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01 天才魔術師、媚薬に戸惑う
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「はあ……今日も、本当疲れた……」
湯上がりの髪をざっと後ろに流し、部屋着のワンピースに着替える。
ヒルダ・ラインベルグは小さな棚からワインとチーズを取り出した。
薄茶の髪は、令嬢らしくきちんと結われていた形がほどけている。淡い紫の瞳には、微かな潤みも差していた。
ここは国立魔術研究塔。国の威信を背負う、魔術研究の最高機関だ。
個室を与えられるだけで名誉。家族にも誇られて然るべき立場──のはず。
それでもヒルダにとっては、もうただの“日常の部屋”に過ぎなかった。
ワインを注いで、一気にあおる。
チーズをかじると、やさぐれた心が少しだけほどけていった。
思い出すのは、さっきまでのことだ。
「本日の研究成果を口頭で報告せよ」──言われたのは、終業の鐘が鳴る直前だった。
報告を済ませても、問いが飛ぶ。
次も、その次も。掘り下げられて、終わらない。
結局、部屋に戻ったのは他の誰より遅かった。
「ほんと、酒でも飲まなきゃやってられない」
吐き捨てるようにこぼす。
彼女が仕えているのは、稀代の天才魔術師。
ドミニクス・グランツ。
魔力をほとんど持たないヒルダが助手として塔に入れたのは、幼い頃からの努力と成績──そして社交性あってのことだ。無魔力者が堂々と居られる数少ない職。誇らしいはずだった。
「あんのお子様……天才魔術師じゃなかったら、思う存分言い負かしてやるのに」
グラスを揺らしながら、ヒルダは心底そう思うのだった。
ドミニクスと初めて対面したのは、三年前。
銀灰色の髪を鎖骨の下まで無造作に束ねた青年が、猫背気味に立っていた。
光に濡れた深藍の瞳は、鋭さより影が濃い。
痩せた体躯を包むのは、黒地に銀糸を散らした特別仕様のローブ。威厳を示すはずなのに、どこか病的に繊細だった。
整った容姿を、暗い表情と不機嫌さが帳消しにしている。
そして彼は、ヒルダを見下ろした。
「そこの女が助手だと? しかも無魔力。私も侮られたものだな」
開口一番、中音で掠れがちの声。吐き捨てるように響く。
若さゆえの張りはあるのに、虚ろで棘ばかりが立っていた。
第一印象は、最悪。
周囲の魔術師たちがざわつき、取りなそうとする。恩人でもある上席研究員は青ざめて、「ラ、ラインベルグ君。挨拶を……」と促してきた。
「……ヒルダ・ラインベルグと申します。魔力はなくても、記録や整理でお役に立てるはずです。よろしくお願いいたします」
書物を扱うように胸元へ手を添え、優雅に一礼する。
(見返してやる。必ず)
内心では毒づきながらも、外には気品ある微笑みを崩さない。
ドミニクスは数秒だけ見つめ、すぐ鼻を鳴らした。
「……ふん。まあいいだろう。せいぜい役に立つことだな」
不遜さで取り繕うように背を向け、去っていく。
当時十七歳。ヒルダより四つ年下で幼さの残る顔立ちだったが、態度だけはすでに老獪な大魔術師そのものだった。
助手として働き始めて三ヶ月ほど経った頃。
その日も雑務を終え、夜更けに研究室へ戻ったヒルダは、偶然ドミニクスが研究に没頭している場面に出くわした。
研究室は電気も点いていない。集中のあまり、こちらの存在にまるで気づかない。
机上には光輪のような魔法陣が浮かんでいた。
虚空には数式が連なり、織り成される幻影が周囲を照らす。
魔法陣の中心では温かな光が脈打つように生まれ、空気をじんわり熱しては消える。
そしてまた立ち上がる。荒削りで不安定なのに、その繰り返しはどこか神聖で──美しい完成形を予感させた。
確かこれは、魔術師の助力なしに稼働し、悪天候や劣悪な環境でも人々に暖を与えるための新型装置。
実用化されれば、人々の暮らしを、文明ごと変えてしまうかもしれない代物だ。
小憎たらしい青年の実力を目の前に、ヒルダはただ圧倒された。
良いものを見せてもらった礼のつもりで、彼の視界に入らない机の端へ、研究中でもつまみやすいサンドイッチと茶を置く。
そっと。手早く。
そして部屋を出た。
──それだけの思いつきに過ぎなかった。
……のはずだった。
けれど、それを境にドミニクスの態度は目に見えて変わり始めた。
相変わらず不遜で生意気だが、呼び方が「女」から「助手」へ変わる。
文献整理や記録の段取りで抜群の要領を見せるヒルダに気づいたのか、彼女を遠ざけず、研究の傍らに置くようになった。
そうして共に過ごす時間が増えるにつれ、打ち解け方も強まっていった。
当然のようにお茶や軽食を要求する。
何をするにも「助手よ、付いて来い」と言う。
さらに──誰から聞きつけたのか、ヒルダが大の魔術好きだと知るや、得意げに魔術を披露してくるようになった。
花びらが舞う幻影を振りまき、「どうだ、助手よ。東方にしか咲かない花だ!」とふんぞり返る。
実験と称して魔術をかけてくることも増えた。
どんなものを浴びせられるのかと思えば、寒い日にじんわり温もりを与えたり、疲れを和らげたり。
心地のよいものばかりで、拍子が抜ける。
だがそれはそれとして──執務中、常にふよふよとヒルダの周囲にドミニクスの魔術痕が浮かび上がってしまうのは、正直言って恥ずかしかった。
「稀代の天才魔術師にここまで懐かれるとはな!」と上司や同期に笑われる始末である。
「グランツ様。あなたの魔術は素晴らしいものですから、そんな軽率にポンポンかけていただかなくても結構です」
──あくまで“勿体ないから”という体で遠慮してみせても、
「この程度の魔術、何てことはない! 有難く受け取っていればいいのだ」
子供のように吠え返されるのだった。
そして最近では。
昼間は寝てばかりのくせに、終業の鐘が鳴る頃になると「研究成果をまとめろ」と言い出すようになった。
先に済ませておこうと確認すると必要ないと突っぱねる。
なのに後から「やはり必要だ」と追加を命じる。
日常茶飯事。
おかげで、ヒルダが部屋を出るのは誰より遅くなってしまう。
結局のところ、手間のかかる子供に振り回されているようなものだ。
──そう思うと腹立たしい。腹立たしいのに。
完全に突き放す気には、なれなかった。
「まあ、だからといって面倒には変わらないんだけどね……」
ワインをもう一口あおり、椅子に背を預けて天井を見上げる。
根はきっと善良なのはわかっている。
だが厄介で手間がかかるのも事実だ。今日も急な残業で散々だった。
気を抜いた、そのとき。
廊下から、誰かが慌ただしく駆ける足音が響いてきた。
──こんな夜更けに?
疑問を抱く間もなく、扉が激しく叩かれる。
「開けてくれ! 助手よ、いるのだろう!」
……まさかの天才魔術師様が、夜更けに私室をノックしている。
非常識にもほどがある。
ヒルダは呆気に取られ、声も出なかった。
「頼む、助けてくれ! このままでは、私は……!」
切羽詰まった声。叩く音がさらに激しくなる。
ヒルダは今日いちばん深いため息をつき、渋々立ち上がった。
扉を開けた途端、ドミニクスが滑り込むように転がり込んでくる。
「……こんな夜更けに私室まで。一体何なのですか、騒がしい」
冷たい視線を投げかける。
彼は胸元を押さえ、荒く息をしていた。乱れた髪。熱に潤んだ瞳。紅潮した顔。ローブを纏った姿はひどく頼りなく、儚く見えた。
一瞬、視線がヒルダの顔から胸元へと流れる。
無防備な身体の線と、微かな突起。
気づいたらしく、ドミニクスは目を逸らした。そうして、小声で訴える。
「……頼む、匿ってくれ。私は術で隠れる。追っ手が来たら、『扉を開けずにいたら、諦めて上の階へ行った』と、そう伝え……」
言葉の終わりとともに、ドミニクスの姿が音もなくかき消えた。
「あっ、ちょっ──!」
状況が呑み込めない。
そのまま困惑していると、廊下から人の声が近づいてきた。
一部屋ずつノックして、短く言葉を交わしては次へ進んでいる。
やがて、ヒルダの扉が叩かれた。
「……はい」
扉を開けると、若い女性が護衛を連れて立っていた。
蜂蜜色の髪を丁寧に巻き上げた華やかな姿。胸元にリボンをあしらった可愛らしいドレスは、夜の研究塔にはいささか場違いだ。
……確か、魔術評議会の主席研究員の孫娘だったか。
「夜分遅くに申し訳ありません。あなたは……確かドミニクス様の助手の方、ですよね」
「ええ、そうですが」
「ドミニクス様を見かけませんでした? つい先ほどまでお話をしていたのですが……急にお体の具合が優れないと仰って。ほんのひととき、私たちだけで語らっていたのに、気づけばお姿がなくて……」
柔らかな声。
けれどそこには、まるで自分が最も近しい存在だと言わんばかりの含みがあった。
ヒルダは笑みを崩さず、淡々と返す。
「ああ。先ほどこちらに来られはしたんですが、こちらももう寝支度をしておりましたので開けませんでした」
わざとらしく欠伸をひとつ。
「足音を聞く限りでは、上の階へ向かわれたようですよ」
護衛の男がちらりとヒルダの姿を見て──湯上がりの装いに気づき、慌てて視線を逸らした。
その瞬間。
背後から、むんずと腰を掴まれる。
「ん、っ!?」思わず声が漏れた。
両脇から押さえ込むような強い力。背筋にぞわりとした感覚が走る。
直後、背後から微かな魔力の揺らぎ。
次の瞬間。
遠く離れた廊下から、カン、カン、カン……と規則正しい足音が反響した。
誰かが階段を上っていくかのように、はっきりと。
ヒルダの奇声に一瞬怪訝そうな表情を見せた孫娘と護衛たちも、その音に意識を奪われ、顔を見合わせる。
「……そうでしたか。夜分遅くに失礼いたしました。行きましょう」
孫娘は焦りを隠せないまま声をかけ、護衛を連れて足早に立ち去っていった。
塔の廊下に静寂が戻る。
けれど、腰を掴む両手はなお離れない。背中に熱と荒い息遣いがまとわりついていた。
パタン。
扉が閉まる音が、やけに大きい。
続いて、魔術で閉ざされる気配。施錠音が部屋に響く。
完全に二人きりの密室になって、ヒルダはようやく我に返った。
背後を鋭く睨む。
「……グランツ様。手をお離しください」
冷ややかな声音。
だが掴まれた腰はじんと熱を帯び、耳の後ろをかすめる吐息に、一瞬だけ身が強張った。
もう一度、氷を含んだような声で名を呼ぶ。
その瞬間──ぐりっと硬いものが尻に押し付けられ、全身に鳥肌が立った。
「っ、この……! いい加減にっ!」
「だっ!?」
ヒルダは振り返り、拳を振り上げる。
頭ひとつ高い位置めがけて──遠慮なく振り下ろした。
ごつん、と確かな手応え。
術が解け、ドミニクスの姿が現れる。
拳骨を受けた額を押さえ、涙目で佇む。色気を隠しきれない顔だ。次の瞬間にはよろめいて扉へ手をつき、腕の中に閉じ込められる形になった。
ヒルダは動揺を隠しきれず、扉とドミニクスを交互に見やってから問いかける。
「……あのご令嬢と“宵の語らい”の最中だったのでは? どうして抜け出して、ここまで来られるんですか」
「ち、違う! 私は断った! それでも無理やり同行させられて……挙句、茶に薬を混ぜられたのだ……」
首をぶんぶん横に振り、吐き捨てるように必死で言い募る。
尊大さで塗り固めてきたはずの天才魔術師が、今は追い詰められた獣みたいに切羽詰まっていた。
なるほど、とヒルダは悟る。
孫娘は正攻法で叶わず、よろしくない薬で無理やり既成事実を作ろうとしたのだ。
ドミニクスは態度はどうあれ、若く見目麗しい。将来有望な天才魔術師ともなれば、狙われるのも無理はない。
さすがに少しばかり同情もした。
「助手よ、助けてくれ……。寂しくて、満たされたくて……すごく、辛いんだ……」
言葉と同時に、正面からぐっと身を寄せてくる。
とろけた表情のまま、お腹に股間を擦りつけようとした。
「……待ってください!」
ヒルダは慌てて押しのける。
そのまま強引に引っ張り、トイレへ押し込んだ。
「それはお辛いですね! こちらをお使いください!」
「助手!? 何を──」
バタン、と扉を閉め、外側から押さえつける。
中から激しく叩く音。助けを求めて泣くような声。
──泣きたいのは、ヒルダの方だった。
湯上がりの髪をざっと後ろに流し、部屋着のワンピースに着替える。
ヒルダ・ラインベルグは小さな棚からワインとチーズを取り出した。
薄茶の髪は、令嬢らしくきちんと結われていた形がほどけている。淡い紫の瞳には、微かな潤みも差していた。
ここは国立魔術研究塔。国の威信を背負う、魔術研究の最高機関だ。
個室を与えられるだけで名誉。家族にも誇られて然るべき立場──のはず。
それでもヒルダにとっては、もうただの“日常の部屋”に過ぎなかった。
ワインを注いで、一気にあおる。
チーズをかじると、やさぐれた心が少しだけほどけていった。
思い出すのは、さっきまでのことだ。
「本日の研究成果を口頭で報告せよ」──言われたのは、終業の鐘が鳴る直前だった。
報告を済ませても、問いが飛ぶ。
次も、その次も。掘り下げられて、終わらない。
結局、部屋に戻ったのは他の誰より遅かった。
「ほんと、酒でも飲まなきゃやってられない」
吐き捨てるようにこぼす。
彼女が仕えているのは、稀代の天才魔術師。
ドミニクス・グランツ。
魔力をほとんど持たないヒルダが助手として塔に入れたのは、幼い頃からの努力と成績──そして社交性あってのことだ。無魔力者が堂々と居られる数少ない職。誇らしいはずだった。
「あんのお子様……天才魔術師じゃなかったら、思う存分言い負かしてやるのに」
グラスを揺らしながら、ヒルダは心底そう思うのだった。
ドミニクスと初めて対面したのは、三年前。
銀灰色の髪を鎖骨の下まで無造作に束ねた青年が、猫背気味に立っていた。
光に濡れた深藍の瞳は、鋭さより影が濃い。
痩せた体躯を包むのは、黒地に銀糸を散らした特別仕様のローブ。威厳を示すはずなのに、どこか病的に繊細だった。
整った容姿を、暗い表情と不機嫌さが帳消しにしている。
そして彼は、ヒルダを見下ろした。
「そこの女が助手だと? しかも無魔力。私も侮られたものだな」
開口一番、中音で掠れがちの声。吐き捨てるように響く。
若さゆえの張りはあるのに、虚ろで棘ばかりが立っていた。
第一印象は、最悪。
周囲の魔術師たちがざわつき、取りなそうとする。恩人でもある上席研究員は青ざめて、「ラ、ラインベルグ君。挨拶を……」と促してきた。
「……ヒルダ・ラインベルグと申します。魔力はなくても、記録や整理でお役に立てるはずです。よろしくお願いいたします」
書物を扱うように胸元へ手を添え、優雅に一礼する。
(見返してやる。必ず)
内心では毒づきながらも、外には気品ある微笑みを崩さない。
ドミニクスは数秒だけ見つめ、すぐ鼻を鳴らした。
「……ふん。まあいいだろう。せいぜい役に立つことだな」
不遜さで取り繕うように背を向け、去っていく。
当時十七歳。ヒルダより四つ年下で幼さの残る顔立ちだったが、態度だけはすでに老獪な大魔術師そのものだった。
助手として働き始めて三ヶ月ほど経った頃。
その日も雑務を終え、夜更けに研究室へ戻ったヒルダは、偶然ドミニクスが研究に没頭している場面に出くわした。
研究室は電気も点いていない。集中のあまり、こちらの存在にまるで気づかない。
机上には光輪のような魔法陣が浮かんでいた。
虚空には数式が連なり、織り成される幻影が周囲を照らす。
魔法陣の中心では温かな光が脈打つように生まれ、空気をじんわり熱しては消える。
そしてまた立ち上がる。荒削りで不安定なのに、その繰り返しはどこか神聖で──美しい完成形を予感させた。
確かこれは、魔術師の助力なしに稼働し、悪天候や劣悪な環境でも人々に暖を与えるための新型装置。
実用化されれば、人々の暮らしを、文明ごと変えてしまうかもしれない代物だ。
小憎たらしい青年の実力を目の前に、ヒルダはただ圧倒された。
良いものを見せてもらった礼のつもりで、彼の視界に入らない机の端へ、研究中でもつまみやすいサンドイッチと茶を置く。
そっと。手早く。
そして部屋を出た。
──それだけの思いつきに過ぎなかった。
……のはずだった。
けれど、それを境にドミニクスの態度は目に見えて変わり始めた。
相変わらず不遜で生意気だが、呼び方が「女」から「助手」へ変わる。
文献整理や記録の段取りで抜群の要領を見せるヒルダに気づいたのか、彼女を遠ざけず、研究の傍らに置くようになった。
そうして共に過ごす時間が増えるにつれ、打ち解け方も強まっていった。
当然のようにお茶や軽食を要求する。
何をするにも「助手よ、付いて来い」と言う。
さらに──誰から聞きつけたのか、ヒルダが大の魔術好きだと知るや、得意げに魔術を披露してくるようになった。
花びらが舞う幻影を振りまき、「どうだ、助手よ。東方にしか咲かない花だ!」とふんぞり返る。
実験と称して魔術をかけてくることも増えた。
どんなものを浴びせられるのかと思えば、寒い日にじんわり温もりを与えたり、疲れを和らげたり。
心地のよいものばかりで、拍子が抜ける。
だがそれはそれとして──執務中、常にふよふよとヒルダの周囲にドミニクスの魔術痕が浮かび上がってしまうのは、正直言って恥ずかしかった。
「稀代の天才魔術師にここまで懐かれるとはな!」と上司や同期に笑われる始末である。
「グランツ様。あなたの魔術は素晴らしいものですから、そんな軽率にポンポンかけていただかなくても結構です」
──あくまで“勿体ないから”という体で遠慮してみせても、
「この程度の魔術、何てことはない! 有難く受け取っていればいいのだ」
子供のように吠え返されるのだった。
そして最近では。
昼間は寝てばかりのくせに、終業の鐘が鳴る頃になると「研究成果をまとめろ」と言い出すようになった。
先に済ませておこうと確認すると必要ないと突っぱねる。
なのに後から「やはり必要だ」と追加を命じる。
日常茶飯事。
おかげで、ヒルダが部屋を出るのは誰より遅くなってしまう。
結局のところ、手間のかかる子供に振り回されているようなものだ。
──そう思うと腹立たしい。腹立たしいのに。
完全に突き放す気には、なれなかった。
「まあ、だからといって面倒には変わらないんだけどね……」
ワインをもう一口あおり、椅子に背を預けて天井を見上げる。
根はきっと善良なのはわかっている。
だが厄介で手間がかかるのも事実だ。今日も急な残業で散々だった。
気を抜いた、そのとき。
廊下から、誰かが慌ただしく駆ける足音が響いてきた。
──こんな夜更けに?
疑問を抱く間もなく、扉が激しく叩かれる。
「開けてくれ! 助手よ、いるのだろう!」
……まさかの天才魔術師様が、夜更けに私室をノックしている。
非常識にもほどがある。
ヒルダは呆気に取られ、声も出なかった。
「頼む、助けてくれ! このままでは、私は……!」
切羽詰まった声。叩く音がさらに激しくなる。
ヒルダは今日いちばん深いため息をつき、渋々立ち上がった。
扉を開けた途端、ドミニクスが滑り込むように転がり込んでくる。
「……こんな夜更けに私室まで。一体何なのですか、騒がしい」
冷たい視線を投げかける。
彼は胸元を押さえ、荒く息をしていた。乱れた髪。熱に潤んだ瞳。紅潮した顔。ローブを纏った姿はひどく頼りなく、儚く見えた。
一瞬、視線がヒルダの顔から胸元へと流れる。
無防備な身体の線と、微かな突起。
気づいたらしく、ドミニクスは目を逸らした。そうして、小声で訴える。
「……頼む、匿ってくれ。私は術で隠れる。追っ手が来たら、『扉を開けずにいたら、諦めて上の階へ行った』と、そう伝え……」
言葉の終わりとともに、ドミニクスの姿が音もなくかき消えた。
「あっ、ちょっ──!」
状況が呑み込めない。
そのまま困惑していると、廊下から人の声が近づいてきた。
一部屋ずつノックして、短く言葉を交わしては次へ進んでいる。
やがて、ヒルダの扉が叩かれた。
「……はい」
扉を開けると、若い女性が護衛を連れて立っていた。
蜂蜜色の髪を丁寧に巻き上げた華やかな姿。胸元にリボンをあしらった可愛らしいドレスは、夜の研究塔にはいささか場違いだ。
……確か、魔術評議会の主席研究員の孫娘だったか。
「夜分遅くに申し訳ありません。あなたは……確かドミニクス様の助手の方、ですよね」
「ええ、そうですが」
「ドミニクス様を見かけませんでした? つい先ほどまでお話をしていたのですが……急にお体の具合が優れないと仰って。ほんのひととき、私たちだけで語らっていたのに、気づけばお姿がなくて……」
柔らかな声。
けれどそこには、まるで自分が最も近しい存在だと言わんばかりの含みがあった。
ヒルダは笑みを崩さず、淡々と返す。
「ああ。先ほどこちらに来られはしたんですが、こちらももう寝支度をしておりましたので開けませんでした」
わざとらしく欠伸をひとつ。
「足音を聞く限りでは、上の階へ向かわれたようですよ」
護衛の男がちらりとヒルダの姿を見て──湯上がりの装いに気づき、慌てて視線を逸らした。
その瞬間。
背後から、むんずと腰を掴まれる。
「ん、っ!?」思わず声が漏れた。
両脇から押さえ込むような強い力。背筋にぞわりとした感覚が走る。
直後、背後から微かな魔力の揺らぎ。
次の瞬間。
遠く離れた廊下から、カン、カン、カン……と規則正しい足音が反響した。
誰かが階段を上っていくかのように、はっきりと。
ヒルダの奇声に一瞬怪訝そうな表情を見せた孫娘と護衛たちも、その音に意識を奪われ、顔を見合わせる。
「……そうでしたか。夜分遅くに失礼いたしました。行きましょう」
孫娘は焦りを隠せないまま声をかけ、護衛を連れて足早に立ち去っていった。
塔の廊下に静寂が戻る。
けれど、腰を掴む両手はなお離れない。背中に熱と荒い息遣いがまとわりついていた。
パタン。
扉が閉まる音が、やけに大きい。
続いて、魔術で閉ざされる気配。施錠音が部屋に響く。
完全に二人きりの密室になって、ヒルダはようやく我に返った。
背後を鋭く睨む。
「……グランツ様。手をお離しください」
冷ややかな声音。
だが掴まれた腰はじんと熱を帯び、耳の後ろをかすめる吐息に、一瞬だけ身が強張った。
もう一度、氷を含んだような声で名を呼ぶ。
その瞬間──ぐりっと硬いものが尻に押し付けられ、全身に鳥肌が立った。
「っ、この……! いい加減にっ!」
「だっ!?」
ヒルダは振り返り、拳を振り上げる。
頭ひとつ高い位置めがけて──遠慮なく振り下ろした。
ごつん、と確かな手応え。
術が解け、ドミニクスの姿が現れる。
拳骨を受けた額を押さえ、涙目で佇む。色気を隠しきれない顔だ。次の瞬間にはよろめいて扉へ手をつき、腕の中に閉じ込められる形になった。
ヒルダは動揺を隠しきれず、扉とドミニクスを交互に見やってから問いかける。
「……あのご令嬢と“宵の語らい”の最中だったのでは? どうして抜け出して、ここまで来られるんですか」
「ち、違う! 私は断った! それでも無理やり同行させられて……挙句、茶に薬を混ぜられたのだ……」
首をぶんぶん横に振り、吐き捨てるように必死で言い募る。
尊大さで塗り固めてきたはずの天才魔術師が、今は追い詰められた獣みたいに切羽詰まっていた。
なるほど、とヒルダは悟る。
孫娘は正攻法で叶わず、よろしくない薬で無理やり既成事実を作ろうとしたのだ。
ドミニクスは態度はどうあれ、若く見目麗しい。将来有望な天才魔術師ともなれば、狙われるのも無理はない。
さすがに少しばかり同情もした。
「助手よ、助けてくれ……。寂しくて、満たされたくて……すごく、辛いんだ……」
言葉と同時に、正面からぐっと身を寄せてくる。
とろけた表情のまま、お腹に股間を擦りつけようとした。
「……待ってください!」
ヒルダは慌てて押しのける。
そのまま強引に引っ張り、トイレへ押し込んだ。
「それはお辛いですね! こちらをお使いください!」
「助手!? 何を──」
バタン、と扉を閉め、外側から押さえつける。
中から激しく叩く音。助けを求めて泣くような声。
──泣きたいのは、ヒルダの方だった。
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