【完結】媚薬を盛られた天才魔術師様を、助手の私が介抱することになりまして

物村

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06 恩師の登場、もしものお守り

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突貫で張った防護結界は、あのあとも問題なく動作しているようだった。
ヒルダにはほとんど発動の気配は拾えないが、ドミニクスの説明では「侵入者に気づかれぬよう、探知の閾値を低く設定してある」という。確かに、とヒルダは頷いて返す。

今進めている主研究こそ最優先だが、この結界も実用化すれば大きな価値を持つだろう。
塔の安全管理にも応用できるし、一般の施設でも需要がある。どこかの機会で提案してみてもいいかもしれない。

先日交わしたやりとりを思い出しながら、並んで歩くドミニクスを横目で見る。

「……何か?」
「いえ、何も」
「……そうか」

短い会話。それだけでまた、静かな足音だけが廊下に戻る。案外ドミニクスは気配に敏い。前にもこんなことがあった気がして、少し気をつけようと思う。

そのまま二人は歩を進める。
この日は、下層倉庫の資料棚に必要な素材を取りに行く用事があり、ヒルダとドミニクスは並んで階段を降りていた。その先の廊下から、白衣姿の女性が手を振りながら歩いてくる。

「やあ、ラインベルグ君じゃないか。奇遇だね」
「エイプリル先生!」

ふわりと揺れるウェーブボブの赤髪に、丸い眼鏡。その奥で柔らかく微笑んでいるのは、王立魔術研究塔・上席研究員──アンナ・エイプリル。ヒルダを塔へと導き、ドミニクスとの縁を繋いだ恩師でもある。

「お元気そうで嬉しいです」

笑顔で駆け寄ったヒルダが、制服のワンピースの裾を軽く摘まみ、淑やかに一礼する。アンナは「いいよ、そんなにかしこまらなくても」と、目を細めながら頷いた。

「クララもユリウスも元気でやってるかい? クララとは手紙のやり取りしてるけど、しばらく会ってないなあ」
「はい。母も父も、相変わらず研究ばかりですが……楽しそうにしています」
「ははっ、そりゃあいい」

懐かしそうに笑うアンナ。
その隣で、会話の流れについていけずに立ち尽くしていたドミニクスへと、興味深そうな眼差しを向けた。
笑みの奥に、探るような光が一瞬だけ覗く。彼女はまるで相手の輪郭を測るように目を細めた。

「君は……ドミニクス・グランツ君だね。私はアンナ・エイプリルだ。三年前、君たちの顔合わせの時、同席していたのを覚えているかい? 挨拶まではできなかったけれど」

ドミニクスは一度、考えるように眉を寄せたが、すぐに答える。

「……覚えていない。研究以外の余計なことは極力頭に入れないようにしているのでな」
「グランツ様!」

ヒルダが叫ぶと同時に、アンナは笑い声を洩らす。

「あははっ! ずいぶんと棘のある返事だ。──いかにも高位の魔術師らしい。
でもね、君。研究に熱心なのはいいことだけど、どうやら周りを敵と決めつける癖があるみたいだね。もう少し視野を広げるといい。新しく見えてくることもあると思うよ。……きっとね」

レンズの奥の瞳は笑っていない。その一言は見事に核心を突いていた。ドミニクスは、はっとしたように目を見開き、次の瞬間には頭を下げていた。

「……礼を欠いたこと、詫びをする」

先ほどまでの棘も傲慢さもなく、素直な反省の色が滲む謝罪。アンナはその様子に、わずかに目を丸くし、感心したように息を漏らした。

「おや? 素直なんだね、意外だなあ。──いいね、見直したよ。
さて、ラインベルグ君は役に立ってるかい? 見たところ、優秀な助手のようだけど」

不意の問いにヒルダは驚き、ドミニクスを見上げる。
ドミニクスは少しの間、何かを思案するように黙り込んだが──やがてゆっくりと顔を上げ、アンナの瞳をまっすぐに見据えた。

「……彼女は、私にとって欠かせない存在だ。補佐としてだけでなく、私の隣で研究を支え、私という人間そのものを見てくれる──唯一の人だ。
……彼女がいなければ、私はここまで来られなかった」

まるで告白のような、あまりに真っ直ぐな言葉。ヒルダの頬がみるみる赤く染まり、頭から煙が立ち上るような気がした。
そんな二人を見て、アンナの笑みがふっと深まった。

「なるほど。……助手以上、というわけだね?」
「っ……! あ、そ、そういう意味では! いや、違──!」
「ははっ、すまないね。からかったつもりじゃないんだ。──気に入ったよ、グランツ君」

耳まで真っ赤になったドミニクスを見て、アンナは愉快そうに肩を揺らした。

「じゃあね、二人とも。今度またゆっくり話そう」

アンナは白衣の裾を翻し、軽やかに歩き出す。二人は互いに顔を赤らめたまま、その背を見送った。やがて角を曲がり、白衣の裾が視界から消える。

「……塔の上層部は、もっと頭の硬い連中ばかりだと思っていた」
「それは言い過ぎですよ。……でもまあ、わからなくもないです。エイプリル先生は、かなりの例外ですから」
「そうか」

ヒルダが「行きましょうか」と声をかけ、先に歩き出す。ドミニクスはその背を追いながら、わずかに俯いた。

「……周りを敵と決めつける癖、か……」

小さく漏れた言葉は、ヒルダの耳には届かなかった。



下層倉庫に着くと、二人は必要な素材を確認し合いながら、棚を順に巡っていった。
ヒルダが記録表を読み上げ、ドミニクスが番号を確かめる。無駄のない手際で作業は進み、木箱の中はあっという間に素材で埋まっていく。

「この量で足りるはずだ」
「はい。返却日は──あ、十日後ですね。記入しておきます」

ヒルダが備え付けのペンを手に取ろうとした、その瞬間。
ぐん、と何かに引かれたように、ドミニクスの顔が上がった。瞳が大きく見開かれる。まるで遠くの何かを見据えているような、焦点の合わない視線。
次の瞬間、彼は小さく首を振り、意識を現実に引き戻した。

「ヒルダ! すまない、先に戻る! 手続きを進めておいてくれないか」
「えっ!? ちょっ、グランツ様──」

呼び止める間もなく、ドミニクスは駆け出していった。ローブの裾が翻り、足音が遠ざかる。

「……どうしたんだろう」

残されたヒルダは、呆然とその背を見送る。
とりあえず、言われた通りに貸出手続きを済ませることにした。

受付で書類を提出し、印章を受け取る。木箱を抱えると、ずしりとした重みがあるが、両手で支えれば問題ない。受付の職員に扉を開けてもらい、研究室へと続く廊下を歩き出した。

研究室の前に戻り、扉の取っ手に手をかけたところで、中から人の声がした。
しばし耳を澄ませると、ドミニクスと誰かが話しているように思える。

(──グランツ様と、誰かいる……?)

来客の予定など聞いていなかった。
一拍迷いつつ、木箱をそっと床に下ろす。意を決して扉を開けると、中の会話がぴたりと止んだ。

室内には、ドミニクスともう一人──塔の魔術師が着る正式なローブを纏った、薄紫の長髪の男が立っていた。
端正な顔立ちで、身なりも隙がない。髪の結い方からローブの留め具の位置に至るまで几帳面さが滲み、その整然とした清潔さの奥に、どこか気位の高さを感じさせた。

ヒルダに気づいた藍紫の瞳が、わずかに細められる。ほんの一瞬のことだったが、その目に浮かんだ不快の色をヒルダは見逃さなかった。

「お客様がいらしていたのですね。今、お茶をお出しします」

いつも通りの声で告げ、木箱を扉脇の棚に置く。
そのまま茶の準備に向かおうとしたが、男が低い声で遮った。

「不要だ。……そんなもの、口にする気はない」

吐き捨てるような声音だった。
ヒルダの反応を待つこともなく、男は踵を返し、ローブの裾を翻して部屋を出ていく。

扉が閉まったあと、ヒルダはただその場に立ち尽くしていた。残された空気には、薄く冷たい匂いが残っている。

しばらくして、ドミニクスの方を見やると、彼は机の端に手をつき、深くため息をついていた。
苛立ちを露わにすることの少ない彼が、髪を乱暴にかきあげる。その表情には、ヒルダに向けられたものではない怒気が覗いているように見えた。

「……グランツ様。戻りました」
「っ」

振り向いたドミニクスの顔には、ほんの僅かに気まずさが浮かぶ。

「……急に出ていってしまってすまない。重かっただろう」
「いえ、大丈夫です」

扉脇に置いていた木箱を差し出すと、彼は受け取ってから小さく顔をしかめた。
「……重いではないか」
小声の呟きは聞こえなかったふりをする。

「……あの方は?」
「ゲイル・グランツ。私の義兄(あに)だ」

短い答えに、ヒルダはひゅっと息を呑む。ドミニクスに兄がいるとは知らなかった。
彼女の反応を見て、ドミニクスが淡々と説明を足す。

「正直なところ、仲は……良好ではない。突然の来訪に、私も驚いている」
「そう、でしたか」

短い応答のあと、沈黙が落ちた。

ドミニクスはしばらく無言のまま、何かを考えているようだった。視線は机の上に落ち、もう意識は別の場所に移っているようだ。

やがて、彼は動き出した。
細い金線、研磨途中の鉱石の欠片、小瓶に詰められた魔力触媒──それらを手早く取り出し、机に並べていく。中には、先日室内に設置したあの藍色の鉱石も混ざっている。

何かを呟きながら、納得がいかないように首を傾げ、また動きを止める。すぐに器具をカチャリと鳴らし、魔術で微調整を加える。その動作を、何度も繰り返していた。

ヒルダは邪魔をしないよう少し距離を取り、倉庫から持ち帰った素材を静かに仕分けていく。彼が次に手を伸ばす時、すぐ動けるように──机の上と棚の配置を整えながら。

「──よし」

満足げな声が聞こえた。
ヒルダが振り返ると、ドミニクスは机の前で何かを手にしている。

「助手よ、こちらに来てもらえないだろうか」

促されて近づくと、彼は小さく息を整えた。

「……手を」

言われるまま両手を差し出す。
その手のひらに、彼の手からそっと落とされたのは、小さく削られた鉱石に革紐を通した、小ぶりな装飾品だった。
親指ほどの大きさ。もとは藍色の石だが、削って磨かれたことで一段と深みを増し、光を受けて静かに瞬いている。
その色は、まるでドミニクスの瞳を閉じ込めたかのようだった。
ほんのりとした温もりが、指先を包む。

「グランツ様、これは……?」
「……お守り、と言えばいいのかもしれない」

彼は珍しく言葉を探すように視線を逸らす。

「まだ、はっきりと言語化できないんだ。ただ……最近、妙な胸騒ぎがしている。
身を守るものだと思って、常に身につけておいてほしい。なるべく、人に気づかれないように」

歯切れの悪い説明だったが、その声音には焦りと真剣さが滲んでいた。

ヒルダは、いつかの晩のことを思い出す。──食器を片付けに行ったとき、背筋を這うような気配を感じたあの夜。
先日の防護結界、そして先ほどの兄の来訪。彼も、何かを感じ取っていたのだろうか。

「……突然すまない。怪しいと思うだろう、こんな急に。けれど、私は真剣に言っている。──頼む、信じてほしい」

危険な物ではないと示すように、ドミニクスは机へ戻ると、先ほどヒルダに渡したものと同じ装飾品を手に取った。それを自らの首にかけ、革紐の結び目を確かめるように指先でなぞる。そして、静かにヒルダを見つめた。
その真剣な眼差しに、ヒルダは手のひらの中のお守りをぎゅっと強く握りしめる。

「……私も、実は先日、嫌な気配を感じたんです。食器を片付けに行く廊下で。一瞬で消えたけれど……背中に刃を向けられたような感覚で」
「そうか。……助手もだったか」

ドミニクスの眉間に深い皺が寄った。

「作っておいて、本当に良かった」

ヒルダは頷き、ドミニクスと同じように首から下げる。胸元に触れながら、穏やかな笑みを浮かべた。

「ありがとうございます、グランツ様。大切にしますね」
「ああ。……何事もなければいいのだが」

ヒルダはお守りを制服の下に、ドミニクスはローブの奥へと隠す。
互いに一度視線を交わしてから、二人はそれぞれの持ち場へ戻り、静かに作業を再開した。
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