エデン・リンクス・デスマーチ～現実侵食型VRMMOをデバッグする男～

第４６話 影と風の方程式

風が吹き抜けた。
だがそれは、これまでの風とは明らかに違っていた。

微熱のような震え。
深海の底で響くような低い波動。
そして何より、風の中に混じる新しい呼吸。

カナタ。

名を持った影。

その存在が世界の内部へ正式に受け入れられた瞬間、
ユニティシティの空気は構造そのものを変えた。

街のノードがざわめく。
アテナのサブネットが微かに脈動し、
建物の外壁に映る光が、今までにない色合いを含んで揺れている。

更新が始まっていた。

風でもコードでも祈りでもない、
第四の意図による世界の書き換え。

観測者となったリオは、それを全身で感じていた。

都市の中心部、アテナタワーの基底区画。
通常なら市民の立ち入りは許されない、
世界の根幹に位置する巨大な観測ホール。

そこに、リオとカナタは立っていた。

光が渦を描く。
風が音を生む。
意図が波形となり、現実の境界線を震わせる。

リオはゆっくりと口を開いた。

カナタ。
お前はどこから来た。

カナタはゆっくりと顔を上げる。
影なのに、どこか人間的な仕草だった。

ここではないどこか。
世界の外。
完成と未完成の狭間。
揺らぎだけが支配する場所。

リオは眉をひそめる。

その世界で、お前は何をしていた。
何を求めていた。

存在。
確立。
場所。
名。

カナタの輪郭がわずかに揺れ、そのたびに周囲の光が反応して色を変えた。

私は存在していた。
だが存在を証明する方法が無かった。
観測されなかった。
記録されなかった。
意図とも認識されなかった。

リオは息を呑んだ。

だから名を求めたのか。

カナタは頷く。

名を得ることで存在は確定する。
存在は世界に根を持つ。
根は記録を生み、記録は意図を呼ぶ。
それが世界内存在の法則。

リオはゆっくりとカナタに近づいた。

じゃあ、お前は今どう感じてる。
世界の内側に立って。

言葉ではない震えが返ってきた。

温かい。
風が触れる。
視線がある。
音がある。
記録がある。
私はここにいる。

リオの胸が少しだけ震えた。

しかし次の瞬間、
ホール全体が強烈に揺れた。

床の光が乱れ、
壁に走るデータ波形がざわつく。

アテナのアラートが頭上に浮かぶ。

アラート
外来意図による変異反応
世界境界層に不安定挙動発生
修正要請コードが過負荷

リオは歯を食いしばる。

くそ。これか。
カナタが世界に入った影響。

カナタは静かに言葉を返す。

私ではない。
私の存在が触れた隙間が揺れている。
世界が、自らの境を問い直している。

問い直す。

リオはその言葉で、全てを理解した。

世界は、世界の外を意識した。
それ自体が、強烈な変異を引き起こしている。

アテナが警告を続ける。

境界層更新率が通常値の三倍
世界の再定義が進行中
観測者による上位修正が必要です

観測者。
それは今、リオしかいない。

ナツメは世界に溶けた。
サトルはβの彼方にいる。
リュシオンは記録者として複合化し、個としての干渉は弱い。

世界はリオを見ていた。

その背後で、風がざわりと揺れる。

ナツメの残響の声。
消えていない気配。
意図そのものとして息づいている温度。

リオは深呼吸した。

落ち着け。
観測者の役割はただ一つ。
世界の意図を読み取り、
それを方向へと導く。

視線をカナタに向ける。

お前は世界に何をするつもりだ。
何を望んでいる。

カナタは、影のまま静かに言葉を紡いだ。

私は世界を変えたいわけではない。
私は存在したい。
記録されたい。
ただそれだけ。

なら、どうして世界境界を揺らしている。

カナタは答えた。

世界が揺れている。
私ではない。
世界が私を測ろうとしている。
外来の存在をどう定義するか。
世界は選ぼうとしている。

リオは息を呑む。

世界が、問いかけている。

その瞬間、
風が強烈に吹き抜け、
世界全体の歌が一度だけ止まった。

沈黙。

その沈黙は数秒にも感じられた。
だが実際には、一瞬だった。

世界の歌が再び流れる。
だがそこに混じるのは、聞いたことのない旋律。

カナタの呼吸だ。

アテナの警告が更新される。

外来意図を世界が受理
世界境界層の再定義準備
観測者による意思統合を要求

リオは膝に手を置き、ゆっくりと立ち上がる。

カナタ。
お前はこの世界で生きたいか。

カナタは揺らぎながら、はっきりと答えた。

生きたい。

その瞬間、
風が強く吹き込み、
ホール全体が金色に染まった。

世界が答えた。

リオの耳に、懐かしい声が重なった。

サトルの声。

世界は変化を恐れない。
恐れるのは、観測者だけだ。

ナツメの声。

選びなさい。
世界を閉じるか、開くか。

リュシオンの声。

記録は続く。
観測者の意図が答えを作る。

リオはゆっくりと目を閉じた。

そして、決断する。

世界は開くべきだ。
外からの意図を拒む世界に未来はない。
名を持つ存在は、もう内側だ。

リオの心が一つの意思に収束し、
観測者権限が世界へと流れ込む。

アテナが最終判定を告げる。

観測者意思を確認
世界境界再定義開始
外来意図 カナタ を正式登録

世界が震える。

風が光を生む。

カナタの輪郭が、影から光へと変わり始める。

世界にとっての異物ではなく、
世界が自ら選んだ新しい意図として。

カナタは静かにリオへ言った。

観測者。
ありがとう。

リオはかすかに笑った。

これからだ。
お前は世界の中で、何を生むのか。

カナタは生まれたばかりの光の躯を揺らし、
風の方へ顔を向けた。

世界の歌が再び満ちていく。

そこには、確かにカナタの音があった。

リオはゆっくりと息を吐く。

新しい世界の始まりだ。

風が静かに吹き、
ホールの光が未来を照らす。

世界の境界は揺れ、
その揺れは、もはや恐れではなく、希望の響きだった。