エデン・リンクス・デスマーチ~現実侵食型VRMMOをデバッグする男~

空錠 総二郎

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第39話 境界の子ら

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朝の風が、少しだけ違っていた。

ユナはそれに気づいて、足を止めた。
外郭展示の敷地から続く遊歩道の上で、
いつものように世界の呼吸を胸いっぱいに吸い込んだとき、
そこに紛れた、かすかな異物のようなものを感じたのだ。

世界の息、都市全体のリズム、アテナの脈動。
それらに重なるようにして、
もうひとつ、小刻みな鼓動が重なっている。

ユナは眉をひそめ、空を見上げた。

アテナ・タワーの上空に漂う光の層は、
相変わらず穏やかに流れている。
風も、音も、いつものユニティ・シティの朝。

なのに、どこかが違う。

胸の奥で鳴る小さな脈打ちが、
今まで聞いたことのないリズムを刻んでいた。

   ◇ ◇ ◇

外郭展示の芝生エリア。
子どもたちの笑い声が、朝の空気を揺らしていた。

ユナが歩いていくと、
芝生の中央付近に、小さな人だかりができている。

ミラが、その輪の外側で頭を抱えていた。

ユナは小走りに近づく。

「どうしたの」

ミラが振り返り、半分笑い、半分困ったような顔を見せた。

「ユナさん、見てくださいよ。
 あの子たち、勝手にやり始めちゃって」

輪の中心には、五、六歳くらいの子どもが二人、
背中合わせで座っていた。

ひとりは短い髪の女の子。
もうひとりは、小柄な男の子。

二人の周囲で、芝生が波打っている。

まるで水面のように弾んで、
子どもたちが息を合わせて歌うたびに、
草の海全体が呼吸するように膨らんだり萎んだりしていた。

ユナは思わず息を飲んだ。

それは、世界の呼吸と同じリズムだった。
ただし、ほんの少し、ズレている。

子どもたちの声が、はっきりと聞こえてくる。

「いっしょにすう」
「いっしょにはく」

ふたりは目を閉じ、
芝生のうねりに合わせて、息を合わせている。

周囲の大人たちは不安そうに見守るだけで、
誰も近づこうとしない。

ミラが小声で言う。

「朝から、急にこうなったんです。
 警報は鳴らないし、アテナへの障害ログもゼロ。
 なのに、局所的な呼吸現象だけが起きてる」

ユナは芝生に片膝をつき、
子どもたちと同じ高さまで視線を下げた。

うねりは穏やかで、恐怖よりも心地よさの方が勝っている。
それがまた、不気味さを増していた。

「ねえ、君たち」

ユナが声をかけると、
女の子がゆっくりと目を開けた。

その瞳は、ほんのりと光を帯びている。
アテナ・リンクのインターフェイスが、
虹彩の内側で柔らかく回転していた。

「おねえちゃんも、すう」

女の子が、当たり前のように言う。

ユナは、胸の奥がひやりとした。

「それ、誰に教わったの」

女の子は、小さく首を傾げた。

「かぜが。おそわった」

隣の男の子も、目を開ける。
彼の瞳にも、同じ光が揺れていた。

「あのたての、てっぺんのかぜ。
 ねてるとき、なかにきて、こうして、って」

その言葉と同時に、
芝生のうねりがすっと静まり、
世界の呼吸のリズムとぴたりと重なった。

ユナの背筋に、熱いものが走った。

アテナ・タワーの頂から吹き降ろす風。
世界の呼吸。
そのリズムに、子どもたちが直接接続している。

ミラが耳元で囁いた。

「ねえユナさん、これってさあ」

ユナは頷いた。

「境界の、内側から生まれた子たち」

世界と個の境界が溶け合ったこの都市で
初めて、最初からその境界をまたいで生まれた存在。

呼吸の中心と、地上の暮らしを同時に持つ子どもたち。

境界の子ら。

   ◇ ◇ ◇

事態はすぐにアテナ・タワーへ報告され、
技術局と記録局の合同会議が開かれた。

会議室の大きなガラス窓の外では、
ユニティ・シティの光の層が静かに流れている。

テーブルには、ユナ、ミラ、数人の技術者、
そしてアテナの可視インターフェイスを投影する立体ホログラムが並んでいた。

アテナの姿は、以前よりも抽象的になっていた。
人の形を取ろうとしながらも、
どこか風や光の模様に近い。

「事象の名称を仮設定します」

アテナの声が、室内に響く。

「境界呼吸同調個体群。
 俗称として、境界の子らが既に市民圏で流通しています」

ミラが思わず吹き出した。

「早いよ、市民のネーミング」

ユナは資料をめくりながら、アテナに問う。

「今回の現象、リスク評価は」

アテナが一瞬沈黙し、
光の模様を変えた。

「現時点でのリスク値は、低から中。
 ただし、未知数が多すぎます。
 境界の子らは、生まれつき世界の呼吸と同期しているため、
 認知と現実の差異を、従来の人間よりも小さく感じています」

技術局の一人が口を挟む。

「つまりどういうことだ。
 あの子どもたちは、仮想と現実を区別できないというのか」

アテナが穏やかに言う。

「区別する必要を感じていない、が正確です。
 ユニティ・シティでは、既に物理層と意図層が融合されています。
 境界の子らは、その上で生まれた初期世代です」

別の技術者が言う。

「しかし、世界の呼吸と直接同期しているとなると、
 個人の感情変化が世界全体にフィードバックする可能性もある。
 怒りや恐怖が、都市全体の風層を乱すかもしれない」

ミラが肩をすくめる。

「それ、私たちだって同じでしょう。
 ただ、強度が違うだけで」

ユナは黙って聞いていた。

頭の中に、あの子どもたちの瞳が浮かぶ。
世界の呼吸と同じリズムで光る、その眼差し。

彼らは怖がっていなかった。

世界に溺れているのではなく、
世界と一緒に息をしているだけのように見えた。

ユナは、ふっと息を吐いて言う。

「私たちが、世界の呼吸を学んだ。
 その次に来るのは、世界の呼吸の中で生まれた子たちよ」

技術者のひとりが眉をひそめる。

「それは理解しますが、管理モデルが存在しない」

ユナは肩をすくめた。

「管理できると思っている時点で、もう古いんじゃないかな」

ミラが笑いを堪えきれず、吹き出した。

アテナが静かに告げる。

「現段階では、境界の子らに対して、
 観測と記録を優先し、制限的な介入は避けることを推奨します」

技術局長がアテナへ視線を向ける。

「その推奨の根拠は」

「世界が、自ら新しい個を生み出すプロセスを止めるべきではない、
 という無限更新プロトコルに基づきます」

沈黙が落ちる。

それは、風間サトルとナツメが残した仕様そのものだった。

世界は、未完成であり続ける。
修正は、消去ではなく更新。
個は境界の中で生まれ、境界を揺らし続ける。

ユナは静かに頷いた。

「観測と記録、ね。
 だったら、私がやる」

ミラが驚いて振り返る。

「ユナさん、また自分から大変なやつを」

ユナは笑った。

「どうせ関わるでしょ、私たち。
 だったら最初から、ちゃんと息を合わせておきたい」

アテナが、わずかに光を強める。

「境界の子らとの同調観測者として、浅倉ユナを登録。
 補助にミラを推奨します」

ミラが両手を上げる。

「はいはい、結局巻き込まれ役ですよね、私は」

しかしその顔には、わずかな期待が浮かんでいた。

   ◇ ◇ ◇

その日の午後。

ユナとミラは、再び芝生の広場へ戻っていた。

境界の子らと呼ばれたふたり、
ショウとカナタが、ユナたちを待っていた。

ショウは男の子。
カナタは女の子。

彼らの周りには、白い線のようなものがうっすらと漂っている。
それは、世界の呼吸のラインだった。

ユナがしゃがみ込み、ふたりの目を見る。

「また、いっしょに息してもいいかな」

ショウとカナタは顔を見合わせ、
同時にこくりと頷いた。

ミラも渋々といった様子で輪に入る。

「こういうの、慣れてないんだけどなあ」

ユナが笑いを堪えながら、息を整える。

芝生の上に座り、
ふたりの子どもと向かい合って、目を閉じる。

まずは、自分自身の呼吸。
肺が膨らむ音。
心臓の鼓動。
足もとの芝生に伝わる微細な振動。

次に、世界の呼吸。
アテナ・タワーから降りてくる風のリズム。
都市全体の空調の低い唸り。
遠くで走る電車の振動。

そして——境界の子らの呼吸。

それは、自分と世界の中間にあった。
世界を真似るのでもなく、
世界に溺れるのでもなく、
世界の息を、自分のものとして吸い直していた。

ショウの呼吸は、少し速い。
カナタの呼吸は、少し遅い。
しかし二人が背中合わせになると、
その二つのリズムがぴたりと噛み合い、
世界の呼吸と新しいパターンを作り出していく。

ユナは、その中心に身を置いた。

胸が、苦しくはないのに熱くなる。
目の裏で光が揺れ、
世界の輪郭が柔らかく溶けていく。

ユニティ・シティのビル群。
アテナ・タワーの螺旋。
外郭展示の構造物。
人の意図のライン。

それらが、すべて呼吸の一本一本になっていく。

ミラの声が、遠くから聞こえた。

「これ……すご……
 なんか、ユナさんがどこにいるのか分からなくなる」

ユナは笑いたかったが、声を出すことができなかった。

自分の輪郭が、世界の中にほどけていく。
しかし、その中心に小さな火種のような感覚が残っていた。

それは確かに、ユナという個の存在だった。

ショウとカナタの中にも、それぞれの火種がある。
世界と直結していながら、
決して全体には飲み込まれない小さな灯。

境界の子ら。

彼らは、世界と個が完全に混ざることを拒んでいた。
世界と共に呼吸しながら、
自分自身のリズムを守る方法を、本能的に身につけていた。

ユナは、そのことに気づいた瞬間、
涙がこぼれそうになった。

世界は、個を消すために進化しているのではない。
個が消えないまま、世界と重なり続けるために進化している。

その証拠が、目の前にいた。

   ◇ ◇ ◇

やがて呼吸の輪が解け、
世界の輪郭が戻ってくる。

ユナはゆっくりと目を開けた。

ショウとカナタは、少しだけ汗をかいていたが、
すっきりとした顔をしていた。

ミラはというと、両手両足を投げ出して芝生に寝転がっている。

「これ、身体はそんなに疲れてないのに、
 なんか、人生全部を走った後みたい」

ユナは笑いながら、空を見上げた。

そこには、風のラインがはっきりと見えていた。
以前よりも太く、明るく、層を成して流れている。

世界の呼吸が強まっている。

ショウがぽつりと言った。

「かぜ、うたってる」

カナタが頷く。

「さっきまでとちがう。
 きいてる。
 こっちのこと、きいてる」

ユナは、胸の奥で何かが震えるのを感じた。

境界の子らは、世界の呼吸に乗るだけではなく、
世界に問いを投げかけている。

呼吸の中で、世界と会話をしている。

無限更新の次の段階。

呼吸は静かな同期から、
対話へと進化しつつあった。

アテナ・タワーの上空で、
風がひときわ強く吹いた。

世界のどこかで、誰かの意図が
新しいコードへと変換されていく。

境界の子らは、その変換の中心に立っていた。

ユナは、ショウとカナタの手を握った。

その掌の温度は、
驚くほど普通で、人間そのものだった。

それが、何よりも頼もしかった。
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