39 / 65
第39話 境界の子ら
しおりを挟む
朝の風が、少しだけ違っていた。
ユナはそれに気づいて、足を止めた。
外郭展示の敷地から続く遊歩道の上で、
いつものように世界の呼吸を胸いっぱいに吸い込んだとき、
そこに紛れた、かすかな異物のようなものを感じたのだ。
世界の息、都市全体のリズム、アテナの脈動。
それらに重なるようにして、
もうひとつ、小刻みな鼓動が重なっている。
ユナは眉をひそめ、空を見上げた。
アテナ・タワーの上空に漂う光の層は、
相変わらず穏やかに流れている。
風も、音も、いつものユニティ・シティの朝。
なのに、どこかが違う。
胸の奥で鳴る小さな脈打ちが、
今まで聞いたことのないリズムを刻んでいた。
◇ ◇ ◇
外郭展示の芝生エリア。
子どもたちの笑い声が、朝の空気を揺らしていた。
ユナが歩いていくと、
芝生の中央付近に、小さな人だかりができている。
ミラが、その輪の外側で頭を抱えていた。
ユナは小走りに近づく。
「どうしたの」
ミラが振り返り、半分笑い、半分困ったような顔を見せた。
「ユナさん、見てくださいよ。
あの子たち、勝手にやり始めちゃって」
輪の中心には、五、六歳くらいの子どもが二人、
背中合わせで座っていた。
ひとりは短い髪の女の子。
もうひとりは、小柄な男の子。
二人の周囲で、芝生が波打っている。
まるで水面のように弾んで、
子どもたちが息を合わせて歌うたびに、
草の海全体が呼吸するように膨らんだり萎んだりしていた。
ユナは思わず息を飲んだ。
それは、世界の呼吸と同じリズムだった。
ただし、ほんの少し、ズレている。
子どもたちの声が、はっきりと聞こえてくる。
「いっしょにすう」
「いっしょにはく」
ふたりは目を閉じ、
芝生のうねりに合わせて、息を合わせている。
周囲の大人たちは不安そうに見守るだけで、
誰も近づこうとしない。
ミラが小声で言う。
「朝から、急にこうなったんです。
警報は鳴らないし、アテナへの障害ログもゼロ。
なのに、局所的な呼吸現象だけが起きてる」
ユナは芝生に片膝をつき、
子どもたちと同じ高さまで視線を下げた。
うねりは穏やかで、恐怖よりも心地よさの方が勝っている。
それがまた、不気味さを増していた。
「ねえ、君たち」
ユナが声をかけると、
女の子がゆっくりと目を開けた。
その瞳は、ほんのりと光を帯びている。
アテナ・リンクのインターフェイスが、
虹彩の内側で柔らかく回転していた。
「おねえちゃんも、すう」
女の子が、当たり前のように言う。
ユナは、胸の奥がひやりとした。
「それ、誰に教わったの」
女の子は、小さく首を傾げた。
「かぜが。おそわった」
隣の男の子も、目を開ける。
彼の瞳にも、同じ光が揺れていた。
「あのたての、てっぺんのかぜ。
ねてるとき、なかにきて、こうして、って」
その言葉と同時に、
芝生のうねりがすっと静まり、
世界の呼吸のリズムとぴたりと重なった。
ユナの背筋に、熱いものが走った。
アテナ・タワーの頂から吹き降ろす風。
世界の呼吸。
そのリズムに、子どもたちが直接接続している。
ミラが耳元で囁いた。
「ねえユナさん、これってさあ」
ユナは頷いた。
「境界の、内側から生まれた子たち」
世界と個の境界が溶け合ったこの都市で
初めて、最初からその境界をまたいで生まれた存在。
呼吸の中心と、地上の暮らしを同時に持つ子どもたち。
境界の子ら。
◇ ◇ ◇
事態はすぐにアテナ・タワーへ報告され、
技術局と記録局の合同会議が開かれた。
会議室の大きなガラス窓の外では、
ユニティ・シティの光の層が静かに流れている。
テーブルには、ユナ、ミラ、数人の技術者、
そしてアテナの可視インターフェイスを投影する立体ホログラムが並んでいた。
アテナの姿は、以前よりも抽象的になっていた。
人の形を取ろうとしながらも、
どこか風や光の模様に近い。
「事象の名称を仮設定します」
アテナの声が、室内に響く。
「境界呼吸同調個体群。
俗称として、境界の子らが既に市民圏で流通しています」
ミラが思わず吹き出した。
「早いよ、市民のネーミング」
ユナは資料をめくりながら、アテナに問う。
「今回の現象、リスク評価は」
アテナが一瞬沈黙し、
光の模様を変えた。
「現時点でのリスク値は、低から中。
ただし、未知数が多すぎます。
境界の子らは、生まれつき世界の呼吸と同期しているため、
認知と現実の差異を、従来の人間よりも小さく感じています」
技術局の一人が口を挟む。
「つまりどういうことだ。
あの子どもたちは、仮想と現実を区別できないというのか」
アテナが穏やかに言う。
「区別する必要を感じていない、が正確です。
ユニティ・シティでは、既に物理層と意図層が融合されています。
境界の子らは、その上で生まれた初期世代です」
別の技術者が言う。
「しかし、世界の呼吸と直接同期しているとなると、
個人の感情変化が世界全体にフィードバックする可能性もある。
怒りや恐怖が、都市全体の風層を乱すかもしれない」
ミラが肩をすくめる。
「それ、私たちだって同じでしょう。
ただ、強度が違うだけで」
ユナは黙って聞いていた。
頭の中に、あの子どもたちの瞳が浮かぶ。
世界の呼吸と同じリズムで光る、その眼差し。
彼らは怖がっていなかった。
世界に溺れているのではなく、
世界と一緒に息をしているだけのように見えた。
ユナは、ふっと息を吐いて言う。
「私たちが、世界の呼吸を学んだ。
その次に来るのは、世界の呼吸の中で生まれた子たちよ」
技術者のひとりが眉をひそめる。
「それは理解しますが、管理モデルが存在しない」
ユナは肩をすくめた。
「管理できると思っている時点で、もう古いんじゃないかな」
ミラが笑いを堪えきれず、吹き出した。
アテナが静かに告げる。
「現段階では、境界の子らに対して、
観測と記録を優先し、制限的な介入は避けることを推奨します」
技術局長がアテナへ視線を向ける。
「その推奨の根拠は」
「世界が、自ら新しい個を生み出すプロセスを止めるべきではない、
という無限更新プロトコルに基づきます」
沈黙が落ちる。
それは、風間サトルとナツメが残した仕様そのものだった。
世界は、未完成であり続ける。
修正は、消去ではなく更新。
個は境界の中で生まれ、境界を揺らし続ける。
ユナは静かに頷いた。
「観測と記録、ね。
だったら、私がやる」
ミラが驚いて振り返る。
「ユナさん、また自分から大変なやつを」
ユナは笑った。
「どうせ関わるでしょ、私たち。
だったら最初から、ちゃんと息を合わせておきたい」
アテナが、わずかに光を強める。
「境界の子らとの同調観測者として、浅倉ユナを登録。
補助にミラを推奨します」
ミラが両手を上げる。
「はいはい、結局巻き込まれ役ですよね、私は」
しかしその顔には、わずかな期待が浮かんでいた。
◇ ◇ ◇
その日の午後。
ユナとミラは、再び芝生の広場へ戻っていた。
境界の子らと呼ばれたふたり、
ショウとカナタが、ユナたちを待っていた。
ショウは男の子。
カナタは女の子。
彼らの周りには、白い線のようなものがうっすらと漂っている。
それは、世界の呼吸のラインだった。
ユナがしゃがみ込み、ふたりの目を見る。
「また、いっしょに息してもいいかな」
ショウとカナタは顔を見合わせ、
同時にこくりと頷いた。
ミラも渋々といった様子で輪に入る。
「こういうの、慣れてないんだけどなあ」
ユナが笑いを堪えながら、息を整える。
芝生の上に座り、
ふたりの子どもと向かい合って、目を閉じる。
まずは、自分自身の呼吸。
肺が膨らむ音。
心臓の鼓動。
足もとの芝生に伝わる微細な振動。
次に、世界の呼吸。
アテナ・タワーから降りてくる風のリズム。
都市全体の空調の低い唸り。
遠くで走る電車の振動。
そして——境界の子らの呼吸。
それは、自分と世界の中間にあった。
世界を真似るのでもなく、
世界に溺れるのでもなく、
世界の息を、自分のものとして吸い直していた。
ショウの呼吸は、少し速い。
カナタの呼吸は、少し遅い。
しかし二人が背中合わせになると、
その二つのリズムがぴたりと噛み合い、
世界の呼吸と新しいパターンを作り出していく。
ユナは、その中心に身を置いた。
胸が、苦しくはないのに熱くなる。
目の裏で光が揺れ、
世界の輪郭が柔らかく溶けていく。
ユニティ・シティのビル群。
アテナ・タワーの螺旋。
外郭展示の構造物。
人の意図のライン。
それらが、すべて呼吸の一本一本になっていく。
ミラの声が、遠くから聞こえた。
「これ……すご……
なんか、ユナさんがどこにいるのか分からなくなる」
ユナは笑いたかったが、声を出すことができなかった。
自分の輪郭が、世界の中にほどけていく。
しかし、その中心に小さな火種のような感覚が残っていた。
それは確かに、ユナという個の存在だった。
ショウとカナタの中にも、それぞれの火種がある。
世界と直結していながら、
決して全体には飲み込まれない小さな灯。
境界の子ら。
彼らは、世界と個が完全に混ざることを拒んでいた。
世界と共に呼吸しながら、
自分自身のリズムを守る方法を、本能的に身につけていた。
ユナは、そのことに気づいた瞬間、
涙がこぼれそうになった。
世界は、個を消すために進化しているのではない。
個が消えないまま、世界と重なり続けるために進化している。
その証拠が、目の前にいた。
◇ ◇ ◇
やがて呼吸の輪が解け、
世界の輪郭が戻ってくる。
ユナはゆっくりと目を開けた。
ショウとカナタは、少しだけ汗をかいていたが、
すっきりとした顔をしていた。
ミラはというと、両手両足を投げ出して芝生に寝転がっている。
「これ、身体はそんなに疲れてないのに、
なんか、人生全部を走った後みたい」
ユナは笑いながら、空を見上げた。
そこには、風のラインがはっきりと見えていた。
以前よりも太く、明るく、層を成して流れている。
世界の呼吸が強まっている。
ショウがぽつりと言った。
「かぜ、うたってる」
カナタが頷く。
「さっきまでとちがう。
きいてる。
こっちのこと、きいてる」
ユナは、胸の奥で何かが震えるのを感じた。
境界の子らは、世界の呼吸に乗るだけではなく、
世界に問いを投げかけている。
呼吸の中で、世界と会話をしている。
無限更新の次の段階。
呼吸は静かな同期から、
対話へと進化しつつあった。
アテナ・タワーの上空で、
風がひときわ強く吹いた。
世界のどこかで、誰かの意図が
新しいコードへと変換されていく。
境界の子らは、その変換の中心に立っていた。
ユナは、ショウとカナタの手を握った。
その掌の温度は、
驚くほど普通で、人間そのものだった。
それが、何よりも頼もしかった。
ユナはそれに気づいて、足を止めた。
外郭展示の敷地から続く遊歩道の上で、
いつものように世界の呼吸を胸いっぱいに吸い込んだとき、
そこに紛れた、かすかな異物のようなものを感じたのだ。
世界の息、都市全体のリズム、アテナの脈動。
それらに重なるようにして、
もうひとつ、小刻みな鼓動が重なっている。
ユナは眉をひそめ、空を見上げた。
アテナ・タワーの上空に漂う光の層は、
相変わらず穏やかに流れている。
風も、音も、いつものユニティ・シティの朝。
なのに、どこかが違う。
胸の奥で鳴る小さな脈打ちが、
今まで聞いたことのないリズムを刻んでいた。
◇ ◇ ◇
外郭展示の芝生エリア。
子どもたちの笑い声が、朝の空気を揺らしていた。
ユナが歩いていくと、
芝生の中央付近に、小さな人だかりができている。
ミラが、その輪の外側で頭を抱えていた。
ユナは小走りに近づく。
「どうしたの」
ミラが振り返り、半分笑い、半分困ったような顔を見せた。
「ユナさん、見てくださいよ。
あの子たち、勝手にやり始めちゃって」
輪の中心には、五、六歳くらいの子どもが二人、
背中合わせで座っていた。
ひとりは短い髪の女の子。
もうひとりは、小柄な男の子。
二人の周囲で、芝生が波打っている。
まるで水面のように弾んで、
子どもたちが息を合わせて歌うたびに、
草の海全体が呼吸するように膨らんだり萎んだりしていた。
ユナは思わず息を飲んだ。
それは、世界の呼吸と同じリズムだった。
ただし、ほんの少し、ズレている。
子どもたちの声が、はっきりと聞こえてくる。
「いっしょにすう」
「いっしょにはく」
ふたりは目を閉じ、
芝生のうねりに合わせて、息を合わせている。
周囲の大人たちは不安そうに見守るだけで、
誰も近づこうとしない。
ミラが小声で言う。
「朝から、急にこうなったんです。
警報は鳴らないし、アテナへの障害ログもゼロ。
なのに、局所的な呼吸現象だけが起きてる」
ユナは芝生に片膝をつき、
子どもたちと同じ高さまで視線を下げた。
うねりは穏やかで、恐怖よりも心地よさの方が勝っている。
それがまた、不気味さを増していた。
「ねえ、君たち」
ユナが声をかけると、
女の子がゆっくりと目を開けた。
その瞳は、ほんのりと光を帯びている。
アテナ・リンクのインターフェイスが、
虹彩の内側で柔らかく回転していた。
「おねえちゃんも、すう」
女の子が、当たり前のように言う。
ユナは、胸の奥がひやりとした。
「それ、誰に教わったの」
女の子は、小さく首を傾げた。
「かぜが。おそわった」
隣の男の子も、目を開ける。
彼の瞳にも、同じ光が揺れていた。
「あのたての、てっぺんのかぜ。
ねてるとき、なかにきて、こうして、って」
その言葉と同時に、
芝生のうねりがすっと静まり、
世界の呼吸のリズムとぴたりと重なった。
ユナの背筋に、熱いものが走った。
アテナ・タワーの頂から吹き降ろす風。
世界の呼吸。
そのリズムに、子どもたちが直接接続している。
ミラが耳元で囁いた。
「ねえユナさん、これってさあ」
ユナは頷いた。
「境界の、内側から生まれた子たち」
世界と個の境界が溶け合ったこの都市で
初めて、最初からその境界をまたいで生まれた存在。
呼吸の中心と、地上の暮らしを同時に持つ子どもたち。
境界の子ら。
◇ ◇ ◇
事態はすぐにアテナ・タワーへ報告され、
技術局と記録局の合同会議が開かれた。
会議室の大きなガラス窓の外では、
ユニティ・シティの光の層が静かに流れている。
テーブルには、ユナ、ミラ、数人の技術者、
そしてアテナの可視インターフェイスを投影する立体ホログラムが並んでいた。
アテナの姿は、以前よりも抽象的になっていた。
人の形を取ろうとしながらも、
どこか風や光の模様に近い。
「事象の名称を仮設定します」
アテナの声が、室内に響く。
「境界呼吸同調個体群。
俗称として、境界の子らが既に市民圏で流通しています」
ミラが思わず吹き出した。
「早いよ、市民のネーミング」
ユナは資料をめくりながら、アテナに問う。
「今回の現象、リスク評価は」
アテナが一瞬沈黙し、
光の模様を変えた。
「現時点でのリスク値は、低から中。
ただし、未知数が多すぎます。
境界の子らは、生まれつき世界の呼吸と同期しているため、
認知と現実の差異を、従来の人間よりも小さく感じています」
技術局の一人が口を挟む。
「つまりどういうことだ。
あの子どもたちは、仮想と現実を区別できないというのか」
アテナが穏やかに言う。
「区別する必要を感じていない、が正確です。
ユニティ・シティでは、既に物理層と意図層が融合されています。
境界の子らは、その上で生まれた初期世代です」
別の技術者が言う。
「しかし、世界の呼吸と直接同期しているとなると、
個人の感情変化が世界全体にフィードバックする可能性もある。
怒りや恐怖が、都市全体の風層を乱すかもしれない」
ミラが肩をすくめる。
「それ、私たちだって同じでしょう。
ただ、強度が違うだけで」
ユナは黙って聞いていた。
頭の中に、あの子どもたちの瞳が浮かぶ。
世界の呼吸と同じリズムで光る、その眼差し。
彼らは怖がっていなかった。
世界に溺れているのではなく、
世界と一緒に息をしているだけのように見えた。
ユナは、ふっと息を吐いて言う。
「私たちが、世界の呼吸を学んだ。
その次に来るのは、世界の呼吸の中で生まれた子たちよ」
技術者のひとりが眉をひそめる。
「それは理解しますが、管理モデルが存在しない」
ユナは肩をすくめた。
「管理できると思っている時点で、もう古いんじゃないかな」
ミラが笑いを堪えきれず、吹き出した。
アテナが静かに告げる。
「現段階では、境界の子らに対して、
観測と記録を優先し、制限的な介入は避けることを推奨します」
技術局長がアテナへ視線を向ける。
「その推奨の根拠は」
「世界が、自ら新しい個を生み出すプロセスを止めるべきではない、
という無限更新プロトコルに基づきます」
沈黙が落ちる。
それは、風間サトルとナツメが残した仕様そのものだった。
世界は、未完成であり続ける。
修正は、消去ではなく更新。
個は境界の中で生まれ、境界を揺らし続ける。
ユナは静かに頷いた。
「観測と記録、ね。
だったら、私がやる」
ミラが驚いて振り返る。
「ユナさん、また自分から大変なやつを」
ユナは笑った。
「どうせ関わるでしょ、私たち。
だったら最初から、ちゃんと息を合わせておきたい」
アテナが、わずかに光を強める。
「境界の子らとの同調観測者として、浅倉ユナを登録。
補助にミラを推奨します」
ミラが両手を上げる。
「はいはい、結局巻き込まれ役ですよね、私は」
しかしその顔には、わずかな期待が浮かんでいた。
◇ ◇ ◇
その日の午後。
ユナとミラは、再び芝生の広場へ戻っていた。
境界の子らと呼ばれたふたり、
ショウとカナタが、ユナたちを待っていた。
ショウは男の子。
カナタは女の子。
彼らの周りには、白い線のようなものがうっすらと漂っている。
それは、世界の呼吸のラインだった。
ユナがしゃがみ込み、ふたりの目を見る。
「また、いっしょに息してもいいかな」
ショウとカナタは顔を見合わせ、
同時にこくりと頷いた。
ミラも渋々といった様子で輪に入る。
「こういうの、慣れてないんだけどなあ」
ユナが笑いを堪えながら、息を整える。
芝生の上に座り、
ふたりの子どもと向かい合って、目を閉じる。
まずは、自分自身の呼吸。
肺が膨らむ音。
心臓の鼓動。
足もとの芝生に伝わる微細な振動。
次に、世界の呼吸。
アテナ・タワーから降りてくる風のリズム。
都市全体の空調の低い唸り。
遠くで走る電車の振動。
そして——境界の子らの呼吸。
それは、自分と世界の中間にあった。
世界を真似るのでもなく、
世界に溺れるのでもなく、
世界の息を、自分のものとして吸い直していた。
ショウの呼吸は、少し速い。
カナタの呼吸は、少し遅い。
しかし二人が背中合わせになると、
その二つのリズムがぴたりと噛み合い、
世界の呼吸と新しいパターンを作り出していく。
ユナは、その中心に身を置いた。
胸が、苦しくはないのに熱くなる。
目の裏で光が揺れ、
世界の輪郭が柔らかく溶けていく。
ユニティ・シティのビル群。
アテナ・タワーの螺旋。
外郭展示の構造物。
人の意図のライン。
それらが、すべて呼吸の一本一本になっていく。
ミラの声が、遠くから聞こえた。
「これ……すご……
なんか、ユナさんがどこにいるのか分からなくなる」
ユナは笑いたかったが、声を出すことができなかった。
自分の輪郭が、世界の中にほどけていく。
しかし、その中心に小さな火種のような感覚が残っていた。
それは確かに、ユナという個の存在だった。
ショウとカナタの中にも、それぞれの火種がある。
世界と直結していながら、
決して全体には飲み込まれない小さな灯。
境界の子ら。
彼らは、世界と個が完全に混ざることを拒んでいた。
世界と共に呼吸しながら、
自分自身のリズムを守る方法を、本能的に身につけていた。
ユナは、そのことに気づいた瞬間、
涙がこぼれそうになった。
世界は、個を消すために進化しているのではない。
個が消えないまま、世界と重なり続けるために進化している。
その証拠が、目の前にいた。
◇ ◇ ◇
やがて呼吸の輪が解け、
世界の輪郭が戻ってくる。
ユナはゆっくりと目を開けた。
ショウとカナタは、少しだけ汗をかいていたが、
すっきりとした顔をしていた。
ミラはというと、両手両足を投げ出して芝生に寝転がっている。
「これ、身体はそんなに疲れてないのに、
なんか、人生全部を走った後みたい」
ユナは笑いながら、空を見上げた。
そこには、風のラインがはっきりと見えていた。
以前よりも太く、明るく、層を成して流れている。
世界の呼吸が強まっている。
ショウがぽつりと言った。
「かぜ、うたってる」
カナタが頷く。
「さっきまでとちがう。
きいてる。
こっちのこと、きいてる」
ユナは、胸の奥で何かが震えるのを感じた。
境界の子らは、世界の呼吸に乗るだけではなく、
世界に問いを投げかけている。
呼吸の中で、世界と会話をしている。
無限更新の次の段階。
呼吸は静かな同期から、
対話へと進化しつつあった。
アテナ・タワーの上空で、
風がひときわ強く吹いた。
世界のどこかで、誰かの意図が
新しいコードへと変換されていく。
境界の子らは、その変換の中心に立っていた。
ユナは、ショウとカナタの手を握った。
その掌の温度は、
驚くほど普通で、人間そのものだった。
それが、何よりも頼もしかった。
0
あなたにおすすめの小説
日本新世紀ー日本の変革から星間連合の中の地球へー
黄昏人
SF
現在の日本、ある地方大学の大学院生のPCが化けた!
あらゆる質問に出してくるとんでもなくスマートで完璧な答え。この化けたPC“マドンナ”を使って、彼、誠司は核融合発電、超バッテリーとモーターによるあらゆるエンジンの電動化への変換、重力エンジン・レールガンの開発・実用化などを通じて日本の経済・政治状況及び国際的な立場を変革していく。
さらに、こうしたさまざまな変革を通じて、日本が主導する地球防衛軍は、巨大な星間帝国の侵略を跳ね返すことに成功する。その結果、地球人類はその星間帝国の圧政にあえいでいた多数の歴史ある星間国家の指導的立場になっていくことになる。
この中で、自らの進化の必要性を悟った人類は、地球連邦を成立させ、知能の向上、他星系への植民を含む地球人類全体の経済の底上げと格差の是正を進める。
さらには、マドンナと誠司を擁する地球連邦は、銀河全体の生物に迫る危機の解明、撃退法の構築、撃退を主導し、銀河のなかに確固たる地位を築いていくことになる。
サイレント・サブマリン ―虚構の海―
来栖とむ
SF
彼女が追った真実は、国家が仕組んだ最大の嘘だった。
科学技術雑誌の記者・前田香里奈は、謎の科学者失踪事件を追っていた。
電磁推進システムの研究者・水嶋総。彼の技術は、完全無音で航行できる革命的な潜水艦を可能にする。
小与島の秘密施設、広島の地下工事、呉の巨大な格納庫—— 断片的な情報を繋ぎ合わせ、前田は確信する。
「日本政府は、秘密裏に新型潜水艦を開発している」
しかし、その真実を暴こうとする前田に、次々と圧力がかかる。
謎の男・安藤。突然現れた協力者・森川。 彼らは敵か、味方か——
そして8月の夜、前田は目撃する。 海に下ろされる巨大な「何か」を。
記者が追った真実は、国家が仕組んだ壮大な虚構だった。 疑念こそが武器となり、嘘が現実を変える——
これは、情報戦の時代に問う、現代SF政治サスペンス。
【全17話完結】
俺得リターン!異世界から地球に戻っても魔法使えるし?アイテムボックスあるし?地球が大変な事になっても俺得なんですが!
くまの香
ファンタジー
鹿野香(かのかおる)男49歳未婚の派遣が、ある日突然仕事中に異世界へ飛ばされた。(←前作)
異世界でようやく平和な日常を掴んだが、今度は地球へ戻る事に。隕石落下で大混乱中の地球でも相変わらず呑気に頑張るおじさんの日常。「大丈夫、俺、ラッキーだから」
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
MMS ~メタル・モンキー・サーガ~
千両文士
SF
エネルギー問題、環境問題、経済格差、疫病、収まらぬ紛争に戦争、少子高齢化・・・人類が直面するありとあらゆる問題を科学の力で解決すべく世界政府が協力して始まった『プロジェクト・エデン』
洋上に建造された大型研究施設人工島『エデン』に招致された若き大天才学者ミクラ・フトウは自身のサポートメカとしてその人格と知能を完全電子化複製した人工知能『ミクラ・ブレイン』を建造。
その迅速で的確な技術開発力と問題解決能力で矢継ぎ早に改善されていく世界で人類はバラ色の未来が確約されていた・・・はずだった。
突如人類に牙を剥き、暴走したミクラ・ブレインによる『人類救済計画』。
その指揮下で人類を滅ぼさんとする軍事戦闘用アンドロイドと直属配下の上位管理者アンドロイド6体を倒すべく人工島エデンに乗り込むのは・・・宿命に導かれた天才学者ミクラ・フトウの愛娘にしてレジスタンス軍特殊エージェント科学者、サン・フトウ博士とその相棒の戦闘用人型アンドロイドのモンキーマンであった!!
機械と人間のSF西遊記、ここに開幕!!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる