エデン・リンクス・デスマーチ~現実侵食型VRMMOをデバッグする男~

空錠 総二郎

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第40話 創世層の亀裂

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朝焼けが《ユニティ・シティ》を包んでいた。
 東の空から差し込む光は、もうただの日光ではない。
 大気の粒子が微かに光り、風が通るたびに淡い音色が生まれる。
 都市そのものが、目覚めの歌を口ずさんでいるようだった。

 リオはアテナ・タワーの展望デッキに立ち、足元に広がる街並みを見下ろしていた。
 どこまでも続く建造物の群れは、かつての再構築都市とは表情を変えている。
 直線のビルに混じって、有機的な曲線を描く塔、木々のように枝分かれした歩道、空中を漂うように伸びる透明な通路。
 すべてが、人の意図と世界の自律進化が混ざり合って生まれた、新しい現実のかたちだった。

 彼は深く息を吸い込み、胸の中に流れ込んでくる情報の波に身を委ねる。
 観測者として登録されてから、彼の感覚は世界と半分つながっていた。
 目で見る風景の裏側に、データの流れが見える。
 耳で聞く風の音の奥に、無数の意図と、まだ言葉にならない祈りが聞こえる。

 それは、圧倒的な情報量だった。
 けれど、不思議と苦しくはない。
 世界の呼吸に、自分の鼓動が重なっていく。
 ナツメがここへ辿り着く直前まで味わい続けていた感覚が、今は自分のものになっているのだと、リオはぼんやりと理解していた。

   ◇ ◇ ◇

 アテナ・タワー中枢フロア。
 量子コアの周囲を取り巻く円形のホールには、光の帯が渦を巻いていた。
 《E.L.INFINITY》の自律更新ログが、常に書き換えられ続けている。

《GLOBAL_STATUS:安定稼働》
《更新サイクル:無限ループ》
《観測者モード:全体分散》

 ホログラムを眺めながら、リオはひとりごちた。

「安定、ね……。どう見ても、安定って字面がいちばん似合わない動きしてるけどな」

 端末を軽くタップする。
 世界全体の意図分布が球体モデルとなって現れ、表面に浮かぶ光点が一斉に瞬いた。
 それは都市だけではなく、海や山、電力網や気象、さらには夢層に至るまで、あらゆる層の情報が結びついた全体像だった。

 ある地点では、新しい街路樹の配置が議論されている。
 別の地点では、風の流れと発電効率をめぐる調整案が浮かんでいる。
 遠く離れた地域では、かつて存在したはずの海岸線を再現したいという集団意図が芽生え、仮想と現実の境界に波紋を生んでいる。

 すべてが、更新中。
 すべてが、試験運用中。
 世界は、永遠のベータ版として走り続けていた。

「それでも、止まらないなら──それでいい」

 リオが呟いたそのとき、コアの光が一瞬だけ揺らいだ。

《微弱異常検知》
《ソース:創世層(ジェネシスレイヤー)》

「創世層……?」

 聞き慣れないタグに、リオは眉をひそめる。
 《E.L.INFINITY》のモード遷移ログを遡ると、数日前に自動付与された項目が見つかった。

《PHASE2:GENESIS 起動》
《追加レイヤー:創世層》
《説明:人の意図と世界の自律進化が交差する境界》

「なるほど。世界が自分で、自分のルールを書き換えるための層……か」

 言葉にした瞬間、背筋に冷たい感覚が走った。
 世界が自律的に進化すること自体は、ここに来るまでの流れで織り込み済みだ。
 ナツメも、サトルも、それを前提にコードを紡いでいた。

 だが、創世層という名には、別の意味が含まれている。
 創る権利、護る責任、そして──壊し得る力。

「創世層の異常、か……。保守担当は、さすがに俺なんだろうな」

 リオは端末を閉じ、コアの中心に向き直った。

   ◇ ◇ ◇

 創世層へのリンクは、通常のデバッグモードとはまるで別物だった。
 従来の仮想アクセスが、あくまで現実層の模写であったのに対し、創世層は逆だった。
 ここで起きた変化が、現実にじわじわと浸透していく。

 接続プロンプトが、意識の背後に浮かぶ。

《アクセス要求:創世層》
《観測者権限:リオ・ハナブサ》
《モード:観測兼提案》

「提案……ね。採用されるとは限らないってことか」

 リオは、どこかで聞き覚えのある口調を思い出し、苦笑した。
 仕様書の片隅には、サトルの走り書きがあったはずだ。

 世界は投票システムではない。
 だが、意図は必ずしも全て採用されない。
 更新とは、選び続ける行為なのだから。

「まあ、そのくらいでちょうどいい」

 覚悟を決めて、彼は接続を承認した。

   ◇ ◇ ◇

 次の瞬間、視界が反転した。

 足元が消え、上下の感覚がなくなる。
 重力も温度も匂いも、すべてが意味を失い、代わりに膨大な情報の粒が視界いっぱいに広がった。

 光の線が、複雑に絡み合った網を形成している。
 その一本一本が、誰かの意図だった。
 何かを作りたい、直したい、変えたい、守りたい──言葉にならない衝動が、ただの数値や文字列ではなく、色や形、音となって漂っている。

 その網目の奥で、さらに大きな構造が蠢いていた。
 都市全体のレイアウトを塗り替えようとするような巨大な意思。
 海を別の場所に移動させ、大陸の形すら組み替えようとする図面のようなビジョン。
 そこには、人間だけではない意図も混じっていた。
 風の流れ、山のうねり、深海で揺れる潮の鼓動。
 自然の側から見た世界の姿が、創世層の中で、人の願いと溶け合っていた。

「……すごいな、こりゃ」

 声に出した途端、その言葉が情報の粒として周囲に拡散する。
 創世層では、全ての発言が、意図として世界に刻まれる。
 不用意な一言が、どこかの現実の形を変えてしまう可能性すらあった。

 リオは慎重に意識を制御しながら、網の流れを追った。
 そして、すぐに気づいた。

 一箇所だけ、明らかに異質な揺らぎがある。

 他の意図が滑らかなリズムで流れているのに対し、そこだけがノイズの塊のようだった。
 色彩も、音も、形も、すべてが不安定。
 それでいて、確かな中心を持つ強烈な一点。

《創世層ノード:GE-0》
《状態:過剰進化》
《警告:現実層への影響が加速中》

「GE……ジェネシス・ノード、ゼロか」

 アテナの補助プロセスが、意識の裏で淡く囁く。

《GE-0は、創世層が自律生成した最初のノードです》
《初期定義:まだ存在しない現実のための仮領域》

「まだ存在しない現実……?」

《現在、GE-0は予定を超えて膨張しています》
《このまま放置すると、現実層と夢層を巻き込む形で再構築を発生させる可能性があります》

 そこまで聞いて、リオは息を呑んだ。

「要するに、世界がもう一度、大きく塗り替わる可能性があるってことか」

 ナツメが命をかけてつなぎ直した現実。
 リュシオンが物語として記録した世界。
 祈りと風が歌に変わり、人々がようやく、自分たちの足で歩き始めた新しい朝。

 その全てを、創世層は再び書き換え得る。

 それは、終わりではないだろう。
 だが、今ここにある世界から見れば、ひとつの「死」に近い。

「世界が自分で自分を作り直すのは、仕様の範囲内……だとしてもさ」

 リオは、あえて口元を歪めた。

「今すぐ全部やり直しって言われても、納得できるかよ」

 その言葉が、創世層に波紋を広げる。
 ノード群の色が一瞬だけ変わり、GE-0の揺らぎがわずかに収束した。

 応答があったのだ。

   ◇ ◇ ◇

『リオ』

 不意に、懐かしい声が辺りに満ちた。
 音ではない。
 意識に染み込んでくるような感覚。

 ナツメだった。

『来たのね。ここまで』

「主任……」

 振り向いても、姿は見えない。
 ただ、創世層全体がどこか、笑っているように感じられた。

「ここが、あんたの……今の居場所か」

『居場所、というよりは、広がりね。私も世界の一部になったみたいなものだし』

 肩をすくめるような気配が、情報の粒に混じって伝わってくる。
 変わらない、とリオは思った。
 人ではなくなっても、浅倉ナツメという人格は、ちゃんとここにいる。

「GE-0、暴れてるぞ。理由は分かるか」

『ええ。だいたい想像はつく』

 創世層の中で、ひとつの光が強く輝いた。
 GE-0。
 まだ誰も見たことのない、未来の現実のたまご。

『世界はね、自分がどこまで変わり得るかを、試したくなるのよ。
 人間も同じでしょう?』

「まあ、否定はしないけどさ」

『でも、忘れちゃいけないの。
 試したい、変わりたいという欲求と、今ここにある現実を守りたいという意図は、いつだって同時に存在する。
 どちらか一方だけを正しいと決めた瞬間に、この世界はまた静止してしまう』

「じゃあ、どうする。ノードを止めるのか、進ませるのか」

 問いかけと同時に、GE-0の揺らぎが激しくなる。
 まるで、自分自身の運命を聞いているようだった。

 しばしの沈黙のあと、ナツメの声が落ちてきた。

『決めるのは、観測者よ』

 リオは目を閉じた。
 観測者なき世界。
 そのはずだった。

 世界はもう、自分で自分を見て、自分を記録し、自分を歌っている。
 それでもなお、自分のような役割が再び必要だと言うのか。

「観測者なき世界に、観測者を戻すってことか」

『違うわ。
 世界はもう、観測者に頼ってはいない。
 でも、選択を先送りにすることはできても、永遠に避け続けることはできない。
 そのときに、最初の一歩を踏み出す誰かが必要になる』

「最初の一歩……ね」

『それは、私でもサトルでもない。
 ここまでたどり着いた、今の時代の意図でなきゃいけない』

 静かな言葉だった。
 けれど、その重みは、創世層全体を震わせるほどに強かった。

 リオは、ゆっくりと息を吐いた。

「世界に、もう一段階大きな再構築を許可するかどうか。
 そのきっかけを、俺に決めろって話か」

『そう。
 ただし、忘れないで。
 許可か拒否かの二択じゃない。
 ここはベータ版の世界。
 選択肢は、いつだって書き換えられる』

 その瞬間、リオの前に、幾つものインターフェースが浮かび上がった。

《GE-0操作パネル》
《選択肢候補》

 一 創世層の完全停止
 二 現実層との切り離し
 三 部分的適用
 四 完全適用
 五 その他(自前で定義)

「……雑な一覧だな、おい」

 思わずこぼれた突っ込みに、創世層のあちこちでわずかな笑いの波が生まれた。
 どこかでサトルも笑っている気がする。

『五、が本命よ』

「やっぱりか」

 リオは、表示された選択肢を一旦すべて閉じた。
 すぐに決めるつもりはなかった。
 むしろ、ここで即断することだけは避けなければならないと、本能的に理解していた。

「世界が、自分の外側の可能性を試したいっていうなら……」

 彼は、GE-0に向かって手を伸ばした。
 触れた瞬間、無数のイメージが雪崩れ込んでくる。

 今とはまるで違う形の都市。
 空と海の境界が曖昧になった惑星。
 身体という器を離れ、意識だけで旅をする存在たち。
 時間軸すら曲がりくねり、過去も未来も同時に観測可能な構造。

 それは、あまりにも眩しすぎる可能性だった。
 同時に、今ここにある屋台の匂いや、子どもたちの笑い声や、古い街角に残るささやかな記憶が、遠ざかっていく光景でもあった。

「全部を一度に手に入れようとしたら、きっと何かを見失う」

 自分の中の迷いが、そのまま言葉になって流れ出る。
 そして、その迷いさえもが、世界の意図のひとつに加えられていく。

 リオは、意識の奥から言葉を引きずり出した。

「だったら──こう書き換える」

 彼は、五つ目の選択肢に、新たな行を打ち込んだ。

《五 創世層を、世界全体ではなく「揺らぎ」として保持する》

 全てを即座に適用するのでもなく、完全に切り離すのでもなく。
 GE-0を、常に世界の周辺を回り続ける衛星のような存在として扱う。
 現実層に影響を与えるのは、意図の密度が一定値を超えたときだけ。
 それも局所的に、限定的に。

 世界全体を一度に塗り替えるのではなく、
 少しずつ、場所や人ごとに、未来の断片が差し込まれていくような仕組みへと。

「世界そのものを再起動するんじゃない。
 世界のあちこちに、少し早めに未来を落としてみる。
 それを受け止められるかどうかは、その場所にいる人間たち次第だ」

 入力を確定すると、GE-0の色が一気に変わった。
 以前のような不規則な揺らぎではなく、規則を持った不安定。
 呼吸にも似た、膨張と収縮のリズム。

《GE-0:モード変更》
《創世層:衛星化》
《影響範囲:局所的(変動)》

『……やるわね』

 ナツメの声が、どこか楽しそうに響いた。

「主任直伝の、仕様書のごまかし方さ」

『ごまかしとは失礼ね。
 それを柔軟性と呼ぶのよ』

 ふたりの軽口に、創世層全体が微かに笑った気がした。

   ◇ ◇ ◇

 接続が切れ、リオはアテナ・タワーの床に膝をついた。
 全身から力が抜ける。

「……っは、しんど……」

 額の汗を拭いながら立ち上がると、ホールの中央でコアが静かに輝いていた。

《創世層:安定化》
《GE-0:衛星モードで稼働》
《局所的再構築イベントの発生が予測されます》

「局所的、ね。どこから来るかは、こっちでも読めない……っと」

 嫌な予感と共に、端末に新しい通知が走る。

《再構築予兆検知》
《座標:ユニティ・シティ南東区》
《影響範囲:半径三百メートル》

「速いな。もう降りてきたか」

 リオは小さく息を吐き、ジャケットを羽織り直した。

「主任、サトルさん。
 あんたらが開いたベータ版のその先──」

 観測者なき世界に、再び立った観測者として。

「ちゃんと見てくるよ。
 この現実が、どこまで歌えるのか」

 アテナ・タワーのドアが開き、外の風が流れ込む。
 その風の中に、微かな笑い声が混じっていた。

 リオは振り返らなかった。
 代わりに、前だけを見て歩き出した。

 βの彼方で始まった創世層の揺らぎは、
 いよいよ現実の街角へと降りてこようとしていた。
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