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OTERROUT「狂気と痛みと憎しみと」
前編
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──痛み、そして苦しみは、彼の固く閉ざされた心の扉を開く唯一の鍵だと言えるだろう。心の扉を開いて、そしてその中から『生きている』という実感を引き出してくれる。
死んでいるか、生きているか。今の自分自身の状態はどちらなのか。それが、彼には判断できなかった。判断材料が必要であったのだ。
判断材料──苦痛は、彼にとってはそうではなかった。
「⋯⋯」
白と黒のみで構成された世界。彼の視界に映るものはモノクロで表示されていて、そこに白と黒以外の色は存在しなかった。──ある二つの色を除いて。
彼の目が、いや脳が、正常に色を判断できるものは彼自身と、赤色。だがその赤色に、お菓子のパッケージとか、インクの赤色とか、あるいは髪の毛の赤色とかは含まれていない。彼が認識できる赤色とは、ドロドロとした、いやあるいはサラサラとした、鉄臭い赤色の液体。人やその他多くの生命の体を循環する体液の一種にして、それなしで生命体は生命活動を行えない。──そう、血液だ。
もっと言えば、彼が認識できる血液は新鮮な血液。つまるところ鮮血である。死んだ直後、または傷つけた直後の鮮血こそが、彼の認識できるもう一つの色である。
この二つの色は、彼が心の底から信頼できるものであるから、色がついているのだ。逆に言えば、それら二つ以外である他者、動物、植物、景色、現象──森羅万象は、彼は信頼していない。信頼できない。
信じられない。信じることができない。自分自身という絶対に裏切らない存在と、生き物の命を示す血液以外を。
「⋯⋯ボス」
グチャグチャと、肉を抉るような──事実、肉を抉る音が部屋に、静寂が支配するモノクロの部屋に響いていた。
一般人からしてみればそれは酷く不愉快な音だろう。とても痛々しくて、生理的な嫌悪感を覚えさせる。
右手の甲から流れ出る暖かな赤色が、彼の目に映っている。痛覚なんてとうの昔に消失しており、むしろ信頼できる色を見たことによる安心感と安堵感と充実感を覚える。
自傷行為。普通の感性では行わないこと。だがまあ、彼は普通ではなく異常なのだからそれをしたって何もおかしくはない。
「ボス。聞いてるのか?」
部屋に入ってきた屈強そうな男の呼びかけを、先程からずっと彼は無視し続けていた。
屈強そうな男の言葉は敬語ではなくタメ口。タメ口で良いと言われているわけでも、かと言って忠誠心があるからこその不敬な態度というわけでもない。二人の間には確固たる忠誠心はなく、とある事情から表面上、彼の部下になっているだけだ。とは言っても、世間で言われているほど彼は冷酷ではないとも、男は知っていた。
「⋯⋯聞いている。これでもな。⋯⋯要件は?」
着ていた真っ黒なローブにはフードがあり、そのフードに隠れて彼の顔は殆ど見えないのだが、ハッキリとその暗闇に光る赤い双眸だけは確認できた。
その赤い双眸からは人ならざるものの気配を感じさせ同時に、同性であるはずなのに思わず惹かれてしまうほどの魅力も兼ね備えている。
「例の仕事の終了報告だ」
「⋯⋯そうか」
彼は一言、それだけ言って会話を終了する。
「⋯⋯なあ教えてくれ。何であんなことをした?」
男は、行った例の仕事の意味を理解できなかった。
──組織の仲間の鏖殺。一人残らず全員を殺害するという仕事。
男は赤目の彼のことを冷酷だが残酷ではない奴だ、と思っていた。しかし、その思いは今、否定された。
「この組織の目的は覚えているか?」
「⋯⋯ああ」
「この組織に入る奴らは、その目的のためなら自身の死さえ厭わないことを誓っている奴らだ。まあ、お前は例外だがな。だから、俺はお前だけは殺さなかったんだが⋯⋯お前以外は違う」
男と赤目の彼は、半ば脅迫じみたことをされて嫌々付き合っているに過ぎない関係だ。互いの信頼関係なんてないに近い。
「俺は契約は絶対であると思っている。だが逆に言えば、違約しなければ、それは受け入れるべきことだろう?」
契約に、組織の目的のためならば自身の命さえ厭わないことを誓う、とある。であれば、突然殺されることも受け入れろということなのだろう。
倫理観が破綻している。だが間違ったことは言っていない。いやそもそも、彼に倫理観を、人間が勝手に決めつけた価値観を押し付けること自体が間違っていたのだ。
人間の倫理観は所詮、人間社会でしか適応されない。合理性も正当性もない価値観の押しつけほど烏滸がましいことはない。
「⋯⋯お前は俺を憎むか?」
「⋯⋯憎む、というより、哀れんでいるな」
「そうかよ。⋯⋯はは」
彼の顔を、男は久しぶりに見た気がする。
赤い目に、犬歯が普通の人間より長い。顔つきは人間そのもので、普通の少年であるが、彼から漂うオーラは人間のそれとは正しく異なる。
「憐れむ、ねぇ。⋯⋯お前の子供と俺は、どうやらあまり年が変わらないらしいな。それが原因か?」
彼の外見年齢は、およそ十代後半くらいだし、実年齢もそれくらいだ。男の子供である一人娘と同年代であるのだが、精神は同じとは思えない。
「⋯⋯」
「⋯⋯答えないか。⋯⋯そうだな、一つ、俺からお前に子育てのアドバイスを教えてやる」
「アドバイス⋯⋯?」
「ああ、アドバイスだ。⋯⋯復讐心に囚われた人間は、何をしたっておかしくない。特に精神が未熟な子供は、その傾向が強くなる。だが両親というのは、道を踏み外しそうになった子供を、再び正しい道に導けるだろう。それほど、両親は子供にとって偉大で尊敬できる存在だ」
彼がその時見せた表情は、普段の彼からは想像もできないほどに人間らしかった。忘れていた感情を思い出したようだった。
「⋯⋯復讐なんてやったって、その後には何も残らない。ただ虚無感だけが襲ってきて、復讐心に生きる意味を見出していたなら、多分、その後生きる気力を失うことになるだろう」
「⋯⋯それはどういう」
「そのままの意味さ」
人間らしさを取り戻していた彼だが、次の瞬間、再び異形なる者に戻っていた。
「──もうお前は自由だ。⋯⋯これでお別れだな」
「⋯⋯は? 何言って⋯⋯」
彼はフードを深く被り直す。
「⋯⋯お前の妻と娘の、ここでの記憶は全て消させてもらった。今は自室で眠っているはずだ」
「おいちょっと待て、話が見えてこない。ボスはこれからどこに、何しに行くつもりなんだよ?」
「⋯⋯じゃあな。⋯⋯ヴェルム・エインシス」
「待て。まだ話は⋯⋯」
彼の立ってた床に、白色の魔法陣が展開された。それは予めセットされていたもののようだった。
「⋯⋯お前は親として、立派だったよ」
──魔法の効果が発揮されて、彼の姿がそこから消え去った。
◆◆◆
「──っ!」
気がつくと、彼はダンジョンに入る直前の時点に居た。そう、戻ってきたのだ。
死の感覚。それは理解できない漠然とした不快感であった。
(これが死、か。何度でもやり直せる、最後には必ず感動的な結末が迎えられる⋯⋯なんともまあ素晴らしい加護だぜ)
「マサカズさん、どうしたんですか?」
マサカズの突然の変貌にユナは驚き、心配する。
「⋯⋯前に話した俺の加護、覚えてるか?」
「まさか、本当に⋯⋯誰に殺られたんだ?」
重症を負っていた二人だが、今は傷一つない。質の悪い冗談でもなければ、この現象は例の加護が発動したという証明になる。
マサカズはナオトの問に答えることなく、後ろを振り向く。それこそが回答であるからだ。
「白の魔女、エスト⋯⋯そこに居るだろ?」
誰もいないはずのそこに、マサカズは声をかける。その声かけに反応するように、そこに白髪の少女が現れる。
「⋯⋯ほう。素晴らしい。私の不可視化を見破るとは」
さっきとは異なり、彼女からは一切の殺意が感じられない。代わりに感じられるのは興味である。
「⋯⋯見破って──」
もし、ここで『見破ってなんかない』と答えたらどうなるだろうか。そう考えると、マサカズはこの発言を続けることが怖くなった。
目の前の白髪の少女、エストは、前回、マサカズたちが邪魔だから殺しに来たと言っていた。ならば、自ら無力さを示すのは、むしろ悪手なのではないか。
「──いたさ。最初からな」
「へぇ。召喚者⋯⋯転移者は皆弱いと思っていたんだけどね。これは予想外だよ。⋯⋯じゃあ、これに耐えれたら合格だ」
すると、エストの背後に無数の魔法陣が展開され、それと同数の多種多様な魔法武器が創造された。魔法武器は白色の光を纏って、まるで糸にでも吊るされているように空中に停止していた。
笑えない冗談とはまさにこのこと。どうやらエストがマサカズたちを見逃す基準は非常に高いようだ。
死が可視化されたようで、気分が悪い。だがあの死の感覚と比べれば、耐えられる程度だ。
予測可能回避不可能。つまり不可抗力である。
人間が死を目の前にすると、これまでのあらゆる記憶を思い出して、世界の時の流れを、不自然なくらい遅く感じるらしい。
ゆっくりと死が迫ってきているのに、頭に浮かぶのは楽しい記憶であるが、使えない記憶。この状況を打開できるようなヒントはそこになく、ただ待つのは確実な死である。
やがて魔法武器のうち、一本の短剣がマサカズの腹部を刺した。激痛が走った。内蔵が直接痛めつけられた。もう一本、もう一本と、武器が、得物が、殺人道具が、マサカズたちの命を刈り取るべく襲ってくる。
腹部に、脚部に、腕部に、頭部に、鋭利な刃物が刺さった。そのまま魔法武器は、あわれな犠牲者の肉体を貫通して、そして抉る。
原型を留めないくらいの肉片にまで解体することで、およそ150kgのミンチが出来上がった。無論、血抜きどころか衣類が混ざっていて、そもそも人肉であるため、食料としてはとてもじゃないが食べられないミンチだが。
たが、これで終わりではなかった。
その瞬間、世界の時間が逆行を開始したのだ。ビデオテープの巻き戻し機能のように、今まで起こったことは過去へ過去へと巻き戻されていく。そしてある時点まで戻っていって、ようやく巻き戻しは停止し、時間は本来の流れとなった。
「一回限りの悪夢ではない、ってわけか」
『死に戻り』には回数制限がないと、元よりそう直感していたのだが、いよいよそれに信憑性が付いてきた。
何度でも挑戦できると楽観視できるほど、マサカズは狂人ではない。むしろ、死ぬことができないと悟って、絶望しそうなくらいだ。
死とは救済。死を知る前であれば、そんなことはないと笑い飛ばしたものだったのだが、やはり、理解するには何事も経験である。こんなこと、理解したくなかったが。
「──」
今度はナオトの問を無視して、聖剣を構え、
「〈一閃〉」
戦技を行使する。
完璧なまでの不意打ちだ。まさか見破られているなんて思いもしていないはずなのだ。きっと、マサカズの聖剣はエストの首を斬り落として──
「⋯⋯へぇ」
──いなかった。
マサカズの体は白く輝いており、エストの左手辺りには魔法陣がいつの間にか展開されていたのだ。そうつまり、マサカズの最速の攻撃でさえ、エストは見てから無力化した、というわけだ。
「私の透明化を見破ったのは褒めてあげる。けど、この程度の力だと不合格だね」
マサカズの体は、不自然に働く重力に従って、ダンジョンの外壁に叩きつけられた。肋が数本折れて、それらは肺に突き刺さり、血反吐を吐く。呼吸ができない。
「か、はっ⋯⋯!」
ゆっくりと、エストは三人との距離を詰めるために、悠々と歩く。一見、隙だらけだったが、攻撃を仕掛けようとしたナオトは、
「〈血刃〉」
突如出現した血液の刃によって、全身を滅多切りにされたのだ。
「っ!」
弓を射るユナだったが、矢はエストに着矢することなく、彼女の周りに展開されていた重力の壁によって地面に叩きつけられる。
そして、ユナの頭部に血の刃が突き刺さり、即死させた。
「これにて勇者パーティーは全滅、だね」
エストは重力魔法を行使して、マサカズのボロボロな体を、近くの木の枝に突き刺す。うなじ部分から突き刺さって、首を貫通し、そして死亡した。
「──」
三度目は、『死に戻り』が発動した瞬間に後ろに振り返って、一度目の〈瞬歩〉を使って正面に行くが、それはフェイント。もう一度同じ戦技を使い、背後に回り込むと、超近距離だが、更に〈一閃〉を使う。
不意打ちの攻撃に、とんでもないスピード。そして何より、周りを怖気づかせるほどの殺気。エストは反応ではなく反射的に、マサカズの剣撃を回避した。
重力魔法の魔法陣が展開されようとした瞬間、ユナの矢が飛んできて、エストはそちらの対処をせざるを得なくなったため、対象をマサカズからユナの矢へと変更。矢は白く輝き、支配権はエストが握った。
白く輝く矢は、軌道が変化し、マサカズに刺さる。左腕を出すことで致命傷を避けたが、代わりに左腕は使い物にならなくなった。
「はぁっ!」
激痛に顔を顰める時間さえ惜しい。残った右腕に力を込めて、可能な限りのパワーとスピードを聖剣に乗せ、振るう。
見るとナオトも追撃に来ている。二人に、同時に重力魔法を行使することも、この一瞬では難しい。
「⋯⋯惜しかったね」
──そう、二人に、同時に重力魔法を行使するのは難しいはずだった。
マサカズとナオトの体が白く光って、身動き一つ取れなくなった。
「私はね、天才なの。だから、魔法をほぼ同時に多数行使することだって可能なんだよ」
その時に射られた矢を、エストは豆でも抓むようにして受け止めた。
「勿論、魔法の行使だけに全集中力を使っているわけでもない。⋯⋯悪くなかったよ。でも、駄目だ。三人がかりで、私に傷一つ付けられない程度じゃ、ね」
体にかかる重力が一気に増加して、高圧プレス機で空き缶が潰される如く、マサカズとナオトの身体も潰された。
◆◆◆
死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、また死んだ。
どうすれば良い。どうすれば勝てる。
──分からない。
そもそも、なぜこんなことをしている。
──分からない。
俺は一体何者だ。俺は生きているのか。
──分からない。
分からない。知らない。無理解。不明。未知。
答えがない。答えることができない。返答ができない自問自答。
──いや、思い出せ、殺意を。奴を殺すと誓っただろう。
殺す。殺してしまえ。殺さなくては。殺すべきだ。殺したい。
殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、そして殺せ。
他に考えるな。何も考えるな。ただ白の魔女を殺すことだけに集中しろ。白の魔女を殺す方法にのみ脳を使え。さもなければ、この死のループから抜け出すことはできない、そう、永遠に。
「⋯⋯」
「⋯⋯マサカズ?」
9177回、『死に戻り』をした。
「ははは⋯⋯アハハハハハ!」
「⋯⋯何──っ!?」
突然笑いだしたかと思えば、次の瞬間、マサカズはエストの目の前に現れた。
「死ね!」
おおよそ人間の、正常な人間の精神状態ではない。どう考えても狂ってる。どう考えても異常。
──今回で遂に、彼は限界を迎えた。
憎悪と殺意を隠す気もなく、ただそれらに任せるだけ任せて、己の全力を、正真正銘、普段は無意識的にかけられているリミッターを解除した実力を発揮した。
さながら、彼は本能のままに暴れ狂う怪物のようであった。だからこそ、エストは彼に、
「ひっ──」
恐怖した。本来畏怖される存在である彼女が、人間を恐れたのだ。
その恐怖した瞬間が、確かな彼女の隙となってしまったのだった。
エストの胸部に、一刀入り、傷をつける。
9178回目の挑戦にして、ようやく、マサカズはエストに攻撃を加えることに成功したのだ。
「──っ!」
マサカズの追撃を、エストは重力魔法によって防ぐ。だが、彼の憎悪は、殺意は、狂気はその程度では止まらなかった。彼は地面に叩きつけられ、両足の骨に罅が入っただろうと言うのに、まるで痛みなんか感じていないように、走り出した。
また距離を詰める──ことはなく、彼は、なんと、完全に接近しきる前に、その聖剣を投げつけたのだ。
「は」
ミスディレクション。彼が無意識下に、狂気に陥りながらした行動は、エストの予想外の行動であった。だからこそ、一瞬、エストはその行動への反応が遅れて、
「ぐっ⋯⋯」
喉仏に、聖剣が突き刺さった。
痛みと苦しみを同時に感じる。しかし、死ぬことはなかった。人を超越したエストたち魔女は、普通の人間なら致命傷になっても、彼女たちなら即死することは少ない。それこそ、胴体を真っ二つに切断でもしなければ、即死はまずあり得ないだろう。
聖剣を重力魔法で操り、エストはマサカズを突き刺そうとする。
「──っ!?」
しかしそれを、マサカズは避けた。普通なら死んだと油断する場面のはずなのに、どうして。
「あああぁぁぁぁっ!」
剣がなければ素手で襲いかかれば良い。
マサカズは拳をエストに振りかざすが、対象をそれが捉えることはなかった。
「っぶな⋯⋯」
直前で転移魔法を行使して、その場からエストは離れたのだ。
「⋯⋯」
治癒の魔法を自身に行使すると、エストの喉仏あたりの傷はすぐに完治した。
傷も完全になくなり、まだ魔力も全然減っていない。戦闘の持続は十分可能であったが、
「⋯⋯狂気は支配さえも覆す。そこまで狂ってしまっていたら、アイツの支配も意味がないだろうね」
支配系能力とは、精神を意のままに操る力だ。そのため、当然だが支配することができるのは壊れていない精神のみである。
そして狂気には二種類ある。
まず一つ目が、自我のある狂気だ。例えば明確な目的意識や、価値観を持っており、それに準じて行動している場合はこのタイプだろう。この狂気は精神が崩壊していないため、支配系能力は行使可能だ。
二つ目が、自我のない狂気。自分を自分だと思っていない、他者との境界線を引いていない状態である。ただ本能のままに、あるいは狂う前に強く思った目標のためだけに動く人とは言えない化物が、このタイプである。
自我を持っていないということは、精神が崩壊しているということ。壊れた道具は使えないように、支配系能力は行使できないというわけだ。
この場合、マサカズが分類されるのは後者の狂気。つまり、エストの目標は達成されたということである、
「そんな状態だ。餓死するなり、処刑されるなりしてキミは終わる。⋯⋯何より、私はキミが怖いんだ。会いたくない。こうして対面することさえ忌避したい。キミは⋯⋯そうキミは、異常な存在なんだよ」
狂気とは違った異質な感じが、マサカズからする。その感じの正体が何なのかは分からない。しかし、言えるのは、その感じとは、恐怖だった。抗うことができない絶対的な存在への畏怖。そうまるで──世界という概念存在を、彼に感じたのだ。
理解不能。だが本能がそう叫ぶ、彼にこれ以上危害を加えるべきでないと、彼にこれ以上関わらない方が良いと。
「⋯⋯」
そのとき、エストの姿がそこから消え去って、同時にマサカズの体も地面に倒れ伏した。
──たった二人の男女を犠牲に、魔女を撃退した功績は奇跡にも等しかった。だが奇跡とは、可能性があるからこそ成り立つ。ただ単に、低確率を引いただけに過ぎない。そしてマサカズは、その低確率を100%にすることができる。
彼にとって奇跡とは、必然である。
死んでいるか、生きているか。今の自分自身の状態はどちらなのか。それが、彼には判断できなかった。判断材料が必要であったのだ。
判断材料──苦痛は、彼にとってはそうではなかった。
「⋯⋯」
白と黒のみで構成された世界。彼の視界に映るものはモノクロで表示されていて、そこに白と黒以外の色は存在しなかった。──ある二つの色を除いて。
彼の目が、いや脳が、正常に色を判断できるものは彼自身と、赤色。だがその赤色に、お菓子のパッケージとか、インクの赤色とか、あるいは髪の毛の赤色とかは含まれていない。彼が認識できる赤色とは、ドロドロとした、いやあるいはサラサラとした、鉄臭い赤色の液体。人やその他多くの生命の体を循環する体液の一種にして、それなしで生命体は生命活動を行えない。──そう、血液だ。
もっと言えば、彼が認識できる血液は新鮮な血液。つまるところ鮮血である。死んだ直後、または傷つけた直後の鮮血こそが、彼の認識できるもう一つの色である。
この二つの色は、彼が心の底から信頼できるものであるから、色がついているのだ。逆に言えば、それら二つ以外である他者、動物、植物、景色、現象──森羅万象は、彼は信頼していない。信頼できない。
信じられない。信じることができない。自分自身という絶対に裏切らない存在と、生き物の命を示す血液以外を。
「⋯⋯ボス」
グチャグチャと、肉を抉るような──事実、肉を抉る音が部屋に、静寂が支配するモノクロの部屋に響いていた。
一般人からしてみればそれは酷く不愉快な音だろう。とても痛々しくて、生理的な嫌悪感を覚えさせる。
右手の甲から流れ出る暖かな赤色が、彼の目に映っている。痛覚なんてとうの昔に消失しており、むしろ信頼できる色を見たことによる安心感と安堵感と充実感を覚える。
自傷行為。普通の感性では行わないこと。だがまあ、彼は普通ではなく異常なのだからそれをしたって何もおかしくはない。
「ボス。聞いてるのか?」
部屋に入ってきた屈強そうな男の呼びかけを、先程からずっと彼は無視し続けていた。
屈強そうな男の言葉は敬語ではなくタメ口。タメ口で良いと言われているわけでも、かと言って忠誠心があるからこその不敬な態度というわけでもない。二人の間には確固たる忠誠心はなく、とある事情から表面上、彼の部下になっているだけだ。とは言っても、世間で言われているほど彼は冷酷ではないとも、男は知っていた。
「⋯⋯聞いている。これでもな。⋯⋯要件は?」
着ていた真っ黒なローブにはフードがあり、そのフードに隠れて彼の顔は殆ど見えないのだが、ハッキリとその暗闇に光る赤い双眸だけは確認できた。
その赤い双眸からは人ならざるものの気配を感じさせ同時に、同性であるはずなのに思わず惹かれてしまうほどの魅力も兼ね備えている。
「例の仕事の終了報告だ」
「⋯⋯そうか」
彼は一言、それだけ言って会話を終了する。
「⋯⋯なあ教えてくれ。何であんなことをした?」
男は、行った例の仕事の意味を理解できなかった。
──組織の仲間の鏖殺。一人残らず全員を殺害するという仕事。
男は赤目の彼のことを冷酷だが残酷ではない奴だ、と思っていた。しかし、その思いは今、否定された。
「この組織の目的は覚えているか?」
「⋯⋯ああ」
「この組織に入る奴らは、その目的のためなら自身の死さえ厭わないことを誓っている奴らだ。まあ、お前は例外だがな。だから、俺はお前だけは殺さなかったんだが⋯⋯お前以外は違う」
男と赤目の彼は、半ば脅迫じみたことをされて嫌々付き合っているに過ぎない関係だ。互いの信頼関係なんてないに近い。
「俺は契約は絶対であると思っている。だが逆に言えば、違約しなければ、それは受け入れるべきことだろう?」
契約に、組織の目的のためならば自身の命さえ厭わないことを誓う、とある。であれば、突然殺されることも受け入れろということなのだろう。
倫理観が破綻している。だが間違ったことは言っていない。いやそもそも、彼に倫理観を、人間が勝手に決めつけた価値観を押し付けること自体が間違っていたのだ。
人間の倫理観は所詮、人間社会でしか適応されない。合理性も正当性もない価値観の押しつけほど烏滸がましいことはない。
「⋯⋯お前は俺を憎むか?」
「⋯⋯憎む、というより、哀れんでいるな」
「そうかよ。⋯⋯はは」
彼の顔を、男は久しぶりに見た気がする。
赤い目に、犬歯が普通の人間より長い。顔つきは人間そのもので、普通の少年であるが、彼から漂うオーラは人間のそれとは正しく異なる。
「憐れむ、ねぇ。⋯⋯お前の子供と俺は、どうやらあまり年が変わらないらしいな。それが原因か?」
彼の外見年齢は、およそ十代後半くらいだし、実年齢もそれくらいだ。男の子供である一人娘と同年代であるのだが、精神は同じとは思えない。
「⋯⋯」
「⋯⋯答えないか。⋯⋯そうだな、一つ、俺からお前に子育てのアドバイスを教えてやる」
「アドバイス⋯⋯?」
「ああ、アドバイスだ。⋯⋯復讐心に囚われた人間は、何をしたっておかしくない。特に精神が未熟な子供は、その傾向が強くなる。だが両親というのは、道を踏み外しそうになった子供を、再び正しい道に導けるだろう。それほど、両親は子供にとって偉大で尊敬できる存在だ」
彼がその時見せた表情は、普段の彼からは想像もできないほどに人間らしかった。忘れていた感情を思い出したようだった。
「⋯⋯復讐なんてやったって、その後には何も残らない。ただ虚無感だけが襲ってきて、復讐心に生きる意味を見出していたなら、多分、その後生きる気力を失うことになるだろう」
「⋯⋯それはどういう」
「そのままの意味さ」
人間らしさを取り戻していた彼だが、次の瞬間、再び異形なる者に戻っていた。
「──もうお前は自由だ。⋯⋯これでお別れだな」
「⋯⋯は? 何言って⋯⋯」
彼はフードを深く被り直す。
「⋯⋯お前の妻と娘の、ここでの記憶は全て消させてもらった。今は自室で眠っているはずだ」
「おいちょっと待て、話が見えてこない。ボスはこれからどこに、何しに行くつもりなんだよ?」
「⋯⋯じゃあな。⋯⋯ヴェルム・エインシス」
「待て。まだ話は⋯⋯」
彼の立ってた床に、白色の魔法陣が展開された。それは予めセットされていたもののようだった。
「⋯⋯お前は親として、立派だったよ」
──魔法の効果が発揮されて、彼の姿がそこから消え去った。
◆◆◆
「──っ!」
気がつくと、彼はダンジョンに入る直前の時点に居た。そう、戻ってきたのだ。
死の感覚。それは理解できない漠然とした不快感であった。
(これが死、か。何度でもやり直せる、最後には必ず感動的な結末が迎えられる⋯⋯なんともまあ素晴らしい加護だぜ)
「マサカズさん、どうしたんですか?」
マサカズの突然の変貌にユナは驚き、心配する。
「⋯⋯前に話した俺の加護、覚えてるか?」
「まさか、本当に⋯⋯誰に殺られたんだ?」
重症を負っていた二人だが、今は傷一つない。質の悪い冗談でもなければ、この現象は例の加護が発動したという証明になる。
マサカズはナオトの問に答えることなく、後ろを振り向く。それこそが回答であるからだ。
「白の魔女、エスト⋯⋯そこに居るだろ?」
誰もいないはずのそこに、マサカズは声をかける。その声かけに反応するように、そこに白髪の少女が現れる。
「⋯⋯ほう。素晴らしい。私の不可視化を見破るとは」
さっきとは異なり、彼女からは一切の殺意が感じられない。代わりに感じられるのは興味である。
「⋯⋯見破って──」
もし、ここで『見破ってなんかない』と答えたらどうなるだろうか。そう考えると、マサカズはこの発言を続けることが怖くなった。
目の前の白髪の少女、エストは、前回、マサカズたちが邪魔だから殺しに来たと言っていた。ならば、自ら無力さを示すのは、むしろ悪手なのではないか。
「──いたさ。最初からな」
「へぇ。召喚者⋯⋯転移者は皆弱いと思っていたんだけどね。これは予想外だよ。⋯⋯じゃあ、これに耐えれたら合格だ」
すると、エストの背後に無数の魔法陣が展開され、それと同数の多種多様な魔法武器が創造された。魔法武器は白色の光を纏って、まるで糸にでも吊るされているように空中に停止していた。
笑えない冗談とはまさにこのこと。どうやらエストがマサカズたちを見逃す基準は非常に高いようだ。
死が可視化されたようで、気分が悪い。だがあの死の感覚と比べれば、耐えられる程度だ。
予測可能回避不可能。つまり不可抗力である。
人間が死を目の前にすると、これまでのあらゆる記憶を思い出して、世界の時の流れを、不自然なくらい遅く感じるらしい。
ゆっくりと死が迫ってきているのに、頭に浮かぶのは楽しい記憶であるが、使えない記憶。この状況を打開できるようなヒントはそこになく、ただ待つのは確実な死である。
やがて魔法武器のうち、一本の短剣がマサカズの腹部を刺した。激痛が走った。内蔵が直接痛めつけられた。もう一本、もう一本と、武器が、得物が、殺人道具が、マサカズたちの命を刈り取るべく襲ってくる。
腹部に、脚部に、腕部に、頭部に、鋭利な刃物が刺さった。そのまま魔法武器は、あわれな犠牲者の肉体を貫通して、そして抉る。
原型を留めないくらいの肉片にまで解体することで、およそ150kgのミンチが出来上がった。無論、血抜きどころか衣類が混ざっていて、そもそも人肉であるため、食料としてはとてもじゃないが食べられないミンチだが。
たが、これで終わりではなかった。
その瞬間、世界の時間が逆行を開始したのだ。ビデオテープの巻き戻し機能のように、今まで起こったことは過去へ過去へと巻き戻されていく。そしてある時点まで戻っていって、ようやく巻き戻しは停止し、時間は本来の流れとなった。
「一回限りの悪夢ではない、ってわけか」
『死に戻り』には回数制限がないと、元よりそう直感していたのだが、いよいよそれに信憑性が付いてきた。
何度でも挑戦できると楽観視できるほど、マサカズは狂人ではない。むしろ、死ぬことができないと悟って、絶望しそうなくらいだ。
死とは救済。死を知る前であれば、そんなことはないと笑い飛ばしたものだったのだが、やはり、理解するには何事も経験である。こんなこと、理解したくなかったが。
「──」
今度はナオトの問を無視して、聖剣を構え、
「〈一閃〉」
戦技を行使する。
完璧なまでの不意打ちだ。まさか見破られているなんて思いもしていないはずなのだ。きっと、マサカズの聖剣はエストの首を斬り落として──
「⋯⋯へぇ」
──いなかった。
マサカズの体は白く輝いており、エストの左手辺りには魔法陣がいつの間にか展開されていたのだ。そうつまり、マサカズの最速の攻撃でさえ、エストは見てから無力化した、というわけだ。
「私の透明化を見破ったのは褒めてあげる。けど、この程度の力だと不合格だね」
マサカズの体は、不自然に働く重力に従って、ダンジョンの外壁に叩きつけられた。肋が数本折れて、それらは肺に突き刺さり、血反吐を吐く。呼吸ができない。
「か、はっ⋯⋯!」
ゆっくりと、エストは三人との距離を詰めるために、悠々と歩く。一見、隙だらけだったが、攻撃を仕掛けようとしたナオトは、
「〈血刃〉」
突如出現した血液の刃によって、全身を滅多切りにされたのだ。
「っ!」
弓を射るユナだったが、矢はエストに着矢することなく、彼女の周りに展開されていた重力の壁によって地面に叩きつけられる。
そして、ユナの頭部に血の刃が突き刺さり、即死させた。
「これにて勇者パーティーは全滅、だね」
エストは重力魔法を行使して、マサカズのボロボロな体を、近くの木の枝に突き刺す。うなじ部分から突き刺さって、首を貫通し、そして死亡した。
「──」
三度目は、『死に戻り』が発動した瞬間に後ろに振り返って、一度目の〈瞬歩〉を使って正面に行くが、それはフェイント。もう一度同じ戦技を使い、背後に回り込むと、超近距離だが、更に〈一閃〉を使う。
不意打ちの攻撃に、とんでもないスピード。そして何より、周りを怖気づかせるほどの殺気。エストは反応ではなく反射的に、マサカズの剣撃を回避した。
重力魔法の魔法陣が展開されようとした瞬間、ユナの矢が飛んできて、エストはそちらの対処をせざるを得なくなったため、対象をマサカズからユナの矢へと変更。矢は白く輝き、支配権はエストが握った。
白く輝く矢は、軌道が変化し、マサカズに刺さる。左腕を出すことで致命傷を避けたが、代わりに左腕は使い物にならなくなった。
「はぁっ!」
激痛に顔を顰める時間さえ惜しい。残った右腕に力を込めて、可能な限りのパワーとスピードを聖剣に乗せ、振るう。
見るとナオトも追撃に来ている。二人に、同時に重力魔法を行使することも、この一瞬では難しい。
「⋯⋯惜しかったね」
──そう、二人に、同時に重力魔法を行使するのは難しいはずだった。
マサカズとナオトの体が白く光って、身動き一つ取れなくなった。
「私はね、天才なの。だから、魔法をほぼ同時に多数行使することだって可能なんだよ」
その時に射られた矢を、エストは豆でも抓むようにして受け止めた。
「勿論、魔法の行使だけに全集中力を使っているわけでもない。⋯⋯悪くなかったよ。でも、駄目だ。三人がかりで、私に傷一つ付けられない程度じゃ、ね」
体にかかる重力が一気に増加して、高圧プレス機で空き缶が潰される如く、マサカズとナオトの身体も潰された。
◆◆◆
死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、また死んだ。
どうすれば良い。どうすれば勝てる。
──分からない。
そもそも、なぜこんなことをしている。
──分からない。
俺は一体何者だ。俺は生きているのか。
──分からない。
分からない。知らない。無理解。不明。未知。
答えがない。答えることができない。返答ができない自問自答。
──いや、思い出せ、殺意を。奴を殺すと誓っただろう。
殺す。殺してしまえ。殺さなくては。殺すべきだ。殺したい。
殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、そして殺せ。
他に考えるな。何も考えるな。ただ白の魔女を殺すことだけに集中しろ。白の魔女を殺す方法にのみ脳を使え。さもなければ、この死のループから抜け出すことはできない、そう、永遠に。
「⋯⋯」
「⋯⋯マサカズ?」
9177回、『死に戻り』をした。
「ははは⋯⋯アハハハハハ!」
「⋯⋯何──っ!?」
突然笑いだしたかと思えば、次の瞬間、マサカズはエストの目の前に現れた。
「死ね!」
おおよそ人間の、正常な人間の精神状態ではない。どう考えても狂ってる。どう考えても異常。
──今回で遂に、彼は限界を迎えた。
憎悪と殺意を隠す気もなく、ただそれらに任せるだけ任せて、己の全力を、正真正銘、普段は無意識的にかけられているリミッターを解除した実力を発揮した。
さながら、彼は本能のままに暴れ狂う怪物のようであった。だからこそ、エストは彼に、
「ひっ──」
恐怖した。本来畏怖される存在である彼女が、人間を恐れたのだ。
その恐怖した瞬間が、確かな彼女の隙となってしまったのだった。
エストの胸部に、一刀入り、傷をつける。
9178回目の挑戦にして、ようやく、マサカズはエストに攻撃を加えることに成功したのだ。
「──っ!」
マサカズの追撃を、エストは重力魔法によって防ぐ。だが、彼の憎悪は、殺意は、狂気はその程度では止まらなかった。彼は地面に叩きつけられ、両足の骨に罅が入っただろうと言うのに、まるで痛みなんか感じていないように、走り出した。
また距離を詰める──ことはなく、彼は、なんと、完全に接近しきる前に、その聖剣を投げつけたのだ。
「は」
ミスディレクション。彼が無意識下に、狂気に陥りながらした行動は、エストの予想外の行動であった。だからこそ、一瞬、エストはその行動への反応が遅れて、
「ぐっ⋯⋯」
喉仏に、聖剣が突き刺さった。
痛みと苦しみを同時に感じる。しかし、死ぬことはなかった。人を超越したエストたち魔女は、普通の人間なら致命傷になっても、彼女たちなら即死することは少ない。それこそ、胴体を真っ二つに切断でもしなければ、即死はまずあり得ないだろう。
聖剣を重力魔法で操り、エストはマサカズを突き刺そうとする。
「──っ!?」
しかしそれを、マサカズは避けた。普通なら死んだと油断する場面のはずなのに、どうして。
「あああぁぁぁぁっ!」
剣がなければ素手で襲いかかれば良い。
マサカズは拳をエストに振りかざすが、対象をそれが捉えることはなかった。
「っぶな⋯⋯」
直前で転移魔法を行使して、その場からエストは離れたのだ。
「⋯⋯」
治癒の魔法を自身に行使すると、エストの喉仏あたりの傷はすぐに完治した。
傷も完全になくなり、まだ魔力も全然減っていない。戦闘の持続は十分可能であったが、
「⋯⋯狂気は支配さえも覆す。そこまで狂ってしまっていたら、アイツの支配も意味がないだろうね」
支配系能力とは、精神を意のままに操る力だ。そのため、当然だが支配することができるのは壊れていない精神のみである。
そして狂気には二種類ある。
まず一つ目が、自我のある狂気だ。例えば明確な目的意識や、価値観を持っており、それに準じて行動している場合はこのタイプだろう。この狂気は精神が崩壊していないため、支配系能力は行使可能だ。
二つ目が、自我のない狂気。自分を自分だと思っていない、他者との境界線を引いていない状態である。ただ本能のままに、あるいは狂う前に強く思った目標のためだけに動く人とは言えない化物が、このタイプである。
自我を持っていないということは、精神が崩壊しているということ。壊れた道具は使えないように、支配系能力は行使できないというわけだ。
この場合、マサカズが分類されるのは後者の狂気。つまり、エストの目標は達成されたということである、
「そんな状態だ。餓死するなり、処刑されるなりしてキミは終わる。⋯⋯何より、私はキミが怖いんだ。会いたくない。こうして対面することさえ忌避したい。キミは⋯⋯そうキミは、異常な存在なんだよ」
狂気とは違った異質な感じが、マサカズからする。その感じの正体が何なのかは分からない。しかし、言えるのは、その感じとは、恐怖だった。抗うことができない絶対的な存在への畏怖。そうまるで──世界という概念存在を、彼に感じたのだ。
理解不能。だが本能がそう叫ぶ、彼にこれ以上危害を加えるべきでないと、彼にこれ以上関わらない方が良いと。
「⋯⋯」
そのとき、エストの姿がそこから消え去って、同時にマサカズの体も地面に倒れ伏した。
──たった二人の男女を犠牲に、魔女を撃退した功績は奇跡にも等しかった。だが奇跡とは、可能性があるからこそ成り立つ。ただ単に、低確率を引いただけに過ぎない。そしてマサカズは、その低確率を100%にすることができる。
彼にとって奇跡とは、必然である。
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