日のように顔を合わせた。
店内でメジャーを片手に採寸をしている時だった。
高い場所にある本棚の寸法を測ろうと、私が背伸びをしていると、高野さんがそっと脚立を持ってきてくれた。
「気をつけて」
彼が下で支えてくれる。
すぐ近くに感じる彼の気配に、心臓が跳ねた。
「ありがとうございます。
この本棚、すごく立派ですね」
「祖父の手作りなんです。
子どもの頃、この一番上の段に隠された海外の冒険小説を、こっそり読むのが好きで」
そう言って見上げた彼の横顔は、遠い昔を懐かしむ、少年のような無邪気さを帯びていた。
高野さんの、子どもの頃…
バスの待合室では決して見ることのできない、彼の柔らかな一面。
彼の好きな本、彼の幼い頃の夢、彼が大切にしているもの。
その一つひとつに触れるたびに、パズルのピースが埋まっていくように、高野涼という人が私の心の中で形作られていく。
そして、どうしようもなく愛おしい、という気持ちが込み上げてくるのだ。
彼の全てを知りたい。
彼の過去も、今も、そして未来も。
私の知らない彼の物語を、もっともっと、聞かせてほしい。
デザイン作業は、彼との距離を急速に縮めていった。
それは、ただのクライアントとデザイナーという関係性を、とうに超えていた。
この仕事が終わってしまったら、この特別な時間はもう戻ってこないのかもしれない。
そんな寂しさが、ふと胸をよぎった。
デザインが完成し、古書店は新しい姿に生まれ変わった。
以前の趣はそのままに、陽の光が差し込む、温かい空間になった。
オープン当日、お店は多くの人で賑わっていた。
美依ちゃんも駆けつけてくれ、
「すごいよ咲ちゃん! 天才的だよ!」
と満面の笑みで私を抱きしめてくれた。
レジカウンターに立つ高野さんは、嬉しそうに、そして少し誇らしそうに店内を見回していた。
その夜、私たちはいつものバス停で会った。
「小川さん、今日はお疲れ様でした」
高野さんは、私に温かい缶コーヒーを差し出した。
「ありがとうございます。お店、すごく素敵になりましたね。
高野さんも、嬉しそうでよかったです」
「はい。小川さんのおかげです」
高野さんは、優しく微笑んだ。
夜風が、バス停のそばにある街路樹の葉を揺らし、アスファルトに落ちる影がさざ波のように動く。
沈黙が心地いい。
揺れるオレンジ色の光が、彼の横顔を優しく照らしている。
もう、迷いたくなかった。
「ねえ、高野さん」
私は、意を決して、彼を見つめた。
「私、高野さんのことが好きです」
私の言葉に、高野さんは驚いたように目を見開いた。
そして、少しだけ俯くと、彼の耳が赤く染まっているのが見えた。
「…僕も、小川さんのことが好きです」
彼の声は、小さく、しかし、はっきりと私の耳に届いた。
「初めてバス停で見た時から、ずっと、小川さんのことが気になっていました」
高野さんは、そう言って、私の手をそっと握ってくれた。
彼の指は、以前よりもずっと温かく感じられた。
終電間際、揺れる木の影、オレンジ色の光に照らされたバス停で。
都会の片隅で育まれた、ゆっくりと、しかし確かな二人の心の触れ合いは、今、確かな愛へと変わった。
これから始まる物語の予感に、私の心は温かい光で満たされていた。
-fin-
10
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