3 / 7
第三話
しおりを挟む
翌日から、リエルは静かに作業に取りかかった。
まずは小屋の現状確認からだった。
壁は一部が崩れかけ、屋根は片側に傾いている。床板の何枚かは腐って沈みかけていた。
とくに入り口からすぐの床は、歩くたびに軋み、いつ抜けてもおかしくない状態だった。
「まずは補強からだな」
ぽつりと呟いたのち、リエルは小屋にある手斧と縄を持って外へと出ていった。
そのときには、彼はもう重い鎧を脱いでいた。大盾も外し、代わりに動きやすい作業服のような装いに変わっている。
深いグレーの粗布の上着に、肘と肩だけ補強が施されている。ズボンには革製の脚当て。手には厚手の手袋。
これまでの重装備とは違う、野営作業に特化した簡素な格好だ。その姿からは、選び抜かれた実用性がにじんでいた。
この日は丸一日、材料集めに費やされた。戻ってくる頃には、肩に削った丸太を数本担ぎ、手には綺麗に枝を落とした細材を抱えていた。
ミアには、斧や鉈の手入れと運搬用の荷解きを指示される。必要なことを、必要な分だけ伝えてくれる。
「これ、油で拭いてもらえるか」
「細い木の皮は剥いでここに。あとで火種に使いたい」
言われたことを返事ひとつでこなしていくのがやっとだった。指示が的確すぎて、考える暇もない。
元恋人に対する甘さがまったくないことに、ホッとしている自分がいた。
リエルが来て一週間が経つころには、小屋の様子は見違えるほど整っていた。
屋根の隙間は塞がれ、雨漏りはもうない。危うかった床には支え木が入り、軋む音もほとんどしなくなった。
火床も煤を掃き出して石で組み直され、煙はきちんと外へ抜けていく。
板の継ぎ目は不格好で、色もばらばらだ。それでも雨風を防ぎ、数年は暮らせそうな堅実さがある。
薪の乾かし方や物の配置まで無駄がなく、理にかなっている──長年の野営経験を積んだ者ならではの手際だった。
森の奥の廃屋とは思えないほど、小屋の中には人の気配とあたたかな空気が満ちていた。
「すごい……こんなに変わるなんて!」
思わず部屋を見まわしながら声を上げると、リエルは振り向きもせず、短く答えた。
「いや、あともう少し」
「え、まだ残ってる? 家の中、すごく綺麗だよ」
「外がまだ。囲いを作って、そこでようやく一段落だな」
ぶっきらぼうで、無駄のない口ぶり。
けれど、その声にはわずかな誇らしさが混じっていて、静かに手応えを味わっているように思えた。
ふと視線を落とすと、リエルは手元の道具を静かに拭っていた。鍛えられた指が、革紐や木の柄を滑るようになぞり、刃の部分を光にかざしながら細かく確認している。
その表情は黙々としているのに、妙に目が離せない。焚き火の赤い光が頬の輪郭を柔らかくなぞるのを、ミアはただじっと眺めていた。
「……実は、職人さんだったりする?」
思わずそう口にすると、彼は片眉をわずかに上げ、口元の力をほんの少し抜く。
「さあ。どうだろうな」
そのわずかな変化が、意外なほど胸に残った。
夕暮れが近づき、森が灰色に沈みはじめたころ。
焚き火の火床のそばで、ミアは小ぶりな獣を捌いていた。前に仕掛けたくくり罠にかかったばかりで、肉の締まりも良かった。保存用にはせず、今夜の食卓に使うことにする。
リエルが来てからの食事は、作業の邪魔にならないよう、干し肉や保存食が続いていた。温かな鍋を用意するのは、久しぶりだ。
灰を落として炙り、香りの良い草と根菜を刻んで鍋へ。湯気が立ちのぼる頃には、周囲の空気もどこか柔らかくなっていた。
「リエルさん。ご飯、食べよ」
作業中のリエルに声をかけて、鍋を示すように軽く器を傾ける。
「ほら、作りたて。いい香りでしょ? 結構自信あるんだよね」
そう言って笑みを浮かべると、リエルは作業の手を止めて、ぱちりと瞬きをした。
出会ったときからずっと、リエルの目の下には濃い隈が浮かんでいる。
それに加え、ここ数日も家のためにあまり休まず動き続けていて、肩がわずかに落ちているようにも見えた。
その疲れた顔を見るたびに、胸の奥がぐっと苦しくなる。一年以上も探し続けてくれた人なのに、再会してからもこうして働きづめにさせてしまっている。
せめて、今くらいは休んでほしい──自然と、そう願っていた。
「あのね、ずっと働いてくれてるでしょう? 家の中もすごくきれいになったし、囲いは急がないから……ゆっくり休んでほしいなって」
焚き火の炎にかき消されそうな声になってしまったけれど、しっかりと伝える。
「ほら、座って。出来たて、一緒に食べてほしいな」
少しだけ明るさを足して笑いかけると、リエルはしばらくぼんやりとこちらを見つめ──やがて、素直に腰を下ろした。
火床を挟んで、自然と二人が向かい合う形になる。
器に鍋をよそって渡すと、熱い中身がこぼれないよう、器の外側にそっと手を添え、触れない距離で支える。
その手は、ミアの手のひらをすっぽり包んで余るほど大きく、節立った指がかすかに空気を震わせる。
思わずその存在感に驚いていると、リエルは何事もなかったように受け取り、自分の膝の上へと器を置いた。
ひと口、ふた口と咀嚼したのち、ほう、と一度息をついてから、ぽつりと呟く。
「うまい、な」
声は抑えられていた。表情も大きくは変わらない。
けれど、噛みしめるように目を伏せたその仕草に、確かに味わってくれたことが伝わってきて、胸の奥がじんわりと温まる。
料理を食べてもらえて、そのうえ美味しいと言ってもらえる。そんなことが、こんなに嬉しいとは思わなかった。
「自信作だもん。まだおかわりあるから、いっぱい食べてね」
そう笑みを浮かべると、リエルは少しだけ間を置き、静かに息を吐いた。
「……本当に、幸せだ」
「そんなに? ちょっと、大げさじゃない?」
「いいや」
その言葉とともに、視線がわずかに器から離れ、火越しにミアをとらえる。
炎の揺らぎを映した赤い瞳が、一瞬だけやわらいだ。長い指先が器の縁をなぞる仕草は何気ないのに、そこに触れる熱だけが妙に気になった。
ミアはその熱に少しそわそわしながらも、誤魔化すように「そっかあ」と笑い、自分も器によそった鍋を手に取る。
そういえば、リエルの動きを目で追ってばかりで、自分はほとんど口にしていなかったと気づく。
一口含み、やっぱり美味しいと満足してから、手元を見つめて言葉を添えた。
「……あなたは『まだ終わってない』って言うけど、この家、すごく住みやすくなった。ずっと拠点として大事には使ってたけど、私だと、建物自体は直せなくって。
だからね、本当に感謝してるの。リエルさんが来てくれてよかった」
リエルはしばし黙り、それから、ぽつりと呟くように言った。
「君は……今の生活が、本当に好きなんだな」
「うん」とミアは頷く。
すると彼は小さく、静かに笑った。
「とても、いい顔をしているよ」
それは、喜びと寂しさが同居するような、ふしぎな笑みだった。
──初めて見た。この人は、こういう顔で笑うんだ。胸がふいに脈を早めた。
思わず鍋をかき混ぜ、ミアは湯気に顔を隠す。
それからも、日々は静かに流れていった。
朝の森を渡る風が、薪の香りをふわりと運んでくる。
それに混じって、入口近くに整えられた簡素な寝床から、リエルの穏やかな寝息が聞こえていた。
あの日の言葉どおり、彼はきちんと休むようになった。静かに目を閉じている姿を見かけることが増え、ときには森の中をゆっくり散策していたり、木漏れ日の下で立ち止まり、鳥の声や草の匂いを確かめるように過ごしていることもあった。
かと思えば、いつの間にか手斧を持ち出し、薪を割っていることもある。
本当に休んでいるのだろうかと疑いたくなるその姿に、最初のうちは見つけるたび口を挟んでいたが、やがて、相手の行動を制限するのは良くないかもしれないと思い直し、見守るようになった。
しばらくするうちに、リエルの顔から頬のこわばりが和らぎ、目の下の影も薄くなったように見えた。
そのことに、ミアはひそかに安堵する。
「疲れ、取れてきたんじゃない?」
「そうだな。……わかるか?」
「うん。出会ったときから思ってたの。隈、すごいなあって。だから、ちょっとホッとしてる」
焚き火の明かりを挟んで、柔らかな笑みを向ける。
リエルは口元を人差し指でゆるく覆い、ほんの一瞬ためらうように視線を落とした。
静かな間が流れ、顔を上げたときには、その赤い瞳がほんのわずかに熱を帯びている。
「……君に、そこまで見られてたとはな」
言葉の前に、短く息を呑む気配があった。
口元にごくわずかに笑みを形作りながらも、その声は、冗談とも本気ともつかない響きで。
ミアは言葉に迷い、「まあ、ね」と何ともいえない言葉だけを返し、少しだけ目を逸らしてしまった。
出会ったばかりの頃──あの、叫びながらたくさん涙を流していた姿のせいで情緒が不安定なのかと思ったが、本来の彼は寡黙で穏やかな人なのだろう。
無口だけど、一緒にいて苦ではない。静かで居心地のよい空気を纏っている。
そして……本人に自覚があるのかはわからないが、その仕草や視線の端々に、時折どうしようもなく色気が滲む瞬間がある。
不意に目が合っただけで胸の奥がきゅっとなり、そんな自分に戸惑うことも増えた。
感情が揺れたときなのか、彼は時折、顔や口元を手で覆う。焚き火の赤が指の隙間を縁取り、その奥で瞳がそっと伏せられる。
その癖に気づいているのは、自分だけかもしれない──そう思うと、ますます彼が特別に思えた。
そんな彼に、これまでの働きへの恩返しをしたいと、ミアは次第に思うようになっていった。
森で手に入る素材を少しずつ集め、形にしてはそっと差し出す。
柔らかな獣皮で作った敷物も、香りのいい葉を束ねた包みも──どれも「ありがとう」の代わりだった。
最初のころは戸惑ったように視線を泳がせていたが、最近では、短くも柔らかな「嬉しい」とともに、控えめな笑みを見せてくれるようになった。
もっと、この人の笑顔が見たい。そう思ってしまう自分がいる。
もっと一緒に、この暮らしを楽しんで、美味しいものを食べて、笑ってほしい──そんな願いが、いつの間にか胸の奥に根を張っていた。
けれど、あえてそれを“恩返し”の気持ちだと心の中で言い聞かせる。
……そうやって自分を納得させても、その笑顔を見るたび、胸の奥がやわらかく揺れるのを止められなかった。
深夜、珍しくミアは目を覚ました。
寝返りを打つと、下腹にふわりとした圧がある。……寝る前に水分を摂りすぎたのかもしれない。
そろりと寝床を抜け出し、眠るリエルを起こさないよう、夜気のひやりとした空気に肩をすくめながら小屋を出る。用を足して軽く身を清めると、ふっと気持ちが落ち着いた。
戻ってみると、リエルは変わらず眠っていた。
大きな身体は、ミアが用意した掛け布からはみ出していて、安らかな寝顔には規則的な寝息が重なっている。
今度はもっと大きな布を用意しよう。そう心の中で思う。
もう少しだけ眺めていたくなって、そっと脇に座り込む。顔を近づけると、すっかり血色を取り戻した目元と、それを縁取る長いまつ毛。
角ばった耳の縁、その下の顎の稜線、首筋へと目線を滑らせると、皮膚の下に脈打つ生命が確かにそこに在るようで。
その肌に触れたらどんな感触が返るのだろうと想像してしまう。思わず手を伸ばしかけて──途中でぐっと堪えた。
彼の周りには体温が広がっているのか、ぽかぽかとした空気が漂っていて、離れがたい。
うとうとと、眠気が戻ってくる。
(……隣で眠ったら、起きたときにどう思うかな)
それは悪戯心ではなかった。ただ、匂いや温もりを確かめてみたかった。少しだけ身体を傾けて、彼の様子をじっと見つめる。
(昔の私は、くっついて眠ったりしてたのかな……)
恋人だった自分なら、この人の体温を当たり前のように受け取っていたのだろうか。
そう考えると羨ましくなり、眉間に小さく力が寄る。記憶を持っていたはずの“昔の自分”に、思わず嫉妬してしまった。
(今の私……受け入れてもらえるのかな)
記憶をなくした今の自分は、リエルにとって別人のように見えるかもしれない。そう考えた途端、胸の奥を針で刺されたみたいに痛んだ。
彼に近づく資格なんてない──そう思って、そっと離れる。
のろのろと奥の部屋へと歩き、自分の寝床へ戻る。痛む心を鎮めるように身体を丸め、目をぎゅっと閉じた。
ミアに気づかれぬよう、掛け布の下で握った拳をじっと動かさずにいたリエルのことなど、何ひとつ知らないまま。
ミアは静かに、再び眠りへと落ちていった。
まずは小屋の現状確認からだった。
壁は一部が崩れかけ、屋根は片側に傾いている。床板の何枚かは腐って沈みかけていた。
とくに入り口からすぐの床は、歩くたびに軋み、いつ抜けてもおかしくない状態だった。
「まずは補強からだな」
ぽつりと呟いたのち、リエルは小屋にある手斧と縄を持って外へと出ていった。
そのときには、彼はもう重い鎧を脱いでいた。大盾も外し、代わりに動きやすい作業服のような装いに変わっている。
深いグレーの粗布の上着に、肘と肩だけ補強が施されている。ズボンには革製の脚当て。手には厚手の手袋。
これまでの重装備とは違う、野営作業に特化した簡素な格好だ。その姿からは、選び抜かれた実用性がにじんでいた。
この日は丸一日、材料集めに費やされた。戻ってくる頃には、肩に削った丸太を数本担ぎ、手には綺麗に枝を落とした細材を抱えていた。
ミアには、斧や鉈の手入れと運搬用の荷解きを指示される。必要なことを、必要な分だけ伝えてくれる。
「これ、油で拭いてもらえるか」
「細い木の皮は剥いでここに。あとで火種に使いたい」
言われたことを返事ひとつでこなしていくのがやっとだった。指示が的確すぎて、考える暇もない。
元恋人に対する甘さがまったくないことに、ホッとしている自分がいた。
リエルが来て一週間が経つころには、小屋の様子は見違えるほど整っていた。
屋根の隙間は塞がれ、雨漏りはもうない。危うかった床には支え木が入り、軋む音もほとんどしなくなった。
火床も煤を掃き出して石で組み直され、煙はきちんと外へ抜けていく。
板の継ぎ目は不格好で、色もばらばらだ。それでも雨風を防ぎ、数年は暮らせそうな堅実さがある。
薪の乾かし方や物の配置まで無駄がなく、理にかなっている──長年の野営経験を積んだ者ならではの手際だった。
森の奥の廃屋とは思えないほど、小屋の中には人の気配とあたたかな空気が満ちていた。
「すごい……こんなに変わるなんて!」
思わず部屋を見まわしながら声を上げると、リエルは振り向きもせず、短く答えた。
「いや、あともう少し」
「え、まだ残ってる? 家の中、すごく綺麗だよ」
「外がまだ。囲いを作って、そこでようやく一段落だな」
ぶっきらぼうで、無駄のない口ぶり。
けれど、その声にはわずかな誇らしさが混じっていて、静かに手応えを味わっているように思えた。
ふと視線を落とすと、リエルは手元の道具を静かに拭っていた。鍛えられた指が、革紐や木の柄を滑るようになぞり、刃の部分を光にかざしながら細かく確認している。
その表情は黙々としているのに、妙に目が離せない。焚き火の赤い光が頬の輪郭を柔らかくなぞるのを、ミアはただじっと眺めていた。
「……実は、職人さんだったりする?」
思わずそう口にすると、彼は片眉をわずかに上げ、口元の力をほんの少し抜く。
「さあ。どうだろうな」
そのわずかな変化が、意外なほど胸に残った。
夕暮れが近づき、森が灰色に沈みはじめたころ。
焚き火の火床のそばで、ミアは小ぶりな獣を捌いていた。前に仕掛けたくくり罠にかかったばかりで、肉の締まりも良かった。保存用にはせず、今夜の食卓に使うことにする。
リエルが来てからの食事は、作業の邪魔にならないよう、干し肉や保存食が続いていた。温かな鍋を用意するのは、久しぶりだ。
灰を落として炙り、香りの良い草と根菜を刻んで鍋へ。湯気が立ちのぼる頃には、周囲の空気もどこか柔らかくなっていた。
「リエルさん。ご飯、食べよ」
作業中のリエルに声をかけて、鍋を示すように軽く器を傾ける。
「ほら、作りたて。いい香りでしょ? 結構自信あるんだよね」
そう言って笑みを浮かべると、リエルは作業の手を止めて、ぱちりと瞬きをした。
出会ったときからずっと、リエルの目の下には濃い隈が浮かんでいる。
それに加え、ここ数日も家のためにあまり休まず動き続けていて、肩がわずかに落ちているようにも見えた。
その疲れた顔を見るたびに、胸の奥がぐっと苦しくなる。一年以上も探し続けてくれた人なのに、再会してからもこうして働きづめにさせてしまっている。
せめて、今くらいは休んでほしい──自然と、そう願っていた。
「あのね、ずっと働いてくれてるでしょう? 家の中もすごくきれいになったし、囲いは急がないから……ゆっくり休んでほしいなって」
焚き火の炎にかき消されそうな声になってしまったけれど、しっかりと伝える。
「ほら、座って。出来たて、一緒に食べてほしいな」
少しだけ明るさを足して笑いかけると、リエルはしばらくぼんやりとこちらを見つめ──やがて、素直に腰を下ろした。
火床を挟んで、自然と二人が向かい合う形になる。
器に鍋をよそって渡すと、熱い中身がこぼれないよう、器の外側にそっと手を添え、触れない距離で支える。
その手は、ミアの手のひらをすっぽり包んで余るほど大きく、節立った指がかすかに空気を震わせる。
思わずその存在感に驚いていると、リエルは何事もなかったように受け取り、自分の膝の上へと器を置いた。
ひと口、ふた口と咀嚼したのち、ほう、と一度息をついてから、ぽつりと呟く。
「うまい、な」
声は抑えられていた。表情も大きくは変わらない。
けれど、噛みしめるように目を伏せたその仕草に、確かに味わってくれたことが伝わってきて、胸の奥がじんわりと温まる。
料理を食べてもらえて、そのうえ美味しいと言ってもらえる。そんなことが、こんなに嬉しいとは思わなかった。
「自信作だもん。まだおかわりあるから、いっぱい食べてね」
そう笑みを浮かべると、リエルは少しだけ間を置き、静かに息を吐いた。
「……本当に、幸せだ」
「そんなに? ちょっと、大げさじゃない?」
「いいや」
その言葉とともに、視線がわずかに器から離れ、火越しにミアをとらえる。
炎の揺らぎを映した赤い瞳が、一瞬だけやわらいだ。長い指先が器の縁をなぞる仕草は何気ないのに、そこに触れる熱だけが妙に気になった。
ミアはその熱に少しそわそわしながらも、誤魔化すように「そっかあ」と笑い、自分も器によそった鍋を手に取る。
そういえば、リエルの動きを目で追ってばかりで、自分はほとんど口にしていなかったと気づく。
一口含み、やっぱり美味しいと満足してから、手元を見つめて言葉を添えた。
「……あなたは『まだ終わってない』って言うけど、この家、すごく住みやすくなった。ずっと拠点として大事には使ってたけど、私だと、建物自体は直せなくって。
だからね、本当に感謝してるの。リエルさんが来てくれてよかった」
リエルはしばし黙り、それから、ぽつりと呟くように言った。
「君は……今の生活が、本当に好きなんだな」
「うん」とミアは頷く。
すると彼は小さく、静かに笑った。
「とても、いい顔をしているよ」
それは、喜びと寂しさが同居するような、ふしぎな笑みだった。
──初めて見た。この人は、こういう顔で笑うんだ。胸がふいに脈を早めた。
思わず鍋をかき混ぜ、ミアは湯気に顔を隠す。
それからも、日々は静かに流れていった。
朝の森を渡る風が、薪の香りをふわりと運んでくる。
それに混じって、入口近くに整えられた簡素な寝床から、リエルの穏やかな寝息が聞こえていた。
あの日の言葉どおり、彼はきちんと休むようになった。静かに目を閉じている姿を見かけることが増え、ときには森の中をゆっくり散策していたり、木漏れ日の下で立ち止まり、鳥の声や草の匂いを確かめるように過ごしていることもあった。
かと思えば、いつの間にか手斧を持ち出し、薪を割っていることもある。
本当に休んでいるのだろうかと疑いたくなるその姿に、最初のうちは見つけるたび口を挟んでいたが、やがて、相手の行動を制限するのは良くないかもしれないと思い直し、見守るようになった。
しばらくするうちに、リエルの顔から頬のこわばりが和らぎ、目の下の影も薄くなったように見えた。
そのことに、ミアはひそかに安堵する。
「疲れ、取れてきたんじゃない?」
「そうだな。……わかるか?」
「うん。出会ったときから思ってたの。隈、すごいなあって。だから、ちょっとホッとしてる」
焚き火の明かりを挟んで、柔らかな笑みを向ける。
リエルは口元を人差し指でゆるく覆い、ほんの一瞬ためらうように視線を落とした。
静かな間が流れ、顔を上げたときには、その赤い瞳がほんのわずかに熱を帯びている。
「……君に、そこまで見られてたとはな」
言葉の前に、短く息を呑む気配があった。
口元にごくわずかに笑みを形作りながらも、その声は、冗談とも本気ともつかない響きで。
ミアは言葉に迷い、「まあ、ね」と何ともいえない言葉だけを返し、少しだけ目を逸らしてしまった。
出会ったばかりの頃──あの、叫びながらたくさん涙を流していた姿のせいで情緒が不安定なのかと思ったが、本来の彼は寡黙で穏やかな人なのだろう。
無口だけど、一緒にいて苦ではない。静かで居心地のよい空気を纏っている。
そして……本人に自覚があるのかはわからないが、その仕草や視線の端々に、時折どうしようもなく色気が滲む瞬間がある。
不意に目が合っただけで胸の奥がきゅっとなり、そんな自分に戸惑うことも増えた。
感情が揺れたときなのか、彼は時折、顔や口元を手で覆う。焚き火の赤が指の隙間を縁取り、その奥で瞳がそっと伏せられる。
その癖に気づいているのは、自分だけかもしれない──そう思うと、ますます彼が特別に思えた。
そんな彼に、これまでの働きへの恩返しをしたいと、ミアは次第に思うようになっていった。
森で手に入る素材を少しずつ集め、形にしてはそっと差し出す。
柔らかな獣皮で作った敷物も、香りのいい葉を束ねた包みも──どれも「ありがとう」の代わりだった。
最初のころは戸惑ったように視線を泳がせていたが、最近では、短くも柔らかな「嬉しい」とともに、控えめな笑みを見せてくれるようになった。
もっと、この人の笑顔が見たい。そう思ってしまう自分がいる。
もっと一緒に、この暮らしを楽しんで、美味しいものを食べて、笑ってほしい──そんな願いが、いつの間にか胸の奥に根を張っていた。
けれど、あえてそれを“恩返し”の気持ちだと心の中で言い聞かせる。
……そうやって自分を納得させても、その笑顔を見るたび、胸の奥がやわらかく揺れるのを止められなかった。
深夜、珍しくミアは目を覚ました。
寝返りを打つと、下腹にふわりとした圧がある。……寝る前に水分を摂りすぎたのかもしれない。
そろりと寝床を抜け出し、眠るリエルを起こさないよう、夜気のひやりとした空気に肩をすくめながら小屋を出る。用を足して軽く身を清めると、ふっと気持ちが落ち着いた。
戻ってみると、リエルは変わらず眠っていた。
大きな身体は、ミアが用意した掛け布からはみ出していて、安らかな寝顔には規則的な寝息が重なっている。
今度はもっと大きな布を用意しよう。そう心の中で思う。
もう少しだけ眺めていたくなって、そっと脇に座り込む。顔を近づけると、すっかり血色を取り戻した目元と、それを縁取る長いまつ毛。
角ばった耳の縁、その下の顎の稜線、首筋へと目線を滑らせると、皮膚の下に脈打つ生命が確かにそこに在るようで。
その肌に触れたらどんな感触が返るのだろうと想像してしまう。思わず手を伸ばしかけて──途中でぐっと堪えた。
彼の周りには体温が広がっているのか、ぽかぽかとした空気が漂っていて、離れがたい。
うとうとと、眠気が戻ってくる。
(……隣で眠ったら、起きたときにどう思うかな)
それは悪戯心ではなかった。ただ、匂いや温もりを確かめてみたかった。少しだけ身体を傾けて、彼の様子をじっと見つめる。
(昔の私は、くっついて眠ったりしてたのかな……)
恋人だった自分なら、この人の体温を当たり前のように受け取っていたのだろうか。
そう考えると羨ましくなり、眉間に小さく力が寄る。記憶を持っていたはずの“昔の自分”に、思わず嫉妬してしまった。
(今の私……受け入れてもらえるのかな)
記憶をなくした今の自分は、リエルにとって別人のように見えるかもしれない。そう考えた途端、胸の奥を針で刺されたみたいに痛んだ。
彼に近づく資格なんてない──そう思って、そっと離れる。
のろのろと奥の部屋へと歩き、自分の寝床へ戻る。痛む心を鎮めるように身体を丸め、目をぎゅっと閉じた。
ミアに気づかれぬよう、掛け布の下で握った拳をじっと動かさずにいたリエルのことなど、何ひとつ知らないまま。
ミアは静かに、再び眠りへと落ちていった。
44
あなたにおすすめの小説
初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】
星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。
だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。
しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。
王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。
そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。
地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。
⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。
顔も知らない旦那様に間違えて手紙を送ったら、溺愛が返ってきました
ラム猫
恋愛
セシリアは、政略結婚でアシュレイ・ハンベルク侯爵に嫁いで三年になる。しかし夫であるアシュレイは稀代の軍略家として戦争で前線に立ち続けており、二人は一度も顔を合わせたことがなかった。セシリアは孤独な日々を送り、周囲からは「忘れられた花嫁」として扱われていた。
ある日、セシリアは親友宛てに夫への不満と愚痴を書き連ねた手紙を、誤ってアシュレイ侯爵本人宛てで送ってしまう。とんでもない過ちを犯したと震えるセシリアの元へ、数週間後、夫から返信が届いた。
※この作品は、『小説家になろう』様『カクヨム』様にも投稿しています。
※全部で四話になります。
完結·異世界転生したらアザラシ? でした〜白いモフモフでイケメン騎士たちに拾われましたが、前世の知識で医療チートしています〜
禅
恋愛
ネットでアザラシを見ることが癒しだった主人公。
だが、気が付くと知らない場所で、自分がアザラシになっていた。
自分が誰か分からず、記憶が曖昧な中、個性的なイケメン騎士たちに拾われる。
しかし、騎士たちは冬の女神の愛おし子を探している最中で……
※小説家になろう、Nolaノベルにも投稿しています
※完結まで毎日投稿します
余命わずかな私は、好きな人に愛を伝えて素っ気なくあしらわれる日々を楽しんでいる
ラム猫
恋愛
王城の図書室で働くルーナは、見た目には全く分からない特殊な病により、余命わずかであった。悲観はせず、彼女はかねてより憧れていた冷徹な第一騎士団長アシェンに毎日愛を告白し、彼の困惑した反応を見ることを最後の人生の楽しみとする。アシェンは一貫してそっけない態度を取り続けるが、ルーナのひたむきな告白は、彼の無関心だった心に少しずつ波紋を広げていった。
※『小説家になろう』様『カクヨム』様にも同じ作品を投稿しています
※全十七話で完結の予定でしたが、勝手ながら二話ほど追加させていただきます。公開は同時に行うので、完結予定日は変わりません。本編は十五話まで、その後は番外編になります。
冷酷騎士様の「愛さない」は一分も持たなかった件
水月
恋愛
「君を愛するつもりはない」
結婚初夜、帝国最強の冷酷騎士ヴォルフラム・ツヴァルト公爵はそう言い放った。
出来損ないと蔑まれ、姉の代わりの生贄として政略結婚に差し出されたリーリア・ミラベルにとって、それはむしろ救いだった。
愛を期待されないのなら、失望させることもない。
契約妻として静かに役目を果たそうとしたリーリアは、緩んだ軍服のボタンを自らの銀髪と微弱な強化魔法で直す。
ただ「役に立ちたい」という一心だった。
――その瞬間。
冷酷騎士の情緒が崩壊した。
「君は、自分の価値を分かっていない」
開始一分で愛さない宣言は撤回。
無自覚に自己評価が低い妻に、激重独占欲を発症した最強騎士が爆誕する。
以後、
寝室は強制統合
常時抱っこ移動
一秒ごとに更新される溺愛
妻を傷つける者には容赦なし宣言
甘さ過多、独占欲過剰、愛情暴走中。
さらにはリーリアを取り戻そうとする実家の横槍まで入り――?
自己評価ゼロの健気令嬢と愛が一分も我慢できなかった最強騎士。
溺愛が止まらない、契約結婚から始まる甘すぎる逆転ラブコメ
記憶を失くして転生しました…転生先は悪役令嬢?
ねこママ
恋愛
「いいかげんにしないかっ!」
バシッ!!
わたくしは咄嗟に、フリード様の腕に抱き付くメリンダ様を引き離さなければと手を伸ばしてしまい…頬を叩かれてバランスを崩し倒れこみ、壁に頭を強く打ち付け意識を失いました。
目が覚めると知らない部屋、豪華な寝台に…近付いてくるのはメイド? 何故髪が緑なの?
最後の記憶は私に向かって来る車のライト…交通事故?
ここは何処? 家族? 友人? 誰も思い出せない……
前世を思い出したセレンディアだが、事故の衝撃で記憶を失くしていた……
前世の自分を含む人物の記憶だけが消えているようです。
転生した先の記憶すら全く無く、頭に浮かぶものと違い過ぎる世界観に戸惑っていると……?
私の息子を“愛人の子の下”にすると言った夫へ──その瞬間、正妻の役目は終わりました
放浪人
恋愛
政略結婚で伯爵家に嫁いだ侯爵令嬢リディアは、愛のない夫婦関係を「正妻の務め」と割り切り、赤字だらけの領地を立て直してきた。帳簿を整え、税の徴収を正し、交易路を広げ、収穫が不安定な年には備蓄を回す――伯爵家の体裁を保ってきたのは、いつも彼女の実務だった。
だがある日、夫オスヴァルドが屋敷に連れ帰ったのは“幼馴染”の女とその息子。
「彼女は可哀想なんだ」
「この子を跡取りにする」
そして人前で、平然と言い放つ。
――「君の息子は、愛人の子の“下”で学べばいい」
その瞬間、リディアの中で何かが静かに終わった。怒鳴らない。泣かない。微笑みすら崩さない。
「承知しました。では――正妻の役目は終わりましたね」
私を簡単に捨てられるとでも?―君が望んでも、離さない―
喜雨と悲雨
恋愛
私の名前はミラン。街でしがない薬師をしている。
そして恋人は、王宮騎士団長のルイスだった。
二年前、彼は魔物討伐に向けて遠征に出発。
最初は手紙も返ってきていたのに、
いつからか音信不通に。
あんなにうっとうしいほど構ってきた男が――
なぜ突然、私を無視するの?
不安を抱えながらも待ち続けた私の前に、
突然ルイスが帰還した。
ボロボロの身体。
そして隣には――見知らぬ女。
勝ち誇ったように彼の隣に立つその女を見て、
私の中で何かが壊れた。
混乱、絶望、そして……再起。
すがりつく女は、みっともないだけ。
私は、潔く身を引くと決めた――つもりだったのに。
「私を簡単に捨てられるとでも?
――君が望んでも、離さない」
呪いを自ら解き放ち、
彼は再び、執着の目で私を見つめてきた。
すれ違い、誤解、呪い、執着、
そして狂おしいほどの愛――
二人の恋のゆくえは、誰にもわからない。
過去に書いた作品を修正しました。再投稿です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる