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大学食堂、幻のメニューと君
しおりを挟む大学の賑やかな喧騒から少し離れた場所にある、第一食堂。
そこで、私、田中晴香(たなか はるか)は今日も、美味しいもののことで頭がいっぱいだった。
大学二年生の私の最大の趣味であり、生きがいも「食べること」。
特にこの食堂の、とある噂が、私の食いしん坊の探求心をくすぐってやまなかった。
それは、学生の間でひそかに囁かれる「幻の裏メニュー」の存在。
このメニューは、通常の券売機にはなく、食堂のアルバイトの一人が、その日の客の気分や悩みを見抜き、特別な食材でアレンジを加える「オーダーメイドの逸品」なのだという。
まさに、食べ手の心に寄り添う、究極の料理。
その存在が、まさに「幻」と呼ばれる所以だった。
その「幻の裏メニュー」作っているのは、食堂でアルバイトをしている大学院生の佐々木健太(ささき けんた)さんだと、友人たちは口を揃えて言う。
「晴香、あれは都市伝説だよ。
いくら食いしん坊のお前でも、佐々木さんに作ってもらうのは無理だろ」
「ていうか、佐々木さんってめちゃくちゃモテるらしいけど、ちょっと近寄りがたくない?
あんな人にいきなり『裏メニュー作って』なんて言えないよ」
友人たちのそんな言葉を聞きながらも、私の頭の中は常にその「幻のメニュー」でいっぱいだった。
一体どんな味がするんだろう。
どんな食材を使っているんだろう。
想像するだけで唾液が止まらない。
私はただただ、その究極の料理に、強い憧れを抱いていた。
佐々木さんのことなど、噂でしか知らない。
どんな人かも知らないけれど、最高の料理を作る、その「幻のメニュー」の創造主、という漠然としたイメージだけが私の中で膨らんでいた。
「よし、今日こそだ!」
私は拳を握りしめ、いつものように定食を受け取る列に並んだ。
私の今日の目的は、ランチではない。
列の先に、噂の人物がいるはずだ。
佐々木さんの姿はまだ遠く、ぼんやりとしか見えない。
それでも、そこに「幻のメニュー」の鍵を握る人物がいるというだけで、心臓がトクトクと高鳴る。
会計が終わり、トレイを受け取るとき、私は初めて噂の佐々木健太さんを間近で見た。
すらりと背が高く、知的な雰囲気を纏っている。
手入れの行き届いた黒髪は、清潔感があり、白いエプロンがプロの料理人のように似合っていた。
引き締まった体つきは、日々の作業で鍛えられているのだろう。
あまり表情を変えず、常に落ち着いていて冷静に、しかしテキパキと仕事をこなす姿は、まさに完璧という言葉が相応しかった。
その凛とした佇まいは、私のようなおっちょこちょいな大学生とは住む世界が違うように思えて、最初は声をかけることすら躊躇した。
噂で聞くより、ずっと素敵な人だった。
そして、ふと佐々木さんと一瞬だけ目が合った気がした。無表情の中に、ほんのわずかだけ、優しい光が宿ったような気がした。
いや、私の気のせいか?
その日の夕方、友人の山口美依と学食でばったり会った。
美依は私と同じ文学部の二年生で、私の一番の理解者であり、相談相手でもある。
色素の薄い柔らかな髪は、ゆるふわウェーブがかかっていて、中性的で優しい雰囲気をさらに引き立てている。
線の細い体つきといつも朗らかな笑顔が特徴で、カフェ巡りや美味しいもの探しが趣味というだけあって、食への探求心も人一倍だ。
「晴香ちゃん、また幻のメニューのことで悩んでるの?」
私が物欲しそうに食堂の厨房を眺めていると、美依はすぐに私の思考を読み取った。
「なんでわかるんだよ、美依」
「晴香ちゃんの顔に『幻のメニュー』って書いてあるもん。
それに、食堂にいるときの晴香ちゃん、いつも厨房の奥を食い入るように見てるから分かりやすいよ」
図星を指されて、私は頬を赤らめた。
私ってそんなに分かりやすいか?
「でもさ、美依。
あれって本当に存在するのかな。
私、どうしても一度でいいから食べてみたいんだ」
美依はにこやかに笑いながら、私の肩をポンと叩いた。
「晴香ちゃん、諦めないのが晴香ちゃんの良いところだよ。
でもね、佐々木さんって、ただ『裏メニューを作ってください』って言っても絶対作ってくれないと思うな」
「じゃあ、どうすればいいんだよ?」
「うーん…。きっと、佐々木さんはその人のことを見て、その人に合わせたものを作るのが得意なんだと思うな。
だから、晴香ちゃんがどうしてそのメニューを食べたいのか、とか、晴香ちゃんがどんな人なのか、とか、そういうのを佐々木さんに知ってもらうのが一番の近道なんじゃないかな?」
美依の言葉に、私はハッとさせられた。
そうだ、私はただ「幻のメニュー」という響きに惹かれていただけで、佐々木さん自身のことは何も考えていなかった。
まずは、佐々木さんに「幻のメニューを食べたい」という私の熱意を伝えることから始めよう。
翌日から、私は作戦を実行した。
まずは佐々木さんに顔を覚えてもらうこと。
そして、少しでも私のことを知ってもらうこと。
毎日、食堂のオープンと同時に駆けつけ、決まって同じ席に座った。
定食を受け取るときは、必ず、
「今日も美味しそうです!」
と一言添えた。
たまに、空いている時間を見計らって、
「佐々木さん、お疲れ様です」
と声をかけることもあった。
佐々木さんは、最初は、
「ありがとうございます」
とだけ返すことが多かったが、次第に、私の顔を見るたびに微かに口角を上げるようになった。
それが私にとって、大きな一歩だった。
佐々木さんのその笑顔を見るたびに、胸の奥がキュンとする。
幻のメニューへの執念が、少しずつ、佐々木さん自身への興味に変わり始めていた。
数週間が経ったある日の夕方、食堂はいつになく空いていた。
私は、連日のレポート課題と試験勉強に追われ、心身ともに疲労困憊だった。
まともに食事を取る時間も惜しいほどだったが、それでも佐々木さんの顔を見に食堂に通うことだけは欠かせなかった。
この日も、その日の夕食をどうしようかと考えながら、ぼんやりと定食を受け取る列に並んでいた。
そこに立っていたのは、もちろん佐々木さんだ。
「佐々木さん、今日も一日お疲れ様です」
私は、いつもより少し元気をなくした声で話しかけた。
佐々木さんは、ゆっくりと私の目を見て、少しだけ考え込むような仕草を見せた。
「田中さん、でしたよね」
私は驚いた。
私の名前を、覚えていてくれたんだ。
幻のメニューへの一歩だけでなく、佐々木さんとの距離が縮まったことが嬉しかった。
「はい!田中晴香です!」
私は思わず前のめりになった。
「いつも、ありがとうございます。
…田中さんは、いつも元気いっぱいで、見ているとこちらも気持ちが明るくなります。
でも、最近少し、疲れているように見えましたから。
きっと、レポート課題か何かに追われているのでしょう?」
佐々木さんの口から、そんな言葉が出てくるとは思ってもみなかった。
私の心臓はドクドクと激しく打ち鳴らされた。私のことを見ていてくれたんだ。
「いえ、そんな!私、ただの食いしん坊…」
「田中さんは、何か食べたいもの、ありますか?」
突然の問いに、私は目を丸くした。
これは、もしかして…?
「幻のメニュー」への扉がついに開くのか、と息をのんだ。
「えっ…あの、もしかして…幻の…?」
私が言いかけると、佐々木さんは小さく微笑んだ。
その笑顔は、いつもよりずっと柔らかくて、私の心臓を鷲掴みにした。
こんな笑顔を、私に見せてくれるなんて…。
「そうですね。今日は、特別に。
田中さんの食いしん坊な胃袋を満足させる、とっておきのものを作ってあげます。
いつもの定食の代わりに、ね。
ただし、他の人には秘密ですよ」
そう言って、佐々木さんは厨房の奥へと消えていった。
待つこと数分。
佐々木さんが運んできたのは、見たこともない、しかしどこか懐かしい香りを放つ一皿だった。
それは、ごろごろと大きな野菜が入った、具沢山の煮込みハンバーグだった。
香ばしい肉と、デミグラスソースからは、野菜の旨味が凝縮された香りが漂ってくる。
付け合わせには、バターライスと彩り豊かな温野菜。
「田中さん。たくさん食べて、元気を出してください」
佐々木さんの言葉に、私はとても嬉しくなった。
料理を通して、こんなにも心を込めてくれる人がいるなんて。
「ありがとうございます!いただきます!」
席について一口食べると、口の中に広がる肉汁の旨味と、野菜の甘み、そしてデミグラスソースのコクが完璧に調和していた。
それは、ただ美味しいという言葉だけでは片付けられない、温かさと優しさまで詰まった味だった。
「おいしい…!こんなの、食べたことないです…!」
私は夢中でかき込んだ。
あっという間に皿は空になった。
「ごちそうさまでした!本当に、本当に美味しかったです!」
私は深々と頭を下げた。
佐々木さんは、私の食べっぷりを満足げな顔で見つめていた。
「気に入ってもらえてよかったです。
それが、田中さんのための『幻のメニュー』です」
その日以来、私は佐々木さんの作る「オーダーメイドのメニュー」の虜になった。
その日の私の気分や、研究で疲れているとき、少し落ち込んでいるとき。
佐々木さんは、言葉にしなくても、私の心を見透かしたように、ぴったりの料理を出してくれた。
それは、まさに私だけの「幻のメニュー」だった。
佐々木さんが私のために料理を作ってくれるという事実が、何よりも嬉しかった。
彼が作る料理の美味しさと、そこに込められた優しさに触れるうちに、私は彼の魅力に惹かれていくのを止められなかった。
あの落ち着いた笑顔、テキパキと働く真剣な眼差し、そして何よりも、私を気遣ってくれる温かさ。
私は佐々木健太という人間に、完全に恋をしていた。
幻のメニューは、いつの間にか佐々木さんとの絆の象徴になっていた。
ある日のこと、いつものように「幻のメニュー」を受け取った後、佐々木さんが珍しく、
「少し時間があるんだけど、よかったら話さないか?」
と声をかけてくれた。
私は胸を高鳴らせながら、食堂の隅のテーブルに座った。
他愛のない世間話から始まり、お互いの大学生活や趣味について話しているうちに、自然と話題は佐々木さんの将来へと移っていった。
「僕、大学院を卒業したら、実家のお店を継ぐことになっているんだ」
佐々木さんは、少し照れたようにそう言った。
「実家のお店って、どんなお店なんですか?」
「老舗の料亭だよ。
料理の腕は、まだまだ父には及ばないけど、いつかこの『幻のメニュー』のように、お客さんの心を温める料理を提供できる料理人になりたいと思ってる」
彼の言葉には、料理に対する深い愛情と、実家への強い思いが込められていた。
彼の夢を聞いたとき、私は彼の真剣な眼差しに心を奪われた。
同時に、彼の世界が、私には想像もつかないほど遠い場所にあるように感じ、ほんの少し胸が締め付けられた。
そんなある日、食堂でちょっとしたハプニングが起きた。
その日は、大学が主催する大規模なオープンキャンパスの日で、食堂は通常の三倍以上の人手でごった返していた。
いつもは冷静沈着な佐々木さんも、さすがに額に汗を浮かべ、忙しそうに動き回っていた。
私も美依も、昼食を取るために列に並んでいたのだが、突然、厨房の奥から、
「バンッ!」
という大きな音が響いた。
何事かと見やると、慌てた様子の厨房スタッフが飛び出してきて、
「すみません!炊飯器が壊れて、ご飯が炊けなくなりました!」
と叫んだ。
食堂は大パニックに陥った。ご飯がなければ、定食のほとんどが出せない。
お客様からの苦情の声が上がり、佐々木さんの顔にも焦りの色が浮かぶ。
「どうしよう、これじゃランチタイムに間に合わない……」
佐々木さんが困惑した表情で厨房を見つめるのを見て、私の胸が締め付けられた。
佐々木さんが困っている。
何か、私にできることはないだろうか。
その時、美依が私の腕を掴んだ。
「晴香ちゃん!晴香ちゃん、炊飯器って確か、学生会館の調理室に予備がなかったっけ?
前にサークルの合宿で使った時、見たような気がするんだけど!」
美依の言葉に、私はハッとさせられた。
確かに、数ヶ月前に軽音楽部の合宿で調理室を借りたとき、予備の業務用炊飯器が片隅に置いてあったのを覚えている。
「よし、私が行ってくる!」
私はすぐさま、佐々木さんの元へと駆け寄った。
「佐々木さん!学生会館の調理室に、業務用の炊飯器があったはずです!私が行ってきます!」
佐々木さんは一瞬、驚いた顔をした後、すぐに、
「でも…重いですし、時間もかかります」
と躊躇した。
「大丈夫です!私、足には自信ありますから!美依も手伝ってくれるって!」
美依も、
「もちろん!」
と力強く頷く。
「それでは、お願いします!本当に助かります!」
佐々木さんの切羽詰まった声に、私は迷うことなく学生会館へと走った。
美依も小走りで私の後を追う。
佐々木さんの、あんなに焦った顔は初めて見た。
彼の力になりたい、その一心だった。
学生会館の調理室までは、食堂から少し距離があった。
重い業務用炊飯器を二人で持ち上げ、急いで食堂へと引き返す。
腕はパンパンになり、汗が額から流れ落ちる。
しかし、佐々木さんの困った顔を思い出すと、不思議と力が湧いてきた。
あの優しい笑顔を、早く取り戻してほしい。
食堂に戻ると、炊飯器の故障を知ったお客さんが帰り始めていた。
しかし、私たちが炊飯器を抱えて現れると、食堂のスタッフや残っていたお客さんから、どよめきと安堵の声が上がった。
「佐々木さん!持ってきました!」
私は息を切らしながら、炊飯器を厨房の入り口に置いた。
佐々木さんは、私たちの姿を見て、目を潤ませていた。
「田中さん!山口さん!本当にありがとうございます…!助かりました…!」
その言葉に、私は報われた気持ちになった。
新しい炊飯器はすぐに設置され、ご飯が炊き上がり、食堂のランチタイムは何とか再開された。
私と美依は、佐々木さんに促され、温かいお茶をもらって休憩させてもらった。
「田中さん、山口さん、本当にありがとう。二人のおかげで、助かったよ」
佐々木さんが、いつもの冷静な表情の奥に、心からの感謝を込めた笑顔を向けてくれた。
その笑顔は、今まで見た中で一番優しい笑顔だった。
「いえ、私、佐々木さんが困ってるのを見てられなくて……」
私は照れて、俯いてしまった。美依が横でくすくす笑っている。
「佐々木さん、普段は滅多に慌てないから、晴香ちゃんもびっくりしたでしょ」
美依が言うと、佐々木さんも苦笑した。
「ええ、今日は本当に焦りました。
でも、田中さんと山口さんのおかげで、何とか乗り切ることができました。感謝しても、しきれません」
佐々木さんは、そう言って、私の目をじっと見つめた。
その眼差しは、今まで以上に私の心に深く響いた。
この出来事をきっかけに、私と佐々木さんの距離は、また一歩縮まったような気がした。
私の、佐々木さんへの想いは、ますます募っていくばかりだった。
幻のメニューへの興味はもう、佐々木さん自身への恋心に完全に変わっていた。
数日後、私は佐々木さんから呼び出された。
放課後の、人がまばらになった食堂で、私は緊張しながら佐々木さんの前に座った。
「田中さん、この間は本当にありがとう。お礼がしたいんだけど、何か食べたいものはある?」
佐々木さんの言葉に、私の胸は高鳴った。
彼が私のために作ってくれる料理。それが何よりも嬉しかった。
「えっと…あの、佐々木さんの、その…本当に食べたいものを作ってほしいです」
私は精一杯の勇気を振り絞って言った。
私が本当に食べたいのは、佐々木さんの気持ちがこもった料理だ。
佐々木さんは、私の言葉に少し目を丸くした後、優しい表情で微笑んだ。
「分かったよ。少し待っててね」
そう言って、佐々木さんは厨房へと向かった。
しばらくして、佐々木さんが運んできたのは、見た目はシンプルながらも、とてつもなく美味しそうなオムライスだった。
ふんわりとろとろの卵に包まれたチキンライスからは、芳醇なバターの香りが漂う。
ケチャップで描かれたハートマークが、私の胸をキュンとさせた。
「これは…!」
「最近、少し考え事をしているように見えましたから、心も体も温まるものがいいと思って」
私は、もう「幻のメニュー」という言葉を口にする必要はなかった。
佐々木さんは、いつだって私のために、最高の「幻のメニュー」を作ってくれる。
一口食べると、卵の優しい甘みと、チキンライスの絶妙な酸味とコクが口いっぱいに広がり、私の心を温かいもので満たした。
「佐々木さん、本当に、本当に美味しいです……」
私は涙が出そうになるのをこらえながら、夢中でオムライスを食べた。
この温かい味が、私の胸の奥にある、佐々木さんへの想いをさらに募らせていく。
彼が実家のお店を継ぐという話が、再び私の頭をよぎった。
この幸せな時間は、いつまで続くのだろう。
季節は秋から冬へと移り変わっていた。
私と佐々木さんの関係は、食堂のアルバイトと客という立場を越え、互いを気遣い、見守るような、特別なものになっていた。
私は毎日、食堂に通い、佐々木さんの「幻のメニュー」を味わい、時には彼の仕事を手伝うこともあった。
ある日の夕方、食堂の片付けを手伝っていると、美依が駆け寄ってきた。
「晴香ちゃん、大変だよ!佐々木さんの実家のお店、近々閉店するかもしれないんだって!」
美依の言葉に、私は血の気が引いた。
「え、なんでよ!?あんな有名なお店なのに!」
「それが、オーナーである佐々木さんのお父さんの体調が良くなくて、お店は一時的に休業することになったんだ。
後継ぎの問題もあって、このままじゃお店を畳むしかないって話になってるみたい」
私は愕然とした。
佐々木さんの夢は、実家のお店を継ぐことだったはずだ。
それが、こんな形で潰えてしまうなんて…。
彼の夢を、何とかして守りたい。
私は急いで佐々木さんの元へと向かった。
彼はいつものようにテキパキと仕事をしていたが、その表情には、どこか陰りが見えた。
「佐々木さん…」
私が声をかけると、佐々木さんは私に気づき、小さく微笑んだ。
しかし、その笑顔は、どこか寂しげだった。
「田中さん、どうしたの?」
「美依から聞きました。お店のこと…本当なんですか?」
私の問いに、佐々木さんは一瞬、目を伏せた。
「ええ…。父の体調が思わしくなくて。
僕が卒業したらすぐにでも継ぐつもりでいたんだけど、店の立て直しには時間がかかるし、今の僕にそこまでの力があるのか、正直、不安で……」
佐々木さんの声は、いつもよりずっと小さく、震えていた。
私は、彼がこんなにも弱音を吐くのを初めて見た。
彼の夢が、目の前で崩れ去ろうとしている。
私には、何もできない自分がもどかしくて仕方がなかった。
「そんなこと、言わないでください!」
私は思わず、大きな声を出していた。
「佐々木さんの料理は、人を笑顔にする力があるんです!
私、佐々木さんの料理にどれだけ元気をもらったか!
そんな佐々木さんが、お店を継げないなんて、そんなの、私には耐えられない!」
佐々木さんは、私の突然の熱弁に、驚いたように目を見開いた。
「私に、何かできることはありませんか?何でもします!
掃除でも、皿洗いでも、買い出しでも!私、力には自信ありますから!」
私の懸命な言葉に、佐々木さんはただ黙って私を見つめていた。その瞳には、再び潤みが浮かんでいた。
「田中さん…」
「私、佐々木さんの作った料理を、もっとたくさんの人に食べてほしいんです。
私、佐々木さんが夢を諦めるの、見たくないです」
その日の夜、私は美依に相談した。
「美依、私、佐々木さんのお店の力になりたいんだ。でも、私に何ができるんだろう」
美依は、私の真剣な顔を見て、しばらく考え込んだ。
「うーん…そうだなあ。
晴香ちゃん、料亭ってことは、きっと常連さんとか、お得意さんがいるはずだよね。
でも、お父さんが倒れて、休業して急に連絡が行き届かないとか、そういうこともあるんじゃないかな」
美依の言葉に、私はまたハッとした。そうだ、情報だ!
「晴香ちゃん、確か文学部のゼミに、地域の老舗店の経営について研究してる先輩がいなかったっけ?
その先輩なら、料亭の再建とか、常連さんへのアプローチとか、何かヒントを持っているかもしれないよ!」
美依の助言は、まさに光明だった。
私はすぐにその先輩に連絡を取り、状況を説明した。
先輩は快く協力してくれ、料亭の常連客リストの再確認や、休業中に提供できるテイクアウトメニューの提案など、具体的なアドバイスをくれた。
翌日、私は佐々木さんに、先輩から聞いた話を伝えた。
「佐々木さん、こんな情報があるんですけど。それから、私、力仕事なら何でもできます。
お店の掃除とか、準備とか、手伝わせてください!」
私の熱意に、佐々木さんは迷うような表情をしていたが、やがて決意を込めた眼差しで私を見た。
「ありがとう、田中さん。そこまで言ってくれるなら、お願いしてもいいかな」
それからというもの、私は大学の授業がない日は、佐々木さんの実家である料亭へと通った。
料亭は格式高い店構えで、最初は場違いな気がしたが、佐々木さんが温かく迎えてくれた。
私は、店の掃除や、備品の整理、買い出しの荷物運びなど、できる限りの手伝いを積極的に行った。
佐々木さんは、私の働きぶりに驚きながら、
「田中さんがいると、本当に助かるよ」
と、何度も感謝の言葉を口にしてくれた。
一緒に作業をする中で、私は佐々木さんの夢に対する真剣な想いや、料理への情熱を改めて知ることができた。
彼が作る料理が、どれだけ多くの人を幸せにしてきたか、そしてこれからも幸せにしていくかを。
そして、私はそんな彼を、心から支えたいと強く思った。
しかし、料亭の再開は簡単なことではなかった。
ある日、美依がまた顔を出してくれた際、佐々木さんが眉間にしわを寄せ、難しい顔で帳簿を眺めているのを見た。
心配になって声をかけると、彼は重い口を開いた。
「田中さん、手伝ってくれて本当に助かっているよ。
でも、店を再開しても、お客さんが来てくれるかどうか……。
父の体調が悪くなってから、常連さんへの連絡も滞っていたし、新しいお客さんをどうやって呼び込んだらいいのか、見当もつかなくて」
彼の言葉には、再開への希望と同時に、深い不安が滲んでいた。
格式ある料亭だからこそ、昔ながらのやり方に固執する部分もあり、現代の集客方法に佐々木さんが戸惑っているのが見て取れた。
彼の夢を間近で見てきた私にとって、この状況はあまりにも辛かった。
彼の夢が、もう一度潰えそうになっている。
「佐々木さん、諦めないでください!私に、何かできることはありませんか?」
私は懸命に訴えかけた。美依も頷く。
「そうですよ、佐々木さん。そうだ!私たちに任せてみてください!
今の時代は、インターネットとかSNSとか、いろんな方法があるんだから!」
美依の言葉に、佐々木さんは、
「SNS、か…」
とつぶやき、少し考えるそぶりを見せた。
「料亭でSNSなんて、あまり考えたことがなくて。
でも、何か打開策が必要なのは事実だ。もしよかったら、二人で何か考えてくれないか?」
佐々木さんのその言葉に、私たちの心は燃え上がった。
それから、私と美依は料亭の「広報担当」として、新たな役割を担うことになった。
美依はセンスの良い写真と文章で料亭の魅力を発信するSNSアカウントを開設し、私は美依が以前助言をくれた文学部の先輩に再度連絡を取り、地域の食通やメディアへの情報提供、さらには好評だったテイクアウトメニューの期間限定復活を提案した。
佐々木さんも最初は戸惑いを見せていたが、私たちが一生懸命に取り組む姿を見て、次第に協力してくれるようになった。
料亭の厨房で、佐々木さんが真剣な表情で新しいテイクアウトメニューを試作する横で、私がSNS用の写真を撮ったり、美依がキャプションを考えたり。
そんな日々の中で、私たち三人の間には、以前よりもずっと強い絆が生まれていった。
特に、佐々木さんと二人きりで作業をする時間が増えた。
彼は、私の意見にも真剣に耳を傾けてくれるようになり、時には冗談を言って、私を笑わせてくれることもあった。
料亭の再開という共通の目標に向かって努力する中で、私は彼の新たな一面をたくさん発見した。
彼の料理への情熱はもちろんのこと、普段の冷静さの裏にある優しさや、少し不器用なところも、全てが愛おしく思えた。
彼が困っていた時、彼の力になりたいと思ったあの食堂での決意が、私をここまで突き動かしていたのだ。
ある日のこと、閉店後の料亭で、二人きりで片付けをしていた。
厨房の窓からは、再開に向けて準備が着々と進む料亭の庭が見える。
温かい料理の余韻と、静かな時間が流れる中で、私たちは二人で最後のカウンターを拭き終えた。
佐々木さんがふと、顔を上げた。
「田中さん、本当にありがとう。君がいてくれなかったら、どうなっていたことか…。
正直、一人で抱えきれないと、諦めそうになっていたんだ」
佐々木さんの声は、いつもより少しだけ弱々しくて、彼の心の内にある不安が伝わってきた。
でも、その瞳は真っ直ぐで、私の目を見つめていた。
その瞬間、彼の隣に立てたこと、彼の力になれたことが、何よりも嬉しかった。
そして、彼の心の内側に触れることができたような気がした。
夕陽が厨房の窓から差し込み、佐々木さんの横顔をオレンジ色に染めていた。
その光景が、あまりに美しくて、私の胸は高鳴るばかりだった。
「佐々木さんが、諦めないでくれて、本当に良かった…」
気づけば、私の手は、佐々木さんが拭いていたカウンターにそっと触れていた。
佐々木さんも、私の手を見て、ゆっくりと自分の手を重ねてきた。
指先が触れ合うだけの、小さな触れ合いだったけれど、そこから伝わる温かさに、私の心臓は激しく打ち鳴らされた。
この温かさを、ずっと感じていたい。
この人の隣に、ずっといたい。そう強く思った。
「佐々木さん。あの、私…」
私の言葉は、震えていた。
佐々木さんは、何も言わずに、ただ私の目を見つめ返している。
「私、佐々木さんのことが、好きです」
私の言葉に、佐々木さんは手を止めて、私をじっと見つめた。
その瞳には、驚きと、戸惑いと、そして、かすかな期待のようなものが入り混じっていた。
佐々木さんは、少しの間、何も言わずに俯いていた。私の心臓は、これ以上ないほどに高鳴っていた。
「田中さん…。僕、ずっと、迷っていたんだ」
佐々木さんが、静かに話し始めた。
「僕は、実家のお店を継ぐという、昔からの夢がある。
そして、その夢のために、色々なことを犠牲にしてきた部分もある。
だから、卒業したら、料理の道に専念するつもりでいたんだ」
彼の言葉に、私は覚悟を決めた。
もしかしたら、私の気持ちは届かないのかもしれない。
「でも、田中さんが、いつも僕の作った料理を心から美味しいと食べてくれて、そして、僕を応援してくれる。
この食堂で、田中さんと出会ってから、僕の毎日は、本当に彩り豊かなものになったよ」
佐々木さんは、ゆっくりと顔を上げ、私の目を見つめた。
その瞳には、もう迷いはなかった。
「田中さんが、食堂で炊飯器の故障があった時、真っ先に助けてくれたこと。
お店のことで困っていた時も、一生懸命、僕のために動いてくれたこと。
その優しさと、真っ直ぐな気持ちに、僕も惹かれていました」
佐々木さんの言葉に、私の胸は熱くなった。
「年の差も、お店を継ぐという夢も、僕にとっては大きな壁だった。
でも、田中さんと一緒にいると、その壁も乗り越えられるような気がする。
だから、僕でよければ…田中さんの気持ちに応えたい。
…これからは、晴香ちゃんって呼んでもいいかな?」
佐々木さんは、そう言って、私に向かって、とびきりの笑顔を見せた。
それは、食堂で初めて私に「幻のメニュー」を作ってくれた時よりも、ずっと、ずっと温かくて、優しい笑顔だった。
私は、喜びで胸がいっぱいになり、
「はい!」
と力強く返事をして、思わず佐々木さんの手を握りしめた。
彼の手は、少しひんやりとしていたけれど、私の心に確かな温かさを灯してくれた。
それから、私と健太さんの関係は、恋人同士へと変わった。
健太さんは、大学院を卒業した後、実家の料亭を継ぐ準備に本格的に取り掛かった。
もちろん、私もできる限り彼の力になり、美依も時折、情報収集や応援に駆けつけてくれた。
健太さんのお父さんの体調も徐々に回復し、私たちの協力もあって、料亭は無事に再開の日を迎えることができた。
料亭が再開してしばらく経ったある日のこと。
私は、健太さんの計らいで、特別に料亭の厨房で料理を教わることになっていた。
「晴香ちゃん、今日はこの出汁の取り方からだよ」
健太さんは、白い割烹着姿で、真剣な眼差しで私に教える。
私は、慣れない手つきで鰹節を削り、昆布を浸した。
「んー、やっぱり健太さんの料理は、匂いからして違いますね!」
私が感嘆の声を上げると、健太さんはくすりと笑った。
私が作った不格好な出汁を味見しながら、健太は優しい声で言った。
「晴香ちゃん、あのね、大学食堂の『幻の裏メニュー』って、実は決まったレシピなんてなかったんだよ。
あのメニューはね、その人がその時に一番必要としているもの、一番喜んでくれるものを、僕が心を込めて作る。
それが、僕にとっての『幻のメニュー』だったんだ」
健太は、私の目を見て微笑んだ。
「晴香ちゃんが、初めて僕に『幻のメニュー』を教えてほしいって頼んできた時、最初は戸惑ったよ。
でも、君の真っ直ぐな瞳を見て、きっとこの人なら、僕の料理の真髄を分かってくれるって思ったんだ」
私は、健太からの言葉に胸がいっぱいになった。
「だから、晴香ちゃん。
これからも、僕が君の心と体に必要な『幻のメニュー』を作り続けてあげる。
ずっと、君の隣で」
健太からの言葉は、私の心に温かく響いた。
私の人生は、大学の食堂で出会った「幻の裏メニュー」と、それを生み出す佐々木健太という男性によって、全く違うものになった。
これからも、私たちは大学の食堂の片隅で始まったこの恋を、料理と共に育んでいくのだろう。
年上の彼の隣で、私は美味しいものをもっともっと探求し、そして、彼の夢を、ずっと支え続けていきたい。
私たちの甘く温かい年の差ラブストーリーは、まだ始まったばかりだ。
-fin-
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王女がふたりいるフリーゼグリーン王国へ、十年ほど前に友好国となったコベット国から見合いの申し入れがあった。
周囲は皆、美しく愛らしい妹姫リリアーヌへのものだと思ったが、しかしそれは賢しらにも女性だてらに議会へ提案を申し入れるような姉姫ジュディスへのものであった。
「何故、私なのでしょうか。リリアーヌなら貴方の求婚に喜んで頷くでしょう」
誰よりもジュディスが一番、この求婚を訝しんでいた。
第三章:王太子の想い
友好国の王子からの求婚を受け入れ、そのまま攫われるようにしてコベット国へ移り住んで一年。
ジュディスはその手を取った選択は正しかったのか、揺れていた。
すれ違う婚約者同士の心が重なる日は来るのか。
コベット国のふたりの王子たちの恋模様
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