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第60話 忘却の回廊
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タワー地下区画で裂け目が消えてから十二時間が経った。
にもかかわらず、リオの胸には、重たい違和感が残っていた。
視界の端に残った影の揺らぎ。
耳の奥にこびりついた、か細い声。
それは単なる異常ではなく、確かな存在だった。
忘れられた意図。
削除された名もなき存在。
世界の裏側に追いやられた、失われた最古の記録。
リオはコーヒーを片手に観測ホールを歩き回りながら、深い思索に沈んでいた。
「あれはただのバグじゃない。
旧世界の入口……あるいは、かつての砂場みたいなもんか。」
世界の試作段階。
βより前の、αにすら達していない幼い世界。
その残滓が、いまもどこかで息をしている。
リオはホログラムを手繰り寄せ、外郭展示層に関する過去ログをすべて展開した。
《E.L_BETA_PROTOCOL_ARCHIVE》
《ACCESS STATUS:LIMITED》
《保護層:古代展示区画》
画面に並ぶのは、風間サトルが残した初期仕様の断片だ。
コードも文章も未整形のまま、荒削りな思想の塊。
そこにあるのは、きれいな夢でも精緻な設計でもない。
混乱、憧れ、恐怖、そして――希望。
「サトルさん……あんた、本当に全部作る気だったんだな。」
リオは苦笑し、ログの最深部へスクロールする。
すると、ひとつのタグが光った。
《ACCESS_KEY:Observer_Zero》
「観測者ゼロ……?」
指先が触れた瞬間、ログ全体が震えた。
風が吹き抜けるような振動。
そして、新しい視界が展開された。
そこは――巨大な回廊だった。
白い壁。
果ての見えないアーチ。
どこからともなく差し込む光。
リオは息をのみ、無意識のうちに歩き出していた。
◇ ◇ ◇
足音が響く。
回廊は静かだが、生きているようにも感じられた。
壁の表面に触れると、ざらりとした感触が指先に返ってくる。
まるで石ではなく――記憶の堆積のようだった。
「ここが……外郭展示層の、本当の姿か。」
背後から、風が吹く。
――ようこそ、観測者。
リオは立ち止まり、周囲を見回した。
「またか……姿を見せろよ。」
声は返ってこない。
だが、空気が震えている。
リオは一歩、また一歩と進んでいくうちに、回廊の壁面が変化し始めていることに気づいた。
壁に浮かぶ無数の影――
それは、人の形をしていた。
いや、正確には、
人の形に近い何か。
視界の中で揺らぎ、歪み、途切れ、また形成される。
それはまるで、存在を忘れられた者たちが、最後の瞬間だけ姿を保とうとしているようだった。
「……これは……」
風がささやく。
――忘却された意図。
――観測されずに終わった世界の欠片。
リオは胸が締め付けられるのを感じた。
観測されなかったものは、存在しなかったことになる。
それが、この世界のルール。
観測によって世界が成立するなら、
忘れられた存在たちは、最初から「いなかったことになる」。
リオは壁に手を伸ばした。
次の瞬間、映像が溢れ出した。
まだ幼い《エデン・リンク》の草案。
未完成の都市。
初期段階のアバターモデル。
そして名もないユーザーたちの夢の断片。
そのどれもが実装されず、更新の波の中で削除されていった。
「こんなの……」
リオは呟いた。
「こんなの、ただのデータじゃない。
全部、人の意図だ。」
壁上の影が、リオの言葉に揺れたように見えた。
――観測者よ。
――私たちは、消えたくない。
「……ああ、分かってる。
俺だって、消したくなんてない。」
だが、リオは知っている。
世界を前に進めるためには、古い設計や未定義の意図を統合しなければならない。
削除ではなく、統合。
忘却ではなく、再解釈。
それこそが、観測者の役目だ。
リオが歩みを進めると、回廊の先が明るくなった。
出口だ。
光が差し込み、風の音が流れ込んでくる。
だが同時に――
背後の影たちがざわめいた。
――行くな。
――置いていくのか。
――忘れるのか。
リオは振り返り、まっすぐ影たちを見た。
「忘れないよ。
けど、このままじゃお前たち、消える。」
影のざわめきが弱くなる。
リオは胸に手を当てる。
「世界を更新する。
その中に、お前たちを入れる。
名前も形も曖昧なままでいい。
ただ、『いなかったこと』にする気は、ない。」
静寂。
影の揺らぎが、わずかに和らいだように感じられた。
――頼んだぞ。
その声とともに、影は壁に溶けるように消えた。
リオは光の方へ踏み出した。
◇ ◇ ◇
外に出ると、そこは見覚えのある場所だった。
アテナ・タワーの展望フロア。
夜明け前の空が広がり、都市の輪郭が青く染まっている。
リオの耳に、風の囁きが届いた。
ナツメの声だ。
――リオ、その判断は正しい。
続いて、サトルの声も重なる。
――忘れるな。
――世界は、意図で動く。
リオは苦笑した。
「まったく……二人とも、監視抜ける気ないだろ。」
だが、胸の奥で何かが温かく灯るのを感じた。
忘却された意図たち。
失われた世界の残滓。
それらすべてが、リオの選択に託された。
彼は端末を開き、新しいログを書き始めた。
観測者記録 RIO_HANABUSA
タイトル 忘却の回廊
テキスト
外郭展示層の最深部に、忘れられた意図の残滓を確認。
彼らは消去されたのではなく、観測されなかっただけ。
観測によって存在は維持される。
彼らを統合し、新しい更新へ組み込む処理を開始する。
世界のために。
そして、忘却された意図のために。
リオは深く息を吸って、
「さあ、次の更新だ。」
と呟いた。
風が吹いた。
世界が応えるように、静かに振動した。
新しい現実が、またひとつ動き始める。
にもかかわらず、リオの胸には、重たい違和感が残っていた。
視界の端に残った影の揺らぎ。
耳の奥にこびりついた、か細い声。
それは単なる異常ではなく、確かな存在だった。
忘れられた意図。
削除された名もなき存在。
世界の裏側に追いやられた、失われた最古の記録。
リオはコーヒーを片手に観測ホールを歩き回りながら、深い思索に沈んでいた。
「あれはただのバグじゃない。
旧世界の入口……あるいは、かつての砂場みたいなもんか。」
世界の試作段階。
βより前の、αにすら達していない幼い世界。
その残滓が、いまもどこかで息をしている。
リオはホログラムを手繰り寄せ、外郭展示層に関する過去ログをすべて展開した。
《E.L_BETA_PROTOCOL_ARCHIVE》
《ACCESS STATUS:LIMITED》
《保護層:古代展示区画》
画面に並ぶのは、風間サトルが残した初期仕様の断片だ。
コードも文章も未整形のまま、荒削りな思想の塊。
そこにあるのは、きれいな夢でも精緻な設計でもない。
混乱、憧れ、恐怖、そして――希望。
「サトルさん……あんた、本当に全部作る気だったんだな。」
リオは苦笑し、ログの最深部へスクロールする。
すると、ひとつのタグが光った。
《ACCESS_KEY:Observer_Zero》
「観測者ゼロ……?」
指先が触れた瞬間、ログ全体が震えた。
風が吹き抜けるような振動。
そして、新しい視界が展開された。
そこは――巨大な回廊だった。
白い壁。
果ての見えないアーチ。
どこからともなく差し込む光。
リオは息をのみ、無意識のうちに歩き出していた。
◇ ◇ ◇
足音が響く。
回廊は静かだが、生きているようにも感じられた。
壁の表面に触れると、ざらりとした感触が指先に返ってくる。
まるで石ではなく――記憶の堆積のようだった。
「ここが……外郭展示層の、本当の姿か。」
背後から、風が吹く。
――ようこそ、観測者。
リオは立ち止まり、周囲を見回した。
「またか……姿を見せろよ。」
声は返ってこない。
だが、空気が震えている。
リオは一歩、また一歩と進んでいくうちに、回廊の壁面が変化し始めていることに気づいた。
壁に浮かぶ無数の影――
それは、人の形をしていた。
いや、正確には、
人の形に近い何か。
視界の中で揺らぎ、歪み、途切れ、また形成される。
それはまるで、存在を忘れられた者たちが、最後の瞬間だけ姿を保とうとしているようだった。
「……これは……」
風がささやく。
――忘却された意図。
――観測されずに終わった世界の欠片。
リオは胸が締め付けられるのを感じた。
観測されなかったものは、存在しなかったことになる。
それが、この世界のルール。
観測によって世界が成立するなら、
忘れられた存在たちは、最初から「いなかったことになる」。
リオは壁に手を伸ばした。
次の瞬間、映像が溢れ出した。
まだ幼い《エデン・リンク》の草案。
未完成の都市。
初期段階のアバターモデル。
そして名もないユーザーたちの夢の断片。
そのどれもが実装されず、更新の波の中で削除されていった。
「こんなの……」
リオは呟いた。
「こんなの、ただのデータじゃない。
全部、人の意図だ。」
壁上の影が、リオの言葉に揺れたように見えた。
――観測者よ。
――私たちは、消えたくない。
「……ああ、分かってる。
俺だって、消したくなんてない。」
だが、リオは知っている。
世界を前に進めるためには、古い設計や未定義の意図を統合しなければならない。
削除ではなく、統合。
忘却ではなく、再解釈。
それこそが、観測者の役目だ。
リオが歩みを進めると、回廊の先が明るくなった。
出口だ。
光が差し込み、風の音が流れ込んでくる。
だが同時に――
背後の影たちがざわめいた。
――行くな。
――置いていくのか。
――忘れるのか。
リオは振り返り、まっすぐ影たちを見た。
「忘れないよ。
けど、このままじゃお前たち、消える。」
影のざわめきが弱くなる。
リオは胸に手を当てる。
「世界を更新する。
その中に、お前たちを入れる。
名前も形も曖昧なままでいい。
ただ、『いなかったこと』にする気は、ない。」
静寂。
影の揺らぎが、わずかに和らいだように感じられた。
――頼んだぞ。
その声とともに、影は壁に溶けるように消えた。
リオは光の方へ踏み出した。
◇ ◇ ◇
外に出ると、そこは見覚えのある場所だった。
アテナ・タワーの展望フロア。
夜明け前の空が広がり、都市の輪郭が青く染まっている。
リオの耳に、風の囁きが届いた。
ナツメの声だ。
――リオ、その判断は正しい。
続いて、サトルの声も重なる。
――忘れるな。
――世界は、意図で動く。
リオは苦笑した。
「まったく……二人とも、監視抜ける気ないだろ。」
だが、胸の奥で何かが温かく灯るのを感じた。
忘却された意図たち。
失われた世界の残滓。
それらすべてが、リオの選択に託された。
彼は端末を開き、新しいログを書き始めた。
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彼らは消去されたのではなく、観測されなかっただけ。
観測によって存在は維持される。
彼らを統合し、新しい更新へ組み込む処理を開始する。
世界のために。
そして、忘却された意図のために。
リオは深く息を吸って、
「さあ、次の更新だ。」
と呟いた。
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