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07 持つもの、持たざるもの
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ヒルダは今日も、助手としての務めを淡々とこなしていた。
勤務時間中も、外出時にも、入浴するときも、眠るときも。制服の下には、いつもドミニクスから贈られたお守りを下げている。
研究員や助手たちとの会話も変わらず、顔馴染みばかり。
何も変わらない日常に安堵を覚える一方で、ふとした瞬間に、先日の不穏な出来事が脳裏をよぎる。そんなとき、胸元に手を当てお守りの存在を確かめると、僅かな熱に少しだけ息が落ち着いた。
そのまま思考の波に身を任せつつ、ヒルダは手元の資料をぱらぱらとめくって机に置く。
次の資料を取り上げ、同じように目を通そうとした──そのとき。
ぽん、と軽い音がした。
「……へぇっ?」
間の抜けた声が漏れてしまった。
目の前の空間に、ひとひらの光が浮かんでいる。花弁を幾重にも重ねた白い花が、ゆるやかに宙を舞い、くるくると回転しながら机の上へと降りてきた。淡い光を纏い、まるで命を宿しているように見える。
呆気に取られたまま、ヒルダはその花をそっと摘み取った。手のひらに落とした瞬間、かすかな重みと温もりが伝わる。
その静寂を破るように、背後から笑い声が響いた。
「…………グランツ様」
振り向いた先で、彼はまるで悪戯を成功させた少年のように、くつくつと喉の奥で笑っていた。
「……いきなり何をなさるんですか」
「気分転換だ。たまにはいいだろう」
抗議めいた声色に、ドミニクスは微笑を深め、何でもないように言った。
ヒルダはひとつため息を吐き、手の中の花弁を見つめる。
それは、厚みのある白い花弁を幾重にも重ね、端にいくほどに淡い黄を帯びている。小ぶりながらも凛とした形。確か以前、東方の植物図鑑で見た──寒気の名残を溶かすように咲く花。
「これは……いつか見せてくださった東方の花、ですよね?」
「ああ。さっき資料で見て、現物が見たくなってしまった」
「だからって。私の目の前に、急に出すことがありますか」
「助手なら見せに来てくれるだろう?」
机の上に頬杖を突きながら、上機嫌な様子を見せる。
その表情に、先ほどまでの不安がほどけていった。
「……綺麗ですね」
「ああ。とても──綺麗だ」
ドミニクスは目を細め、彼女を見つめながら満足げに頷く。
いたずらにしては可愛らしく、柔らかくヒルダに寄り添ってくれる魔術。
彼なりの気遣いに、ヒルダは胸に手を添え微笑んだ。
その日の午後は、どこか空気が違っていた。
研究塔の一角──普段は訪れることのない部屋に、ドミニクスとヒルダは呼び出されていた。声をかけてきたのは、普段ほとんど接点のない研究員だった。
「研究の件で相談がある」と言われ、ドミニクスの手を煩わせたくなかったヒルダは、最初はひとりで話を聞くつもりだった。だが、相手はどうしても「ドミニクス本人にも同席してほしい」と譲らず、結局、二人で足を運ぶことになった。
呼び出された先は、下層の隅にある実験室。古い魔術器具が雑然と並び、壁一面には褪せた紋章が刻まれている。窓は古びた厚手のカーテンで覆われ、光も音も遮られている。時計ひとつ置かれておらず、今が昼か夜かさえわからない。閉塞感に息が詰まりそうだった。
相談の内容は、表面上は研究協力の申し出だった。
だが、話を聞くほどに奇妙だった。主題は曖昧で、専門分野も違う。ヒルダから見ても、明らかにドミニクスの管轄外。それを伝えても、相手は引く気配を見せない。言葉の端々がどこか焦っており、話の核心を避けているようにも感じられた。
(……何が、目的なの……)
不審を覚えた瞬間、ドミニクスが小さく息を吐いた。
「これ以上は時間の無駄だ。帰らせてもらう」
静かな声でそう言うと、席を立ち、ヒルダの手を取った。力強く引かれるままに、彼女も立ち上がる。
扉を開け放つと、外の空気が流れ込んだ。閉ざされた部屋の重苦しさが、ようやく霧散していくようだった。
廊下に出てから、ドミニクスが掠れ声で呟く。
「……何なんだ。あれは」
「……正直、すごく疲れました……」
「そうだな。もう夜ではないか」
ドミニクスは笑みを浮かべ、ヒルダへと向く。
「戻ったら、食堂だな」
「ふふ、そうですね」
そんな他愛ないやり取りを交わしながら、二人は階段を上り、研究室の前に辿り着いた。ヒルダがドアノブに手をかけようとした──その瞬間だった。
胸元で、お守りがジジジ……と不快な音を立てる。
金属を焦がすような熱が広がり、指先までじり、と焼ける感覚が走った。
思わず手を離す。
「……グランツ様」
「ああ。感じた」
ドミニクスも同時に異変を察していた。
彼は即座に指先で空気をなぞる。淡い光の膜が、二人の前に瞬時に展開される──即応の防御魔術。
短く視線を交わし、一拍の間を置いてから、静かに扉を押し開けた。
軋む音。冷たい空気が、部屋の外へと溢れ出す。
室内には、一人の男が立っていた。
見覚えのある、薄紫の長髪。ドミニクスの兄、ゲイル・グランツ。
「……義兄上(あにうえ)。どうやって、ここに入ったのですか」
「どうやって? ただ扉を開けただけだ。そんな当たり前のことも分からないのか、貴様は」
「この部屋には侵入者を検知する結界が張ってあります。それが作動しなかった。──いったい、何をしたのです」
「知らんな。──壊れていたのではないか?」
鼻で笑いながら返すゲイル。
その声音には、兄弟の情など一片もなかった。
言葉を交わすたび、冷たく研がれた刃のような緊張が空気を裂いていく。
ゲイルは兄というだけあって、魔術師としての地位も高いのだろうか。だがその装いは、ドミニクスのような特別仕様の銀糸入りではなく、ごく一般的な魔術師のローブ。それでも、自らがこの場で最も高位だと言わんばかりの尊大さが、その立ち居振る舞いの端々ににじませている。
「それで一体、この研究室に何の用ですか。義弟(わたし)の研究など、価値のないものと見下していたのに。……勝手に物色するくらいには興味を持たれていたとは、意外でした」
ぴくり、とゲイルの眉が跳ねた。
顔に露骨な不快の色が浮かぶ。
「私が好き好んでこんな場所に来るものか。──跡取りとして育てられながら、家の名を汚すような真似をしている貴様を、監視するためだ。
貴様は育ててもらった恩を忘れ、家を継ぐ資格を投げ捨てた。……許されないことだ」
ドミニクスはゆっくりと顔を上げる。
声は静かだが、底に張りつめた冷気があった。
「跡取りとして育てられたことは事実です。ですが、私はあなた方の思想を受け入れることはできません。破壊を誇り、人を傷つけることを正義とする理屈に、従う気はない」
「思うのは勝手だ。だが、貴様には責任がある。力もある。それを持ちながら、反発もせずにただ逃げているだけだ」
「私は義父上(ちちうえ)から、“塔で研究に励め”としか言われていません。──内容までは指定されていない」
「口答えを──!」
怒号が研究室を震わせた。
しかしゲイルはすぐに息を呑み、抑え込むように言葉を続けた。
「塔にまで押し上げてもらった恩も忘れ、家の名に泥を塗り……そのうえ彼女まで……」
一瞬、言葉を切る。
次の瞬間、怒りが弾けた。
「──プリメラの件だ! お前は彼女を修道院送りにした。彼女の好意を“事件”へと仕立て上げ、同胞の立場まで危うくした。……忘れたとは言わせない!」
その名が出た瞬間、ドミニクスの表情が凍りついた。
瞳が冷え、声の温度が下がる。
「薬を盛られたのは私の方です。私は証拠を上層部に提出し、結果、罪と認められ処罰された。──それだけのことです」
ヒルダの心臓が強く跳ねた。
まるで今ようやく点と点が繋がったように──あの夜の“彼の苦しみ”の意味を悟る。
その瞬間、空気が弾けた。
ゲイルの顔が怒気で紅潮し、拳が震える。
「っ、この──ッ!!」
空気が唸った。
ゲイルの放った魔力が暴発し、周囲の書物が一斉に宙へと舞い上がる。何十冊もの本が軌跡を描きながら渦を巻き、鋭い刃のような勢いでドミニクスへと殺到しようとした──刹那。
「……早速、役に立つことになるとはな」
ドミニクスは一歩も動かず、ただ静かに息を吐いた。
足元に淡い光が走る。魔力が床の紋へと流れ込み、波紋のように広がっていく。
続けて、室内の藍の石が一斉に閃いた。光が石から石へと駆け抜けて、見えない線が瞬く間に部屋を包み込む。次の瞬間、襲いかかっていた書物の群れがぴたりと動きを止めた。
時間そのものが凍りついたような静寂。浮かび上がっていた本は、糸が切れたようにふわりと落ち、床に柔らかい音を立てて重なっていく。
積み重なる音がいくつも連なり、やがて、研究室には再び静寂が戻った。
ドミニクスは魔力を収め、淡々と告げた。
「その程度で、私を害せると思えたのだから──貴方は跡取りに選ばれなかったのでしょう」
完全に無効化された自らの魔術を前に、ゲイルは呆然と立ち尽くす。
対するドミニクスは一歩も動かず、冷ややかな眼差しでただ見下ろしていた。
沈黙のまま、ゲイルはふらりと背を向け、出口へと歩き出す。すれ違いざま、彼の指先がわずかに動いた。
瞬間、ヒルダの胸元でお守りが激しく震え、熱を帯びる。
「──!」
パァン、と弾ける音。
風圧が頬をかすめ、結い上げた髪の一房が激しく揺れた。背後では積まれた書類が宙に舞う。
衝撃はほとんどなかった。ヒルダの周囲にドミニクスの魔術痕が浮かび上がるのを見て、防御魔術が発動したのだと気付く。
「貴様ッ!!」
怒声が、空気を焼き尽くした。
膨れ上がる魔力の奔流が床と壁を震わせ、圧が満ちる。紙片がばらばらと舞い上がり、渦を巻く。
ゲイルはその様子を愉快そうに見下ろし、鼻で笑った。
「無魔力の女を抱え込んでるって噂、本当だったんだな! 二人で仲良くままごとでもしていろ!」
下卑た笑いが響く。
その声は、扉が自然に閉じる頃にはもう掻き消えていた。
扉が閉まり、静寂が戻る。
残された空気には、焦げつくような魔力の余韻がまだ漂っていた。
ドミニクスは荒ぶった気がすぐには収まらないのか、肩で荒く息をしていた。
ヒルダは黙ってその背を見つめる。
はあ、と深く息を吐き、ドミニクスはヒルダの方へと向き直る。先ほどの衝撃で揺れた髪を気遣うように、彼の手のひらがゆっくりと横髪へ添えられた。
「助手よ……怪我は、無いか」
その声は、先ほどまでの怒気の反動かのようにわずかに震えていた。
ヒルダはこくりと頷き、彼の瞳をまっすぐに見返す。
「はい。グランツ様の魔術と……お守りのおかげで、私は無事です」
「……そうか」
短く息を吐き、ドミニクスは目を伏せる。口元には、笑みとも嘲りともつかない表情が浮かんでいた。
「……驚いた、だろう。あんな奴が義兄(あに)だなんて。
あれにとっては、攻撃力や殺傷力の高い魔術こそが“素晴らしい価値”らしい。私のように、魔術師を不要とするような、環境や設備を整えるための魔術などは、低俗と呼ぶに値するのだそうだ」
ドミニクスは鼻で笑い、わずかに肩をすくめる。
「分野は違えど、どの魔術にも意味はある──“熱力としての使い道”が違うだけだ。だが……あそこまで浅ましく、器の小さい、話の通じない人間だと……私は思っていなかった」
冷たい皮肉を吐き捨てるように言い、短く笑う。その姿が痛々しくて、ヒルダの胸が激しく締めつけられる。
横髪のそばに添えられていた彼の手に、そっと自分の手を重ねる。
そのまま顔の横から手を取り、二人の間──胸の高さほどの位置へと移した。ドミニクスの手の甲を上にして、ヒルダは両手でそれを包み込む。
「っ、……ヒル、ダ」
掠れた声が名を呼ぶ。
ヒルダはそのまま、彼の瞳をまっすぐに見つめた。
「……私は、貴方を素晴らしい魔術師だと尊敬しています。他者を思いやることができて、自分の身を削ってでも、人を守るための──温かくて、優しい研究をしている。
そんな貴方……の魔術が、私は好きです」
最初は、気落ちしているドミニクスを励ますつもりだった。
けれど、言葉を紡ぐうちに胸の奥が熱を帯び、いつの間にか──ずっと心の底で育ててきた、彼への愛しさを自覚してしまった。
それでも、“貴方が好き”と告げる代わりに、慌てて“魔術”と付け加える。
ヒルダが指先にほんのわずか力を込めると、ドミニクスも応えるように、もう片方の手を重ねてきた。細身な身体に似合わぬほど大きく、長くて細い指。
その指先から伝わる熱が、ヒルダの胸の奥をじんわりと温めていく。
「……有難う」
息に溶けた声は、どこまでも穏やかで、深い安堵を帯びていた。
ヒルダは目を閉じ、繋がれた手のぬくもりに静かに身を委ねた。
勤務時間中も、外出時にも、入浴するときも、眠るときも。制服の下には、いつもドミニクスから贈られたお守りを下げている。
研究員や助手たちとの会話も変わらず、顔馴染みばかり。
何も変わらない日常に安堵を覚える一方で、ふとした瞬間に、先日の不穏な出来事が脳裏をよぎる。そんなとき、胸元に手を当てお守りの存在を確かめると、僅かな熱に少しだけ息が落ち着いた。
そのまま思考の波に身を任せつつ、ヒルダは手元の資料をぱらぱらとめくって机に置く。
次の資料を取り上げ、同じように目を通そうとした──そのとき。
ぽん、と軽い音がした。
「……へぇっ?」
間の抜けた声が漏れてしまった。
目の前の空間に、ひとひらの光が浮かんでいる。花弁を幾重にも重ねた白い花が、ゆるやかに宙を舞い、くるくると回転しながら机の上へと降りてきた。淡い光を纏い、まるで命を宿しているように見える。
呆気に取られたまま、ヒルダはその花をそっと摘み取った。手のひらに落とした瞬間、かすかな重みと温もりが伝わる。
その静寂を破るように、背後から笑い声が響いた。
「…………グランツ様」
振り向いた先で、彼はまるで悪戯を成功させた少年のように、くつくつと喉の奥で笑っていた。
「……いきなり何をなさるんですか」
「気分転換だ。たまにはいいだろう」
抗議めいた声色に、ドミニクスは微笑を深め、何でもないように言った。
ヒルダはひとつため息を吐き、手の中の花弁を見つめる。
それは、厚みのある白い花弁を幾重にも重ね、端にいくほどに淡い黄を帯びている。小ぶりながらも凛とした形。確か以前、東方の植物図鑑で見た──寒気の名残を溶かすように咲く花。
「これは……いつか見せてくださった東方の花、ですよね?」
「ああ。さっき資料で見て、現物が見たくなってしまった」
「だからって。私の目の前に、急に出すことがありますか」
「助手なら見せに来てくれるだろう?」
机の上に頬杖を突きながら、上機嫌な様子を見せる。
その表情に、先ほどまでの不安がほどけていった。
「……綺麗ですね」
「ああ。とても──綺麗だ」
ドミニクスは目を細め、彼女を見つめながら満足げに頷く。
いたずらにしては可愛らしく、柔らかくヒルダに寄り添ってくれる魔術。
彼なりの気遣いに、ヒルダは胸に手を添え微笑んだ。
その日の午後は、どこか空気が違っていた。
研究塔の一角──普段は訪れることのない部屋に、ドミニクスとヒルダは呼び出されていた。声をかけてきたのは、普段ほとんど接点のない研究員だった。
「研究の件で相談がある」と言われ、ドミニクスの手を煩わせたくなかったヒルダは、最初はひとりで話を聞くつもりだった。だが、相手はどうしても「ドミニクス本人にも同席してほしい」と譲らず、結局、二人で足を運ぶことになった。
呼び出された先は、下層の隅にある実験室。古い魔術器具が雑然と並び、壁一面には褪せた紋章が刻まれている。窓は古びた厚手のカーテンで覆われ、光も音も遮られている。時計ひとつ置かれておらず、今が昼か夜かさえわからない。閉塞感に息が詰まりそうだった。
相談の内容は、表面上は研究協力の申し出だった。
だが、話を聞くほどに奇妙だった。主題は曖昧で、専門分野も違う。ヒルダから見ても、明らかにドミニクスの管轄外。それを伝えても、相手は引く気配を見せない。言葉の端々がどこか焦っており、話の核心を避けているようにも感じられた。
(……何が、目的なの……)
不審を覚えた瞬間、ドミニクスが小さく息を吐いた。
「これ以上は時間の無駄だ。帰らせてもらう」
静かな声でそう言うと、席を立ち、ヒルダの手を取った。力強く引かれるままに、彼女も立ち上がる。
扉を開け放つと、外の空気が流れ込んだ。閉ざされた部屋の重苦しさが、ようやく霧散していくようだった。
廊下に出てから、ドミニクスが掠れ声で呟く。
「……何なんだ。あれは」
「……正直、すごく疲れました……」
「そうだな。もう夜ではないか」
ドミニクスは笑みを浮かべ、ヒルダへと向く。
「戻ったら、食堂だな」
「ふふ、そうですね」
そんな他愛ないやり取りを交わしながら、二人は階段を上り、研究室の前に辿り着いた。ヒルダがドアノブに手をかけようとした──その瞬間だった。
胸元で、お守りがジジジ……と不快な音を立てる。
金属を焦がすような熱が広がり、指先までじり、と焼ける感覚が走った。
思わず手を離す。
「……グランツ様」
「ああ。感じた」
ドミニクスも同時に異変を察していた。
彼は即座に指先で空気をなぞる。淡い光の膜が、二人の前に瞬時に展開される──即応の防御魔術。
短く視線を交わし、一拍の間を置いてから、静かに扉を押し開けた。
軋む音。冷たい空気が、部屋の外へと溢れ出す。
室内には、一人の男が立っていた。
見覚えのある、薄紫の長髪。ドミニクスの兄、ゲイル・グランツ。
「……義兄上(あにうえ)。どうやって、ここに入ったのですか」
「どうやって? ただ扉を開けただけだ。そんな当たり前のことも分からないのか、貴様は」
「この部屋には侵入者を検知する結界が張ってあります。それが作動しなかった。──いったい、何をしたのです」
「知らんな。──壊れていたのではないか?」
鼻で笑いながら返すゲイル。
その声音には、兄弟の情など一片もなかった。
言葉を交わすたび、冷たく研がれた刃のような緊張が空気を裂いていく。
ゲイルは兄というだけあって、魔術師としての地位も高いのだろうか。だがその装いは、ドミニクスのような特別仕様の銀糸入りではなく、ごく一般的な魔術師のローブ。それでも、自らがこの場で最も高位だと言わんばかりの尊大さが、その立ち居振る舞いの端々ににじませている。
「それで一体、この研究室に何の用ですか。義弟(わたし)の研究など、価値のないものと見下していたのに。……勝手に物色するくらいには興味を持たれていたとは、意外でした」
ぴくり、とゲイルの眉が跳ねた。
顔に露骨な不快の色が浮かぶ。
「私が好き好んでこんな場所に来るものか。──跡取りとして育てられながら、家の名を汚すような真似をしている貴様を、監視するためだ。
貴様は育ててもらった恩を忘れ、家を継ぐ資格を投げ捨てた。……許されないことだ」
ドミニクスはゆっくりと顔を上げる。
声は静かだが、底に張りつめた冷気があった。
「跡取りとして育てられたことは事実です。ですが、私はあなた方の思想を受け入れることはできません。破壊を誇り、人を傷つけることを正義とする理屈に、従う気はない」
「思うのは勝手だ。だが、貴様には責任がある。力もある。それを持ちながら、反発もせずにただ逃げているだけだ」
「私は義父上(ちちうえ)から、“塔で研究に励め”としか言われていません。──内容までは指定されていない」
「口答えを──!」
怒号が研究室を震わせた。
しかしゲイルはすぐに息を呑み、抑え込むように言葉を続けた。
「塔にまで押し上げてもらった恩も忘れ、家の名に泥を塗り……そのうえ彼女まで……」
一瞬、言葉を切る。
次の瞬間、怒りが弾けた。
「──プリメラの件だ! お前は彼女を修道院送りにした。彼女の好意を“事件”へと仕立て上げ、同胞の立場まで危うくした。……忘れたとは言わせない!」
その名が出た瞬間、ドミニクスの表情が凍りついた。
瞳が冷え、声の温度が下がる。
「薬を盛られたのは私の方です。私は証拠を上層部に提出し、結果、罪と認められ処罰された。──それだけのことです」
ヒルダの心臓が強く跳ねた。
まるで今ようやく点と点が繋がったように──あの夜の“彼の苦しみ”の意味を悟る。
その瞬間、空気が弾けた。
ゲイルの顔が怒気で紅潮し、拳が震える。
「っ、この──ッ!!」
空気が唸った。
ゲイルの放った魔力が暴発し、周囲の書物が一斉に宙へと舞い上がる。何十冊もの本が軌跡を描きながら渦を巻き、鋭い刃のような勢いでドミニクスへと殺到しようとした──刹那。
「……早速、役に立つことになるとはな」
ドミニクスは一歩も動かず、ただ静かに息を吐いた。
足元に淡い光が走る。魔力が床の紋へと流れ込み、波紋のように広がっていく。
続けて、室内の藍の石が一斉に閃いた。光が石から石へと駆け抜けて、見えない線が瞬く間に部屋を包み込む。次の瞬間、襲いかかっていた書物の群れがぴたりと動きを止めた。
時間そのものが凍りついたような静寂。浮かび上がっていた本は、糸が切れたようにふわりと落ち、床に柔らかい音を立てて重なっていく。
積み重なる音がいくつも連なり、やがて、研究室には再び静寂が戻った。
ドミニクスは魔力を収め、淡々と告げた。
「その程度で、私を害せると思えたのだから──貴方は跡取りに選ばれなかったのでしょう」
完全に無効化された自らの魔術を前に、ゲイルは呆然と立ち尽くす。
対するドミニクスは一歩も動かず、冷ややかな眼差しでただ見下ろしていた。
沈黙のまま、ゲイルはふらりと背を向け、出口へと歩き出す。すれ違いざま、彼の指先がわずかに動いた。
瞬間、ヒルダの胸元でお守りが激しく震え、熱を帯びる。
「──!」
パァン、と弾ける音。
風圧が頬をかすめ、結い上げた髪の一房が激しく揺れた。背後では積まれた書類が宙に舞う。
衝撃はほとんどなかった。ヒルダの周囲にドミニクスの魔術痕が浮かび上がるのを見て、防御魔術が発動したのだと気付く。
「貴様ッ!!」
怒声が、空気を焼き尽くした。
膨れ上がる魔力の奔流が床と壁を震わせ、圧が満ちる。紙片がばらばらと舞い上がり、渦を巻く。
ゲイルはその様子を愉快そうに見下ろし、鼻で笑った。
「無魔力の女を抱え込んでるって噂、本当だったんだな! 二人で仲良くままごとでもしていろ!」
下卑た笑いが響く。
その声は、扉が自然に閉じる頃にはもう掻き消えていた。
扉が閉まり、静寂が戻る。
残された空気には、焦げつくような魔力の余韻がまだ漂っていた。
ドミニクスは荒ぶった気がすぐには収まらないのか、肩で荒く息をしていた。
ヒルダは黙ってその背を見つめる。
はあ、と深く息を吐き、ドミニクスはヒルダの方へと向き直る。先ほどの衝撃で揺れた髪を気遣うように、彼の手のひらがゆっくりと横髪へ添えられた。
「助手よ……怪我は、無いか」
その声は、先ほどまでの怒気の反動かのようにわずかに震えていた。
ヒルダはこくりと頷き、彼の瞳をまっすぐに見返す。
「はい。グランツ様の魔術と……お守りのおかげで、私は無事です」
「……そうか」
短く息を吐き、ドミニクスは目を伏せる。口元には、笑みとも嘲りともつかない表情が浮かんでいた。
「……驚いた、だろう。あんな奴が義兄(あに)だなんて。
あれにとっては、攻撃力や殺傷力の高い魔術こそが“素晴らしい価値”らしい。私のように、魔術師を不要とするような、環境や設備を整えるための魔術などは、低俗と呼ぶに値するのだそうだ」
ドミニクスは鼻で笑い、わずかに肩をすくめる。
「分野は違えど、どの魔術にも意味はある──“熱力としての使い道”が違うだけだ。だが……あそこまで浅ましく、器の小さい、話の通じない人間だと……私は思っていなかった」
冷たい皮肉を吐き捨てるように言い、短く笑う。その姿が痛々しくて、ヒルダの胸が激しく締めつけられる。
横髪のそばに添えられていた彼の手に、そっと自分の手を重ねる。
そのまま顔の横から手を取り、二人の間──胸の高さほどの位置へと移した。ドミニクスの手の甲を上にして、ヒルダは両手でそれを包み込む。
「っ、……ヒル、ダ」
掠れた声が名を呼ぶ。
ヒルダはそのまま、彼の瞳をまっすぐに見つめた。
「……私は、貴方を素晴らしい魔術師だと尊敬しています。他者を思いやることができて、自分の身を削ってでも、人を守るための──温かくて、優しい研究をしている。
そんな貴方……の魔術が、私は好きです」
最初は、気落ちしているドミニクスを励ますつもりだった。
けれど、言葉を紡ぐうちに胸の奥が熱を帯び、いつの間にか──ずっと心の底で育ててきた、彼への愛しさを自覚してしまった。
それでも、“貴方が好き”と告げる代わりに、慌てて“魔術”と付け加える。
ヒルダが指先にほんのわずか力を込めると、ドミニクスも応えるように、もう片方の手を重ねてきた。細身な身体に似合わぬほど大きく、長くて細い指。
その指先から伝わる熱が、ヒルダの胸の奥をじんわりと温めていく。
「……有難う」
息に溶けた声は、どこまでも穏やかで、深い安堵を帯びていた。
ヒルダは目を閉じ、繋がれた手のぬくもりに静かに身を委ねた。
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アゼット様。まだ間に合います。
今なら、引き返せますよ?
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