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02 新たな加護の使い道
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「──ん……」
目を開けると、そこは大聖堂の祈りの間だった。
組んだ手が、小さい。着せられている聖女服も、少女用の簡素なものだ。
驚いて身じろぎすると、腰まで伸びた髪がはらりと視界に落ちた。
白金色が、以前より強く光っている。肌の奥まで淡く滲んで、身体そのものが灯りみたいに照り返した。──瞳も、きっと同じだろう。
「っ、……!?」
声にならない悲鳴が喉の奥で止まる。
その瞬間、神官の冷たい視線が刺さった。
「聖女様、どうなされましたかな?」
「な、何でもありません。申し訳ありません」
「……その程度の所作も抑えられませんか。神聖な祈りの途中でしょう。そんな事もお忘れですか」
「…………理解しています」
取り繕って、跪き直す。
膝が床に触れた瞬間、硬さが骨にまで響いた。
(……神様、『必要そうな力を授ける』って言ってた。その影響……?)
心臓が早鐘を打つ。鼓動が耳の裏で鳴り続け、息が浅くなる。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。ルルシアは必死に呼吸だけを整えた。
──あれから、気づいたことがある。
神の力で、十五歳の頃へ戻されたらしい。
十四歳で変異して連れ去られ、二十四歳で殺された。
今いるのは、連れ去られて一年。祈りを叩き込まれ始めた頃の、大聖堂だ。
……もう、ティオの前で変異している。
巻き込まない選択肢は、最初からない。
どうせなら聖女にならず、村娘のままで生きたかった。
けれど人生は、祈ったところで都合よく変わってはくれない。胸の奥で、熱のない息を吐くしかなかった。
神から授かった新しい力は、どれも隠密行動に特化していた。
《気配遮断》──存在を極限まで薄くして、視覚も音も気配も察知されなくなる。
《結界透過》──国中に張られた結界であれば、抵抗なく通り抜けられる。
《幻影創出》──自分そっくりの幻影を、一定時間実体のように作れる。
試しに、《幻影創出》で自室に幻影を作り出した。
微動だにせず、淡い光だけを漂わせる“聖女”が、そこにいる。
頭の中で指示を出すと、幻影はその場に跪き、祈りの構えを取った。
口からは祈りの旋律まで溢れている。声も出せるらしい。
(……これなら、代わりを任せられる)
次に《気配遮断》を重ねる。
足音が、自分の耳から消えたように感じた。
自室の扉を開け、廊下へ出る。
扉を閉めた直後、曲がり角から神官が現れた。
反射的に身体が固まり、反応が遅れる。──終わった、と思った。
けれど相手は、こちらを見ない。気づく気配すらない。
恐る恐るすれ違っても、目も合わず、咎める声も飛ばなかった。
そのまま足を進め、大聖堂の裏口へ向かう。
扉の前には侵入者を阻む結界が張られている。許可なく通れるはずがない。
透明な膜に手を伸ばす。
指先が、するりと抜けた。
息を止めたまま、身体ごと通す。
──裏庭に出た。
久しぶりの外気が肌を撫で、草木の匂いが肺の奥まで満ちていく。
思わず、笑みが漏れた。
(……これなら、聖女のお勤めなんて、いくらでも──)
一度目の人生でも、何度も逃げ出したいと思った。
けれど全身が光り輝く聖女なんて、どこへ行っても目立ちすぎる。逃げる以前に「見つけてください」と大声を出しながら歩くようなものだった。
(そもそも、聖女の加護ってなんでこんな目立つ仕様なのよ……)
誰に聞かせるでもなく心の中で零した愚痴に、神の声があっさり返ってくる。
『私が眩しい存在なのだから、信徒もそうであるのが必然であろう』
(……は?)
言葉を失った。
本当に、勘弁してほしい。
それからの大聖堂での暮らしは、全部“調査”に変えた。
生き延びるために。外へ出るために。
日中は幻影を祈りの間に残し、自身は《気配遮断》と《結界透過》で神殿内外を歩き回った。
神官に話しかけられそうになれば、幻影に頷かせたり、二言三言返すだけで十分だった。平民出身の聖女など、誰もそこまで気にしていない。
祈りは夜の自室でひっそり済ませた。
一度目の人生では祈りの間で日が暮れるまで膝をついていたのに、今は十分もかからない。加護が強化されているせいだろう。──皮肉なほどに。
(……わたし、今まで何をしてたんだろう)
胸の奥が、ひどく冷たくなる。
冷えは喉まで這い上がり、言葉を奪った。
最初に調べたのは、逃亡先だった。
この国にいる限り、大聖堂や貴族に怯え続ける。そんな未来は御免だ。
隣国──ベルディア公国は、聖女信仰を持たない国だという。
宗教干渉を嫌い、平民や移民に寛容で、身分証明がなくとも素性を問われない集落もあるらしい。
けれど問題は、防壁だった。
王都を囲む防壁は、ただの結界じゃない。
“聖女”という役目そのものを、この国に縫い止める拘束具だ。
聖女のまま外へ出ようとすれば、弾かれる。
《結界透過》も《気配遮断》も、通用しない。
神が言った通りだ。
聖女の力をクラリーチェへ渡さなければ、この国を出ることはできない。
では、その“渡す”をどう成立させるか。
次に調べたのは、あの魔獣だった。
一度目の人生で、自分を殺した禍々しい存在。クラリーチェがわずかに目配せするだけで、森の奥へ消えていった。
ティオは断罪の時、こう言っていた。
『禁忌を用いてあの魔獣を使役し、聖女の力を奪った』
つまり、クラリーチェは魔獣を召喚できる。
そして魔獣は、聖女を殺すことで力を奪い、主へ明け渡すのだろう。
(なら……前の人生と同様にあの女に魔獣を召喚させる。そのうえで、死なずに力だけを奪わせたい)
禁忌を犯すのは、あくまでクラリーチェ。
自分とティオは使わず、利用する。その線だけは、絶対に越えない。
アルヴェリオ公爵邸の場所を突き止めるのに、時間はかからなかった。
王都で最も強固な結界が、私邸としては異様なほど幾重にも重なっている区画──それが答えだった。
来客や見張り交代の隙を縫い、連日のように公爵邸へ忍び込む。
書斎、執務室、クラリーチェの私室。礼拝室、金庫、地下──しらみ潰しに、禁忌儀式に繋がりそうな文書を探した。
けれどルルシアの魔術知識は、ほとんどない。
“平民の聖女”に与えられるのは最低限の教義と祈りだけだ。余計な知識は遠ざけられる。
聖女の務めと関係のないことなど、教えてもらえるはずがなかった。
それらしい書物を見つけても、内容が読めない。
できるのは、写して持ち帰ることだけだった。
引き出しに溜まるのは、意味の取れない文字の列。
──この行為に意味はあるのか。唇を噛み、視線が落ちる。
(……立ち止まったら、そこで終わり)
一度目の人生よりも、失敗は許されない。
それでも翌日には、また歩き出している自分に、ルルシアはほんの少しだけ苦笑した。
不安なのに。だからこそ、止まれない。
小さな成功が見えたのは、もっと後だった。
外縁の防壁に沿うように、あえて遠回りをしながら夜の街道を歩いているとき。
偶然、古い下水道の排水路を見つけた。
中へ入り、湿った通路を少し進んだ先で、封鎖された石扉の脇にかすかな地割れが残っているのを見つける。
誰も気に留めないような、細い裂け目。
その先が、王都の外縁へ続いている可能性がある。
少なくとも、防壁を正面から越える必要はなさそうだった。
しゃがみ込み、亀裂を指先でなぞる。
冷たい石に触れた瞬間、目地の欠けがボロリと落ちた。
(……脆い。ここ、時間をかければ……通れるように、なる?)
胸の奥が、久しぶりに熱を持った。
確信はない。それでも可能性がある。──それだけで視界が少し明るくなった。
その夜から、調査は「理解できない文書」を追うだけではなくなった。
王都の外縁を歩く。排水路の亀裂を少しずつ広げる。
港の荷の流れを見る。街道の検問の癖を記憶する。古い地図を盗み見て、地形を頭に叩き込む。
日々の祈りは短くなったのに、眠る時間が増えたわけではない。
むしろ増えた自由時間のほとんどを調査に費やすせいで、寝不足の日々が続いた。
疲労も、静かに積もっていく。
神官の視線が、以前より気になるようになった。
幻影の反応がわずかに遅れたとき。祈りの旋律が一瞬乱れたとき。──その小さな沈黙さえ、勝手に「すべて知られているのでは」と受け取ってしまう。
寝不足の日は、祈りの間に残した幻影のことが、やけに頭から離れない。
神官の問いかけに反応できないのではないか。気を抜くと消えてしまうのではないか。
一度そう思うと、外での調査に集中できなかった。
自分の神経が擦り切れていっているのがわかった。
いつからか、食事の味もわからなくなっていた。
元より質素な献立だ。それでも、僅かな塩気や草の風味くらいは感じていたはずなのに。
今では、ただの粘土や粒を噛んでいるみたいで、食べること自体が苦行になった。
けれど食べなければ倒れる。必要な作業だと割り切って、できるだけ無心で飲み込んだ。
休みたいのに、休むほど時間が惜しい。
焦りだけが、やけに鮮明だった。
ふと鏡に映った幼い自分と目が合う。
表情は抜け落ちているのに、目だけが冴えて見えた。──嫌な冴え方だ。
(……わたし、今、何者になってるんだろう)
聖女でもない。村娘でもない。
逃げるために動いているはずなのに、死にたくないと足掻いているだけの亡霊みたいにも思えてしまう。
それでも、諦めきれなかった。
諦めるという選択肢は、最初からどこにもない。
諦めた瞬間に、自分の死体を抱きしめて泣き叫ぶティオの姿が現実になってしまう。
それだけは、絶対に嫌だった。
七年が過ぎ、ルルシアは二十二歳になった。
王都と周辺の地図は、ほとんど脳裏に刻まれていた。抜け道も、検問の癖も、港で荷が動く時刻さえも。
図書館で魔術関連の書物も読み漁り、基礎くらいならわかるようになった。
けれど、書き溜めたメモの大半は理解できていない。
肝心な“死なずに力を渡す方法”が何も掴めていない。
それでも胸の中の火は消えなかった。
もうすぐ、ティオが護衛騎士としてルルシアの前に現れる。
その日が来たら、これまでひとりで握り潰してきた不安を──やっと、分け合えるかもしれない。
(ティオは、わたしの言う事を信じてくれるだろうか)
ルルシアは自室で、祈りのために組んだ手に力を込めた。
目を開けると、そこは大聖堂の祈りの間だった。
組んだ手が、小さい。着せられている聖女服も、少女用の簡素なものだ。
驚いて身じろぎすると、腰まで伸びた髪がはらりと視界に落ちた。
白金色が、以前より強く光っている。肌の奥まで淡く滲んで、身体そのものが灯りみたいに照り返した。──瞳も、きっと同じだろう。
「っ、……!?」
声にならない悲鳴が喉の奥で止まる。
その瞬間、神官の冷たい視線が刺さった。
「聖女様、どうなされましたかな?」
「な、何でもありません。申し訳ありません」
「……その程度の所作も抑えられませんか。神聖な祈りの途中でしょう。そんな事もお忘れですか」
「…………理解しています」
取り繕って、跪き直す。
膝が床に触れた瞬間、硬さが骨にまで響いた。
(……神様、『必要そうな力を授ける』って言ってた。その影響……?)
心臓が早鐘を打つ。鼓動が耳の裏で鳴り続け、息が浅くなる。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。ルルシアは必死に呼吸だけを整えた。
──あれから、気づいたことがある。
神の力で、十五歳の頃へ戻されたらしい。
十四歳で変異して連れ去られ、二十四歳で殺された。
今いるのは、連れ去られて一年。祈りを叩き込まれ始めた頃の、大聖堂だ。
……もう、ティオの前で変異している。
巻き込まない選択肢は、最初からない。
どうせなら聖女にならず、村娘のままで生きたかった。
けれど人生は、祈ったところで都合よく変わってはくれない。胸の奥で、熱のない息を吐くしかなかった。
神から授かった新しい力は、どれも隠密行動に特化していた。
《気配遮断》──存在を極限まで薄くして、視覚も音も気配も察知されなくなる。
《結界透過》──国中に張られた結界であれば、抵抗なく通り抜けられる。
《幻影創出》──自分そっくりの幻影を、一定時間実体のように作れる。
試しに、《幻影創出》で自室に幻影を作り出した。
微動だにせず、淡い光だけを漂わせる“聖女”が、そこにいる。
頭の中で指示を出すと、幻影はその場に跪き、祈りの構えを取った。
口からは祈りの旋律まで溢れている。声も出せるらしい。
(……これなら、代わりを任せられる)
次に《気配遮断》を重ねる。
足音が、自分の耳から消えたように感じた。
自室の扉を開け、廊下へ出る。
扉を閉めた直後、曲がり角から神官が現れた。
反射的に身体が固まり、反応が遅れる。──終わった、と思った。
けれど相手は、こちらを見ない。気づく気配すらない。
恐る恐るすれ違っても、目も合わず、咎める声も飛ばなかった。
そのまま足を進め、大聖堂の裏口へ向かう。
扉の前には侵入者を阻む結界が張られている。許可なく通れるはずがない。
透明な膜に手を伸ばす。
指先が、するりと抜けた。
息を止めたまま、身体ごと通す。
──裏庭に出た。
久しぶりの外気が肌を撫で、草木の匂いが肺の奥まで満ちていく。
思わず、笑みが漏れた。
(……これなら、聖女のお勤めなんて、いくらでも──)
一度目の人生でも、何度も逃げ出したいと思った。
けれど全身が光り輝く聖女なんて、どこへ行っても目立ちすぎる。逃げる以前に「見つけてください」と大声を出しながら歩くようなものだった。
(そもそも、聖女の加護ってなんでこんな目立つ仕様なのよ……)
誰に聞かせるでもなく心の中で零した愚痴に、神の声があっさり返ってくる。
『私が眩しい存在なのだから、信徒もそうであるのが必然であろう』
(……は?)
言葉を失った。
本当に、勘弁してほしい。
それからの大聖堂での暮らしは、全部“調査”に変えた。
生き延びるために。外へ出るために。
日中は幻影を祈りの間に残し、自身は《気配遮断》と《結界透過》で神殿内外を歩き回った。
神官に話しかけられそうになれば、幻影に頷かせたり、二言三言返すだけで十分だった。平民出身の聖女など、誰もそこまで気にしていない。
祈りは夜の自室でひっそり済ませた。
一度目の人生では祈りの間で日が暮れるまで膝をついていたのに、今は十分もかからない。加護が強化されているせいだろう。──皮肉なほどに。
(……わたし、今まで何をしてたんだろう)
胸の奥が、ひどく冷たくなる。
冷えは喉まで這い上がり、言葉を奪った。
最初に調べたのは、逃亡先だった。
この国にいる限り、大聖堂や貴族に怯え続ける。そんな未来は御免だ。
隣国──ベルディア公国は、聖女信仰を持たない国だという。
宗教干渉を嫌い、平民や移民に寛容で、身分証明がなくとも素性を問われない集落もあるらしい。
けれど問題は、防壁だった。
王都を囲む防壁は、ただの結界じゃない。
“聖女”という役目そのものを、この国に縫い止める拘束具だ。
聖女のまま外へ出ようとすれば、弾かれる。
《結界透過》も《気配遮断》も、通用しない。
神が言った通りだ。
聖女の力をクラリーチェへ渡さなければ、この国を出ることはできない。
では、その“渡す”をどう成立させるか。
次に調べたのは、あの魔獣だった。
一度目の人生で、自分を殺した禍々しい存在。クラリーチェがわずかに目配せするだけで、森の奥へ消えていった。
ティオは断罪の時、こう言っていた。
『禁忌を用いてあの魔獣を使役し、聖女の力を奪った』
つまり、クラリーチェは魔獣を召喚できる。
そして魔獣は、聖女を殺すことで力を奪い、主へ明け渡すのだろう。
(なら……前の人生と同様にあの女に魔獣を召喚させる。そのうえで、死なずに力だけを奪わせたい)
禁忌を犯すのは、あくまでクラリーチェ。
自分とティオは使わず、利用する。その線だけは、絶対に越えない。
アルヴェリオ公爵邸の場所を突き止めるのに、時間はかからなかった。
王都で最も強固な結界が、私邸としては異様なほど幾重にも重なっている区画──それが答えだった。
来客や見張り交代の隙を縫い、連日のように公爵邸へ忍び込む。
書斎、執務室、クラリーチェの私室。礼拝室、金庫、地下──しらみ潰しに、禁忌儀式に繋がりそうな文書を探した。
けれどルルシアの魔術知識は、ほとんどない。
“平民の聖女”に与えられるのは最低限の教義と祈りだけだ。余計な知識は遠ざけられる。
聖女の務めと関係のないことなど、教えてもらえるはずがなかった。
それらしい書物を見つけても、内容が読めない。
できるのは、写して持ち帰ることだけだった。
引き出しに溜まるのは、意味の取れない文字の列。
──この行為に意味はあるのか。唇を噛み、視線が落ちる。
(……立ち止まったら、そこで終わり)
一度目の人生よりも、失敗は許されない。
それでも翌日には、また歩き出している自分に、ルルシアはほんの少しだけ苦笑した。
不安なのに。だからこそ、止まれない。
小さな成功が見えたのは、もっと後だった。
外縁の防壁に沿うように、あえて遠回りをしながら夜の街道を歩いているとき。
偶然、古い下水道の排水路を見つけた。
中へ入り、湿った通路を少し進んだ先で、封鎖された石扉の脇にかすかな地割れが残っているのを見つける。
誰も気に留めないような、細い裂け目。
その先が、王都の外縁へ続いている可能性がある。
少なくとも、防壁を正面から越える必要はなさそうだった。
しゃがみ込み、亀裂を指先でなぞる。
冷たい石に触れた瞬間、目地の欠けがボロリと落ちた。
(……脆い。ここ、時間をかければ……通れるように、なる?)
胸の奥が、久しぶりに熱を持った。
確信はない。それでも可能性がある。──それだけで視界が少し明るくなった。
その夜から、調査は「理解できない文書」を追うだけではなくなった。
王都の外縁を歩く。排水路の亀裂を少しずつ広げる。
港の荷の流れを見る。街道の検問の癖を記憶する。古い地図を盗み見て、地形を頭に叩き込む。
日々の祈りは短くなったのに、眠る時間が増えたわけではない。
むしろ増えた自由時間のほとんどを調査に費やすせいで、寝不足の日々が続いた。
疲労も、静かに積もっていく。
神官の視線が、以前より気になるようになった。
幻影の反応がわずかに遅れたとき。祈りの旋律が一瞬乱れたとき。──その小さな沈黙さえ、勝手に「すべて知られているのでは」と受け取ってしまう。
寝不足の日は、祈りの間に残した幻影のことが、やけに頭から離れない。
神官の問いかけに反応できないのではないか。気を抜くと消えてしまうのではないか。
一度そう思うと、外での調査に集中できなかった。
自分の神経が擦り切れていっているのがわかった。
いつからか、食事の味もわからなくなっていた。
元より質素な献立だ。それでも、僅かな塩気や草の風味くらいは感じていたはずなのに。
今では、ただの粘土や粒を噛んでいるみたいで、食べること自体が苦行になった。
けれど食べなければ倒れる。必要な作業だと割り切って、できるだけ無心で飲み込んだ。
休みたいのに、休むほど時間が惜しい。
焦りだけが、やけに鮮明だった。
ふと鏡に映った幼い自分と目が合う。
表情は抜け落ちているのに、目だけが冴えて見えた。──嫌な冴え方だ。
(……わたし、今、何者になってるんだろう)
聖女でもない。村娘でもない。
逃げるために動いているはずなのに、死にたくないと足掻いているだけの亡霊みたいにも思えてしまう。
それでも、諦めきれなかった。
諦めるという選択肢は、最初からどこにもない。
諦めた瞬間に、自分の死体を抱きしめて泣き叫ぶティオの姿が現実になってしまう。
それだけは、絶対に嫌だった。
七年が過ぎ、ルルシアは二十二歳になった。
王都と周辺の地図は、ほとんど脳裏に刻まれていた。抜け道も、検問の癖も、港で荷が動く時刻さえも。
図書館で魔術関連の書物も読み漁り、基礎くらいならわかるようになった。
けれど、書き溜めたメモの大半は理解できていない。
肝心な“死なずに力を渡す方法”が何も掴めていない。
それでも胸の中の火は消えなかった。
もうすぐ、ティオが護衛騎士としてルルシアの前に現れる。
その日が来たら、これまでひとりで握り潰してきた不安を──やっと、分け合えるかもしれない。
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