エデン・リンクス・デスマーチ~現実侵食型VRMMOをデバッグする男~

空錠 総二郎

文字の大きさ
61 / 65

第61話 記憶雨《メモリー・レイン》

しおりを挟む
朝の《ユニティ・シティ》は、静かに濡れていた。

雨が降っていた。
しかしそれは、ただの水ではなかった。

空から落ちてくる粒子は、光を帯びている。
アスファルトに触れるたび、微細な文字列が浮かび上がっては消えていく。
路地、歩道、建物の壁。
どこもかしこも、一瞬だけ現れては消えるログの残光に覆われていた。

人々はそれを見上げ、戸惑いながらも目を離せずにいた。

自分の名前。
見覚えのない日付。
選ばなかったはずの進路。
送った覚えのないメッセージ。

雨粒は、それぞれ違う過去の断片を抱えて落ちてきていた。

   ◇ ◇ ◇

アテナ・タワー観測ホール。
リオは巨大スクリーンに表示された都市全域のデータをにらみつけていた。

「やっぱり来たか……」

雨は自然現象としての水循環と、外郭展示層から統合された忘却意図のノイズが重なった結果だった。
粒子レベルで混ざり合ったログが、大気を介して街中にばらまかれている。

《E.L_INFINITY》はそれをエラーとして排除しなかった。
むしろ、世界の更新材料として受け入れてしまっている。

アテナが静かに告げた。

《報告 観測者リオ
 現在、都市全域で記憶雨現象を検出
 個々の住民の意図と、忘却された意図が接続されつつある》

リオは額を押さえ、息を吐いた。

「住民の安全性は」

《肉体的危険は無し
 精神負荷は個人差あり
 しかし、総合評価としては許容範囲内》

「許容範囲って言葉、便利だよな」

苦笑しながらも、リオは視線を街のマップに戻す。

雨は均一ではなかった。
濃い場所と薄い場所がある。
とりわけ強いログ反応を示しているのは、旧下層区と学街エリア、そしていくつかの住宅区だ。

そこでは、もう単なる雨ではなく、視覚的な現象として現れ始めている。

過去の自分の姿が、ふと視界の端に立つ。
忘れていたはずの友人の名前が、空中に浮かぶ。
歩いていた青年が立ち止まり、涙をこぼす。

自分でも意識していなかった選択の跡が、
今この瞬間、世界の表面に滲み出ている。

リオは小さくつぶやいた。

「忘却の回廊で見た影たち……
 あいつら、こんな形で戻ってきたか」

背後から風が吹く。
観測ホールの空調以上の、どこか生きた気配を帯びた風だ。

ナツメの声が、淡く響く。

「これは侵食じゃないわ。
 接続よ。
 内側と外側、選んだものと選ばれなかったもの。
 それが雨という形で重なっている」

続いて、サトルの声も重なった。

「忘れたまま進む世界より、
 揺らぎながら進む世界の方が、まだましだろ」

リオは舌打ちしそうになるのをこらえて笑う。

「はいはい、分かってますって。
 でも、揺らぎすぎて転ばないようにするのが、今の俺の仕事なんでね」

アテナが応答する。

《観測者リオに確認
 記憶雨現象への介入方針を問う》

リオはしばらく黙り、手すりに寄りかかった。

街の映像が、雨粒の一つ一つまで拡大される。
そこには、数え切れないほどの可能性の断片が宿っていた。

選ばれなかった学校。
行かなかった旅行。
付き合わなかった恋人。
口にしなかった謝罪と、飲み込んだ感謝。

それは、誰かの人生から溢れ落ちた、無数の分岐線だった。

「……止めない」

リオは言った。

「ただし、
 現実を書き換えさせはしない。
 これはあくまで、
 今の世界を豊かにするための『背景』として扱う」

アテナが静かに点滅した。

《方針了解
 現実層書き換え権限は保留
 記憶雨の影響範囲を感性層 情動層に限定》

「頼むぞ、相棒」

リオが席に戻ろうとしたとき、
観測ホールの床に一滴の光が落ちた。

見上げると、天井にも壁にも雨は降っていない。
ただ、足元だけが濡れていた。

光る水滴は、小さなウインドウに変わった。

そこには、見覚えのあるログが表示されていた。

《User_NATSUME
 未送信メッセージ
 宛先 KAZAMA_S》

リオの心臓が跳ねる。

「主任……?」

開くべきか、閉じるべきか。
彼は一瞬迷い、それからゆっくりと手を伸ばした。

   ◇ ◇ ◇

ウインドウが開いた。

そこには、短い文章が一つだけ記録されていた。

 風の仕様、
 やっぱりまだ理解しきれてない。
 でも、多分これが正しい。
 あんたの書いたコードの先で、
 世界が勝手に歌い始めてる。
 いつかきっと、
 この歌に、人間の声を混ぜてみせる。

 その時まで、
 私はここで、観測を続ける。

 ナツメ

送信ボタンは押されていない。
下書きのまま保存されたまま、
本来ならとっくに削除されているはずのデータだ。

それが今、雨粒の形を借りて、リオの目の前に姿を現している。

「……ずるいんだよな、ほんと」

笑いながらも、視界が滲む。
これはナツメの個人的なログだ。
本来なら他人が読むべきではない。

だが、いま彼女は世界に溶け、
もはや「個人」としての境界を持たない。

ならばこれは、世界の記録の一部だ。

リオの胸に、ひとつの答えが沈んだ。

忘却された意図。
未送信のメッセージ。
選ばれなかった分岐。

それらすべてを、
現実を壊すことなく「物語」として残す場所が必要だ。

「……そうか。
 外郭展示層の本当の役割って、
 最初からそこだったのかもしれないな」

忘却の回廊で見た影たち。
彼らは消えたくなかった。
存在を認めてほしかった。

ならば、
現実を書き換えるのではなく、
現実の外側で「語り継がれる世界」として保存すればいい。

世界の仕様書には載らない、
しかし確かにあったかもしれない世界たち。

リオは端末を立ち上げ、
新しいモジュールの定義を書き始めた。

外郭層モジュール定義
モジュール名 STORY_ARCHIVE
モード read_only optional
説明 現実には反映されないが
   意図として参照され続ける可能世界記録層

アテナの光が柔らかく揺れた。

《確認 新規モジュール STORY_ARCHIVE
 目的 忘却意図および未実装世界の保存
 現実層への直接干渉 無し
 影響範囲 情動層 夢層 創作層》

リオは頷く。

「これなら、
 記憶雨で表に出ちゃった断片も、
 行き場を失わずに済む」

彼は続けて書き込んだ。

観測者権限追記
観測者は STORY_ARCHIVE の内容を
夢 物語 芸術などの形で現実層に翻訳可能とする
ただし 翻訳結果は世界仕様には影響せず
あくまで 個人と共同体の物語として扱う

入力を確定すると、
ホール全体が金色に明滅した。

《E.L_INFINITY 更新完了
 外郭層に STORY_ARCHIVE を追加
 記憶雨現象を同アーカイブへ順次退避》

雨の映像が変化する。
路上に浮かんでいたログの文字列が、
ひとつひとつ細い光の筋となって空へ昇っていく。

それは、祈りに似ていた。
誰かに届けと願いながら放たれた手紙のようでもあった。

リオは、ふと胸の奥が軽くなるのを感じた。

「ようやく居場所ができたな。
 忘れられたものたちの」

風が静かに吹く。
どこか安堵したような気配が、ホールを満たした。

「主任、サトルさん。
 これで、よかったですかね」

ナツメとサトルの声が重なった。

「悪くないわね」
「まあ及第点だろ」

リオは吹き出しそうになり、肩を落とす。

「はいはい、どうも。
 二人の元上司評価なんて、信用していいのか分からないけどな」

それでも、不思議と嬉しかった。

   ◇ ◇ ◇

その日の夕方。
《ユニティ・シティ》の雨は、いつの間にか止んでいた。

街の人々は、朝の不思議な現象を、
まるで夢のように語り合っていた。

小さな喫茶店で、
年配の店主が若い客に話している。

「いやあ、不思議な雨だったよ。
 若いころに別の街で暮らしていたような気がしたんだ。
 でも、そんな事実はどこにもないんだよね」

大学のキャンパスでは、
学生たちが空を見上げていた。

「こないだ諦めたはずの研究テーマが、
 やっぱり続いているような感覚がしてさ。
 もしかしたら、どこか別の世界でやってるのかもな」

ベンチで本を読んでいた少女が、
ページの隙間に挟まっていた紙片を見つける。

そこには、見覚えのない詩が書かれていた。

 もしもあの日
 違う道を選んでいたなら
 私たちは
 どんな風に笑っていただろう

少女は首を傾げながらも、
なぜか胸が温かくなるのを感じていた。

そのどれもが、
記憶雨が残していったささやかな痕跡だった。

現実は変わらない。
しかし、現実の手触りは、少しだけ柔らかくなっていた。

   ◇ ◇ ◇

夜。
アテナ・タワー最上層。

リオは窓際に座り込み、
新しく生成された《STORY_ARCHIVE》層のログを眺めていた。

そこには、数え切れない物語が流れていた。

始まらなかった恋。
結ばれなかった友情。
実らなかった研究。
出会わなかったはずの人々との会話。

これらは、現実には存在しない。
しかし、世界の外側に確かに「在る」。

リオはゆっくりと呼吸し、ログの一つを選んだ。
画面に映し出されたのは、見知らぬ小さな街の風景だった。

古い商店街。
夕焼けに染まるアーケード。
そこを走り抜ける少年と、追いかける友人。
彼らの名前は、どこにも記録されていない。
それでも、その瞬間には、確かな輝きがあった。

「これが、
 忘却された世界の、
 正しい残り方なんだろうな」

リオは笑い、端末に新しい記録を書き込んだ。

観測者記録 RIO_HANABUSA
タイトル 記憶雨
テキスト
忘却の回廊で見た意図たちは
記憶雨となって現実の表面に滲み出た
それらを元の場所へ押し戻すことは簡単だったが
それではまた同じことの繰り返しになる
だから 外郭層に物語のための層を作った
現実を書き換えることなく
しかし確かに読み取ることのできる場所
世界は更新を続ける
その外側で 無数の物語が息をしている
それを知っているという事実だけで
きっと 人は少しだけやさしくなれる


入力を確定すると、
アテナの光が小さく瞬いた。

《観測者記録を受領
 STORY_ARCHIVE に反映完了》

窓の外、夜風が静かに吹く。
それはもう、記憶を押し流す風ではなかった。

世界を撫で、
物語の匂いを運び、
明日を少しだけ軽くする風だった。

リオは立ち上がり、夜空を見上げた。

「βの彼方か……
 主任、サトルさん。
 そっちは、どんな景色が見えてますか」

風が頬を撫でた。
そこに答えはなかったが、
確かな気配だけが残った。

世界は、まだ歌っている。
物語は、まだ増え続けている。

そして、更新は――
まだ終わらない。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

日本新世紀ー日本の変革から星間連合の中の地球へー

黄昏人
SF
現在の日本、ある地方大学の大学院生のPCが化けた! あらゆる質問に出してくるとんでもなくスマートで完璧な答え。この化けたPC“マドンナ”を使って、彼、誠司は核融合発電、超バッテリーとモーターによるあらゆるエンジンの電動化への変換、重力エンジン・レールガンの開発・実用化などを通じて日本の経済・政治状況及び国際的な立場を変革していく。 さらに、こうしたさまざまな変革を通じて、日本が主導する地球防衛軍は、巨大な星間帝国の侵略を跳ね返すことに成功する。その結果、地球人類はその星間帝国の圧政にあえいでいた多数の歴史ある星間国家の指導的立場になっていくことになる。 この中で、自らの進化の必要性を悟った人類は、地球連邦を成立させ、知能の向上、他星系への植民を含む地球人類全体の経済の底上げと格差の是正を進める。 さらには、マドンナと誠司を擁する地球連邦は、銀河全体の生物に迫る危機の解明、撃退法の構築、撃退を主導し、銀河のなかに確固たる地位を築いていくことになる。

サイレント・サブマリン ―虚構の海―

来栖とむ
SF
彼女が追った真実は、国家が仕組んだ最大の嘘だった。 科学技術雑誌の記者・前田香里奈は、謎の科学者失踪事件を追っていた。 電磁推進システムの研究者・水嶋総。彼の技術は、完全無音で航行できる革命的な潜水艦を可能にする。 小与島の秘密施設、広島の地下工事、呉の巨大な格納庫—— 断片的な情報を繋ぎ合わせ、前田は確信する。 「日本政府は、秘密裏に新型潜水艦を開発している」 しかし、その真実を暴こうとする前田に、次々と圧力がかかる。 謎の男・安藤。突然現れた協力者・森川。 彼らは敵か、味方か—— そして8月の夜、前田は目撃する。 海に下ろされる巨大な「何か」を。 記者が追った真実は、国家が仕組んだ壮大な虚構だった。 疑念こそが武器となり、嘘が現実を変える—— これは、情報戦の時代に問う、現代SF政治サスペンス。 【全17話完結】

俺得リターン!異世界から地球に戻っても魔法使えるし?アイテムボックスあるし?地球が大変な事になっても俺得なんですが!

くまの香
ファンタジー
鹿野香(かのかおる)男49歳未婚の派遣が、ある日突然仕事中に異世界へ飛ばされた。(←前作) 異世界でようやく平和な日常を掴んだが、今度は地球へ戻る事に。隕石落下で大混乱中の地球でも相変わらず呑気に頑張るおじさんの日常。「大丈夫、俺、ラッキーだから」

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

MMS ~メタル・モンキー・サーガ~

千両文士
SF
エネルギー問題、環境問題、経済格差、疫病、収まらぬ紛争に戦争、少子高齢化・・・人類が直面するありとあらゆる問題を科学の力で解決すべく世界政府が協力して始まった『プロジェクト・エデン』 洋上に建造された大型研究施設人工島『エデン』に招致された若き大天才学者ミクラ・フトウは自身のサポートメカとしてその人格と知能を完全電子化複製した人工知能『ミクラ・ブレイン』を建造。 その迅速で的確な技術開発力と問題解決能力で矢継ぎ早に改善されていく世界で人類はバラ色の未来が確約されていた・・・はずだった。 突如人類に牙を剥き、暴走したミクラ・ブレインによる『人類救済計画』。 その指揮下で人類を滅ぼさんとする軍事戦闘用アンドロイドと直属配下の上位管理者アンドロイド6体を倒すべく人工島エデンに乗り込むのは・・・宿命に導かれた天才学者ミクラ・フトウの愛娘にしてレジスタンス軍特殊エージェント科学者、サン・フトウ博士とその相棒の戦闘用人型アンドロイドのモンキーマンであった!! 機械と人間のSF西遊記、ここに開幕!!

処理中です...