【完結】媚薬を盛られた天才魔術師様を、助手の私が介抱することになりまして

物村

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屋敷での学びがおおよそ終わった頃、義父から命を受けた。
国立魔術研究塔へ入り、研究に従事せよ、と。

どうやらそこは、国内でも最上位の魔術研究機関らしい。
話によれば、住み込みで研究ができるという。あの屋敷の面々と顔を合わせずに済むと思うと、心が少し軽くなった。

再び馬車に乗せられ、しばらく走ったのちに降ろされた先には、灰白色の石で造られた巨大な塔がそびえていた。
入口や窓枠には繊細な彫刻が施され、その立ち姿には知識と権威を象徴するような、静かな威厳が漂っていた。
グランツ家とは違い、どこか品の良さがある。孤児院と似た色合いや装飾でも、ここを満たす空気はまったく異なっていた。

義父はいつものように威張り散らしながら手続きを進めていたが、塔の職員たちはそれを一顧だにせず、淡々と事務をこなしていた。
その無関心さが、少しだけ心地よかった。自分が義父に抱いていた嫌悪は、間違いではなかったのだと知れた気がする。

 

それからの日々は、研究に没頭する時間だった。

蔵書を読み漁り、魔術理論を検証し、寝食を忘れるほどに没頭した。
気絶するように眠り、空腹で目を覚ます。身支度も整えず備蓄食をかじりながら、また研究へと戻る。
それが、いつしか日常になっていた。

塔の研究員たちは、これまで出会った者たちのような不快さをそれほど感じさせなかった。
とはいえ、特に興味を惹かれることもなく、ドミニクスは最低限のやり取りだけにとどめる。

同じ研究室の者たちの中には、眉をひそめて注意をする者もいた。
だが、どれだけ言葉をかけられても、ドミニクスは気にも留めずに研究を続けた。
やがて誰も何も言わなくなり、彼の周囲から人の気配が徐々に消えていく。

いくつかの論文を書き、改良案を提出し、共同研究にも参加した。成果は確実に上がり、塔内でも一目置かれるようになっていった。
やがて個人の研究室を与えられると、ドミニクスはさらに深く研究に没頭した。

掃除もせず、書物を読み散らかしたまま放置した部屋は、いつしか荒れ果てた有様になっていた。

 

そんなある日──。

ノックされて扉を開けると、苦虫を噛み潰したような顔をした上席研究員たちが立っていた。

「……君に助手をつけようと思う。来たまえ」

有無を言わせぬ圧を感じながらも、ドミニクスはわずかに眉を動かした。
研究を中断させられたことに、内心では舌打ちを噛み殺しつつ──静かにその背を追う。

案内されたのは、研究室と同じ中層の一角。研究員同士の打ち合わせに使われる簡素な面談室だった。
白い壁にはランタンの柔らかな光が揺れ、書棚の隙間には古びた書物が並んでいる。
空気には、インクと薬品の匂いがかすかに漂っていた。

視線の先に、二人の女が立っていた。
そのうち白衣を纏った年上の研究員が一歩前に出て、隣の若い女がドミニクスの助手として任命されたことを告げる。

一瞥した瞬間、魔力の気配がないとわかった。
無意識のうちに、グランツ家で刷り込まれた常識が頭をよぎる。説明のつかない落胆が生まれ、思わず言葉が零れた。

「そこの女が助手だと? しかも無魔力。……私も侮られたものだな」

ざわ、と周囲の空気が揺れる。
だが、どうでもよかった。早くこの時間が終わってほしかった。

そのとき、紹介された女が静かに一歩前へ出た。

「……ヒルダ・ラインベルグと申します。魔力はなくても、記録や整理でお役に立てるはずです。よろしくお願いいたします」

凛とした、透き通るような声だった。
その響きに弾かれるように、思わず彼女を見る。

胸元に手を添え、品よく一礼する姿。
薄茶の髪を三つ編みにして頭に巻き上げ、礼に合わせて横の一房がはらりと揺れた。
伏せていた顔が上がる。繊細なまつ毛に縁取られた淡紫の瞳と、視線がぶつかった。

呼吸が止まり、目が離せない。理由はわからない。
ただ、胸の奥で何かが音を立てた。

「まあいいだろう。せいぜい役に立つことだな」

それだけ言って、視線を逸らし、背を向けた。
自分の鼓動がまだ乱れていることに、気づかないふりをしながら。

 

研究室に戻ると、先ほど紹介された女がついてきていた。
中を見てから立ち止まり、呆然としたように室内を見渡す。

散乱した書物、積み上がった器具、机の上に広がる魔術陣。
それらを見て何かを判断したらしく、ヒルダは静かに部屋の中を動き始めた。

ドミニクスは特に声をかけず、黙って研究を再開する。

それからもしばらく、そんな日々が続いた。

変わったのは──部屋の中を、かすかに動き回る気配を感じることだった。
助手の女は室外に出ている時間の方が多かったようで、不思議と邪魔には感じない。

だが、いつのまにか必要な資料が手元に置かれていたり、ラベルが貼られていたりして。
探す手間が少しずつ減り、ささやかな快適が増えている気がした。

 

あの日の夜も、研究に没頭していた。

長く温めていた新型装置の理論構築が、ようやく形になり始めていた。
机の上に魔法陣を展開すると、光が脈打ち、その場の空気がじわりと温まっていく。

順調に動いているのを確認した瞬間、ぐう、と腹が鳴った。
顔を上げると、いつの間にか夜中になっていた。

部屋をぐるりと見渡して、驚きで息が止まる。
床や机に散らばっていた書物や器具は、いつの間にか整然と片づけられていた。
その中央、机の上にはトレーが一つ。サンドイッチと、湯気の立つ茶が並んでいる。

こんなふうに気遣われるのは初めてだった。
夢を見ているような気分のまま、ぼんやりと手を伸ばす。

茶は少し冷めかけていたが、まだかすかに温もりを残していた。
口に含むと、やわらかな香りとともに、身体の中に小さな灯がともるようだった。

サンドイッチに手を伸ばし、一口かじる。
挟まれた葉がシャキリと音を立て、挟まれた肉の柔らかな旨味が広がる。

ふと、トレーの端に一枚のメモが目に入った。

『いつもお疲れさまです。たまにはお部屋で休んでくださいね』

流れるような整った筆跡。
その下に、ヒルダ・ラインベルグ──と署名があった。

「ヒルダ・ラインベルグ」

指でなぞりながら、声に出す。
瞬間、胸の奥に何かが波打った。

あの日以来、まともに顔を見ていない。思い出そうとすると、どうしても輪郭が霞んでいく。
思い出せないことが、ひどくもどかしい。

顔が見たい──そう思った。

もう一度、噛みしめるようにその名を呟く。

「……ヒルダ」

静まり返った研究室に、その声は吸い込まれるように消えていった。

 

持ち帰ったメモに素直に従い、久しぶりに自室の埃臭いベッドで眠った。
目を覚ますと、窓の外はすでに夕方少し前の色に染まっていた。

慌てて飛び起き、研究室へと向かう。
扉を開けると、助手の女が驚いたように振り返った。両腕には数冊の本を抱えており、ちょうど棚にしまう途中だったらしい。

「おはようございます、ですかね。ゆっくり休めましたか?」

遠慮がちに問いかけてくる。
その声音がどこか柔らかく、目の前の彼女に釘付けになった。

思考がふわりと霞み、言葉より先に名が口をついて出る。

「……ヒルダ・ラインベルグ」

あのメモに書かれていた署名を、そのまま読み上げるように呼んでいた。

助手の女──ヒルダはきょとんとしたあと、小さく眉を寄せる。
何か間違えた気がして、取り繕うように言葉を重ねた。

「っ……助手よ。──昨晩の夜食、礼を言う」

何故だか胸が落ち着かず、しどろもどろになってしまう。
ヒルダは驚いた顔をしてから、柔らかく微笑んだ。

「召し上がられたんですね、良かったです」

灯のように淡い光を湛えた瞳。
睫毛の影が頬に落ち、唇の端がやわらかく弧を描く。
髪の間から覗く耳のかたち、言葉のたびに小さく動く喉の線──どれもが、思っていたよりずっと繊細で、温かい。

その笑顔が、ひどく好ましく思えた。

 

ヒルダは、とても有能だった。

彼女によって整えられた研究室は、何だか空気まで澄んでいる気がする。

以前は、資料を探すたびに部屋中をひっくり返し、探している間に別のものが埋もれていく──そんな悪循環の連続だった。
けれど今は違う。欲しいものが欲しい場所にある。
もし見つけられなくても、ヒルダに聞けばすぐに手渡してくれた。

どうやら彼女は、魔術そのものを見るのが好きらしい。
研究のために術を展開すると、視界の端で口元を押さえながら、目を輝かせている姿が見えた。

ヒルダのために魔術を使ったら、喜んでくれるだろうか。
そんな考えがふと浮かび、資料で見つけた花を試しに具現化してみる。

──東方に咲く白い花、ハクモクレン。ひと目見たときから、なぜかヒルダを思い出させた花だった。

「きゃっ」

驚いて目を見開くヒルダの頭に、降らせた花弁がふわりと乗った。
淡い光に照らされて、髪に添えられた花はまるで髪飾りのようで、息を呑むほど美しかった。

それからも、実験の名目でさまざまな魔術を試した。
少し肌寒い日に、ずっと自分以外に使ってみたかった“温もりを与える術”を試すと、ヒルダは心地よさそうに目を細め、頬をほのかに染めた。

ヒルダの周囲に漂う魔術痕が、まるで自分を受け入れてくれたように思えて、心臓がどくどくとうるさいくらいに跳ねる。

魔術痕は消すこともできたが、ヒルダに使うときだけはあえて痕を多く残した。
淡い光が、優しく彼女を照らすように調整をする。

それを見て、少し恥ずかしそうに俯くヒルダを見るのが、いつしかドミニクスの楽しみになっていた。

 

そうして日々を重ね、研究が次の段階へと進みそうになった頃。
シュトラウス家の令嬢が、たびたび研究室を訪れるようになった。

丁寧な言葉づかいの裏で、ヒルダを見下す視線を隠そうともしない。
研究を理解しているふりをしながら、結局は義父たちと同じ──破壊の力を誇示するための研究をしろと、遠回しに繰り返すばかりだった。

来訪の日には、ヒルダには外出を命じ、自分ひとりで応対するようにしていた。

だが、それが気に障ったのだろう。
無理やり茶の席に同席させられ、差し出された茶を口にした瞬間、異変に気づく。

喉が焼けるように渇き、視界がにじむ。身体の芯が熱に呑まれ、呼吸が乱れた。
意識をつなぎとめようと、魔力の暴走を必死に抑えながら廊下を進む。

朦朧とする中で浮かぶのは、なぜかヒルダの姿ばかりだ。
乾く喉を唾で湿らせながら、ふらつく足で彼女の私室を目指した。

扉を開けた瞬間、ヒルダは驚いたように目を見開いた。
非常識な訪問に呆れた気配はあったが、事情を告げると、すぐに受け入れてくれた。

やがて、シュトラウスと取り巻きたちが部屋を訪ねてくる。
ヒルダは指示どおりに応対し、その後ろ姿を、ドミニクスは荒い息を吐きながら見つめていた。

下ろされた髪は日中の結い癖を残し、ゆるやかな波を描いている。
制服とは違う柔らかな布地のワンピースが、腰から下の線をなめらかになぞっていた。

その形があまりに好ましく、気づけば手が伸びていた。
触れた瞬間、柔らかな尻の感触が手のひらに吸いつく。小さな悲鳴が耳に届き、ぐん、と頭の奥に熱が集まった。

もう一度、その声が欲しい──そう思ったところで、視界の端にシュトラウスの姿が映り、我に返る。
ヒルダが怪しまれては困る。

咄嗟に魔術で音を偽装し、自分が上階へ移動したように見せかけた。

 

その後はもう、理性の糸が切れていた。

扉を術で施錠し、みっともなく縋るようにヒルダへ助けを求めたことだけを覚えている。  
喉は焼けるように渇き、下腹部は痛いほど張りつめて、自分でも見たくないほど惨めな有様だったはずだ。

それでもヒルダは、必要なことだけを淡々と教えてくれた。  
ヒルダの手によって、どうしようもない欲を吐き出せたあと、背中をそっと撫でられる。

「……辛かったですね。頑張りましたね」

耳元で落ちたその一言が、妙にはっきりと胸に残った。  
生まれてから一度もかけられたことのない種類の言葉だと、そのときようやく気づいた。

吐き出したものは証拠になるから、とヒルダは小瓶に静かに収めていく。  
自身の子種が彼女の手の中にあるという事実に、理由のわからない落ち着かなさが込み上げ、思わず背後から身を寄せてしまった。

……ヒルダは、拒まなかった。  
それどころか、腕を回して抱きしめると、背中を撫でて受け止めてくれる。  
情けないほど甘えながら、もう一度彼女の身体に熱を擦りつけ、力任せにしがみついて、再び熔けるような感覚とともに子種を吐き出した。

荒い呼吸がようやく落ち着いた頃には、ヒルダの顔がすぐ目の前にあった。  
触れれば届く距離で潤んだ睫毛が震え、微かな吐息が頬を撫でる。

無意識に唇を近づけたところで、彼女の細い指がそっと間に差し込まれた。

理由を問うと、しばし迷ってから、静かな声が返ってくる。  
──それは、恋人同士の行為だから、と。

その言葉が、ずきりと胸に刺さった。  
ヒルダと、その行為をする誰かを想像して、ひどく羨ましいと思った。  
自分はその“誰か”にはなれていないのだと、はっきり突きつけられた気がする。

子種を大量に吸ったローブを脱ぎ捨てると、ヒルダは今度は自分を受け入れるように服を脱がせてくれた。  
痩せこけた自分の身体とはまるで違う、柔らかく温かな肌が現れていくたび、喉の奥が勝手に鳴る。

ベッドで肌を重ねた瞬間、初めて「人の体温」というものを知った。  
熱を帯びた内側へ導かれ、自分の欲の塊がそこへ沈んでいったとき、世界の輪郭が一瞬で変わった気がした。

がむしゃらに腰を打ちつけ、最後の熱を吐き出すと、ヒルダは力尽きたように胸の上で眠ってしまう。  
艶を帯びた唇がすぐそこにあって、視線を離せない。

起こさぬように、内緒でそっと口づける。
柔らかく、吐息までもが甘く感じられて──あまりの多幸感に、ドミニクスはそのまま目を閉じた。
 


あの晩、ヒルダが残してくれた証拠のおかげで、プリメラ・シュトラウスは修道院送りとなった。
付きまといが消えて、手足に付いた枷が一つ外れたようだった。

ヒルダと行ったあの夜の行為は、子を成すものだった。
だが、しばらく見てもヒルダに変化はなく、少しだけ落胆したことを覚えている。

 

「このあと、晩ご飯を食べようと思いまして。よければ一緒にいかがですか」

ある晩、ヒルダはそう言ってくれた。
終業間際に、急ぎでもない報告を理由に呼び止めてしまった日のことだ。気遣いのつもりなのだろうと分かっていても、その誘いがただ嬉しかった。

食事そのものに興味はなかったが、ヒルダが選んでくれたものをそのまま頼んだ。
豆と野菜の温かなスープ、香ばしいパン。ひと口ごとに知らない味が広がり、隣でくすくすと笑う彼女の気配がやけに近く感じられた。
「人と肩を並べて食べる」という行為が、あれほど心地よいものだとは知らなかった。

それからも、彼女とはささやかな出来事を幾つも共有した。
同期だという大柄な男に頬へ口づけされる場面を目撃して、己でも呆れるほど嫉妬に焼かれたこと。
塔の空気に再び不穏が混じり始め、シュトラウス家や義兄の影を疑いながら、ヒルダの胸元に自分の魔力を宿した守護石を忍ばせたこと。

そうして迎えた、あの日。
守護石の脈動に急かされて研究室へ駆けつけると、そこにはゲイルがいた。塔内で固く禁じられた攻撃魔術を、躊躇なく人に向けようとした愚か者。
無力化するのに時間は掛からなかったが、ヒルダへ向いた魔術を見た瞬間、自分の中で何かがきしむ音がした。
彼女だけは、絶対に傷つけさせたくない──そう思った。

上層部への報告を考えるドミニクスに、被害者であるはずのヒルダが、そっと声を掛けてくれた。

「あの人は、家族でしょう?」

そのうえで、彼女はまっすぐに告げたのだ。

「私は、貴方を素晴らしい魔術師だと尊敬しています。他者を思いやることができて、自分の身を削ってでも、人を守るための──温かくて、優しい研究をしている。そんな貴方の魔術が、私は好きです」

ヒルダは真っ直ぐにこちらの目を見て、そう言ってくれた。
自分は、あの家の者とは違うのだと、初めて誰かに証明してもらえた気がした。

 

優しいヒルダ。ドミニクスの魔術を好きだと、微笑むヒルダ。

結ばれたい。共にありたい。家族になり、子を成し、夢に見た温かな家庭を築きたい。

だが、自分はグランツ家の跡取り。
あの家は、魔術こそ至上とし、無魔力の者を見下している。

グランツ家当主である義父が、無魔力のヒルダとの婚姻を許すはずがない。
たとえ自分が何らかの手段で彼女を強引に妻に迎えたとしても、籍を置くかぎり、家の干渉は絶えないだろう。

才も気品もあり、素晴らしい彼女を、そんな腐敗に触れさせたくはない。

──八方塞がりだった。

 





 

「──ねえ、グランツ君」

その声に、意識がはっと浮上した。
対面に座るアンナ・エイプリルが、気遣うような笑みを浮かべている。

「君は、あの子……ヒルダ・ラインベルグのことを──ひとりの女性として、愛している。そういう理解でいいのかな」

ドミニクスは小さく息を吸い、まっすぐに答えた。

「愛している。魔力の有無でも、誰かの思惑でもない。自分の意志で、彼女を選びたい」

自分の意志ひとつでは、今の状況を変えられない。
それでも、ヒルダだけは絶対に諦めたくなかった。

その思いを胸に、確固たる決意を言葉に込める。

アンナはしばし目を伏せ、柔らかく笑った。

「……そう。
私はね、才ある若者を応援したいんだ。話を聞かせてくれてありがとう」

アンナが立ち上がり、ドミニクスを扉の方へと導く。
ドミニクスは晴れない気持ちを抱えたまま、それでも理解者であろうとしてくれる目の前の女性に、深く頭を下げた。
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