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放課後図書室の、秘密の交換日記
しおりを挟む放課後の図書室は、私にとって世界で一番安全な場所だった。
降り注ぐ西日が古い木製の長机を温かく照らし、空気中を舞う埃さえもキラキラと輝いて見える。
耳に届くのは、規則正しく時を刻む壁掛け時計の音と、ページをめくる乾いた音だけ。
この静寂が、いつも私の心を穏やかにしてくれる。
佐藤美桜(さとう みお)、高校二年生。
クラスでの私の立ち位置を的確に表現するなら、「その他大勢」が一番しっくりくるだろう。
長い黒髪はいつも一つに結び、大きな黒縁の眼鏡の奥で、私はいつも物語の世界に逃げ込んでいる。
そう、いわゆる典型的な文学少女。
クラスの中心で笑い合う、太陽みたいな子たちとは、住む世界が違うのだ。
いつものように窓際の一番奥の席。
そこが私の定位置。
鞄から読みかけの文庫本を取り出し、物語の世界に飛び込もうとした、その時だった。
ふと、机の引き出しの奥に、見慣れないものがあることに気がついた。
指先でそっと手繰り寄せると、それは一冊のシンプルな黒い表紙のノートだった。
誰かの忘れ物かな?
そう思いながら、何気なく表紙を開いてしまった。
その最初のページに綴られていた言葉に、私は息を呑んだ。
『誰でもいい。俺の話を聞いてくれ』
それは、助けを求めるような、悲痛な叫びにも似た一文から始まっていた。
続く文章には、バスケットボールのこと、期待されることへのプレッシャー、そして誰も本当の自分を見てくれないという孤独感が、走り書きのような、それでいて切実な筆跡で綴られていた。
心臓がどきり、と音を立てた。
これは、ただの忘れ物じゃない。
誰かが、心の叫びを吐き出すためだけに用意した、秘密のノートなんだ。
すぐに閉じて、元の場所に戻すべきだ。
そう頭では分かっているのに、私の指はページから離れなかった。
行間から滲み出る苦しみが、まるで自分のことのように胸に迫ってきたから。
私も同じだ。
いつも誰かの顔色を窺って、自分の意見を言えずに飲み込んでしまう。
目立たないように、波風を立てないように。
そうやって息を潜めて生きている。
このノートの持ち主も、きっと普段は明るい仮面を被って、平気なフリをしているのだろう。
読み終えた後、私はノートをそっと引き出しの奥に戻した。
でも、一度知ってしまった心の叫びは、私の頭から離れてはくれなかった。
授業中も、休み時間も、あの切実な文字が目の前にちらつく。
私に、何かできることがあるだろうか…。
いや、おこがましい。
私なんかが関わっていいはずがない。
でも、もし、あの人がほんの少しでも誰かの言葉を求めているのだとしたら…。
その日から三日間、私は悩み続けた。
そして四日目の放課後、私は一本のペンを握りしめて、再びあの机の前に座っていた。
心臓は、今にも飛び出しそうなくらい大きく脈打っている。
深呼吸を一つ。
私はノートの新しいページを開き、震える手で、インクを落とした。
『はじめまして。あなたの言葉を、読みました』
まるで分厚い本のページを一枚めくるような、小さな、けれど私にとっては人生で一番の勇気だった。
返事を書いたものの、私は生きた心地がしなかった。
もし、ノートの持ち主が私の返事を読んで、気味悪がったら?
もし、誰にも見られたくなかった秘密を覗かれたと、怒ってしまったら?
最悪の場合、ノートそのものがなくなっているかもしれない。
そう思うと、図書室に向かう足が鉛のように重くなる。
やっぱり、余計なことだったんだ…。
自己嫌悪に陥りながら、おそるおそる定位置の机の引き出しに手を入れる。
指先に、固いノートの感触があった。
ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、緊張で指先が冷たくなる。
私はゆっくりとノートを引き出し、ページを開いた。
そこには、見覚えのある力強い筆跡で、新しい言葉が綴られていた。
『返事をくれるなんて、思わなかった。ありがとう』
その一文を読んだ瞬間、全身の力が抜けていくのを感じた。
よかった…拒絶されなかった。
安堵と同時に、胸の奥に温かいものがじんわりと広がっていく。
『俺は、ただ誰かに聞いてほしかっただけなんだ。
顔も知らないあなただから、話せるのかもしれない』
そこから、私たちの奇妙な交換日記が始まった。
私たちは、お互いの名前も、学年も、クラスさえも知らない。
ただ、放課後の図書室の、あの机の引き出しだけが、私たちを繋ぐ唯一の場所だった。
日記の彼は、バスケ部のエースとしてのプレッシャーを吐露した。
勝利を期待される重圧。
チームメイトとの微妙な関係。
そして、プロを目指すことへの漠然とした不安。
普段、学校で見る男子生徒たちの、悩みなんて何もないような明るい笑顔の裏に、こんなにも繊細で傷つきやすい心が隠れているなんて、想像もしたことがなかった。
バスケ部のエース…。
その言葉に、私の頭にクラスメイトの顔が何人か浮かんだ。
少し調べれば、すぐに正体はわかってしまうのかもしれない。
でも、その考えはすぐに打ち消した。
だめだ、そんなこと、絶対にしちゃいけない。
だって、この交換日記が成り立っているのは、きっと、お互いが「誰か」わからないからだ。
顔も知らない私だから、彼は本当の弱さを見せてくれる。
もし私が彼の正体を知ってしまったら?
その瞬間から、私は彼の言葉を、色眼鏡で見てしまうだろう。
そして、彼の言葉の純粋さが失われてしまう気がした。
それに、何よりも怖かったのは、この奇跡的な繋がりを、自分の手で壊してしまうことだった。
もし、彼の正体がわかって、私の正体が彼に知られてしまったら?
クラスの隅っこで本ばかり読んでいる、地味で冴えない私だと知ったら、彼はきっと失望する。
もう、二度と返事をくれなくなるかもしれない。
このままでいい。ううん、このままがいい。
私にとって大切なのは、彼が誰か、ということじゃない。
ノートに綴られた、彼の「言葉」そのものなのだ。
この、顔も名前も知らない、でも誰よりも心を近くに感じる彼との対話の時間こそが、私の宝物なのだから。
この匿名の聖域を、私は絶対に守りたかった。
私も自分のことを少しずつ書いた。
読書が好きなこと。
大勢の前で話すのが苦手なこと。
自分の意見をなかなか言えないこと。
彼に比べたら、なんてちっぽけな悩みだろうと思ったけれど、彼は私の言葉を真摯に受け止めてくれた。
『本を読んでる時って、別の誰かの人生を生きられる気がするよな。
俺も、たまにそうやって逃げたくなる』
『自分の意見を言えないのは、きっと、相手のことを考えすぎてるからだろ。
それって、優しさだと思う』
彼の言葉は、いつも不思議な力を持っている。
私がずっとコンプレックスに感じていた部分を、彼はそっと肯定してくれる。
まるで、固く閉ざした心の扉を、優しくノックされているような感覚。
顔も知らない誰かに、こんなにも心を救われるなんて…。
いつしか私は、放課後、図書室で彼からの返事を読むのを、一日の中で一番の楽しみにするようになっていた。
彼がどんな人なのか、想像はする。
力強い筆跡。バスケ部。
きっと、運動神経が良くて、背が高いんだろうな。
少し不器用だけど、根はすごく優しい人。
でも、それ以上の詮索はしなかった。
この、想像する時間さえも、私にとっては愛おしい時間だったから。
そんな想像を膨らませていたある日、事件は起きた。
その日、私はいつものように図書室で彼への返事を書いていた。
閉館時間を告げるチャイムが鳴り、慌ててペンを走らせる。
『あなたの言葉を読んでいると、私も頑張ろうって思えます。
いつもありがとう』
そう書き終え、ノートを閉じた。
急いで他の荷物を鞄に詰め込み、私は図書室を後にした。
家に帰って夕食を終え、部屋でくつろいでいた時、ふと背筋が凍るような感覚に襲われた。
ちょっと待って…!
思いつきたくもない、最悪の可能性。
私は、ノートを引き出しにしまうのを、忘れたんじゃないだろうか。
慌てていたから、机の上に置いたまま、帰ってきてしまったのかもしれない。
もし、誰かに見られたら?
私たちの秘密が、あからさまになってしまったら?
彼の悩みも、私の悩みも、全て。
考えただけで、血の気が引いていく。
もうこんな時間じゃ、学校へは入れない…。
私は心が落ち着かず、眠れぬまま夜は更けていった。
翌朝、私は始業時間よりもずっと早く学校に着いた。
心臓をバクバクさせながら、誰もいない教室を通り抜け、図書室へと向かう。
どうか、誰にも見られていませんように…!
祈るような気持ちで、私は図書室の扉に手をかけ、開けた。
「あれ、佐藤さん?早いね」
聞き覚えのある、明るい声。
図書室の中で立っていたのは、クラスの人気者、山澤悠斗(やまさわ ゆうと)くんだった。
少し日焼けした健康的な肌に、女子たちが噂する通り、少し茶色がかった、陽の光を吸い込んだみたいな柔らかそうな髪。
ぱっちりとした二重の大きな瞳は、いつも自信に満ちてキラキラしている。
バスケで鍛えられた、制服の上からでもわかるくらい引き締まった身体としなやかな手足。
クラスの中心で、彼がただ笑っているだけで、周りの空気がぱっと明るくなるような、太陽みたいな人。
私とは、全く別の世界の住人だ。
「や、山澤くん…」
「朝練、早く終わったからさ。忘れ物しちゃって」
そう言って人懐っこく笑う悠斗くんの右手には、見慣れた黒いノートが握られていた。
時が、止まった。
嘘でしょ?どうして、彼が…!?
頭が真っ白になって、言葉が出てこない。
私の視線がノートに釘付けになっているのに気づいたのか、彼は少し気まずそうに頬を掻いた。
「これ、昨日、あんたがいつも座っている机の上に置いてあったから。
多分、大事なもんだろ?
誰かに見られたらやばいかと思って、一応、俺が預かっといた」
「あんたがいつも座っている机」。
その言葉に、私はハッとした。
図書室の、あの窓際の一番奥の席。
そこは私がいつも座っている、私だけの定位置。
彼がそれを「私の机」だと認識しているということは、彼もまた、私がいつもあそこに座っていることを知っていたということだ。
そして、彼の「誰かに見られたらやばいかと思って」という言葉。
ただの忘れ物なら、そんな心配をするだろうか?
それに、親切で届けてくれるなら、もっと堂々としているはず。
でも、彼は、どこかバツが悪そうに、私の目を見ようとしない。
まるで、自分の秘密を知られていることを、知っているかのように。
頭の中で、バラバラだったピースが一気に組み上がっていく。
日記の彼は、「バスケ部のエース」。
そして、目の前にいる山澤悠斗くんも、間違いなく「バスケ部のエース」。
彼はノートの中身を知っていて、それが「見られたらやばい」秘密だということも知っている。
そして、私がいつもあの席を使っていることも知っている。
まさか、山澤くんが、ノートの持ち主…?
あの、切実な言葉を綴っていたのは、いつもクラスで眩しいくらいに輝いている、この人だったの…?
あまりの衝撃に、私はただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
「…ありがとう」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど小さく、震えていた。
彼は、
「ん」
と短く答えると、ノートを私に差し出した。その指先が、ほんの少しだけ私の指に触れる。
その瞬間、びくりと身体が跳ねてしまった。
「じゃあ、俺、教室戻るわ」
山澤くんはそう言って、私の横を通り過ぎようとした。
けれど、すれ違いざまに、彼は足を止めた。
そして、振り返らずに、ぽつりと呟いた。
「…俺、前から知ってたんだ」
「え…?」
「あの席に、いつも座ってるのが、お前だってこと」
彼の声は、驚くほど静かだった。
「返事を書きに行くたび、お前、いっつもすっげー真剣な顔で本読んでて。
ああ、この子が、俺の話を聞いてくれてるんだなって。
でも、声かける勇気なくて…」
彼はそこで言葉を切ると、小さく自嘲するように笑った。
「こんな形でバレるとか、ダセェよな、俺」
そう言って、彼は今度こそ本当に図書室を出て行ってしまった。
一人残された図書室で、私は黒いノートを胸に抱きしめたまま、しばらく動くことができなかった。
彼は、知っていたんだ。
日記の相手が、私だって。
クラスの隅にいる、目立たない地味な私だってことを、知っていて、それでも返事を書き続けてくれていたんだ。
ノートから、彼のものだろうか、微かに陽の光のような、爽やかな匂いがした。
こうして、私たちの交換日記の相手が判明した。
顔も知らない誰かだと思っていたから、本音をさらけ出せた。
でも、相手がクラスメイトの、それも山澤くんだと知ってしまった今、私はこれから、どんな言葉を綴ればいいのだろう。
しかも、彼は最初から、相手が私だと知っていたなんて。
明日から、私はどんな顔をして彼に会えばいいのだろうか。
秘密が共有された安堵感と、正体を知ってしまった戸惑い。
そして、彼が私を知っていたという事実がもたらす、胸を締め付けるような甘い驚き。
いくつもの感情が入り混じって、私の心臓は、うるさいくらいに鳴り響いていた。
日記の相手が山澤くんだとわかってから、そして彼が最初から私だと知っていたと告げられてから、私の日常は色を変えた。
教室にいる彼の姿を、無意識に目で追ってしまうようになったのだ。
友達と楽しそうに笑っている時、授業中に真剣な顔で黒板を見つめている時、窓の外をぼんやりと眺めている時。
今まで「クラスの人気者」というフィルター越しにしか見ていなかった彼の、一つ一つの表情が、やけに鮮明に目に飛び込んでくる。
あの笑顔の裏で、あんなに悩んでいるなんて…。
そう思うと、胸の奥がきゅっと締め付けられるような、切ない気持ちになった。
人気者の彼が、クラスの誰にも見せずに、たった一人で抱えていた孤独。
それを知っているのは、この教室で、世界で、きっと私だけ。
その事実が、くすぐったいような、そして少しだけ誇らしいような、不思議な感情を私にもたらした。
彼もまた、時々、私の方を見ているような気がした。
目が合うと、彼は少し気まずそうに、でも、ほんの少しだけ口元を緩めて、すぐに視線を逸らす。
その度に、私の心臓はトクン、と小さく跳ねた。
彼は、私のことをどう思っているんだろう…。
クラスの隅にいる地味な女子だと、がっかりしているんだろうか。
それとも…。
私たちの交換日記は、お互いを知っても続いていた。
しかし、以前よりも、少しだけ言葉を選ぶようになったかもしれない。
相手の顔がわかっているという事実は、私たちの間に、新たな緊張感と、そして、もどかしいような甘い空気をもたらしていた。
『昨日の授業、眠そうだったな(笑)』
ある日のノートに、そんな一文が書かれていた。
彼が私を見ている。
その事実だけで、頬に熱が集まるのがわかった。
『山澤くんこそ、数学の小テスト、上の空だったでしょ』
私も、少しだけ意地悪な返事を書いてみる。
文字だけのやり取りなのに、まるで直接会話しているかのように、彼の反応が目に浮かぶようだった。
そんなある日、親友の山口美依(やまぐち みい)ちゃんに、声をかけられた。
「美桜、最近なんか雰囲気変わった?」
昼休み、中庭のベンチで一緒にお弁当を食べていた時のことだ。
ゆるふわのウェーブがかかった明るい髪を揺らしながら、彼女は小首を傾げた。
美依ちゃんは、見た目通り天然でほんわかしているけれど、時々、核心をつく鋭さを持っている。
「そ、そうかな?別に、何も変わらないよ」
私は、つい動揺してしまって、そっぽを向いた。
「うーん、なんかね、前より楽しそうっていうか…恋でもしてる?」
「こ、恋!?」
思わず大きな声が出てしまい、慌てて口を押さえる。
美依ちゃんは、私の反応を見て、
「やっぱり!」
と嬉しそうに目を輝かせた。
「誰々?もしかして、山澤くんとか?」
「なっ…なんで!?」
「だって、最近よく目で追ってるもん、美桜」
図星だった。
美依ちゃんの観察眼には敵わない。
私は観念して、ぽつりぽつりと、交換日記のことを打ち明けた。
もちろん、山澤くんの悩みの内容は伏せて。
「交換日記…!なにそれ、小説みたいで素敵じゃん!」
美依ちゃんは、目をキラキラさせて私の話を聞いてくれた。
「でも、相手がクラスの人ってわかっちゃったら、なんか気まずくない?」
「うん…少しだけ。でも、前より彼のことを知れた気もして…」
「そっかぁ。じゃあ、もっと仲良くなれるチャンスじゃん!
ね、今度バスケの練習試合、一緒に応援に行こうよ!」
「え、練習試合…?」
戸惑う私に、美依ちゃんはいたずらっぽく片目をつぶった。
「うん!うちの彼もバスケ部だから、私もどっちみち応援に行くんだ。
美桜、一人じゃ心細いでしょ?だから、行こうよ!」
そうだった。
美依ちゃんの彼氏は、山澤くんと同じバスケ部の、一つ上の先輩だ。
明るくて爽やかな人で、美依ちゃんとは本当にお似合いのカップル。
美依ちゃんが時々、部活の応援に行っているのは知っていた。
一人で行くなんて、天地がひっくり返っても無理だ…!
体育館なんて、私にとっては異世界そのもの。
そこに一人で乗り込むなんて、想像しただけで心臓が止まりそうになる。
でも、美依ちゃんが一緒なら…。
太陽みたいに明るい彼女の隣にいれば、私みたいな日陰の存在も、少しは紛れるかもしれない。
何より、頑張っている彼の姿を、この目で見てみたい。
日記の中の繊細な彼でもなく、教室での人気者の彼でもない、バスケットボールに全てを懸けている、本当の彼の姿を。
その気持ちが、私の分厚い殻を突き破るように、恥ずかしさに勝ってしまった。
「…うん。行く」
私が小さな声でそう言うと、美依ちゃんは、
「やったー!」
と満面の笑みで私の手を握った。
彼女の屈託のない笑顔を見ながら、私は週末に待つ、未知の世界に少しだけ胸を躍らせていた。
そして週末。
私は、美依ちゃんと二人で体育館の観客席に座っていた。
「あ、いたいた!うちの人!」
と嬉しそうに手を振る美依ちゃんの視線の先には、他の部員と談笑している先輩の姿があった。
そして、そのすぐ隣で、真剣な表情でストレッチをしている山澤くんの姿も…。
熱気と、シューズが床を擦る甲高い音、そしてボールが跳ねるリズミカルな音。
いつも静かな図書室にいる私にとって、そこはまるで別世界だった。
コートの中で、山澤くんは躍動していた。
クラスで見せるのとは全く違う、鋭い眼差し。
汗を輝かせながら、誰よりも高く跳び、力強くボールをゴールに叩き込む。
その姿は、本当に、眩しいくらいに格好良かった。
私は、ただ圧倒されて、彼の姿から目が離せなかった。
彼がシュートを決めるたびに、周りから大きな歓声が上がる。
私も、胸の中で「すごい」と何度も叫んでいた。
試合が終わり、山澤くんたちのチームは見事に勝利を収めた。
選手たちがコートに挨拶をして、自分の荷物が置いてあるところに戻っていく。
その時、山澤くんがふと、こちらを向いた。
そして、観客席にいる私を見つけると、一瞬、驚いたように目を見開き、それから、くしゃりと髪をかき混ぜながら、照れくさそうに笑った。
その笑顔を見た瞬間、私の心臓は、今までにないくらい大きく、激しく、高鳴った。
日記の中の繊細な彼と、コートの上で輝く彼。
その両方を知って、私はもう、どうしようもないくらい、山澤悠斗という人に惹かれているのだと、はっきりと自覚したのだった。
試合応援の一件から、山澤くんとの距離は目に見えて縮まった。
廊下ですれ違えば、彼の方から、
「よう」
と声をかけてくれるようになったし、日記のやり取りも、どこかお互いを分かり合えたような温かい空気が流れていた。
そんな幸せな変化に心が浮かれていた矢先、学校中に不穏な噂が流れ始めた。
「ねえ、聞いた?図書室、なくなっちゃうかもしれないんだって!」
昼休み、美依ちゃんが心配そうな顔で私に告げた。
「え…?」
「学校の予算が厳しくて、利用者の少ない施設から見直すんだって。
それで、放課後の図書室を閉鎖して、自習室に改装する案が出てるらしいの」
その言葉は、私の胸に冷たい杭を打ち込むようだった。
図書室が、なくなる?
あの静かで、温かい日差しが差し込む、私の聖域が…?
そして何より、山澤くんとの繋がりが生まれた、私たちにとって、何よりも大切な場所が。
考えただけで、目の前が真っ暗になる。
その日の放課後、図書室のいつもの席に座っても、本の文字は全く頭に入ってこなかった。
ただ、失うことへの恐怖で、胸がいっぱいだった。
『図書室が、なくなるかもしれない』
その日、私はノートにそれだけしか書けなかった。
翌日、ノートを開くと、山澤くんの力強い文字が目に飛び込んできた。
『そんなの、絶対に俺がさせねぇ』
その短い一文に、私は思わず涙が滲んだ。
放課後、私がいつもの机で俯いていると、不意に隣の椅子が引かれる音がした。
顔を上げると、そこに山澤くんが座っていた。
「…大丈夫か?」
「うん…ごめん、私…」
「謝んなって。俺も、ここがなくなるのは嫌だ。お前と…出会えた場所だから」
真っ直ぐな彼の言葉に、心臓が大きく跳ねる。
「俺たちで、守ろうぜ。この場所」
「でも、どうやって…?」
「わかんねえ。けど、何もしないで諦めるなんて、性に合わねえんだよ」
彼はそう言って、ニッと笑った。
その笑顔は、いつもの太陽みたいな笑顔だったけれど、今は私一人のために向けられている。
それだけで、絶望に沈んでいた心に、一筋の光が差した気がした。
そこからの私たちは、まさに行動の人だった。
山澤くんはバスケ部で培ったリーダーシップを発揮して、「図書室の価値を見直してもらうための企画」を生徒会に提案しに行った。
私は、今までに読んだたくさんの本の中からヒントを探し、「全校生徒が本と触れ合うイベント」の企画書を徹夜で書き上げた。
美依ちゃんも、
「面白そう!」
と目を輝かせて協力してくれた。
彼女のアイデアで、イベントの目玉は「先生たちのオススメ本ビブリオバトル」と「卒業生に聞く!人生を変えた一冊」というトークコーナーに決まった。
準備期間、私たちは毎日図書室で顔を合わせた。
山澤くんは、クラスの中心メンバーや運動部の友達に声をかけ、イベントの参加を呼びかけてくれた。
私は、ポスターを作ったり、司書さんに相談して本の準備をしたり。
今まで話したこともなかった生徒たちと協力し合うのは、緊張したけれど、それ以上に充実していた。
そしてイベント当日。
図書室は、今まで見たこともないくらい多くの生徒で埋め尽くされていた。
問題は、イベントの冒頭、企画意図を説明するスピーチだった。
当然、企画者の私がやることになっていたけれど、大勢の前に立つなんて、考えただけで足がすくむ。
「…無理だよ、私には…」
ステージの袖で震える私の肩を、山澤くんがそっと掴んだ。
「大丈夫だ。お前が書いた企画書、すげえ良かった。
みんな、ちゃんと聞いてくれる」
「でも…」
「俺も一緒に行く。隣にいるから」
彼はそう言うと、私の手を強く握った。
温かくて、大きな手。
その温もりが、私の恐怖を少しずつ溶かしていく。
私たちは、二人でステージに上がった。
マイクの前に立ち、見渡す限りの生徒たちの視線に、眩暈がしそうになる。
でも、隣には山澤くんがいる。
彼が、小さく頷いてくれた。
私は、深呼吸を一つして、話し始めた。
「…私は、ずっと、この図書室に救われてきました」
震える声で語り出したのは、私の、正直な気持ちだった。
「本の世界は、臆病な私に、たくさんの勇気をくれました。
そして…この場所は、私に、大切な出会いをくれました。
この場所があったから、私は、一人じゃないって思えたんです。
だから、お願いします。
この図書室を、みんなの場所として、残してください」
言い終えると、一瞬の静寂の後、図書室が割れるような拍手が巻き起こった。
私は、驚いて顔を上げた。涙で滲む視界の中で、山澤くんが、
「よく頑張ったな」
と、最高に優しい顔で笑っていた。
イベントは大成功に終わり、私たちの想いは学校を動かした。
図書室の閉鎖案は、白紙撤回されたのだ。
後日、二人きりになった図書室で、山澤くんが言った。
「お前のスピーチ、マジで感動した」
「山澤くんが、隣にいてくれたからだよ」
「…なぁ。これからも、隣にいていいか?」
「…え?」
それは、質問の形をした、告白だった。
私は、驚きながらも、彼の言葉を理解して、頬を染めながら、人生で一番、はっきりとした声で、頷いた。
「…うん」
二人で守り抜いたこの場所で、私たちの間には、確かな絆が結ばれた。
図書室の一件を経て、私たちを見るクラスメイトの視線は、明らかに変わっていた。
ただのクラスメイトから、「何か特別な関係の二人」へと、雰囲気が変わっていたからだ。
その変化は、私を少しだけ戸惑わせたけれど、山澤くんが堂々としてくれているおかげで、不思議と居心地の悪さはなかった。
だが、光が強くなれば、影もまた濃くなる。
山澤くんに好意を寄せる女子生徒たちのグループからの視線が、日に日に棘を帯びていくのを感じていた。
特にその中の一人が、私と山澤くんが話しているのを、いつも冷たい目で見ていることに、私は気づいていた。
でも、私にできることなんて何もない。
気づかないフリをして、波風を立てないように、今まで通り息を潜めるだけだった。
そんな日々が続いていた、期末テスト期間中のこと。
部活動も休みになり、放課後の図書室は、自習する生徒たちでいつもより賑わっていた。
私も、いつもの席でテスト勉強に励んでいた。
その日、私は閉館時間ぎりぎりまで図書室に残り、山澤くんへの返事をノートに書き込んだ。
『テスト勉強、大変だね。
山澤くんは数学が苦手って言ってたけど、ここの公式、こうやって覚えるといいよ』
ささやかなアドバイスを書き添え、私はノートをいつものように机の引き出しの奥にそっとしまった。
明日、彼がこれを読んで、少しでも役に立てばいいな。
そんなことを考えながら、私は満足して図書室を後にした。
そして、翌日。
昼休み、少しでも勉強を進めようと図書室へ向かった私は、いつもの席に座り、何気なく机の引き出しに手を入れた。
山澤くんからの返事を読むのが楽しみだったから。
…ない。
指先に、いつもの固いノートの感触がない。
あれ?と首を傾げ、もう一度、引き出しの奥まで手を入れて探る。
けれど、指先に触れるのは冷たい木の感触だけだった。
そんな、はずは…!?
血の気が、さあっと引いていくのがわかった。
鞄の中も、教科書の間も、ありとあらゆる場所を探した。
でも、どこにもない。
昨日、私が確かにこの引き出しにしまった、あの黒いノートが、跡形もなく消えていた。
もしかして、盗られた…?
その可能性に行き着いた瞬間、心臓が氷水で冷やされたように凍りついた。
誰が?いつ?何のために?
頭が真っ白になって、指先が震える。
どうしよう、どうしよう!
あのノートには、私たちの全てが書かれているのに。
山澤くんの苦しみも、私の弱さも、全部。
誰かに読まれたら?
それをネタに、何かされたら?
怖い…恥ずかしい…。
でもそれ以上に、山澤くんの秘密を、彼の心を、私が守れなかったことが、申し訳なくて、悔しくて、たまらなかった。
パニックになった私は、鞄を掴むと、ほとんど駆け出すようにして図書室を飛び出した。
どこに行けばいいのかもわからない。
ただ、山澤くんを探さなければ、と。
校舎の中を探し回って、ようやく、人気のない渡り廊下で、窓の外を眺めている山澤くんの背中を見つけた。
「山澤、くん…!」
息を切らして呼びかけると、彼はゆっくりと振り返った。
私のただならぬ様子に、彼の表情が険しくなる。
「佐藤?どうしたんだよ、そんな顔して」
「ノートが…ノートが、ないの!」
私の言葉に、山澤くんの顔色も変わった。
「ないって、どういうことだ?」
「引き出しに、入ってなかった…!
昨日、ちゃんとしまったはずなのに…!
盗られたんだと思う…!」
そこまで言って、私は言葉に詰まった。
涙が、ぼろぼろと溢れてきた。
「ごめん…ごめんなさい…!
私が、ちゃんと管理してなかったから…!」
しゃくりあげながら謝る私の肩を、山澤くんの大きな手が、そっと掴んだ。
「お前が謝ることじゃねえだろ」
彼の声は、驚くほど静かで、穏やかだった。
「落ち着けって。大丈夫だから」
「でも…!」
「大丈夫。俺が、なんとかする」
彼はそう言うと、私の目から溢れる涙を、少し不器用な手つきで、そっと拭ってくれた。その指先の温かさに、私の心は少しだけ、ほんの少しだけ、落ち着きを取り戻した。
「…心当たりは、あるのか?」
彼の静かな問いに、私は、いつも私を冷たい目で見ていた女子生徒の顔を思い浮かべた。
確証はない。
でも、きっと彼女しかいない。
私は、こくりと頷いた。
「わかった。じゃあ、行くぞ」
「え、どこに…」
「決まってるだろ。俺たちの宝物を、取り返しに行くんだよ」
そう言って、彼は私の手を強く握った。
それは、日記の中の彼でもなく、コートの上の彼でもない。
私のために怒り、私を守ろうとしてくれる、たった一人の「山澤悠斗」くんだった。
繋がれた手の熱さに、私は、もう一人じゃないんだと、強く、強く思った。
山澤くんに手を引かれるまま、私たちは、例の女子生徒たちがいる教室へと向かった。
教室のドアの前に立つと、中から彼女たちの話し声が聞こえてくる。
心臓が早鐘を打つ。
怖い…。
今から、私たちの秘密が、白日の下に晒されるのかもしれない。
私がぐっと息を飲むと、隣の山澤くんが、握った手に力を込めてくれた。
「大丈夫」と、目で語りかけてくれる。
私たちは、意を決して教室のドアを開けた。
中にいた数人の女子生徒たちが、一斉にこちらを見る。
その中心にいた、ノートを盗ったであろう彼女は、私たち、特に手を繋いでいるのを見て、一瞬、怯んだような顔をした。
「ノート、返してくれ」
山澤くんが、静かに、だが有無を言わせぬ力強さで言った。
彼女は、ぷいと顔を背ける。
「なんのこと?知らない」
「嘘つくなよ。図書室の机から、持って行ったんだろ」
「証拠でもあるわけ?」
開き直った彼女の態度に、私の心は絶望で冷たくなっていく。
どうしよう。このまま、しらを切られたら…。
そんな不安が私の心を支配する。
いや、でも…!
そう思った私は、思わず一歩を踏み出した。
自分でも信じられないくらいの勇気が、どこからか湧いてきたのだ。
「…お願いです。返してください」
私の声は震えていた。
でも、瞳はまっすぐに彼女を捉えていた。
「あのノートは、ただの日記じゃないんです。
私たちにとって…ううん、私にとって、すごく、すごく大切なものなの。
そこには、私の弱いところも、情けないところも、全部書いてある。
だから、他の誰かに読まれたくない。お願いします」
私の必死の訴えに、彼女は驚いたように目を見開いていた。
いつも教室の隅で本ばかり読んでいる、おとなしいだけの佐藤美桜が、こんな風に感情を露わにすることなど、想像もしていなかったのだろう。
それでも、彼女はノートを渡そうとはしなかった。
悔しそうに唇を噛み締め、
「だって…」
と呟く。
「だって、山澤くん、いつもあんたのこと見てるじゃない!
図書室のイベントの時だって、特別扱いして!
これも交換日記なんでしょ!?
こそこそと…!ずるい!」
嫉妬。
その剥き出しの感情が、私たちに突き刺さる。
その時、ずっと私の前に立ってくれていた山澤くんが、静かに口を開いた。
「ずるいのは、俺の方だよ」
彼の言葉に、その場にいた全員が、息を呑んだ。
「俺は、ずっと弱かった。
エースだとか、人気者だとか、周りが勝手に作ったイメージに応えるのがしんどくて、でも、誰にも弱音を吐けなくて。
そんな時に、たまたま見つけたんだ。
図書室の机に置いてあった、彼女のノートを」
え…?
山澤くんの言葉に、私は耳を疑った。
「最初に日記を始めたのは、俺じゃない。
佐藤だ。彼女が、誰にも言えない気持ちを、そこに綴っていた。
俺は、それを偶然読んで…同じだって思ったんだ。
こいつも、俺と同じように、一人で戦ってるんだって。
だから、俺も、自分の気持ちを書いてみた。
顔も知らない誰かなら、本当の自分をさらけ出せるかもしれないって」
嘘だ。
最初に始めたのは、山澤くんのはず。
私の頭は混乱していた。
なんで、そんな嘘を?
ただ「俺が始めた」と言えばいいだけなのに、どうして、わざわざ私を巻き込むような、そんな複雑な…。
そこまで考えた瞬間、私は息を呑んだ。
わかってしまった。
彼の嘘に込められた、あまりにも深い意味に。
彼女の嫉妬の理由は、「地味な私が、人気者の山澤くんに近づいた」から。
もし彼がただ「俺が始めた」と言っても、「でも、あんたも返事したんでしょ」と、私を責める余地は残ってしまう。
でも、彼の嘘は違う。
「私がひっそりとつけていた日記に、彼が勝手に入ってきた」。
その物語に書き換えれば、私は「彼に近づこうとした女」から、「自分の世界に踏み込まれた、いわば被害者」になる。
彼女が私を責める理由が、根こそぎ消えてしまう。
そして、その嘘は、彼が「女子のプライベートな日記を覗き見て、一方的に返事を書いた、少しデリカシーのない男」という役回りを、自ら引き受けるということ。
私の性格を、私が自分から誰かにアプローチするような人間じゃないことを、彼は誰よりも理解してくれている。
だからこそ、私という人間が一番傷つかない、私が完璧に潔白でいられるストーリーを、この一瞬で作り上げてくれたんだ。
自分のプライドが少し傷つくことさえ厭わずに。
私を守るためだけに。
「こいつは、俺のくだらない弱音を、いつも真剣に聞いてくれた。
お前の言葉に救われたって、何度も言ってくれた。
俺の方こそ、こいつの言葉に、どれだけ救われたか…」
山澤くんは、一度言葉を切ると、私のことをまっすぐに見つめた。
その瞳は、真剣で、かつ熱を帯びていた。
「だから、これは、俺たちの問題なんだ。
俺が、佐藤に無理やり付き合わせた。
だから、返してくれ。俺の大事なものでもあるんだ」
山澤くんの、優しい、優しい嘘。
私たちの出会いの物語すら書き換えて、私を完璧に守ろうとしてくれる、彼の覚悟。
そのことに気づいた瞬間、私の目から、また涙が溢れ出した。
でも、それはもう、怖さや悔しさの涙ではなかった。
彼のあまりにも深い愛情に胸が締め付けられて、温かくて、胸がいっぱいになるような、幸せな涙だった。
彼の真摯な言葉に、ノートを盗んだ彼女は、もう何も言えなかった。
しばらく俯いていたが、やがて、自分の鞄から、あの黒いノートを取り出した。
そして、私にではなく、山澤くんに、そっと差し出した。
「…ごめんなさい」
消え入りそうな声で謝る彼女に、山澤くんは何も言わず、ただ静かにノートを受け取った。
教室を出て、二人きりになった廊下で、私は山澤くんに、
「ありがとう」
と言った。
「なんで、あんな嘘を…?」
「嘘じゃねえよ」
彼は、ぶっきらぼうに答えた。
「半分は、本当のことだから。
お前の言葉に救われたのは、事実だ」
そう言って、彼は私にノートを差し出した。
「もう、これは終わりにしよう」
「え…」
「いつまでも、こんなの続けてらんねえだろ。
いつ、また誰かに見られるかわかんねえし」
彼の言葉に、心臓が冷たくなっていく。
終わり…?
私たちの繋がりが、なくなってしまうの?
嫌だ。そんなの、絶対に嫌だ。
「…嫌だよ」
私は、ほとんど無意識に、彼の制服の袖を掴んでいた。
「…私、山澤くんと、もっと話したい」
俯いた私の頭の上から、ふ、と彼の笑う気配がした。
「俺もだよ、バーカ」
顔を上げると、今まで見たこともないくらい、優しい顔で笑う彼がいた。
「日記なんてなくても、直接言えばいいだろ?
これからは、ちゃんと、お前の顔見て話すから」
彼はそう言うと、私の掴んでいた袖をそっと外し、代わりに、私の指を絡めるように、優しく手を握った。
「だから、これからは、よろしくな。美桜」
初めて呼ばれた、下の名前。
その響きが、鼓膜を優しく震わせる。
今までずっと「佐藤」だったのに。
彼の中で、私が、クラスメイトのその他大勢から、たった一人の「美桜」になった。
その事実が、たまらなく嬉しくて、胸がいっぱいになる。
私は、頬を真っ赤に染めながら、精一杯の勇気で、彼の名前を呼んだ。
「…うん。よろしくね、悠斗くん」
声に出して彼の名前を呼んだのは、これが初めてだった。
これからは、私も、彼のことを「悠斗くん」って呼んでいいんだ…!
私たちの秘密の交換日記は、こうして終わりを告げた。
でも、それは、新しい物語の始まりの合図でもあった。
放課後の図書室は、私たちの特別な場所だ。
隣同士に座って、他愛もない話をしたり、黙って同じ本を読んだり。
時々、視線がぶつかって、どちらからともなく笑い合う。
そんな、穏やかで満たされた時間が、今は何よりも愛おしい。
「美桜、最近すっごく綺麗になったね!」
美依ちゃんは、自分のことのように喜んでくれた。
「恋する乙女は違うわぁ」
ゆるふわの髪を揺らしながらからかう彼女に、私は照れながらも、
「美依ちゃんのおかげだよ」
と心から感謝した。
彼女が背中を押してくれなかったら、私はきっと、動くことすらしなかっただろうから。
ある晴れた日の放課後。
いつものように図書室で悠斗くんを待っていると、彼が少し息を切らしながらやってきた。
「ごめん、待った?」
「ううん、今来たとこ」
彼は私の隣に座ると、鞄から何かを取り出した。
それは、あの黒い表紙のノートだった。
「これ、どうしようかと思って」
彼が、ぱらぱらとページをめくる。
そこには、彼の力強い文字と、私の少し丸っこい文字が、交互に並んでいた。
私たちの心の軌跡そのものだ。
「え?もしかして、捨てちゃう、とか…?」
私が少し寂しそうに言うと、彼は、
「まさか」
と笑った。
「これは、俺たちの宝物だろ?
だから、最後のページ、一緒に書かねえ?」
彼はそう言って、ペンを私に手渡した。
ノートの、一番最後の、真っ白なページ。
そこに、私たちは、並んで新しい言葉を綴った。
悠斗くんが、大きな文字で、こう書いた。
『佐藤美桜を見つけ出してくれて、ありがとう』
そして、私は、彼の文字の隣に、こう書き添えた。
『山澤悠斗に出会わせてくれて、ありがとう』
私たちは顔を見合わせて、どちらからともなく、ふふっと笑い合った。
もう、このノートに新しい言葉が綴られることはないだろう。
でも、私たちの物語は、まだ始まったばかり。
これから、たくさんのページを、二人で一緒に、言葉を交わしながら、手を取り合いながら、埋めていくのだ。
西日が差し込む図書室で、私は大好きな人の隣で、静かに本のページをめくる。
かつては逃げ込む場所だったこの静寂が、今は、世界で一番幸せな場所に変わっていた。
-fin-
10
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