エデン・リンクス・デスマーチ~現実侵食型VRMMOをデバッグする男~

空錠 総二郎

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第58話 カナタの選択

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風が吹いていた。
けれど、それは《ユニティ・シティ》で慣れ親しんだ、あの柔らかな世界の歌とは少し違っていた。

空を渡る光の筋が、二重に見える。
ひとつは、これまでの現実と仮想が溶け合った、透明な都市の輪郭。
もうひとつは、その上にうっすらと重なる、見知らぬ街路と建造物の影。

リオはアテナ・タワーの展望デッキに立ち、両方の層を同時に見ていた。

足元の床が、微かに揺れる。
今立っているタワーの存在そのものが、世界のコードの中で「再評価」されている感覚。

《E.L_INFINITY》
phase:Genesis
mode:多層現実同時展開

ホログラムに流れるログが、静かに点滅している。
そこには、見慣れない単語がひとつ、追加されていた。

タグ:KANATA_LAYER

「……カナタの層、か。」

リオが小さくつぶやく。
数話前から、世界の異変と共に現れ始めた「カナタの街路」。
既存のマップには存在しないはずの、誰かの記憶から切り出されたような路地や階段、路面電車の線路。
それらが、今や正式にシステムに認識されつつあった。

風が頬を撫でる。
耳の奥で、懐かしい声が重なる。

ナツメの声。
サトルの笑い声。
そして、そのさらに向こう側から――知らない少女の声。

ようこそ、こちら側へ。

リオは目を閉じ、息を吸い込んだ。
アテナの観測者としての意識が、世界の深層へと沈んでいく。

   ◇ ◇ ◇

目を開けたとき、そこはタワーの展望デッキではなかった。

長い坂道が続いていた。
片側には、古い煉瓦造りの建物。
もう片側には、ガラスと金属でできた、新しい都市のビルディング。

暖色の街灯と、無機質なホログラム看板が、同じ空気の中で揺れている。
道路には、見たことのある標識と、見たことのない記号が混在していた。

ここは――カナタの街路。

「やっと来たね、リオ。」

振り返ると、そこに彼女がいた。

肩までの髪を後ろで結い、パーカーのフードを雑にかぶった少女。
年齢は十六、七歳に見える。
だが、その瞳の奥には、都市と同じ数だけの光が宿っていた。

カナタ。

「ここが、君の層か。」
「ううん。」

少女は首を振った。

「ここは、あなたたちがまだ選んでいない現実を並べておくための場所。
 私は、その街路に名前を借りているだけ。」

「まだ選んでいない現実……。」

リオは周囲を見回した。
坂道の先に、いくつもの分かれ道が見える。
階段で分岐している路地もあれば、途中から空に伸びていく歩道橋もある。
どの道も、まだ誰の足跡もついていない。

「ここに並んでいるのはね。」
カナタが続ける。

「《ユニティ・シティ》が、これからなり得たかもしれない未来。
 もっと管理された平和な世界。
 再び閉じた楽園に戻る世界。
 あるいは、全部を捨てて、ゼロからやり直す世界。」

リオは眉をひそめた。
「つまり、ここは――マルチバースの候補リストってことか。」

「難しい言い方をするなら、そう。
 もっと単純に言うなら、ここは、世界がためらった分岐の保留場所。」

カナタの声は淡々としているが、その言葉のひとつひとつは、やけに胸に刺さった。

「あなたたちが《βの彼方》に触れた瞬間、
 世界は、自分が行き先をひとつに固定するのが怖くなった。
 だから、全部の可能性をここに並べた。
 ――その街路に名前が必要だったから、私が『カナタ』になった。」

「君は、世界が生み出した人格、ってことか。」

「半分正解。
 もう半分は、外側から来た観測者候補。」

外側。
リオは、その言葉に小さく目を見開く。

「《ユニティ・シティ》の外側から?」

「ううん。」

カナタは、少しだけ笑って空を指差した。

「βよりも外。
 サトルがたどり着いた《βの彼方》の、その外。」

風が吹く。
空が二重に揺れた。

   ◇ ◇ ◇

歩きながら、カナタはぽつりぽつりと語り始めた。

「最初にここに来たのは、風間サトルだったよ。
 まだ《エデン・リンク》がテスト段階で、
 現実侵食なんて誰も想像していなかった頃。」

坂道の途中で、古い自販機の前を通り過ぎる。
液晶部分には、今は存在しない飲料メーカーのロゴが浮かんでいた。

「彼は、β版の中で何度も世界を壊して、作り直した。
 人の意識をつなぎすぎて、誰が誰だか分からなくなった世界。
 逆に、あらゆる感情をフィルタリングした、無菌室みたいなエデン。
 そのたびに、ここに『捨てられた可能性』が溜まっていった。」

リオは無意識に、手すりに触れた。
指先に、微かなざらつきが伝わる。
それは、誰かがここを通ろうとして、通らなかった痕跡のようだった。

「サトルはある時、気づいた。
 どれだけ世界をシミュレートしても、
 本物の『現実』には、きっとたどり着けないって。」

「だから、仕様書に『人間』を残した。」
リオが言う。

カナタは頷いた。

「そう。
 そしてもうひとつ、彼はここに『観測者の席』を残した。
 βより外側から、世界の行き先を見届ける役割。
 それが、私たち。」

「私たち、ってことは……。」

「ナツメも、ここにいる。」

坂道の先に、白い光が揺れていた。
風が集まり、形を持ち始める。

そこに現れたのは、懐かしい姿だった。

浅倉ナツメ。
ユニティ・シティの設計者であり、記録者であり、
今や世界そのものに統合された存在。

「……久しぶりね、リオ。」

声は、風そのものだった。
しかし、その笑い方には、確かに生前のナツメの癖が残っていた。

リオは息を詰め、そして笑う。

「主任。ずいぶんと格好いい立ち位置になりましたね。」

「そう見える?」

ナツメは肩をすくめる仕草をして、周囲を見渡した。

「こっちはこっちで、大変よ。
 世界中の意図が、同時に流れ込んでくるんだから。
 嬉しいのも、苦しいのも、全部まとめて。」

「それでも、あなたはここにいる。」

「ええ。
 だって、これが私の仕事でしょう。
 ――世界を、最後まで見届ける仕事。」

リオは、ふとカナタを見る。

「じゃあ、君の仕事は。」

カナタは、ゆっくりと坂道の先を指さした。

「私の仕事は、選ばれなかった道に、意味を与えること。」

坂の先には、数え切れないほどの街路が広がっている。
戦争に疲れた世界が、仮想に逃げたまま戻ってこなかった未来。
エデン・リンクが暴走し、人の意識がひとつに溶けてしまった未来。
逆に、あらゆる接続を拒み、完全に分断された現実だけが残る未来。

そのどれもが、どこかで「あり得たかもしれない」世界。

「リオ。」
カナタがこちらを振り向く。

「あなたはもう、《観測者なき世界》の観測者じゃない。
 《E.L_INFINITY》の、共同設計者。
 だから、聞かせてほしい。」

彼女の瞳が、真っ直ぐにリオを射抜く。

「あなたは、《ユニティ・シティ》をどこへ連れていく?」

   ◇ ◇ ◇

沈黙が落ちた。

世界の歌が、少しだけ音量を下げる。
風が遠慮がちに吹き抜ける。

リオはしばらく何も言わなかった。
ただ、坂の上に広がる数え切れない選択肢を、ひとつずつ見つめていた。

便利さのために、自由を削る道。
自由のために、安心を投げ捨てる道。
誰かのために、誰かを諦める道。

どれもが、誰かにとっては正しく、
同時に、誰かにとっては間違っている。

「……主任。」
リオは、ナツメに問いかけた。

「あなたなら、どれを選びます?」

ナツメは少しだけ目を伏せ、風を深く吸い込む。

「私は、もう選べない立場よ。
 世界そのものになった時点で、
 どの道も否定できなくなった。」

「それは、逃げですか。」

「ううん。」

ナツメは、静かに首を振る。

「それは、観測者の限界。
 だからこそ、最後の選択は、まだ人間でいるあなたに託した。」

リオは、緩く笑った。

「ですよね。
 やっぱり、そういう流れですよね。」

カナタが口元を少しだけ緩める。

「怖い?」

「怖い。」

リオはあっさり認めた。

「どの道を選んでも、後悔は残る。
 選ばなかった現実が、こうして『カナタの街路』として並ぶって分かっているなら、なおさら。」

「でも。」

リオは、自分の胸に手を当てた。
心臓の鼓動と、アテナのコアの鼓動が、同じリズムで鳴っている。

「俺たちは、β版であり続けるためにここまで来た。
 完成しない世界を、完成させないまま走らせるために。」

ナツメが小さく頷く。

「そうね。」

「だったら。」

リオは、ひとつの道を選んで足を踏み出した。

それは、最も地味で、最も派手ではない街路。
巨大なタワーも、天に届く橋もない。
ただ、どこまでも続いていく、普通の舗装道路。

道端には、小さな公園。
雑多なカフェ。
壊れたままだけれど、なぜか捨てられない古いベンチ。

「これが、君の選択?」
カナタが隣に並ぶ。

リオは笑った。

「盛大な革命でも、完璧な平和でもなく。
 ただ、『歩き続けられる街』。」

彼は足元のアスファルトを軽く蹴る。

「転んでも、立ち上がる余地がある。
 間違えても、やり直せる。
 選んだ人間が、自分で責任を取れるくらいの柔らかさで。」

ナツメが、風の中で息を呑んだ気配がした。

「リオ。」

「観測者がいない世界じゃなくて、
 誰もが、自分の現実の観測者として立てる世界。
 システムも、アテナも、風も、全部はその補助。」

彼は空を見上げる。

「βの彼方へ行くんじゃない。
 βという未完成のまま、先へ伸びる街路にする。」

カナタはしばらく黙っていた。
やがて、小さな笑みを浮かべて言う。

「それは、新しい仕様書だね。」

ナツメの声が、風の奥から重なった。

「リオ・ハナブサ。
 観測者記録者から――設計者へ昇格よ。」

リオは肩をすくめる。

「昇格って言われると、残業が増える予感しかしません。」

三人の笑い声が、カナタの街路に溶けていった。

   ◇ ◇ ◇

世界のどこか。

《ユニティ・シティ》の中心で、アテナ・タワーが静かに光った。

《E.L_INFINITY》
phase:Genesis から phase:Path へ移行
mode:人類意図優先/世界自律補助

世界の歌が、少しだけ調性を変える。
壮大なシンフォニーではなく、
誰かが鼻歌で口ずさめるくらいのメロディへ。

子どもが風に向かって手を伸ばし、
老人がベンチに腰を下ろして空を見上げ、
通りすがりの誰かが、ふと歩みを緩めて深呼吸をする。

それぞれの小さな選択が、
世界のコードに「上書き」されていく。

観測者は、もういない。
けれど――誰もが、自分の現実の観測者になった。

   ◇ ◇ ◇

観測者記録 RIO_HANABUSA
タイトル βの彼方へ ではなく、その手前で
テキスト
世界は、まだβのままでいることを選んだ。
完成しないことを恐れず、
更新し続けることをやめない仕様。

選ばれなかった未来は、カナタの街路としてここに残る。
振り返るとき、迷うとき、立ち止まるとき、
そこに並んだ道が、次の一歩の参考になる。

俺たちは、神にはならない。
ただ、この舗装された現実を歩き続ける。
風間サトルが書き残した仕様書の余白に、
浅倉ナツメが記録したログの続きに、
俺たちの足跡というコードを刻み込む。

世界は、今日も更新中。
観測者がいなくても、
意図がある限り、βは終わらない。

   ◇ ◇ ◇

風が吹いた。

その風は、塔の上を通り、
カナタの街路を渡り、
まだ名前のない未来の街角へと流れていく。

そのたびに、どこかでひとつ、
新しい現実がコンパイルされた。
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