純愛短編集

わ太る

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喫茶店「まほろば」の片隅で、君と

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「はぁ……」
今日何度目かも分からないため息が、私の口からこぼれ落ちた。
佐倉葉月(さくら はづき)、26歳。出版社勤務の編集者。
午前九時から深夜まで、PCの画面とにらめっこする日々が当たり前になっていた。
目の前には、最終校了間近のゲラ用紙が山となって積まれ、電話の向こうからは担当作家の先生からの切羽詰まった声が響く。
そして、上司からの「まだか」という無言のプレッシャーが、常に背後から私を追い立てる。
心臓が締め付けられるような感覚に、思わず胸を掻き毟るように手を握る。

私の体は、まるで張り詰めた弦のように限界寸前だった。
最近は、特にそう感じる。
朝、鏡に映る自分の顔は、目の下のクマが濃く、生気を失っている。
昔はツヤツヤだったはずの黒髪は、今はすっかりパサついて、いつも適当に一つに束ねられているだけ。
服装も、動きやすさを重視した地味なものがほとんどで、仕事着と割り切ってはいるものの、もう少し華やかさがほしいと心のどこかで寂しく思っていた。

「はは…顔色、悪すぎない?」

鏡の中の私に対して、他人のようにそんなことを思ってしまう…自分のことなのに。
身長は平均よりやや低く、細身の私のこの体は、そんな重圧にいつまで耐えられるのだろう。
そんな漠然とした不安が、常に私の心の片隅に影を落としていた。

このままでは、本当に心が壊れてしまうかもしれない。
そんな切実な危機感を抱き、私は定時を過ぎても終わらない仕事から逃れるように、会社を飛び出した。
どこか、静かで、誰にも邪魔されず、何も考えずにいられる場所へ。
賑やかな大通りを避け、私は無意識に細い路地裏へと足を踏み入れた。
コンクリートの壁が続く薄暗い道は、人通りもまばらで、私の心細さを一層際立たせる。
そんな時、ふと視界の端に、ぽつりと温かい光が灯っているのを見つけた。

古びた木製の看板には、手書き風の優しい文字で「まほろば」と書かれている。
…喫茶店だろうか。
蔦が絡まる煉瓦の壁と、アンティークな装飾が施された重厚な木製の扉は、まるでこの場所だけが時間の流れから取り残されたかのような、独特の雰囲気を醸し出していた。
その温かい光と、どこか懐かしい佇まいに、私は吸い寄せられるように、その扉に手をかけた。

カラン、コロン。

扉を開けると、澄んだ鈴の音が店内に響いた。
お店に足を踏み入れると、外の喧騒が嘘のように遠のき、そこには別世界が広がっていた。
琥珀色の照明が優しく店内を照らし、壁には使い込まれたアンティークのカップやソーサーがずらりと並んでいる。
そして、耳に心地よいジャズの調べが、ゆったりと流れていて、まるで時間が止まったかのようだった。漂うコーヒーの芳醇な香りが、私の疲れた心をそっと撫でていく。

「いらっしゃいませ」

カウンターの奥から、穏やかで深みのある声が聞こえた。
顔を上げると、そこに立っていたのは、この店のマスターだろうか。

彼の第一印象は、「静謐」という言葉がぴったりだった。
細身だが、無駄のないしっかりとした体格。
少し癖のある黒髪は、額にかかり、その下の瞳は、深い色をしていて、吸い込まれそうな魅力を放っていた。
真っ白なシャツの上に、きっちりと結ばれたダークグリーンのエプロンが、彼の落ち着いた雰囲気に完璧に調和している。
口元は常に穏やかな弧を描いていて、その表情は、どんな客の心のざわめきをも鎮めてくれるような、不思議な魅力があった。
私の疲れた目に、彼の佇まいは、まるで一枚の美しい絵画のように映った。

「あの、一人なんですけど……」

声が震える。
緊張と、ようやくたどり着いた安堵が入り混じったような感情が、私の内側で渦巻いていた。

「ええ、どうぞ、お好きな席へ」

彼は、にこりと微笑み、奥の窓際にある二人掛けのテーブルを促した。
彼の横を通るときに、胸にある名札が目に入った。

水沢悠(みずさわ ゆう)。
それがきっと、彼の名前なのだろう。

私は、勧められた席に座り、深く腰掛けた。
外の世界の全てが、ここから遠く隔てられたように感じられ、胸の奥に張り詰めていたものが、少しずつ解けていくのを感じた。

メニューを広げると、そこには飾り気のないシンプルなページに、コーヒーの種類が並んでいた。
私は迷った末に、一番上に書かれていた「ブレンドコーヒー」を注文した。
マスターは私の注文を聞くと、無言で、しかし流れるような、一切の無駄がない手つきでコーヒー豆を挽き始めた。
ガリガリと心地よい音が店内に響き渡る。
その音さえも、私にとっては心地よいリズムとなり、疲弊した心にじんわりと染み渡る癒しだった。

しばらくして、目の前に置かれたカップからは、真っ白な湯気が立ち上り、深く、芳醇な香りがふわりと鼻腔をくすぐった。
恐る恐る一口含むと、深いコクとまろやかな苦みが口いっぱいに広がり、その後に続く穏やかな甘みが、喉の奥へと滑らかに落ちていく。

ああ、美味しい…こんなにも美味しいコーヒーを飲んだのは、いつぶりだろう。
いや、もしかしたら、人生で初めてかもしれない。

仕事のこと、人間関係のこと、未来への漠然とした不安。
どれもこれもが、この温かい一杯のコーヒーによって、少しずつ、まるで氷が溶けるように、私の心から消え去っていくような気がした。

マスターは、私がコーヒーを味わっている間も、決して話しかけてこない。
ただ、時折、ちらりと視線を寄越し、私の様子をうかがっているようだった。
その細やかな、押し付けがましくない気遣いが、今の私には何よりも心地よかった。

その日以来、「まほろば」は、私の秘密の隠れ家になった。
週に一度、木曜日の夜。仕事の定時が過ぎて、オフィスから抜け出すのがやっとの時間。
私は、疲弊しきった心と体を引きずって、決まって「まほろば」の扉を開ける。

初めて訪れた時に座った窓際の二人掛け席も落ち着くけれど、いつからかカウンター席が私の定位置になった。
マスターがコーヒー豆を挽き、丁寧にドリップする手元を眺めるのが好きだったのだ。
その一連の動作には、迷いや焦りが一切なく、まるで静かに瞑想しているかのようだった。
その無言の空間に身を置くことで、私の張り詰めた神経は緩み、不思議と心が落ち着いた。

マスターは、私が来店すると、いつもと同じ穏やかな笑顔で迎えてくれる。

「いらっしゃいませ、佐倉さん」

いつの間にか、私の名前を覚えてくれていた。
そのたびに、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じる。
彼にとって、私はただの一客ではなく、ちゃんと「佐倉葉月」として認識されている。
その事実が、凍てついた心を少しずつ溶かしていくようだった。

ある日のこと、私はいつものようにカウンター席に座っていた。
マスターが淹れてくれた、今日の気分にぴったりの深煎りコーヒーを前に、ぼんやりと窓の外を眺める。

その日の私は、いつも以上に疲弊していた。
担当している作家の原稿が、期日を過ぎても全く上がってこないのだ。
催促の電話もメールも繋がらず、このままだと、間違いなく締め切りを破ってしまう。
出版社にとって、これは死活問題だ。
私の頭の中は、真っ白になり、焦りと不安が、胃の奥でぐつぐつと煮詰まっていた。
目の前のコーヒーの香りでさえ、今日の私には心を落ち着かせてくれる力がなかった。

「佐倉さん、今日は一段と疲れているように見えますね」

マスターが、私の前に、小さな焼き菓子をそっと置いてくれた。
ほんのりバターの香りが食欲をそそる、可愛らしい星形のクッキーだった。
彼の言葉は、いつも控えめで、決して踏み込もうとはしないけれど、なぜか私の心には深く響く。

「これ、マスターが焼いたんですか?」

「ええ。疲れた時には、甘いものが一番ですから」

彼の声は、まるで温かい毛布のように、私の心を包み込む。
クッキーを一口食べると、サクサクとした軽やかな食感と、優しい甘さが口の中に広がり、張り詰めていた心が、少しだけ緩んだ。
この甘みが、今の私には何よりの救いだった。

「実は、担当の先生が、スランプに陥ってしまって……」

気づけば、私はマスターに、仕事の悩みを打ち明けていた。
普段、誰にも話せないような仕事の苦悩を、なぜか彼には話せてしまった。

彼は、黙って私の話を聞いてくれる。
相槌を打つこともなく、ただ、私の言葉を、一つ一つ丁寧に、そして真剣に受け止めてくれる。
その静かな視線が、私には何よりも心地よかった。

「その先生は、どんなお話を書いていらっしゃるんですか?」

私の話が終わると、マスターが静かに尋ねた。
その声は、いつもと変わらず穏やかで、私の心を落ち着かせる。

「えっと……先生の作品は、いつも読者の心に寄り添うような、温かい物語が多いんです。
特に、日常の中にある小さな幸せを見つけるのが得意な方で…。
だからこそ、今、彼が筆を執れないでいるのが、私には本当に理解できなくて…。
物語って、本当に難しいものですね」

こんなにも人の心を動かす物語を書ける人なのに、どうして急に書けなくなってしまうんだろう。
物語の持つ力は、時に人を救うけれど、時に人を縛り付け、残酷にもなるんだな…。

「なるほど。物語というのは、不思議な力を持っていますよね」

マスターは、カップを拭く手を止め、私の目を見た。
その瞳は、何かを深く考えるように揺れていた。
私の心の中を、全て見透かされているような気がして、少しだけ気恥ずかしくなった。

「ええ、そうですね。
でも、その先生は今、その『物語』の温かさを見失っているようで…。
どうしたら、もう一度、先生にその温かさを思い出してもらえるのか、私にはもう、手の施しようがなくて…」

「物語は、作者だけのものじゃない。
読者の心に届いて初めて、完成するものだと、僕は思っています」

マスターの言葉に、私ははっとした。
彼の言葉は、いつも私の凝り固まった思考を、優しく解きほぐしてくれる。

「例えば、このコーヒーも、ただの豆と水ではありません。
豆が育った土壌、摘み取られた手の温もり、焙煎されたときの炎の熱、そして、淹れる人の想い。
たくさんの『物語』を経て、一杯のコーヒーになっているんです」

彼は、カップに注がれた深みのあるコーヒーを指差した。
その指先まで、どこか優しさを湛えているように見えた。

「同じ豆でも、淹れる人やその日の気分によって、味が変わる。
それと同じように、物語も、読む人やそのときの状況によって、感じ方が変わる。
だからこそ、佐倉さんは、読者に届けるための『扉』を開いてあげるだけでいいのかもしれません」

「扉…ですか?」

「ええ。その扉の先には、読者がそれぞれの経験や感情を重ね合わせて、自分だけの『物語』を紡ぐ空間が広がっている。
完璧な答えを与える必要はない。
ただ、読者がその空間に入っていけるような、温かい『きっかけ』を与えてあげればいい。
そうすれば、あとは読者が、自分自身の『物語』をその世界に投影して、作品を完成させてくれるでしょう」

マスターの言葉は、まるで深い霧が晴れるように、私の心を明るく照らした。
私は、完璧な原稿を求めて、先生を追い詰めていたのではないか。
読者の心に「完璧な物語」を届けようとしすぎて、先生自身が身動きが取れなくなっていたのではないか。
私がすべきことは、先生に完璧を求めることではなく、先生が「扉」を開くための「きっかけ」を、そっと差し出してあげることだったのかもしれない。

「ありがとうございます、マスター。
なんだか、少し、見えてきた気がします」

私は、深々と頭を下げた。
マスターは、いつものように穏やかに微笑むだけだったが、その優しさが、私の胸に温かく響いた。
彼の言葉は、いつも私の心に、確かな光を灯してくれる。

数日後、私は職場にいた。
山口美依(やまぐち みい)、私の同僚である。
彼女は、ゆるふわウェーブの髪を揺らし、いつもニコニコと笑顔を絶やさない。
ほんわかとした雰囲気で、まるで春風のような人だ。
私より一つ年下だけど、仕事ぶりはとても真面目で、私をいつも励ましてくれる大切な存在だ。

「葉月さん、今日の締め切り、大丈夫そうですか?
でも、なんだか今日はいつもよりも顔色も良くなってるし、元気そうですね!」

美依が、私のデスクにそっとやってきた。
彼女は、いつもどこか天然で、抜けているように見えるけれど、実は人の心の機微によく気づく優しい子だ。
私が悩んでいるときには、さりげなく、しかし的確に声をかけてくれる。

「うん、なんとかなりそうよ、美依。
先生がね、新しいアイデアが浮かんだって連絡をくれたの。
私が、喫茶店のマスターの話をしたら、なんだか閃いたみたいで」

「え、よく話している『まほろば』のマスターのことですか?
すごい!マスターって、お話も上手なんですね!
葉月さんがそんなに元気になったのは、絶対、そこのマスターのおかげですね!」

美依は目を丸くして驚いた。
私は、マスターが語ってくれた「物語」の話を、美依にもかいつまんで話して聞かせた。
美依は、時折、

「へえー!」
「すごい!」

と感嘆の声を上げながら、熱心に耳を傾けてくれた。

「すごいですね、葉月さん。そんな素敵な人に出会えて。
私もその喫茶店、行ってみたいなぁ。今度、連れて行ってくださいよ!」

美依の言葉に、私は顔が熱くなるのを感じた。
確かに、マスター…悠さんの言葉は私に大きな気づきを与えてくれた。
そして、彼の優しい眼差しや、美味しいコーヒー、落ち着いた店の雰囲気…その全てが、今や私にとってかけがえのないものになっていた。
美依の真っ直ぐな言葉が、私の心の奥に秘めていた感情を、そっと引っ張り出すようだった。

それからというもの、私は仕事にも少しずつ活力を取り戻していった。
先生の原稿も順調に進み、無事に締め切りに間に合いそうだ。
私の心は、以前のように張り詰めることはなくなり、まるで『まほろば』で流れるジャズのように、ゆったりとしたリズムを刻むようになっていた。
仕事の効率も上がり、以前よりも充実した日々を送れるようになってきた。

そんなある日、いつものように『まほろば』を訪れた私に、悠さんが珍しく話しかけてきた。
私がカウンター席に座り、いつものブレンドを注文した直後のことだった。

「佐倉さん、もしよかったら、今度の休日に、うちの店で使っているアンティークのカップを仕入れに行くのですが、一緒にいかがですか?」

彼の誘いに、私の心臓が大きく跳ねた。
仕事以外の時間で、悠さんと会うなんて…。
想像もしていなかった展開に、戸惑いを隠せない。
彼の誘いが、ただの「店の手伝い」なのか、それとも、もっと別の意味があるのか…。
考えれば考えるほど、胸の奥が高鳴った。

「え、私ですか?でも、お店の仕入れ、お邪魔になるのでは……」

口ごもる私に、悠さんは穏やかに笑った。
その笑顔は、いつものように控えめながらも、どこか期待を含んでいるように見えたのは、私の思い過ごしだろうか。

「いいえ、佐倉さんはいつも熱心にうちのカップを見てくださいますから。
それに、一人で行くよりも、誰かと一緒の方が楽しいですし、佐倉さんの視点から、新しい発見があるかもしれませんからね」

彼の言葉に、私は胸の高鳴りが止まらないのを感じた。
これは、もしかして、デートのお誘いなのだろうか?
期待と不安が入り混じった複雑な感情が、私の心を支配する。

こんなチャンス、断る理由なんてない!

「はい、ぜひ!行かせていただきます!」

私の声は、自分でもわかるくらい弾んでいた。
その瞬間、悠さんの目元が、いつもより少しだけ緩んだように見えた。

約束の日、私は朝から落ち着かなかった。
いつもなら仕事着で済ませてしまうけれど、今日は少しだけお洒落をして出かけた。

美依に、

「たまには気分転換ですよ!」

と勧められた、柔らかな生成りのワンピースに、小さなパールのイヤリング。
控えめだけど、普段の私とは違う、少しだけ女性らしい装いだ。
こんなにも出かける準備に心を砕いたのは、本当に久しぶりだった。
鏡に映る自分の顔は、目の下のクマも薄くなり、以前よりもずっと明るい表情をしている。

悠さんは、店の前に、落ち着いたモスグリーンのセダンを停めて待っていた。
私を見つけると、彼はゆっくりと車から降りてきて、私のために助手席の扉を開けてくれる。
そのスマートな仕草に、またしても私の胸が高鳴った。

「おはようございます、佐倉さん。今日は、とても素敵ですね」

彼の言葉に、またしても私の頬が熱くなる。
悠さんの服装は、いつもとは違ってカジュアルだった。
ダークグレーのシャツに、チノパン。
それでも、彼の纏う落ち着いた雰囲気は変わらない。
むしろ、どこか洗練されていて、私には、とても魅力的に見えた。

車の中で、私たちは様々な話をした。
お店のこと、コーヒーのこと、そして、意外にも悠さん自身の生い立ちのこと。
彼は、昔から古いものが好きで、特に、使われ続けてきたものに宿る「物語」に惹かれていたという。
いつか、自分の好きなものに囲まれた店を持ちたいと、密かに夢見ていたと話してくれた。
彼の口から語られる「物語」は、コーヒー豆の話と同じくらい、奥深く、温かかった。
私は、彼の話に夢中になり、あっという間に時間が過ぎていく。

訪れたアンティークショップは、街の喧騒から離れた郊外にひっそりと佇んでいた。
店内は、まるで宝物庫のようだった。
様々な時代の、美しいカップやソーサー、陶器、小物などが所狭しと並べられている。
琥珀色の光が、ガラスや陶器の表面に反射し、きらきらと輝いている。
悠さんは、一つ一つの品物を、慈しむように丁寧に手に取り、その歴史に思いを馳せているようだった。

「このカップは、ヴィクトリア時代のものですね。
持ち手の部分のデザインが、当時の流行をよく表しています。
当時の貴婦人たちは、こんなカップで紅茶を嗜んでいたのでしょうね」

悠さんが、繊細な花模様が描かれた、小ぶりなカップを指差しながら説明してくれる。
彼の横顔は、真剣で、そして心から楽しそうで、その瞳はキラキラと輝いていた。

その姿を、私はじっと見つめていた。
彼の、喫茶店で見せる顔とは違う、子どものような純粋な好奇心に満ちた一面を見たような気がした。

「マスターは、本当にアンティークがお好きなんですね」

「ええ。古いものには、たくさんの『物語』が詰まっていますからね。
持ち主が変わり、時代が移り変わっても、その『物語』はそこに宿り続ける。
それを想像するのが、私は好きなんだと思います」

彼はそう言って、優しく微笑んだ。
その瞬間、私の心の中に、これまで感じたことのない温かい感情がじわじわと広がるのを感じた。
この人のことを、もっと知りたい。
この人の隣に、もっと長くいたい。

ああ、私は、この人が好きなんだ…。

胸の奥で、確かな感情が芽生えたことを自覚した。
それは、コーヒーの温かさとはまた違う、熱を帯びた、確かな温かさだった。

帰りの車の中、心地よい静寂が訪れた。
午後の柔らかい日差しが車内に差し込み、私は助手席で、悠さんの横顔を盗み見る。
ハンドルを握る彼の指先、ふと見える喉仏。
彼が、私にとって、ただの喫茶店のマスターではないこと。
それは、もう、否定できない事実だった。

「佐倉さん」

不意に、悠さんが私の名前を呼んだ。
私の心臓が大きく脈打つ。

「はい」

「この間、話してくれた先生の物語。
もし、完成したら、ぜひ読ませていただけませんか?」

「もちろん!完成したら、一番に悠さんに読んでほしいです。
悠さんのおかげで、先生も私も、前に進むことができましたから」

私の言葉に、悠はまた、穏やかに微笑んだ。
その笑顔は、どこか嬉しそうで、私の胸を温かくした。

それから、私たちの関係は、少しずつ変化していった。
週に一度の「まほろば」での時間は、私にとっての安らぎであると同時に、悠さんとの距離を縮める、大切な時間になっていった。

彼は、私が来店すると、私が何も言わなくても、その日の気分に合わせたコーヒーを出してくれるようになった。
私の仕事の進捗を尋ね、私が少しでも困っていると、さりげない言葉で励ましてくれた。
私も、彼が新しいブレンドを試していると聞けば、一番に試飲させてもらい、正直な感想を伝えた。
カウンターを挟んでの、何気ない会話が、私にとって何よりも貴重な時間になっていた。

そんなある日、私の仕事で予期せぬアクシデントが発生した。

担当作家の新作が、ついに校了を迎え、印刷所へデータを入稿した直後のことだった。
ホッと一息つく間もなく、印刷所から緊急の連絡が入ったのだ。

「佐倉さん、大変です!
カバーのデザインデータに致命的なミスが見つかりました!
このままでは、発売日に間に合いません!」

電話口からの、焦りに満ちた声。
私の頭の中は、一瞬で真っ白になった。
カバーデザインは、入稿前に何度も確認したはずだ。
まさか、こんな最終段階で…。

印刷のスケジュールの都合上、やり直すには莫大な費用がかかるか、あるいは発売日を延期するしかない。
発売日延期は、出版社にとって、そして先生にとっても、最も避けたい事態だ。

「そんな…!どうして今になって!」

私はデスクに突っ伏し、頭を抱えた。
これまでの苦労が全て無駄になるような絶望感に襲われる。
責任は、当然、私にある。上司からは厳しい叱責を受け、同僚たちも心配そうに私を見ていた。しかし、彼らにできることは限られている。私は、この問題を解決しなければならない。

その日の夜、私は「まほろば」の扉を開いた。
しかし、いつものような癒しを求める気分ではなかった。
心臓が鉛のように重く、体は震え、まともに立つことさえ辛かった。

店に入るなり、私はカウンター席に座り込み、メニューも見ずに、

「一番苦いコーヒーをください」

と、ほとんど絞り出すような声で言った。
悠さんは、私の様子を見て、いつもの穏やかな表情を少し曇らせた。

「佐倉さん、何かあったんですか?顔色が、ひどく悪いですよ」

彼の優しい声が、かえって私の心を締め付けた。
こんな情けない姿を、彼に見せるのは嫌だった。

「いえ、何でも…」

そう言いかけた時、私の目から、止めどなく涙が溢れ出した。
堪えていた感情が、一気に噴き出したのだ。
肩を震わせて泣き続ける私に、悠さんは何も言わず、ただそっと、温かいおしぼりを差し出してくれた。
その温かさが、私の荒れた心を、少しだけ落ち着かせてくれた。

「よかったら、話してください。
ここにいる間くらいは、無理しなくてもいいですから」

彼の声は、まるで私の心を優しく撫でるようだった。
私は、嗚咽混じりに、今日あったアクシデントの全てを彼に話した。
発売日延期の危機、自分の責任、どうすればいいのか分からない絶望感…。
悠は、ただ黙って私の話を聞いてくれた。
以前と同じように、何も言わず、ただ全てを受け止めてくれた。

話し終えた頃には、私の目の前に、湯気の立つ温かいカップが置かれていた。
先ほど注文した「一番苦いコーヒー」とは違う、ミルクと砂糖がたっぷり入った、甘いカフェオレだった。

「苦いコーヒーは、今の佐倉さんには、きっと辛いでしょうから」

彼の言葉に、また涙が溢れそうになった。
こんなにも私の心を理解してくれる人が、いるだろうか。

「あの、私、どうしたらいいんでしょう…。もう、何もかもが嫌になってしまって」

「佐倉さんは、その物語を、読者に届けたいですか?」

悠さんの問いに、私ははっと顔を上げた。

「はい、もちろん。先生が、魂を込めて書いた大切な物語です。絶対に、無事に届けたい」

「ならば、まだ、諦める必要はありません。問題は、必ず解決できます」

彼の言葉は、迷いのない、確固たる響きを持っていた。
私の心に、わずかな希望の光が灯る。

「でも、どうすれば……」

「今、できることを一つずつ、冷静に考えることです。
慌てて、余計なミスを増やしてしまわないように。
佐倉さんは、今までもたくさんの困難を乗り越えてきたのでしょう?
その力を、信じてください」

悠さんの言葉は、魔法のようだった。
彼の穏やかな眼差しに、私は少しずつ冷静さを取り戻していく。
そうだ、私は、これまでも一生懸命にやってきた。
きっと、この困難も乗り越えられるはずだ。

悠さんは、私の様子を見守るように、静かにコーヒーを淹れる作業に戻った。
その姿を見ていると、不思議と勇気が湧いてくるのを感じた。

「悠さん、ありがとうございます。私、頑張ってみます」

私は、カフェオレを飲み干し、静かに立ち上がった。
心の中の霧が、少しだけ晴れた気がした。

翌日、私は美依にも事情を話し、協力を仰いだ。

「ええっ!そんなことが!葉月さん、大丈夫!?私にできることなら何でも手伝いますよ!」

美依は、私の話を聞くと、目を大きく見開いて驚き、すぐに私の手を握ってくれた。
彼女の温かい手が、私の心を支えてくれる。

「美依、ありがとう。本当に助かるわ」

「ううん!私、葉月さんの担当している先生の作品、大好きだもん。絶対に、無事に発売させましょうね!」

美依の言葉に、私は深く感謝した。
彼女は、持ち前の明るさと、周りを気遣う優しさで、私を支えてくれた。
二人で協力し、印刷所やデザイナーと何度も交渉を重ね、徹夜で修正作業を行った。
幾度となく壁にぶつかりそうになったが、そのたびに悠さんの言葉を思い出し、「諦めない」と心に誓った。

そして、奇跡的に、発売日までに全ての修正を終え、無事に本を届けることができたのだ。
美依も、自分のことのように喜んでくれた。

「葉月さん、おめでとう!本当に大変でした!
私、もう、感動して泣いちゃいました!」

美依は、いつものように、ゆるふわウェーブの髪を揺らしながら、満面の笑顔で私を抱きしめた。
彼女の温かい抱擁は、私の心に深く染み渡る。

「ありがとう、美依。
これも、美依がいつも励ましてくれたおかげだよ。本当に助けられたわ」

私は、美依への感謝と、そして、もう一人の大切な人への感謝の気持ちでいっぱいだった。
あの夜、悠さんが私にかけてくれた言葉がなければ、私はきっと立ち直れなかっただろう。

発売後、私は完成した本を手に、「まほろば」を訪れた。
店に入ると、いつものようにジャズが流れ、コーヒーの香りが漂っている。
悠さんは、カウンターの奥で、静かにカップを磨いていた。

「悠さん、完成しました!」

私が声をかけると、悠はゆっくりと振り返り、その本を手に取った。
彼の瞳が、本のタイトルを丁寧に追う。

「『まほろばの光、心の羅針盤』…」

彼は、静かに本のタイトルを読み上げ、私を見た。
その瞳には、穏やかな光が宿っている。
そして、いつものように、口元に優しい弧を描いた。

「先生も、悠さんの言葉に救われたと、仰っていました。
私自身も、悠さんの言葉があったからこそ、あの困難を乗り越えることができました。
本当に、ありがとうございます」

悠さんは、何も言わずに、ただ、その本を慈しむように見つめていた。
そして、ゆっくりと顔を上げ、私に視線を向けた。

「おめでとうございます、佐倉さん。
あなたが、この物語を諦めなかったからこそ、こうして多くの人に届けることができた。
本当に、素晴らしいことです」

彼の言葉は、シンプルだけど、その中に込められた温かさと、深い信頼が、私の胸を締め付けられるような喜びでいっぱいになった。
彼の言葉が、私の努力を、そして私自身を、認めてくれているように感じたのだ。

「あの、もしよかったら、悠さんにも読んでほしいんです。
そして、その感想を、聞かせていただけませんか?」

私は、精一杯の勇気を振り絞って言った。
私の視線は、彼の瞳から離れない。

悠さんは、少し微笑んだ後、私の目の前に、いつものブレンドコーヒーを置いた。
しかし、今日のコーヒーは、いつにも増して、甘く、そして温かく感じられた。

「ええ、喜んで。この物語を、心ゆくまで味わわせていただきます。
そして、その感想を話すときは…」

彼は、ゆっくりと私の手を取り、指先をそっと撫でた。
私の全身に、電流のような熱が走る。

「ゆっくりと時間を取って、二人でコーヒーを飲みながら語り合いましょう。私の、大切な人として」

彼の言葉に、私は顔を上げた。
悠さんの瞳は、真っ直ぐに私を見つめている。
その視線に、私の心は高鳴り、全身が熱くなるのを感じた。
これは、紛れもない、未来への、そして私への、彼からの誘いだった。

「はい、ぜひ!」

私の返事に、悠さんは優しく微笑んだ。

傷ついた心を癒し、日常の小さな幸せを見つける。
この「まほろば」の片隅で、私と悠さんの、穏やかで心温まる大人の恋の物語が、今、ゆっくりと、そして確かに、始まろうとしていた。
コーヒーの香りが満ちる店内で、私は、彼の淹れてくれたコーヒーを一口、静かに味わった。
その甘やかな苦みは、まさに、この恋の始まりを告げる、希望に満ちた味だった。


–fin-


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