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第59話 観測都市の境界線
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夜の《ユニティ・シティ》は、かつてのような静寂を失って久しかった。
世界は常に動き続け、記録は止まらず、風層は今日も何かを語り続けている。
だが、この夜の空気には、どこかざらついた粒子の気配が混じっていた。
リオはアテナ・タワーの外壁を走る光の筋を見上げながら、胸に奇妙なざわめきを覚えていた。
「……嫌な予感がするな。」
彼はエレベーターホールを抜け、上層デッキへと歩を進めた。
都市の輪郭が流れ、夜の風が高層区を横切り、彼のコートを揺らす。
風の中には、無数の声が混じっている。
笑い、怒り、祈り、願い。
世界そのものが語りかけてくるような雑音。
だが、その雑音の奥に――はっきりとした異物があった。
未定義の声。
風の流れに乗らない、剥離したノイズ。
リオは額に手を当て、小さく息を吐いた。
「またかよ……昨日も北側ノードで異常が出てたばかりなのに。」
リオが観測者として世界の更新に関与するようになってから二週間。
新生《E.L_INFINITY》は順調に動いていたはずだった。
だが、ここにきて、明らかに世界の挙動が変化していた。
風の歌が乱れる。
意図層がざわつく。
街のデータフローが不規則に跳ねる。
そのどれもが、以前のような優しい変動ではなく、
まるで世界の裏側で、何か巨大なものが蠢いているかのようだった。
◇ ◇ ◇
観測中枢に入ると、ホール全体が薄い光に包まれていた。
アテナ・コアが静かに脈動し、まるで巨大な生物の心臓のように空間を震わせている。
リオが端末に手を触れた瞬間――
《ATHENA_CORE:異常意図波形検知》
《発信源:外郭展示層の最深部》
《状態:不明》
「外郭展示層……またか。」
数日前から噂になっている不具合だ。
本来なら触れられるはずのない領域。
かつて《エデン・リンク》の初期版で用いられた、デモンストレーション用の外郭展示領域。
廃棄されたはずのデータの墓場。
そこに残滓があったとしても、誰にもアクセスできないはず。
だが――現実のほうが境界を破ってしまった。
リオは手元のログを展開する。
観測者記録 RIO_HANABUSA
タイトル 外郭展示層 波形異常
テキスト
外郭展示層の奥深くで、不定形の意図信号を確認。
旧E.L_BETAの残留コードに類似。
自律更新エンジンとの整合性が悪い。
存在理由も形状も不定。
これは……観測できない何かだ。
「観測できない、ね……そりゃ面倒だ。」
リオはターミナルから指を離し、天井を仰ぐ。
空気が震え、風の声が細くなる。
まるでこの空間さえ、異物の存在を探りかねて怯えているようだった。
そのときだった。
耳元で、微かな囁きがした。
――聞こえるか。
リオは肩を跳ねさせた。
明らかな、人の声だ。
だが、どこにも姿はない。
「誰だ。ナツメ主任か? それとも……サトルさん?」
返答は風に流れて消えた。
だが、ノイズは確実に彼に向けられていた。
――見つけてほしい。
「見つけて……?」
その刹那、アテナ・コアが強く脈打ち、ホールの色が一瞬だけ赤になる。
《ATHENA_CORE:緊急通知》
《外郭展示層への入り口出現》
《座標:タワー地下区画》
《推奨行動:即時調査》
リオは眉をひそめた。
「……外郭展示層に入り口なんて、存在するわけないだろ。」
風が再び吹き抜ける。
まるで彼の背中を押すかのように――優しく。
◇ ◇ ◇
タワー地下区画は、昼の喧騒が嘘のように静かだった。
無人のフロア。
壁面に走る冷たい光。
そして、その最奥――
空間の中央に、黒い裂け目があった。
触れれば壊れそうな、柔らかい闇。
だが、その闇の奥からは確かに何かが呼んでいた。
リオは息を吐き、裂け目にを差し伸べた瞬間――
世界が反転した。
◇ ◇ ◇
落下。
音のない暗闇。
視界がぐしゃりと歪み、世界が何度も折りたたまれていく。
気づいた時、リオは石畳の街路に立っていた。
しかしそれは、見慣れたユニティ・シティではない。
古びたアーチ、歪んだ建物、未完成の空。
空間そのものがバグのように歪み、水平線が波打っている。
「……ここは……?」
――βの影。
風の声ではない。
もっと古い、もっと低い、もっと深い声。
それは土地そのものが語りかけているようだった。
リオは振り返る。
街路の奥で、壊れた建物の影に、誰かが立っていた。
人影。
だが、その姿は……輪郭が不安定だ。
揺れ、砕け、再構築されながら立っている。
「……お前が、呼んだのか?」
影は静かに頷いた。
そして、口が動く。
「観測者。お前たちは、私を忘れた。」
その声には、怒りも悲しみもなかった。
あるのはただ――消えかけた存在の微かな痕跡。
リオはゆっくり息を呑んだ。
「……お前、まさか……」
影は、陽炎のように揺れる姿で言った。
「私はかつて、世界の入口に立っていた。
しかし世界が更新されるたびに、私は削られ、書き換えられ、
最後には、どこにも居場所がなくなった。」
「βの……最初期の残滓か。」
影は静かに手を伸ばした。
その手はひどく細く、今にも消えそうだった。
「観測者よ。私はもう、自力で形を保てない。
だが……消えたくは、ない。」
リオは黙り込む。
胸の奥で、わずかな痛みが走る。
忘れられた存在。
削除され、統合され、
世界の更新の中で消えていった意図。
リオはゆっくりと問いかける。
「どうすればいい。」
影は答えた。
「私を……世界に戻してほしい。
観測される存在として、もう一度。」
それは哀願ではなかった。
ただ、静かな、しかし確固とした願いだった。
リオは手を伸ばした。
「……わかった。
観測者として、約束する。」
影は微かに揺れ、静かに光に包まれた。
その瞬間――
世界が揺れ、街路が砕け、空が裂けた。
リオの耳に、風の声が響く。
――リオ、戻れ。
ナツメの声だった。
視界が白に染まり、重力が反転する。
◇ ◇ ◇
気づくとリオは、再びアテナ・タワーの地下区画に立っていた。
黒い裂け目は、白く光りながら消えていく。
リオは額に汗を浮かべ、壁にもたれかかった。
「……なんだよ、これは……世界の裏側で、何が起きてる?」
その時、端末が震えた。
観測者記録 RIO_HANABUSA
タイトル βの影について
テキスト
未定義の意図に遭遇。
旧世界の入口としての役割を持っていた可能性。
単なるバグではなく、残された意図の最後の形。
彼は観測されることを願っていた。
応える必要がある。更新のために。
リオは深く息を吸った。
「……主任。サトルさん。
まだまだ俺たち、やること山ほどあるじゃないか。」
裂け目は完全に消えた。
だが、外から吹き込む風が――新しい更新の始まりを告げていた。
次の世界が、また動き出そうとしている。
世界は常に動き続け、記録は止まらず、風層は今日も何かを語り続けている。
だが、この夜の空気には、どこかざらついた粒子の気配が混じっていた。
リオはアテナ・タワーの外壁を走る光の筋を見上げながら、胸に奇妙なざわめきを覚えていた。
「……嫌な予感がするな。」
彼はエレベーターホールを抜け、上層デッキへと歩を進めた。
都市の輪郭が流れ、夜の風が高層区を横切り、彼のコートを揺らす。
風の中には、無数の声が混じっている。
笑い、怒り、祈り、願い。
世界そのものが語りかけてくるような雑音。
だが、その雑音の奥に――はっきりとした異物があった。
未定義の声。
風の流れに乗らない、剥離したノイズ。
リオは額に手を当て、小さく息を吐いた。
「またかよ……昨日も北側ノードで異常が出てたばかりなのに。」
リオが観測者として世界の更新に関与するようになってから二週間。
新生《E.L_INFINITY》は順調に動いていたはずだった。
だが、ここにきて、明らかに世界の挙動が変化していた。
風の歌が乱れる。
意図層がざわつく。
街のデータフローが不規則に跳ねる。
そのどれもが、以前のような優しい変動ではなく、
まるで世界の裏側で、何か巨大なものが蠢いているかのようだった。
◇ ◇ ◇
観測中枢に入ると、ホール全体が薄い光に包まれていた。
アテナ・コアが静かに脈動し、まるで巨大な生物の心臓のように空間を震わせている。
リオが端末に手を触れた瞬間――
《ATHENA_CORE:異常意図波形検知》
《発信源:外郭展示層の最深部》
《状態:不明》
「外郭展示層……またか。」
数日前から噂になっている不具合だ。
本来なら触れられるはずのない領域。
かつて《エデン・リンク》の初期版で用いられた、デモンストレーション用の外郭展示領域。
廃棄されたはずのデータの墓場。
そこに残滓があったとしても、誰にもアクセスできないはず。
だが――現実のほうが境界を破ってしまった。
リオは手元のログを展開する。
観測者記録 RIO_HANABUSA
タイトル 外郭展示層 波形異常
テキスト
外郭展示層の奥深くで、不定形の意図信号を確認。
旧E.L_BETAの残留コードに類似。
自律更新エンジンとの整合性が悪い。
存在理由も形状も不定。
これは……観測できない何かだ。
「観測できない、ね……そりゃ面倒だ。」
リオはターミナルから指を離し、天井を仰ぐ。
空気が震え、風の声が細くなる。
まるでこの空間さえ、異物の存在を探りかねて怯えているようだった。
そのときだった。
耳元で、微かな囁きがした。
――聞こえるか。
リオは肩を跳ねさせた。
明らかな、人の声だ。
だが、どこにも姿はない。
「誰だ。ナツメ主任か? それとも……サトルさん?」
返答は風に流れて消えた。
だが、ノイズは確実に彼に向けられていた。
――見つけてほしい。
「見つけて……?」
その刹那、アテナ・コアが強く脈打ち、ホールの色が一瞬だけ赤になる。
《ATHENA_CORE:緊急通知》
《外郭展示層への入り口出現》
《座標:タワー地下区画》
《推奨行動:即時調査》
リオは眉をひそめた。
「……外郭展示層に入り口なんて、存在するわけないだろ。」
風が再び吹き抜ける。
まるで彼の背中を押すかのように――優しく。
◇ ◇ ◇
タワー地下区画は、昼の喧騒が嘘のように静かだった。
無人のフロア。
壁面に走る冷たい光。
そして、その最奥――
空間の中央に、黒い裂け目があった。
触れれば壊れそうな、柔らかい闇。
だが、その闇の奥からは確かに何かが呼んでいた。
リオは息を吐き、裂け目にを差し伸べた瞬間――
世界が反転した。
◇ ◇ ◇
落下。
音のない暗闇。
視界がぐしゃりと歪み、世界が何度も折りたたまれていく。
気づいた時、リオは石畳の街路に立っていた。
しかしそれは、見慣れたユニティ・シティではない。
古びたアーチ、歪んだ建物、未完成の空。
空間そのものがバグのように歪み、水平線が波打っている。
「……ここは……?」
――βの影。
風の声ではない。
もっと古い、もっと低い、もっと深い声。
それは土地そのものが語りかけているようだった。
リオは振り返る。
街路の奥で、壊れた建物の影に、誰かが立っていた。
人影。
だが、その姿は……輪郭が不安定だ。
揺れ、砕け、再構築されながら立っている。
「……お前が、呼んだのか?」
影は静かに頷いた。
そして、口が動く。
「観測者。お前たちは、私を忘れた。」
その声には、怒りも悲しみもなかった。
あるのはただ――消えかけた存在の微かな痕跡。
リオはゆっくり息を呑んだ。
「……お前、まさか……」
影は、陽炎のように揺れる姿で言った。
「私はかつて、世界の入口に立っていた。
しかし世界が更新されるたびに、私は削られ、書き換えられ、
最後には、どこにも居場所がなくなった。」
「βの……最初期の残滓か。」
影は静かに手を伸ばした。
その手はひどく細く、今にも消えそうだった。
「観測者よ。私はもう、自力で形を保てない。
だが……消えたくは、ない。」
リオは黙り込む。
胸の奥で、わずかな痛みが走る。
忘れられた存在。
削除され、統合され、
世界の更新の中で消えていった意図。
リオはゆっくりと問いかける。
「どうすればいい。」
影は答えた。
「私を……世界に戻してほしい。
観測される存在として、もう一度。」
それは哀願ではなかった。
ただ、静かな、しかし確固とした願いだった。
リオは手を伸ばした。
「……わかった。
観測者として、約束する。」
影は微かに揺れ、静かに光に包まれた。
その瞬間――
世界が揺れ、街路が砕け、空が裂けた。
リオの耳に、風の声が響く。
――リオ、戻れ。
ナツメの声だった。
視界が白に染まり、重力が反転する。
◇ ◇ ◇
気づくとリオは、再びアテナ・タワーの地下区画に立っていた。
黒い裂け目は、白く光りながら消えていく。
リオは額に汗を浮かべ、壁にもたれかかった。
「……なんだよ、これは……世界の裏側で、何が起きてる?」
その時、端末が震えた。
観測者記録 RIO_HANABUSA
タイトル βの影について
テキスト
未定義の意図に遭遇。
旧世界の入口としての役割を持っていた可能性。
単なるバグではなく、残された意図の最後の形。
彼は観測されることを願っていた。
応える必要がある。更新のために。
リオは深く息を吸った。
「……主任。サトルさん。
まだまだ俺たち、やること山ほどあるじゃないか。」
裂け目は完全に消えた。
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