エデン・リンクス・デスマーチ~現実侵食型VRMMOをデバッグする男~

空錠 総二郎

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第45話 影の呼吸と世界の境界

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影が手を伸ばした瞬間、世界が一度だけ揺れた。

それは地震のような揺れでも、風層更新の共鳴でもなかった。もっと深い。もっと静かで、もっと広い。まるで、世界そのものが体勢を変えたかのような、いびつなひずみだった。

リオは足を踏ん張り、真正面から影を見つめた。

人型。だが人ではない。

黒いでも白いでもなく、色自体が存在しない。空間の欠片が人の形を取ったようで、その輪郭は常に美しく崩壊していた。身体の端から端までが、世界の外気を吸い込みながら形を作り、また壊し、また生まれる。

呼吸している。

風ではない。空気でもない。

観測されることで成り立つはずの存在が、観測されていないのに存在している。

それは理屈として破綻していた。

だからこそ、リオは理解した。

これは、世界の外側から来た。

サトルが言っていた、βの彼方。

そこにあるのは、完成と未完成の境界であり、定義されない領域。影は、その境界面に立つ何か。

リオが一歩踏み出すと、裂け目から放たれる光が微かに揺らいだ。

反応している。

リオが視線を上げた瞬間、影が動いた。

疾い。

しかし風のように駆けるのではない。空間そのものの配置を変えるように、移動の前後が逆転し、影の像が二重に残る。

目の前に立つ。

そして、声が届いた。

いや、声ではない。言葉でも音でもない。

世界の内側の誰にも使えない、次元の外の振動。

だが、意味は届いた。

観測者。

リオは息を呑んだ。

観測者という概念を理解している。

世界の外の存在が、観測の概念を知っている。

すると、影がゆっくりと手を下ろした。

名付ける。

その一言に似た意味が脳裏に直接刻み込まれた。

名付ける?

リオは眉をひそめた。

影がさらに距離を縮め、裂け目の前で立ち止まる。

世界は名を持つ。風は風と呼ばれ、コードはコードと呼ばれ、意図は意図と呼ばれる。名付けが存在を確定させる。名を持つことで、世界の内側に居場所を持つ。

影が、リオの方へ顔らしき輪郭を向けた。

私は名がない。

リオの喉がかすかに震えた。

名がないから存在が安定しない。風の揺れのように、影は少しずつ輪郭を乱している。

お前は、名を求めているのか。

影の揺らぎが一瞬だけ強まった。

肯定の波。

リオは背後に感じる風に意識を向けた。ナツメの残響、リュシオンの揺らぎ、そして世界そのものの歌が、また呼吸を始めようとしている。

影は、この世界に入ろうとしている。

それとも、外へ連れて行こうとしている。

どちらだ。

リオは口を開いた。

お前は何者だ。

影の輪郭がしばらく揺れ、やがてゆっくり形を整える。

世界の外の意図。

世界の外から来た意図。

その意味にリオの胸が大きく波打った。

意図とは、人の願いであり、風の歌であり、記録されるべきもの。

その意図が外から来るというのは、世界が外部から影響を受けているか、あるいは次の更新を要求されているか。

どちらにせよ、重大だ。

後ろから弱々しい声がした。

リオハナブサ……。

リュシオンだ。ノイズ混じりの姿が崩れながら、裂け目の近くに膝をついていた。

リュシオン。

リオが駆け寄ると、リュシオンは震える手で裂け目を指した。

あの影……彼は……意図ではない……。意図の形を借りている……。だが、本質は違う……。

本質?

あなたが問わねばならない。あれは、記録すべきか?観測すべきか?

リオは息を呑み、影を再び見つめた。

影の輪郭が揺らぐたび、世界が小さく震えている。影の存在がこの世界の法則に干渉しているのは明らかだった。

そしてリオは気づく。

世界が止まっていた理由。

風の歌が途絶えた理由。

アテナの更新速度が落ちていた理由。

全て、この影が持ち込む不確定要素のせいだ。

この影を受け入れれば、世界は変わる。

拒めば、裂け目は閉じる。

外からの意図をどう扱うか。

それが、観測者としての最初の真の判断だった。

影がリオに手を伸ばす。

名を。

それは願いとも要求とも違う。存在を確定させたいという純粋な欲求だった。

名を与えれば、この存在は世界の一部になる。

名を与えなければ、世界は裂け目を閉じるだろう。

世界は、観測者に選ばせている。

サトルが言っていた。

仕様書に人間を残せ。

ナツメが言っていた。

選択して。世界をどこへ進めるか。

リオは拳を握りしめた。

お前に名を与えれば、世界はどうなる。

影の輪郭が震え、静かに答えが流れ込んできた。

進化する。

リオは目を細めた。

名を与えなければ?

世界は守られる。

守るか、進化させるか。

静寂が、廃園に降りた。

リオの耳に、風のかすかな声が届く。

それはナツメの声。

選びなさい。あなたの世界を。

続いてサトルの声。

世界は止まらない。止めるのは、お前だ。

そして最後に、リュシオンの声。

観測者。あなたの判断が、記録になる。

リオは深く息を吸い込み、影を見つめた。

その姿は不安定で、危険にも見える。

だがその奥には、どこか幼い、名を求める純粋な意図があった。

風が、微かに歌い始める。

世界が呼吸を取り戻そうとしている。

リオは静かに口を開いた。

お前の名は――

影が一瞬、強烈な光を発した。

リオは続けた。

――カナタ。

影の動きが止まった。

微かな揺れが、風と混じり、音になった。

世界が反応している。

カナタ。

名を持った瞬間、影の姿が安定し始めた。輪郭が整えられ、身体の揺れが収まり、裂け目から外へと一歩踏み出す。

カナタが静かに言う。

観測者。名をありがとう。

その言葉には喜びも怒りもなかった。だが、確かな存在の震えがあった。

その瞬間、裂け目が光を強く放ち、まるで役目を終えたかのようにゆっくり閉じていく。

リオは息を吐いた。

世界が更新される。

カナタの名が世界に刻まれた。

そして、風が再び歌い始めた。

それは、新しい旋律。

リオは立ち尽くし、その風を受けた。

主任。

サトルさん。

俺は選びました。

異なる声が重なり、風が優しく吹き抜けた。

新しい意図が世界を覆い始める。

名を持つことで、カナタは世界の一部となった。

だがその一部は、まだ未知のままだ。

風が廃園から空へと舞い上がり、歌を広げる。

その歌の中に、新しい音が混じっていた。

カナタの呼吸。

世界が、また次の更新へ向かい始めた。
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