八階の住人

叡琉

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不安感

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 自分でもどうかしてると思う。 別にそんなんじゃないとか、自分に言い訳ばっかりしている気がする。ようやく戻って来た日常に満足しながらも、大きな子供に振り回されている。
「お腹すいたよぉ」
 土曜日の昼、ソファーで転がる180センチ越えの超美形高校生。
「お前暇なの?なんでそこで寝てんだよ」
 ほんの5分前にはいなかったはずだ。
「今日は朝から生徒会の用事で学校行ってたからご飯食べてないもん」
「昨日、言ってたか?」
 聞き逃したつもりはなかったが、だから今朝来なかったのか。
「昨日の夜に連絡来たから、朝早かったし何にも言わないでごめんね」
 別に謝るほどのことじゃないが、それにしてもこのソファー、少し小さいのか?ロクが寝てるといつもそう感じる。俺より10センチ以上背が高いし、何より足が長いせいか、やけに窮屈そうに見える。
「狭くないか?」
「ん?なにが?」
 またやった…。主語つけずに切り出したら誰だってこうなる。
「何でもない」
 俺は会話が下手だ。
「ソファーのことなら、そんなことないよ」
 …なんで分かったんだろう?こんなに言葉足らずなのに。
 ロクは全てを言わなくても理解してくれるところがある。俺とは違って友達も多いからか、空気や感情の良し悪しを汲み取って会話をしている。そういうところが人から愛される要因なんだろうな。
「なんか、難しいこと考えてる?」
「どうしてそう思うんだ?」
「綾人、考え事してるときのクセ、分かったの。今もそれやってたよ」
 クセか…あんまり意識してなかったって当たり前か。意識しないから癖なんだろうが。
「綾人、可愛いね」
 また理解不能なことを言ってくる。
「お前の、それ本当に意味が分からん」
「オレが思ってることだもん。意味なんか考えなくていいよ」
 時々、ロクのほうが年上なんじゃないかと思えるほど、しっかりしてる。見た目でも16才には…いやまて、こいつたしか誕生日9月って…ということはまだ15才ってことだろ。
「はぁ…」
「なに、急にため息?」
「お前が子供に見えない」
「えぇー、じゃー甘えていい?」
 こういうときの顔は、多分年相応なんだと思う。存在そのものがきらきらして見える。
「腹へってんだろ、とりあえず飯、ほら」
 急に立ち上がって、抱きしめられる。
「綾人、今日も綺麗だね」
 耳元で囁く声、身体の中まで響く。
「お前は誰にでも言うんだろ」
 第一、俺に言うのがおかしい。
「綾人は自分のこと、わからないからオレの言うこと信じられないんだもんね」
「俺にはお前が言ってることのほうがわからんよ」
 可愛いとか、綺麗だとかそんな要素は俺には一切ないからな。
「綺麗な人にわざわざ綺麗ですねって確認作業しないでしょ」
「じゃ、お前はなんで言うんだよ」
「オレのはただの愛情表現だもん」
 あ…いって、まったく。冗談につきあうのもこのぐらいにしておかないと、一日終わる。とにかく、食事のためにお互いにテーブルにつく。
「このあとちょっと出掛けてくるから」
「何処に行くの?」
 なんで、そんな顔するんだよ。
「買い物と熊爺に呼ばれてるから、診療所に行くだけだ」
「オレも…」
「買い物行くと余計なものも買うから留守番してろ」
 多分、ついていきたいと思っているのは診療所のほうなのはわかる。
「…わかった」
 置いていかれる大型犬。明らかにテンションが下がってる。
 出かける用意をして、玄関まで行くとわざわざ見送りについてくる。
「冷凍庫にアイス入ってるから」
「…うん」
 そんな露骨に落ち込むなよ。
「ちょっと頭さげろ」
「こう?」
 頬に軽くキスをする。
「じゃ、行ってくる」
 恥ずかしい…でもほら、アイツは外国暮らしもしてたから、このくらいは挨拶程度…。
 また、言い訳してる。こんなことするやつじゃなかったはず…。
「…った…」
 左手で軽くエレベーターのボタンを押しただけなのに、肩まで響く。気のせいかもしれないけど、最近はやけに気になる。
 あぁ、やっぱりそうか。雨降ってたんだな。

「最近気になることは?」
 開口一番、診療所で不機嫌な熊爺に問われる。
「いきなりなんだよ」
「こっちが聞いてんだ、答えろよ」
「なんであんたが不機嫌なのか」
「これを左手で持ってろ。肘は曲げんな」
 ドンという盛大な音をたてて床に落ちたのは、持っていろといわれた厚手の本だった。
「ごめん、今拾うから…」
「拾うな」
 軽く身体を屈めただけだった。強烈な目眩と身体の自由が効かなくなる感覚…。また、途切れた。

 目が覚めて、時計をふと見る。よかった…まだ二時間ぐらいしか経ってない。ここは診療所の診察室のベッドか。
 あれ…左手動かない。頭もぼーっとして…。
「下手に動くな。また痛めるぞ」
 なんのことだろう。
「熊爺、俺なんか…」
「迎え呼ぶか?」
 頭がはっきりしてくる。
「呼ばなくていい。俺帰っていい?」
「薬増やしたからな。ちゃんと飲んで、何かあったらすぐ連絡しろよ」
「ありがとう。またくるから」
 これ以上遅くなると、ロクが気にする。これから買い物して、夕食作らないと…。
 肩…包帯巻かれてる。しかもかなりきつめに。動かしにくいし、重い。タクシーできて正解だったな。これじゃギアもハンドルもだめだ。
 携帯にメッセージ。
『まだかかる?迎えに行こうか?』
 心配性だな。まだ二時間くらいだろ。
「大丈夫っと。打たなきゃ余計に気にするしな」
 すぐ、既読がつく。
『早く帰ってきてね』
 …大型犬。あいつ、外だとそんな風には見えないし、そういうキャラには設定してないんだろうな。
 家の近くのスーパーでタクシーを降りる。バッグの中を見ると、買い物袋が入ってない。忘れたか…買い物行くって言っておいてこれは、何て言うか…。
「あーやーひとー」
 店の前にロクがいた。
「お前、なんで?」
「これ、テーブルの上に置きっぱになってたから。返信きたからそろそろここくるかなって」
 超能力者か。買い物って言っただけで何を買うかまでは言ってない。
「なんでここだって?」
「冷蔵庫、中カラカラだったしエコバッグ、テーブル上にあったから」
 勘がいいのか、流石だな。俺ならここまで行動的には動けない。
「ありがとう。助かった」
 何気なく言っただけなのに、なんでこいつ顔真っ赤?
「綾人、本当自覚なくて困る」
「自覚?」
 耳元で囁く。
「そんな顔されたら、惚れちゃうでしょ」
 俺、今どんな顔してたんだ?
「本当に意味が分からん」
 かごを持って歩きだす。俺からしてみれば、ロクの行動のほうが、刺さるんじゃないのか?
「あー待ってー」
 すぐ追い付いてかごを持ってくれる。所作そのものが紳士的で、こういうところが女の子は憧れるんだろう。その後も、俺の身体を気遣うように動いてくれる。
 たしかに、病院帰りの人間にたいしてなら自然なのか。スーパーを出て歩いて帰る。
「歩くのしんどくない?」
「ないよ。大丈夫」
 荷物まで持たせてるのに。
「来週から仕事いくの?」
「行くよ。いつまでも休んでばかりもいられないからな」
 技術系とはいえ、代わりがいないわけじゃないからまだ休んでてもいいと言われたが、家に一人でいると鬱々と考え込んでしまって、あまりいいとはいえないから、仕事行こうかと。
「そんなに仕事したい?」
「仕事がしたいっていうか、気分を変えたい」
「気分?」
「ちゃんと働けるって、思いたいから」
 俺の居場所は、すごく狭くて限られてるから。家だけじゃだめだし、会社だけでもだめで、なんていうか居てもいい場所を守るための必要な手段が、仕事だと思う。
「あんまり無理しちゃだめだよ」
「わかってる」
「あー!でも綾人と一緒に朝出れるね」
 なんで、そんなに嬉しそうなんだよ。
「俺は車…」
「しばらく車ダメ。一緒に電車乗ろうねぇ」
 まじか。電車結構苦手なんだが。でもロクが楽しそうだから、まぁいっか。
「綾人、手一回でいいから握って」
 左手を差し出される。何かを確かめたいのか。
「今じゃないとだめか?」
「今がいい」
「わかった」
 握手をするような形になった。
「…っ」
「ごめんね、無理させるつもりじゃなかったんだけど」
 ほとんど力は入ってない。それなのに刺さるような痛みはなんなんだろうか。
「綾人、考え込まないで。ただ知りたかっただけだから。今の状態」
「なにかわかったのか?」
 俺の問いかけに首を振る。
「帰ろう。お腹すいた」
 はぐらかされたような気がした。でも遊びでこんなことをしたわけじゃないことはわかる。何かを確かめた。そして一瞬だけ目を伏せた。俺には言いたくないことなのだろう。だから無理には聞かない。
「ただいまぁ、おかえりぃ」
「はいはい。おかえり」
 家に着くとロクは荷物を片付けるためにキッチンへ行き、俺は寝室に入った。部屋着に着替えるために上着を脱ぐと、傷口が見えないほど分厚く巻かれた包帯と針の後にはる止血用の絆創膏があった。手当てされているのは左肩だけだった。
「綾人、今日なにつくるの?」
 ドアの外からロクの声で我に帰る。
「ああ、今行くよ」
 着替えて部屋を出る。食事を終えて、ロクが片付けてくれるというので、ソファーに横になった。あぁ、なんかロクの匂いがする。
 なんだか…声がする。ロク…?
「…め、だめ!起きて綾人!」
 はっと目が覚めて、次に来たのが激痛。
「…った…なんだ…」
「今動かないで、そのまま」
 右手の指先に…血がついてる。なんで…。
 そのまま抱き上げられて寝室に運ばれる。ロクは電話してる。俺は自力で指一本ですら動かせなかった。
「うん、わかった。明日には連れてく」
 俺は、また何かをしたのか?
「このまま、手離さないでね」
 ロクが俺の右手を握っていた。俺は自分がなにをしたのかわからないまま、また眠りに落ちた。

 翌朝目が覚めると、なんだか温かいと思ったら、ロクに包み込まれるように寝ていた。
「起きた?」
「…あぁ」
「じゃ、このまま待ってて」
 ロクはベッドを出て行った。俺はというと、左手どころか、右手まで動かなかった。
 水と薬をもって戻って来た。
「なんで、動けないか知りたいって顔してる」
 枕元に拾うな両肘をついて、顔をのぞき込んでいる。
「お前は知ってるのか?」
 俺は自分でもわからないのに。
「昨日一緒に寝てたから。でもだっこしてあげたらしなくなったよ?」
 だっこ?なんのことだろうか。たしかに、起きたときには身体ごと包まれるような体勢だったけど…。
「綾人ね、良くない夢みてるとき左手に物凄く力が入ってね、それを押さえようと右手で肩をそれこそ血が出るまで握りしめてるんだって。オレ、昨日初めてそれをソファーで寝てた時見て苦しくなった」
 良くない夢…はあくまで表現の一部で、これは俺のおそらく忘れている部分に関わるものなのだろう。
「俺の記憶の話、したことなかったよな」
「記憶?」
 あんまり、おおっぴらに話すことではないけど、ロクなら…。
「熊爺も知ってることなんだが、俺には子供の頃の記憶に大きな欠落があるらしいんだ」
 わからないから、こういう言い方になってしまう。
「それって…」
「小夜が死んだ時とこの傷が出来た辺り。覚えているのは断片的な映像のような記憶で、正確なことはほとんどわからない」
 熊爺は心理的ストレスの典型だと言っていたが
そう捉えるしかない。俺にもわからないというのが現状だから。
 そのストレスによって引き起こされる自傷行為と言われれば納得はできる。
 いや、納得はしていない。いつも体のいい言葉でごまかしているだけだ。ふりをして、ごまかして…俺はいつもそうやって自分の過去から逃げているんだ。
「小夜って、亡くなってたんだね。綾人とはどうゆう関係?」
 あれ?言ってなかったか。
「小夜は俺の母親だよ」
「…ごめん」
「なんでお前が謝るんだ?」
「前に小夜のこと聞いたら、綾人具合悪くなったから。すごく辛い思い出なんだと…」
 小夜との思い出は辛くない。それよりもその後のことのほうが苦しくなる。
 それに、小夜のことでロクが気に病むことがあってはそれこそ的外れだ。
「気にするな」
 どういえばいいのか分からないから、こんな気休め程度の言葉しか出てこないんだろう。
「綾人は優しいね」
 今の会話でどうしてこうなる?
「お前、人の話…」
「聞いてるよ。綾人は思ってることの半分も言ってくれないから、ちゃんと聞いてないと間違った答えを返したくないから。でもこれだけはわかって」
「何を…」
「オレは貴方を理解したい」
 真剣な瞳。理解というのはどうゆう意味なのか、このときの俺にはわからなかった。
「話、逸れてる。俺は記憶に障害があってそのせいで、お前に迷惑を…」
 両手が顔に触れ、顔が近付く。
「オレがこうして貴方に触れられることに、幸福だと感じることはあっても、迷惑だと思うことはありえない」
 こんな大人びた顔もするんだな。
「顔、近い」
「近いと、なに?」
「からかうもの…っ…」
 また、キスされた。頭が混乱しそうになる。
「綾人、顔赤いよ」
「わかったから、一人にしてくれ」
「えーなんで?」
「いいから」
 ようやく動くようになった右手で顔を押し退ける。しぶしぶ出ていくロク。
 まったく、なんのいたずらだよ。多分からかわれてる。気にしても仕方がない。俺のこの行為も今は気に止めたところで何も進まないことはわかってる。だから、今はこのままで…。

 翌朝、会社に行くために準備をする。
「本当に行くの?」
「行くよ。昨日よりは大分いいし」
 行くと決めたからには、諦めたくなかった。
「無理しないでね。何かあったらいつでも呼んで」
「わかったから、ほらそろそろ出るぞ」
 心配症なのは、仕方がないが一緒に電車に乗るということはいいようで、駅まで一緒に歩いた。朝早く出たこともあり、俺の知り合いにもロクの友人にも会わなかった。
 そのあと、ロクは一駅、俺もその次の駅で降りた。
「仁科君?」
 声をかけられ、振り返ると会社の営業部の係長の『木原 真奈美』さんだった。
 俺の3年先輩で、少し高めの身長に、整えられた肩までの髪と清潔感のある雰囲気は、女性で役職付きなのは見た目の良さも加味されているのだろう。
「おはようございます、木原さん」
「仁科君、電車通勤だっけ?」
「いえ、車修理に出してて」
「事故?怪我で休んでたとか」
「違いますよ。ただの風邪こじらせただけで」
 これ以上はボロが出そうだな。
「もう、仁科君いないと女子達が心配して技術課もてんやわんやだって」
「だといいですけどね。それじゃここで失礼します」
 冗談を真に受けてたら身が持たない。とりあえず、自分のデスクにむかう。
 上司に挨拶をして、いく先々でも挨拶まわりのような感じだった。
「仁科さん、ちょっといいですか?」
 声をかけてきたのは、営業部で木原さんの部下で…ちょっと珍しい名字だったような…。
「はい、ええと…」
「小鳥遊です。部長から伝言ありまして、朝一でシステムのことで相談があるとのことです」
 営業部の部長が?朝一って…。
「伝言ありがとうございます。今から伺いますとお伝え下さい」
 木原さんとはよく話すけれど、部長はあまりいい噂を聞かない人物なので、できるだけ関わりたくないところだが、復帰初日に悪い印象を与えるのは避けたいので、仕方なく営業部のフロアに移動する。
 この会社は、それなりに規模があるのでフロアごとに階が割り振られており、営業部は出入りも多いことから下層にあり、技術課からはかなり離れている。
「仁科君、こっち」
 部長に呼ばれたはずだったのに、声をかけてきたのは課長補佐の東田さんだった。この人は部長とは違った噂がある人で、こちらもこちらであまり関わりたくないタイプだ。
「部長は…?」
「用向きは僕の方から説明するんで、応接室にどうぞ」
 通されたのは狭い応接室。ソファーとテーブルが置かれただけの簡素な部屋だが、やけに防音だけはしっかりしてる。技術課は別に俺だけじゃないのに、わざわざ呼び出してまで何の用だろうか。
「お待たせしました。まずはこれを」
 渡されたのはコピー用紙一枚の案内書。人事異動の内容で俺が休みの間に彼は課長補佐から課長になったらしい。
「昇進おめでとうごさいます」
 俺には関係ないけど。なんだ?この人何を見てるんだ?
「心にもないって感じだね。それにしても綺麗な瞳だ」
 何を言ってるんだ?いや、この人の噂はたしか女性社員に手当たり次第って…。
「それで、ご用件は」
「つれないなぁ、ここには僕と君しかいないのに」
「ふざけてるなら、戻りますよ」
「その顔、すごくいいね。やっぱりすごく艶やかだ」
 髪に触れられそうになって、思わずよけてしまった。
「東田さん、冗談なら…」
「しってます?今こういう便利な道具があるんですよ」
 これはただのペンに見えるけど、違うんだろうな。首に軽く当てられただけなのに意識が飛んだ。なんでこんなことに…。

「…なさん…仁科さん?大丈夫ですか?」
 気が付くとソファーに一人寝かされていた。
「た…小鳥遊君、どうして…」
「仁科さんが突然倒れられたと、東田さんが…大丈夫ですか?首に火傷みたくなってますけど」
 …違う、首だけじゃない。身体…気持ち悪い。
「すいません、ちょっと失礼します」
 よろめきながら、トイレに駆け込む。個室に入り、シャツを脱ぐと二の腕の内側に歯形と胸の嫌な位置にキスマークがつけられていた。
 吐き気が止まらない。
 あの男は自分で気絶させてから、服を脱がせて触られたのがはっきりわかる。強く掴まれたのか脇腹に指のあとが…目が回る…。
 ドアがノックされる。
「仁科さん?」
 小鳥遊君…追いかけてきたのか。身なりを整えてなんとかドアを開ける。
「た…」
「危ない、しっかりしてください」
 真っ直ぐ立てない。
「大人しく背負われて下さいね。医務室行きます」
 彼に医務室まで連れていってもらう。本当に、情けない。半日も持たないなんて。
「誰かに連絡しますか?ご家族とか」
「大丈夫…色々ありがとう、このお礼は…」
「左手、いつもそんなに冷たいんですか?」
 突然切り返されて、とまどう。
「え…いや。そうでもないけど…」
「あいつは…いや、なんでもないです。それじゃ失礼します。お大事に」
 何か言おうとしてやめた。あいつって、誰のことだろう。
 
 一定以上の発熱が確認されたため、会社は早退し、荷物を持って入口まで行くと小鳥遊君が立っていた。
「行きましょう」
「行きましょうって…小鳥遊君、仕事…」
「真奈美さんが良いって。だからいいんです。仁科さんのほうが大事だって」
 言葉の意味はわからないけど、正直ありがたいと思った。今の状態で家にたどり着ける自信がなかったから。
 それに、彼『小鳥遊笑也』は悪い人ではないと思ったから。いくら上司に言われたからとしても、わざわざ追いかけてきて、医務室まで背負ってはくれないから。
「悪いけど、お願いしても…」
 ふらふらして、正しい判断が出来そうにもなかった。
「タクシー呼んであります。行きましょう」
 彼は手際よく、俺を家まで連れて帰ってくれた。
「鍵、借りますね」
「…う…」
「無理に返事しなくていいですよ。勝手に入りますね」
 背負われたまま中に入り、ソファーにおろされる。冷蔵庫から水を出し、コップで渡される。
「ありがとう…」
 一口飲んで、少し落ち着く。彼は電話をしている。
 早く、着替えないと…。このままロクが帰ってきたらまた心配させてしまう。
 上着が脱げない…ボタンが外れない。握力がなくなってる。
「無理しないでください。ボタン外しますね」
 だめだ、身体が硬直する。拒否反応…違う、彼が悪いんじゃない。息が出来ない…。
「…ご…めん…」
「落ち着いて、ここは安全です」
 彼はとても慣れている。こういう人間の対処に。
 すると、玄関から足音がする。
「綾人!」
 何で、こんな時間に帰ってくるんだ?
「落ち着け、薬は預かってきてる」
「笑也、ありがと。連れてきてくれて」
 知り合い…なのか?
「お前なら、彼の症状を悪化させないか?」
「うん、大丈夫」
「任せるから」
 抱き上げられて、そのまま風呂場に運ばれる。見られたくないと思ってしまうのは…。
「綾人は綺麗好きだからお風呂、入ろうね」
「一人で…」
「ダメ、身体無理に動かすとどんな大ケガになるかわからないから。嫌だろうけど、オレを安心させて」
 俺のことなのに、ロクに心配させてしまうことのほうが嫌だ。
「ロク、心配しすぎ。本当に大丈夫だから」
 服を着たまま風呂場に一人ではいる。服を脱いで包帯も外す。頭からシャワーを浴びて洗い流す。左手首に指の跡…強い力で握られたのか、左側の感覚そのものがとても鈍くなっている。
 何で、こんな嫌がらせのようなことをされたのかがわからなかった。何か、あの人の機嫌を損なうようなことでもしたのだろうか。
 それに、ロクと小鳥遊君は知り合いのようだし…彼が言ったあいつって、ロクのことだったんだなと。
 知らないのは、俺だけ…。この中に残るもやもやとした不安感に苛まれることになるなんて思ってもみなかった。

 










    
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