純愛短編集

わ太る

文字の大きさ
3 / 6

路地裏の万華鏡、君と無限の選択

しおりを挟む


ざあざあと、空が泣きじゃくるような音が店の屋根を叩いている。
古い木造の建物は、雨音がよく響いた。
壁にずらりと並んだガラス瓶や、天井から吊るされたドライフラワーが、まるで小さな生き物のようにかすかに震えている。

また、雨か…。

私はカウンターの奥で、淹れたばかりのカモミールティーの湯気をぼんやりと見つめていた。
路地裏にひっそりと佇むこの雑貨店『Mille Fiori(ミルフィオーリ)』の店主になって、もう五年になる。

雨の日は決まって、お客さんの足が遠のく。
そして、静寂が支配するこの空間で、私はいつも、あの日のことを思い出してしまうのだ。

『Mille Fiori』は、千の花という意味。
イタリアのガラス工芸品の名前から取った。
色とりどりのガラスが混ざり合い、一つの美しい模様を作り出す。
まるで、人の人生みたいだと思って、この店の名前にした。

私の長い黒髪は、特に手入れをしなくてもすとんと真っ直ぐに落ちる。
服装は、体のラインを拾わない、落ち着いた色合いのワンピースが多い。
今日も、深い森の色をしたリネンのワンピースだ。

訪れる人から「ミステリアスですね」なんて言われることもあるけれど、本当はただ、自分の心に分厚い壁を作って、人付き合いが少し下手になっているだけ。

カラン、とドアベルが寂しげな音を立てた。

こんな土砂降りの夜に、お客さんなんて珍しいわね。

入り口に立っていたのは、背の高い男性だった。
仕事帰りなのだろうか、少し着崩れたスーツの肩が、雨に濡れて色を濃くしている。
フレームの細い眼鏡の奥の瞳は、知的な光を宿しているけれど、ひどく疲れているように見えた。
歳は、私と同じくらいだろうか。

「いらっしゃいませ」

「…すみません。雨宿り、というわけではないんですが…なんだか、惹かれてしまって」

彼は困ったように笑いながら、店の中をゆっくりと見回した。
その視線が、カウンターの隅に置いてある、ひときわ古びた一つの工芸品に留まる。

「それは……万華鏡、ですか?」

「ええ。古いものですよ」

それは、この店で私が一番長く時間を共にしてきた、真鍮製の万華鏡だった。
使い込まれて角は丸くなり、表面には細かな傷が無数についている。
けれど、レンズだけは毎日、朝一番に柔らかい布で磨くのが私の日課だった。
そうしていないと、過去の記憶まで曇ってしまいそうで…。

「もしよろしければ、覗いてみませんか?」

私の言葉に、彼は少し戸惑ったようだったけれど、こくりと頷いた。

彼がカウンターに近づく。
すっきりとした顔立ちに、通った鼻筋。
けれど、その眉間には深いため息の跡が刻まれているみたいだった。

「俺は山田渉(やまだ わたる)と、言います」

「神楽柚(かぐら ゆず)です。この店の店主をしています」

山田さんは、そっと万華鏡を手に取った。
その手つきが、何かとても貴重なものに触れるかのように慎重で、真面目な人柄が窺えた。
そして、ゆっくりと片目を閉じて、レンズを覗き込む。
彼の息を呑む音が、静かな店内にやけに大きく響いた。

「すごい…なんだ、これ…?」

彼の呟きに、私は何も答えなかった。
この万華鏡が、ただの万華鏡ではないことを、言葉で説明するのは難しいから。

それは、覗いた人の『もしも』の選択が紡ぐ、パラレルワールドを映し出す万華鏡。
もし、あの時、別の道を選んでいたら…。
もし、あの時、違う言葉を口にしていたら…。

そんな、誰もが一度は思い描くであろう、無数の可能性の世界を、この万華鏡は見せてくれるのだ。

「会社を…辞めてる…?
小さな事務所で、仲間と笑いながら…」

山田さんの口から、驚きと戸惑いの混じった言葉が漏れる。
彼は万華鏡から一度目を離し、信じられないという顔で私を見た。

「どうして…こんな、俺の頭の中にあるだけの空想が…?」

「あなたが、心の中で迷っている選択。
その先の世界が、見えているだけです」

彼はゲーム会社のプランナーで、今、大きなプロジェクトの責任者を任されるか、あるいはリスクを取って独立するか、その岐路に立たされているらしかった。
論理的に考えれば考えるほど、どちらの選択にもメリットとデメリットがあって、答えが出せないのだと、ぽつりぽつりと話してくれた。

この人も、迷っているんだ…。

この店を訪れる人は、みんなそうだ。
人生という名の交差点で、どちらに進めばいいのか分からなくなって、立ち尽くしている。
私は、そんな人たちの背中を、この万華鏡の力でそっと押してあげるのが役目だと思っている。
それが、あの日、選択を間違えた私にできる、唯一の贖罪だから。

「…また、来てもいいですか」

しばらく無言で万華鏡を覗き続けていた山田さんが、不意に顔を上げて言った。
その瞳には、さっきまでの疲れの色ではなく、強い光が宿っていた。
まるで、出口の見えない迷路の中で、一筋の光を見つけたかのように。

「もちろんです。気が済むまで、あなたの世界を覗いていってください」

その日から、山田さんは毎日のように仕事帰りに店へ寄るようになった。
万華鏡を覗き、そこに映る様々な自分の姿に一喜一憂し、そして私に、その世界のことを話して聞かせる。

海外でバリバリ働いている自分。
地元に帰って、穏やかに暮らしている自分。
全く違う職種で、才能を開花させている自分。

彼は、見るものすべてを論理的に分析しようとした。

「この世界の俺は、年収はこれくらいで、幸福度は…。
いや、幸福度なんて数値化できるものじゃないか。でも…」

なんて、ゲームのパラメータみたいに自分の人生を語る。
その姿が、なんだか可笑しくて、愛おしかった。

でも、本当の答えは、そこにはないの…。

無限の選択肢を見れば見るほど、人は迷う。
一番大切なのは、どの未来が一番幸せか、ではなく、どの未来を『自分で』選ぶか、なのに。
私はそれを、彼に伝えることができなかった。

だって、私自身が、過去のたった一つの選択に囚われて、ここから一歩も動けずにいるのだから。

ある日の夕方、山田さんはいつもより少し早い時間にやってきた。
けれど、その表情は険しく、焦りの色が滲んでいる。
まるで、自分のゲームに致命的なバグを見つけてしまったかのように。

「神楽さん、これ……」

彼はカウンターに、あの真鍮の万華鏡を置いた。
ことり、と乾いた音が立つ。

「何も、映らないんです。
昨日までは、あんなに色々な世界が見えていたのに…今は、ただの暗闇しか…」

まさか…そんなはずはない。
私は山田さんから万華鏡を受け取り、恐る恐るレンズを覗き込んだ。
そこにあったのは、山田さんが言う通り、光の粒一つない、完全な闇だった。

いつもなら、覗いた瞬間に色とりどりのガラスの破片が舞い、新たな景色を紡ぎ出すはずなのに…。

今は、まるでその力を失ってしまったかのように、沈黙している。
底なしの井戸を覗き込んでいるような、不安な気持ちになる。

どうして…?こんなこと、今まで一度もなかったのに…。

ハプニング、と呼ぶにはあまりにも静かで、そして深刻な出来事だった。

万華鏡が壊れた?
いや、物理的な損傷はない。だとしたら、原因は…。

「何か、心当たりは?」

私の問いに、山田さんは首を横に振る。

「特に…。ただ、昨日の夜、万華鏡で見た世界が…少し、気になってはいます」

「どんな世界だったんですか?」

「俺が…今の会社に残る選択をした世界でした。
でも、そこでは大きな失敗をして、たくさんの人に迷惑をかけて…。
俺は、独りでした。
誰もいないオフィスで、ただ一人、PCの画面を眺めていて…」

彼の声が、微かに震えていた。
いつも論理的に物事を考え、分析していた彼が、万華鏡の示す一つの可能性に、心を揺さぶられている。

そっか…。この人は、怖いんだ。選択することが。

失敗する可能性。
誰かを傷つける可能性。
独りになる可能性。

それらを全て分かった上で、たった一つの道を選び取るのが、どれだけ怖いことか。
私には、痛いほどよく分かった。

「もしかしたら…」

沈黙を破ったのは、山田さんだった。
彼はじっと私の目を見て、続けた。

「この万華鏡って、持ち主の心と繋がっているんじゃないでしょうか」

「え…?」

「ゲームの仕様を考える時、トリガーというものを設定するんです。
特定の条件を満たした時に、イベントが発生する仕組み。
この万華鏡が映らなくなったのは、神楽さん…あなた自身の心が、何かを拒絶しているから、とか」

彼の言葉は、鋭い矢のように私の胸に突き刺さった。

拒絶…。
その通りかもしれない。

山田さんが万華鏡の可能性に怯えているのを見て、私は自分の過去を重ねていた。
あの日の、私の選択。
私が選んだせいで、失われてしまった未来。その痛みと後悔が、万華鏡の光を閉ざしてしまったのかもしれない。

「そう、ですか。ごめんなさい…。たしかに、私のせいかもしれません」

「謝らないでください」

私が俯くと、山田さんは静かに言った。
そして、カウンター越しに、そっと私の手に自分の手を重ねた。
大きくて、少しごつごつした、温かい手だった。
その温もりが、冷え切っていた私の心に、じんわりと染み込んでいく。

「俺は、神楽さんがこの万華鏡を大切にしているのを知っています。
毎日、レンズを磨いて、優しい手でそれに触れているのも。
だから、万華鏡も、あなたに応えようとしているだけなんじゃないかな。
少し休みたいって」

彼の言葉は、どんな慰めよりも優しかった。
私のせいだと責めるのでもなく、ただ、寄り添ってくれる。

「あなたのせいなんかじゃない。
むしろ、俺は感謝してるんです。
この万華鏡が映らなくなったおかげで、気づいたことがあるから」

「気づいたこと…?」

「ええ。俺は、無限の可能性を見ることばかりに夢中になって、一番大事なことを見失っていました。
選択肢を分析することじゃなくて、何を大切にしたいのか、自分の心に聞くべきだったんだって」

山田さんは、重ねた手に少しだけ力を込めた。

「もう一度、自分の力で考えてみます。万華鏡がなくても」

その夜、山田さんは万華鏡を覗かずに帰っていった。
一人になった店内で、私は彼の手の温もりが残る自分の手を見つめていた。
心の奥で、固く凍りついていた何かが、ほんの少しだけ、溶け始めたような気がした。

翌日、私が店を開けると、カウンターの上に置いてあった万華鏡は、何事もなかったかのように、再び光を宿していた。
そっと覗き込むと、そこには柔らかな光に満ちた、美しい景色が広がっていた。

万華鏡が元に戻ってから、山田さんとの時間は、前よりもずっと穏やかで、満たされたものになっていった。
彼はもう、万華鏡の示す未来に一喜一憂することはなくなり、自分の考えや夢を、私に話してくれるようになった。

ある晴れた休日、さんは私を近くの植物園に誘ってくれた。
ガラス張りの温室の中は、色とりどりの花々が咲き乱れ、甘い香りに満ちている。
まるで、この店の名前『Mille Fiori』の世界に迷い込んだかのようだった。

「すごいな…。この花の配置、絶妙なバランスだ。
ゲームの背景デザインの参考になりそうだ」

「ふふ、お仕事熱心ですね」

「君といると、不思議とアイデアが湧いてくるんだ。
脳が活性化する感じがする」

そう言って笑う彼の横顔を見ていると、胸の奥がじんわりと温かくなる。
彼が私に向けてくれる、気兼ねのない、優しい笑顔。
それが、どれほど今の私にとって大きな支えになっていることか。

山田さんの隣は、居心地が良かった。
沈黙さえも心地よくて、この時間がずっと続けばいいのに、と柄にもなく願ってしまう。

その帰り道、夕暮れのオレンジ色の光が街を染める中、私たちは並んで歩いていた。
ふと、山田さんが立ち止まり、ショーウィンドウを指さした。
そこには、繊細なガラス細工のアクセサリーが飾られていた。

「綺麗だね。…あ、ほら、あの青いガラスのピアス、君に似合いそうだ。
君の澄んだ瞳の色と同じだ」

その瞬間、私の心臓がどきりと音を立てて跳ねた。
昔、同じことを言われたことがある。

五年前、私のせいでいなくなった、あの人が。
ガラス職人だった彼は、よくこうして街を歩きながら、

「いつか、ユズに似合う世界で一つのアクセサリーを作ってやる。
お前の瞳みたいな、深い海の色のガラスで」

と、悪戯っぽく笑っていた。

「…神楽さん?」

私の表情が強張ったのに気づいたのだろう。
山田さんが心配そうに私の顔を覗き込む。

「あ、ごめんなさい。ぼーっとしてて…綺麗ですね、本当に」

なんとか笑顔を取り繕ったけれど、一度思い出してしまった過去の記憶は、胸の奥にずしりと重くのしかかってくる。

楽しい。
山田さんといると、本当に楽しい。
幸せだ、とさえ思う。

でも、その幸せを感じるたびに、罪悪感が鎌首をもたげるのだ。
私が、彼を忘れて、新しい幸せを手に入れてもいいのだろうか、と。

その夜、店を閉めた後、私は一人、カウンターでぼんやりとしていた。
山田さんと過ごした楽しい時間の記憶と、不意に蘇った過去の記憶が、頭の中で混ざり合って渦を巻いている。
無意識に、カウンターの隅にある真鍮の万華鏡に手が伸びた。
心の迷いを振り払うように、レンズを覗き込む。
いつもなら、そこには静かで美しい、光の模様が広がっているはずだった。

しかし、その夜は違った。

覗き込んだ瞬間、ぐにゃり、と視界が歪んだ。
色とりどりのガラスの破片が、まるで嵐のように激しく渦を巻き始め、私の意思とは関係なく、次々と景色を紡ぎ出していく。

ガラス工房で汗を流しながら笑っている、昔の恋人の姿。
山田さんと植物園を歩いている、今日の私の姿。
次の瞬間、工房が真っ赤な炎に包まれる光景。
そして、山田さんが悲しそうな顔で私に背を向けて霧の中へ去っていくビジョン。

幸せな『もしも』と、最悪の『もしも』が、目まぐるしく、暴力的に私の脳内へ流れ込んでくる。

「や…やめて…!」

万華鏡から目を離そうとしても、まるで磁石のように引きつけられて離せない。
頭が割れるように痛い。
現実と、万華鏡が見せる幻覚との境界線が、どんどん曖昧になっていく。

私のせいだ…私が、山田さんを好きになったから…。
過去を裏切ろうとしているから、万華鏡が怒ってるんだ…!

恐怖と混乱で、息がうまくできない。

どれくらいの時間が経ったのか。
気がつくと、私は店の床に蹲り、荒い息を繰り返していた。
手から万華鏡が滑り落ち、冷たい床の上で静かに転がっている。

もう、何も考えられなかった。

翌日、私は店を開けることができなかった。

『本日、都合により臨時休業いたします』

そう書いた紙を店のドアに貼り、店の奥にある小さな居住スペースのベッドに倒れ込む。

体が鉛のように重い。
まぶたを閉じれば、昨夜の幻覚がフラッシュバックする。

このままではいけない。
分かっているのに、心が言うことを聞かない。

その時、店のドアを控えめにノックする音が聞こえた。
居留守を使おうかと思ったけれど、ノックの音は、遠慮がちに、でも根気強く続いている。

諦めて重い体を起こし、ドアを開けると、そこには心配そうな顔をした親友が立っていた。

「柚ちゃん…?
どうしたの、お店閉まってるし、電話にも出ないから…」

ふわふわのウェーブヘアを揺らしながら、私の顔を覗き込むのは、山口美依だった。
その手には、いつものように焼きたての焼き菓子が入ったバスケットが握られている。

「美依、か…ごめん、ちょっと、体調が悪くて」

「顔、真っ青だよ。とりあえず、中入るね?」

美依は私の返事を待たずに店に入ると、手際よくハーブティーを淹れてくれた。
彼女の少し天然で、でも太陽みたいに温かい優しさが、今の私には眩しすぎた。

「何かあったんでしょ。山田さんと」

「…なんで、わかるの?」

「そりゃわかるよー。
柚ちゃんがこんなになるの、だいたい恋が絡んでる時だもん」

そう言って、美依は悪戯っぽく笑った。
その屈託のなさに、張り詰めていたものが、ふっと緩む。

私は、ぽつり、ぽつりと、昨夜の出来事を話した。
山田さんへの気持ちが大きくなるほど、過去への罪悪感も大きくなること。
そして、万華鏡が暴走して、恐ろしい幻覚を見せつけてきたこと。

「そっか…。怖かったね、柚ちゃん」

美依は、静かに私の話を聞き終えると、私の冷たい手を両手でぎゅっと握ってくれた。

「あのね、思うんだけど」

彼女は、優しい声で、でも真っ直ぐな瞳で私を見つめた。

「その万華鏡は、怒ってるんじゃないと思うな。
むしろ、柚ちゃんに『気づいて』って言ってるんじゃないかな」

「…気づいて?」

「うん。

『過去も、今も、どっちも本当の柚ちゃんの気持ちでしょ?どっちかを選ぶんじゃなくて、全部抱きしめてあげなよ』

って。万華鏡は、そう言いたいのかも。
柚ちゃんは真面目だから、白黒つけなきゃって思い詰めてるけど、人の心ってそんなに単純じゃないでしょ?
グラデーションみたいに、色々な色が混ざり合ってるのが普通だよ」

美依の言葉は、いつもそうだ。
難しく考えすぎている私の心を、ふわりと軽くしてくれる。
天然そうに見えて、物事の核心を、一番優しい言葉で伝えてくれるのだ。

「全部、抱きしめる…」

「そうだよ。昔の彼を大切に思う気持ちも、山田さんを好きだと思う気持ちも、嘘じゃないでしょ?
無理に忘れようとしたり、罪悪感を感じたりするから、心がぐちゃぐちゃになっちゃうんだよ。
山田さん、きっと、そんな柚ちゃんの全部を受け止めてくれる人だと思うな」

美依はにっこりと笑うと、

「ほら、これ食べて元気出して」

とバスケットからクッキーを取り出した。

そうだ。私は、一人で抱え込みすぎていた。山田さんの優しさを、信じきれていなかったのかもしれない。

「ありがとう、美依。少し、楽になった」

「どういたしまして。
…それで?山田さんには、連絡しないの?
きっと、心配してるよ?」

美依の言葉に、私はスマートフォンの画面に目を落とす。
そこには、山田さんからの着信履歴と、

『大丈夫ですか?』

という短いメッセージが一件。
私は、深呼吸を一つすると、そのメッセージに指を伸ばした。

美依が帰った後、私は山田さんに、

『少し話したいことがあります』

とだけメッセージを送った。
すぐに、

『今から行ってもいいですか?』

と返事が来る。
彼の優しさと行動力に、胸が締め付けられた。

夜の帳が下りた頃、山田さんは店にやってきた。
その表情には、隠しきれない心配の色が浮かんでいる。

「神楽さん、大丈夫?店が閉まっていたから、何かあったんじゃないかって…」

「山田さん…ごめんなさい、心配かけて」

私は彼を店の中に招き入れると、カウンターを挟んで向かい合った。
ハーブティーを淹れる手が、微かに震える。

彼に何を、どう話せばいいのだろう。
自分の過去のこと、万華鏡のこと、そして彼への想い…。
あまりにも多くの感情が渦巻いて、言葉が喉の奥でつかえてしまう。

沈黙が、静かな店内に重く落ちる。
その沈黙を破ったのは、山田さんだった。

彼は、私の葛藤を見透かしたかのように、静かに、だが強い意志を込めた声で口を開いた。

「実は…俺の方こそ、ずっと話さなければいけないと思っていたことがあるんだ」

「え…?」

「この前の、植物園に行く約束をした日…。
最後にこの万華鏡を覗いたんだ。
その時に見た世界が、どうしても頭から離れなくて…。
そして今日、君の店の灯りが消えているのを見た時、あの時の光景が現実になったような気がして、心臓が凍る思いがした」

彼の言葉に、私は息を呑んだ。
私が万華鏡の暴走に苦しんだ、さらに前の話。
彼もまた、一人で万華鏡が示す世界に苦しんでいたなんて…。

「落ち着いて、山田さん。何が見えたの?」

「…君が…神楽さんが、いない世界だ」

彼の瞳が、痛みに歪む。

「俺は、今の会社で成功していた。
大きなプロジェクトも、全部うまくいった。
でも、その世界には、『Mille Fiori』はなくて…君も、いなかった。
俺は、誰とも心から笑えずに、ただ、虚ろな目で仕事をこなしてるだけだった…」

そんなはずはない。
万華鏡は、あくまで覗いた本人の『もしも』を映し出すもの。
他人の存在が消えるなんて、ありえない。

まさか…?

一つの、恐ろしい可能性が頭をよぎる。

この万華鏡は、持ち主の心と繋がっている。
それは山田さんが言った通りだと思う。
だとしたら、今、万華鏡を動かしているのは、山田さんの心だけじゃない。
私の心も、影響を与えているとしたら?

私が、心のどこかで『いなくなりたい』と願ってしまったから?
彼を私の過去に巻き込むくらいなら、最初から出会わなければよかった、なんて、一瞬でも考えてしまったから…?

「違う…違う世界も見えたんだ!」

山田さんは、私の不安を打ち消すように、叫ぶような声で続けた。

「君が…すごく、不安そうにしてる世界もあった。
この店もなくて、君は暗い部屋で、独りで泣いていた…。
俺は、それが一番…耐えられなかった!」

彼は万華鏡を強く握りしめたまま、私をまっすぐに見つめた。
その瞳は、雨に濡れた夜の道みたいに、深く、潤んでいた。

「もう、嫌なんだ。無限の可能性なんて、いらない。
俺は、どの世界の成功も、名誉もいらない。
俺が欲しいのは…俺が選びたいのは、君がいる未来だ。
神楽さん…柚さんが、笑っていてくれる未来だけなんだ」

それは、告白だった。
論理的で、いつも迷ってばかりいた彼が、たった一つの答えを見つけ出した瞬間の、魂の叫びだった。
彼の言葉が、私の心の最も固い扉を、いとも簡単にこじ開けていく。

「山田さん…」

「渉って、呼んでほしい」

彼は私の手を、あの時と同じように、両手で包み込んだ。
前よりも、もっと強く、もっと温かい。

「俺は、もう迷わない。ゲームプランナーとして、今の会社で、仲間と一緒に最高のゲームを作る。
それが、今の俺が出した答えだ。
万華鏡が見せてくれた、どの未来よりも、俺が一番ワクワクする選択だ」

「……」

「そして、俺の人生というゲームに…
君にも、登場してほしい。ヒロインとして」

彼の真剣な瞳から、もう目を逸らすことはできなかった。
ああ、この人は、本当に見つけたんだ。
無限の選択肢の中から、たった一つの、自分の宝物を。

それに比べて、私はどうだ。
まだ過去に縛られて、動けないままでいる。

「私には…その資格、ないかもしれない…」

「資格なんて、俺が決める。
君がどんな過去を抱えていても、俺は、君のいる未来がいい」

渉さんの強い言葉に、堰を切ったように涙が溢れ出した。
ずっと、独りで抱えてきた後悔や悲しみが、彼の温かさに溶かされて、浄化されていくようだった。

「ありがとう…渉さん」

私は、泣きながら、それでも必死で微笑んだ。
この人の隣にいたい。
この人と一緒に、未来を歩きたい。
心から、そう思った。

渉への想いをはっきりと自覚し、彼と共に未来を歩みたいと願ったあの日から、私の心は少しずつ、でも確実に前を向き始めていた。
もう万華鏡が暴走することはなく、店には穏やかな時間が流れていた。

渉は変わらず店に顔を出し、私たちは他愛もない話をして笑い合った。
この幸せな時間が、私にとって何よりの宝物になっていた。

でも…。

心のどこかに、小さな棘が刺さったままだった。
渉との未来へ進むと決めたのに、私はまだ、カウンターの隅にあるあの真鍮の万華鏡を手放せずにいた。

それはまるで、これから始まる新しい航海に、古い港の地図を「お守り」として持ち込もうとしているような、矛盾した行為だった。

渉との未来がもしうまくいかなかったら?

そんな弱さが、私に万華鏡を捨てさせなかった。

そんなある秋の日の午後だった。
カラン、と澄んだドアベルの音がして、一人の上品な老婦人が店に入ってきた。
銀色の髪を綺麗に結い上げ、背筋をすっと伸ばした姿は、まるで古い洋画に出てくる女優のようだった。

「まあ、素敵なお店だこと …」

彼女はゆっくりと店内を見回すと、その視線をカウンターの隅にぴたりと止めた。
そして、吸い寄せられるように近づいてくる。
「…あぁ、ここにありましたか。
私の、道しるべであり…甘い毒であったものが」

その言葉に、私はどきりとした。
彼女の指先が、懐かしむようにそっと万華鏡の真鍮に触れる。
「あの……この万華鏡をご存知なのですか?」

「ええ。私が、あなたの一つ前の持ち主ですから」
彼女―月島静子(つきしま しずこ)は、私が淹れた紅茶を静かに一口飲むと、遠い目をして語り始めた。
「この万華鏡は持ち主を選ぶのです。
いえ…人生の大きな岐路に迷う心の持ち主のために、目を覚ます、と言うべきかしら」

何十年も前、彼女もまた人生の大きな選択に迷い、この万華鏡の力を「目覚めさせてしまった」のだという。
結婚を約束した恋人の生活か、海外で働くという夢を追うか。

二つの道の間で揺れていた彼女は、万華鏡が示す「最も幸せに見える未来」を選び続けた。
「万華鏡は、いつも正解を教えてくれました。
リスクのない、輝かしい未来を。
私はそれに従い、夢を選び、大きな成功を手にしました。でも…」

静子さんの声が、微かに震えた。

「でも、気づいたのです。
私は、選択の痛みから逃れる代わりに、何かを選ぶという『勇気』そのものを失ってしまったのだと。
万華鏡は、不確かな現実を乗り越えようとする、人間の最も尊い力を奪っていくのです」

彼女は、万華鏡が示した成功の道を選んだ結果、恋人との未来を手放した。
そして今、すべてを手に入れたはずの人生に、埋めようのない空虚感を抱えているのだと言った。

「お嬢さん。あなたも、迷っていらっしゃるのね」

静子さんの透き通るような瞳が、私の心の奥底まで見透かしているようだった。

「その万華鏡は、人を優しく導く半面、心を蝕む甘い毒にもなる。
幸せな『もしも』に囚われ、現実を歩む勇気を失わせてしまう。
どうか、私のようにはならないで」

彼女の話は、私の心に深く、重く突き刺さった。
そうだ。私は、渉という現実の光を見つけながらも、無意識に万華鏡という「保険」に頼っていた。
渉との未来がもしうまくいかなかったら、この万華鏡に答えを求めればいい。
そんな、卑劣で弱い心が、私の中に確かにあったのだ。

その夜、店を訪れた渉に、私は月島静子さんの話を打ち明けた。
自分の弱さも、依存も、全て。
話を聞き終えた渉は、黙って私の手を握ってくれた。

「怖かったんだな、柚」

彼の声は、どこまでも優しかった。

「でも、俺は万華鏡が見せる完璧な未来なんていらない。
俺が欲しいのは、君と一緒に悩んで、迷って、時には失敗して、それでも二人で笑い合える、不確かな未来だ」

「渉さん…」

「失敗したっていいじゃないか。
その時はまた二人で考えよう。
それも、俺たちの物語の大事な一ページになる。
どんな完璧なゲームのシナリオより、ずっと面白い物語を、二人で創っていこう」

彼の言葉が、私の最後の迷いを、綺麗に洗い流してくれた。

そうだ。
私が本当に欲しかったのは、保証された幸せな未来じゃない。
この人と一緒に、物語を創っていく、その過程そのものだったんだ。

「ありがとう…。私、決めた」

私は顔を上げ、渉をまっすぐに見つめた。

「この万華鏡を、手放そうと思う」

万華鏡を手放す決意をした週末、私は渉さんを、思い出の場所へと誘った。
本当の意味で過去と向き合い、そして未来へ進むために、どうしても越えなければならない場所だった。
電車を乗り継いでたどり着いたのは、海が見える、小さなガラス工房だった。

「ここは…?」

「彼が…昔、ここで働いていたの」

工房の中には、太陽の光を浴びてキラキラと輝く、色とりどりのガラス製品が並んでいた。
まるで、『Mille Fiori』のミニチュアみたいだった。

私は、渉さんに全てを話した。
大学時代に付き合っていた、ガラス職人の彼のこと。
結婚の約束もしていたこと。

「彼の遺品なの。
工房の隅に残されていたこれを、ただただ見つめていたら…
ある日突然、見えたの。
彼が隣で笑っている、幸せな世界が。
きっと、この万華鏡に眠っていた不思議な力を、私の後悔が呼び覚ましてしまったんだと思う」

だから、私はこの店を始めた。
後悔に囚われた私と同じように、選択に迷う人たちの、少しでも力になれたら、と。
それは、私の贖罪だったのかもしれない。

「ずっと、怖かった…新しい一歩を踏み出すのが…。
私が幸せになったら、彼を忘れてしまうような気がして。
私が別の誰かを好きになったら、彼を裏切るような気がして…」

話し終えた私の肩を、渉さんは黙って引き寄せ、強く抱きしめてくれた。
彼の胸の中から、落ち着く心臓の音が聞こえる。

「辛かったな、柚。ずっと、独りで」

彼の優しい声が、頭の上から降ってくる。

「でも、それは違う。
君が幸せになることを、彼が望まないはずがない。
君が笑うことを、裏切りだなんて思うはずがない」

「……」

「君が彼のことを大切に思う気持ちと、俺が君を大切に思う気持ちは、両立できる。
過去も、今も、未来も、全部抱きしめて、俺と一緒に歩いてほしい」

『全部、抱きしめてあげなよ』

美依の言葉が、頭の中でこだました。そうだ。
この人は、本当に、私の全部を受け止めてくれる。

彼の言葉が、長年私を縛り付けていた透明な鎖を、粉々に砕いてくれた。
私は、忘れる必要なんてない。
彼の思い出も、この痛みも、全部私の一部。
その全てを、この人は受け止めてくれると言っている。

「渉さん…」

「うん」

「好き…。
あなたのことが、好きです」

やっと言えた。
ずっと、心の奥にしまい込んでいた、たった一つの、シンプルな言葉。

渉さんは、私の体を少しだけ離すと、涙で濡れた私の頬に、優しいキスを落とした。

その帰り道、私たちは月島静子さんに教えてもらった、静かな湖のほとりに来ていた。
夕日が湖面を金色に染めている。
私の手には、あの真鍮の万華鏡が握られていた。

「本当に、いいのか?」

渉さんが、私の顔を覗き込む。
私は、こくりと頷いた。

「ありがとう」

私は万華鏡に、そっと語りかけた。

「あなたがいたから、私は渉さんに出会えた。
でも、もう大丈夫。
これからは、自分の目で、自分の足で、未来を選んでいくから」

渉さんと二人、万華鏡を両手で持ち、静かに湖水へと沈める。

真鍮の筒は、最後の光をきらりと反射させると、ゆっくりと、ゆっくりと湖の底へと姿を消していった。
それは、過去への依存との、完全な決別だった。

数ヶ月後。
店の定休日、私は渉さんと一緒に、新しい雑貨の買い付けに来ていた。
二人で笑いながら、店の棚に並べるカップを選ぶ。
そんな何気ない時間が、たまらなく愛おしい。

「ねえ、渉さん。今度、新しいゲームの企画、聞せてくれる?」

「もちろん。最高のハッピーエンドを、考えてあるんだ。
…俺たちの、未来みたいにね」

そう言って笑う彼の隣で、私も心から笑った。

路地裏の小さな雑貨店で、私たちは、無限の選択肢の中から、たった一つの未来を、今、確かにその手で選び取ったのだ。

先日、美依が店に遊びに来て、渉さんと三人でお茶をした。

「もー、この二人!
幸せオーラが眩しくて、目が開けられないんですけどー!」

そう言って大げさに目を覆う彼女に、私たちは顔を見合わせて笑った。
彼女がいなかったら、私はまだ、一人で過去の闇にうずくまっていたかもしれない。

これからも、たくさんの選択が待っているだろう。
迷う日も、後悔する日もあるかもしれない。

でも、もう独りじゃない。

私には、論理的だけど誰より温かい心を持った彼と、太陽みたいに笑う親友がいる。

二人でなら、どんな未来も、きっと『Mille Fiori』
…千の花が咲き誇るような、彩り豊かな景色に変えていける。

窓の外では、いつの間にか雨は上がり、空には大きな虹がかかっていた。
私たちは、その七色の光の橋を、いつまでも見つめていた。

-fin-

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

可愛らしい人

はるきりょう
恋愛
「でも、ライアン様には、エレナ様がいらっしゃるのでは?」 「ああ、エレナね。よく勘違いされるんだけど、エレナとは婚約者でも何でもないんだ。ただの幼馴染み」 「それにあいつはひとりで生きていけるから」 女性ながらに剣術を学ぶエレナは可愛げがないという理由で、ほとんど婚約者同然の幼馴染から捨てられる。 けれど、 「エレナ嬢」 「なんでしょうか?」 「今日の夜会のパートナーはお決まりですか?」  その言葉でパートナー同伴の夜会に招待されていたことを思い出した。いつものとおりライアンと一緒に行くと思っていたので参加の返事を出していたのだ。 「……いいえ」  当日の欠席は著しく評価を下げる。今後、家庭教師として仕事をしていきたいと考えるのであれば、父親か兄に頼んででも行った方がいいだろう。 「よければ僕と一緒に行きませんか?」

有名俳優の妻

うちこ
恋愛
誰もが羨む結婚と遺伝子が欲しかった そこに愛はいらない

盗み聞き

凛子
恋愛
あ、そういうこと。

伝える前に振られてしまった私の恋

喜楽直人
恋愛
第一部:アーリーンの恋 母に連れられて行った王妃様とのお茶会の席を、ひとり抜け出したアーリーンは、幼馴染みと友人たちが歓談する場に出くわす。 そこで、ひとりの令息が婚約をしたのだと話し出した。 第二部:ジュディスの恋 王女がふたりいるフリーゼグリーン王国へ、十年ほど前に友好国となったコベット国から見合いの申し入れがあった。 周囲は皆、美しく愛らしい妹姫リリアーヌへのものだと思ったが、しかしそれは賢しらにも女性だてらに議会へ提案を申し入れるような姉姫ジュディスへのものであった。 「何故、私なのでしょうか。リリアーヌなら貴方の求婚に喜んで頷くでしょう」 誰よりもジュディスが一番、この求婚を訝しんでいた。 第三章:王太子の想い 友好国の王子からの求婚を受け入れ、そのまま攫われるようにしてコベット国へ移り住んで一年。 ジュディスはその手を取った選択は正しかったのか、揺れていた。 すれ違う婚約者同士の心が重なる日は来るのか。 コベット国のふたりの王子たちの恋模様

~春の国~片足の不自由な王妃様

クラゲ散歩
恋愛
春の暖かい陽気の中。色鮮やかな花が咲き乱れ。蝶が二人を祝福してるように。 春の国の王太子ジーク=スノーフレーク=スプリング(22)と侯爵令嬢ローズマリー=ローバー(18)が、丘の上にある小さな教会で愛を誓い。女神の祝福を受け夫婦になった。 街中を馬車で移動中。二人はずっと笑顔だった。 それを見た者は、相思相愛だと思っただろう。 しかし〜ここまでくるまでに、王太子が裏で動いていたのを知っているのはごくわずか。 花嫁は〜その笑顔の下でなにを思っているのだろうか??

お久しぶりです旦那様。そろそろ離婚ですか?

奏千歌
恋愛
[イヌネコ] 「奥様、旦那様がお見えです」 「はい?」 ベッドの上でゴロゴロしながら猫と戯れていると、侍女が部屋を訪れて告げたことだった。

降っても晴れても

凛子
恋愛
もう、限界なんです……

処理中です...