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OTERROUT「狂気と痛みと憎しみと」
中編
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彼は死と生の狭間を彷徨っていた。感情は、思考はないようなもので、何の目的もなく、ただ歩いているだけ。死人と言われても、おかしくない状態にあった。
「──ト」
掠れた声で、彼は何かを発言する。それが最早言葉なのか、あるいは単なる喘ぎ声なのかさえ分からない。本人のみぞ知る、と言ったところだ。
「──」
彼の視界は、殆どが白黒で構成されていた。どこで、どのタイミングでそうなったのかは、本人にも分からない。ただいつの間にかそうなっていただけだし、今の彼の精神状態では、その異常を気にしていられる余裕はない。
本能のまま、歩く。
それは知性ある、自我ある知的生命体には相応しくない活動であり、人としての尊厳なんて微塵も感じられない。ある意味で、アンデッドよりも非生命体らしい状態。それが今の彼だ。
だが彼はアンデッドではなく、れっきとした人間。精神が崩壊していても、肉体は正常な人間そのものだ。勿論、食事をしなければ彼はやがて倒れて、餓死に至る。それを防ぐために、彼の体は食を求め、胃が空腹を訴えた。
「⋯⋯に、く」
あれから三日が経過した。その間ずっと、彼は平原を彷徨いていた。幸いにも、いや、不幸にも、この間、他の人間と彼は接触していなかった。
だが、どうやら、世界は彼に望むものを与えてくれるほど、優しいらしい。
「なんだ、お前?」
一つの冒険者のパーティが、彼の目の前に現れた。男女四人それぞれ、ランクにして3──中堅以上の腕の冒険者だ。この辺りのモンスター程度では、足止めにさえならないだろう。
「何かあったのか? とにかく、その様子じゃ歩くのさえ厳しいだろう。ほら、王都に行こう」
冒険者には、ならず者が多い。だがそんなならず者には、高ランクの冒険者は居ない。何せ、ランクの昇格試験では、単純な強さだけでなく、人柄なども検査されるからだ。護衛任務もあるのだ。その人の信頼は重要になる要素である。
心から心配して、パーティリーダーは彼に手を差し伸べる。彼はその差し伸べられた手を取る──そう、文字通り。
「──へ?」
手首から先が、引き千切られた、一瞬で。とんでもない力によってそれは行われて、刹那、冒険者は痛みも何も感じなかったが、
「うわぁぁぁぁっ!」
血飛沫が撒き散らされて、外気に触れた神経が、脳に痛みを送る。砕けた骨が露出し、痛々しさを強調する。
「リーダーっ!?」
突然のことに、メンバーたちの思考は停滞した。だが流石はランク3冒険者。すぐに意識を戻して、哀れな少年を卑劣な化物と再認識する。しかし、いくらその思考速度が大きくても、それは所詮、普通の人間関における比較でしかない。転移者である彼──マサカズからしてみれば、ナメクジの動くスピードと、何が違うのか分からないほど、彼らは遅かった。
蹴りを入れてリーダーと呼ばれた男の頭を鷲掴みにして、破裂させる。
「ぁ」
女魔法使いの頭部を、マサカズは撫でるように触れると、次の瞬間、彼女の首は180度回転し、死亡する。
「っ! テメェ!」
屈強そうな男が大剣をマサカズに振るうが、彼は片手でそれを受け止めた。まるでそこには力が入っていないように見えるというのに、彼は爪楊枝でも折るように軽々しく鉄製の大剣を砕いた。
「なっ⋯⋯」
信じられない光景に驚愕し、そして恐怖した。だから何だというのだ。マサカズには人殺しへの躊躇なんてない。単に、空腹になったから、彼は人を殺すのだ。そこに慈悲も愉快も何もない。本能だけが、そこにある。
マサカズは屈強そうな男の首を掴み、そして握り潰す。肉が裂ける音が響くと共に、二人目の、いや二つの命を奪った。
「ひっ⋯⋯逃げ」
空腹に狂う野生の肉食動物が、目の前に居る捕食対象をそう易易と逃がすだろうか。勿論、そんなはずはない。
逃げようとした神官の少女だったが、マサカズに簡単に捕まる。右肩が砕かれた挙句、マサカズの見た目からは想像もできない剛力によって少女は地面に叩きつけられた。
だが、少女はそれで死ぬことができなかった。体は痛みで動かせなかったが、あらゆる感覚は正常に作動している。
「や、やめ──っう!」
マサカズにとって、少女の生死なんてどうでもよかった。ただそれが肉であるならば、それ以上の違いなんて気にするほどでもなかったのだ。
──少女は、生きたまま捕食行為の対象となった。
右の前腕に噛みつかれて、そして切られる。想像に絶する激痛に少女は気絶しそうになったし、気絶したかったが、できなかった。どこまでも世界は少女に厳しかった。
痛覚が麻痺してきた。しかし生きたまま食われるという不快感は今も継続して覚え続けている。
その後も、足を食い散らかされたが、少女は死ぬことを許されなかった。ただぼんやりとした意識の下、赤く染まる空を眺めていた。その瞳には光がなかった。
食われていた感触が無くなったとき、少女の意識は覚醒を開始した。だがその覚醒具合に応じて、少女の痛みは増していったのだ。
「⋯⋯〈上位治癒〉」
自分に治癒魔法を行使することで、痛みを和らげ傷を癒やす。失った肉を少女は取り戻し、ボヤケていた視界が鮮明になっていく。
「──っ!」
そして、見た。
酷い光景だった。ただの死体なんかではなく、食い荒らされた死体というのは、見た者に対して、これまでに味わった何よりもの不快感を覚えさせる。それが仲間の死体であるということが、少女のその不快感をより一層、高めていた。
「くっ! この⋯⋯殺人鬼!」
満腹になったことで、赤子のように眠る少年の口辺りは特に、他より血が付着していた。
「殺してやる!」
少女は手に持つ魔法杖で、少年の喉仏を狙い、力いっぱいに振り下ろそうとする。しかし──魔法杖が貫いたのは、少年の喉仏ではなく、地面だった。
「どう⋯⋯して⋯⋯どうしてなの!?」
少女は神官だ。人を癒やす、人を助けることがその役目だ。だから、どんなに憎むべき相手でも、命を奪うなんていう、本来の役目とは真逆の行為ができなかった。
「どうして⋯⋯どうして⋯⋯」
少女は膝から崩れ落ちて、両手で顔を覆い、涙を零す。
疑問と憎悪と哀情に心をグチャグチャに掻き回されて、しばらく、少女はそこから離れることができなかった。
◆◆◆
次にマサカズの意識が覚醒したとき、彼は王都の刑務所のような施設の牢獄に居た。それもそのはずだ。三人を殺害し、一人の少女に重症を与えたからだ。殺人及び傷害罪。前者だけで、彼は死刑執行の対象者となった。
しかし、それは彼の精神状態がハッキリとしたことで、取り消しとなった。だが、当然だが無罪というわけにもいかなかった。牢獄での治療が完了したならば、死ぬその時まで罪を償うだけの一生を過ごすことになっただろう。
彼の精神はボロボロもボロボロ、どうして動けるのか分からないほどだった。魔法という技術でさえ、彼の精神を、コミュニケーション可能なほどまで戻すのには、長い長い時間を要した。
──冒険者パーティ殺害の事件から、三ヶ月が経過した。
マサカズ・クロイは、自身の行った大罪を償うために、今日もモンスターの討伐を行っていた。
「⋯⋯知るか。人間が三人死んだくらいで、何を大袈裟に」
しかし、当の本人は、反省の微塵もしていなかった。
彼にとって人間とは、虚弱で、貧弱で、無知で、無能で、無価値で、無様な存在だ。勿論、自分自身のことも、そうだと思っている。思っているからこそ、人間如きの命に価値などないと思っている。
「あの冒険者組合長が居なければ、俺は⋯⋯」
冒険者組合長、ジュン・カブラギ。マサカズと同じ異世界人であるが、彼は転生者。対して転移者であるマサカズとは比べ物にもならないほどの力の差が二人の間にはあった。
「⋯⋯逃げ出そう」
マサカズにはある目的がある。それを達成するには、こんなところで生涯を捧げてまで、罪を償うなんてしている場合ではない。無価値な人間に、ましてや他者に、貴重な時間を使うことなんて愚かなのだから。
◆◆◆
「同郷人を殺すのは、少しだけ、そう、ほんの少しだけ気分が悪いな」
真夜中。人々が寝静まる頃、マサカズはジュンの寝込みを襲ったのだ。
胸にナイフが突き立てられ、灼熱の痛みに悶苦しむ中、ジュンはマサカズの嗤う姿を見た。
「貴⋯⋯様⋯⋯!」
無理に喋ったことで、ジュンは血を吐き出す。
「どうした、どうしたぁ? 何か喋るなら、もっとハキハキと声に出して言わなくちゃ。学校で教えて貰わなかったのか?」
マサカズの精神の治療をしたのは間違いであった。あの場で殺しておくべきだった。だがそんなのはタラレバの話であって、いくら後悔しても遠い過去は変えられない。
「『死氷──』」
自分の愛刀の名前を呼ぶ。ジュンの刀は『生きている武器』であり、その呼び掛けに反応して、きっとマサカズを殺すはず⋯⋯だったのだが、
「コイツのことか? 初見殺しだよなぁ。まさか、無機物が生きているなんて思いもしなかったぜ。一回死んだしな、これで」
マサカズは、既に、『死氷霧』を支配していた。意思があるならば、精神があるならば、それを破壊すれば無力化できる。氷魔法を無制限に使えるただの無機物へと、彼女は成り下がったのだ。
「何⋯⋯言って⋯⋯」
初見殺し。一回死んだ。マサカズのそれらの言葉の意味が、ジュンには理解できなかった。
「今から逝くお前に、我が力を教えてやろう⋯⋯何てのは、人生で一回は言ってみたいセリフだよな」
死にそうな少年を目の前に、彼はそんな冗談を言う。もっとも、笑えない類のものであったが。
「⋯⋯っと、もう時間切れか。本当に人は簡単に死ぬな」
目から生気がなくなり、体が少しも動かなくなったジュンを見て、マサカズは呟いた。
「⋯⋯俺も、簡単に死ねたら良いんだが⋯⋯」
◆◆◆
冒険者組合長、ジュン・カブラギを抹殺したことで、マサカズは自由に動けるようになった。
「白の魔女、エスト」
憎むべき相手。殺すべき相手。自分をこんなふうにしたのだから、報復として殺さなくてはならない。
マサカズの目的は、エストの殺害だ。
だが、それには、マサカズはあまりにも弱すぎた。今のまま戦ったって、今度のエストは油断の欠片もないだろう。つまり漬け込む隙がなく、剣の先さえ届かずに死を何度も繰り返す羽目になってしまうことが容易く想像できてしまう。
人間とは本当に弱小らしい。
──よって、マサカズは人間を辞めることにした。
しばらく時間が経過した。
「⋯⋯ここにもないか」
魔法技術が高水準にある国、アサイフ聖王国にマサカズは訪れて──いや、侵入していた。
この国にはリスタンス魔法大図書館というものがある。その名前通り、ありとあらゆる魔導書が集められた大図書館で、中には見ることさえ危ぶまれるような危険な魔導書もあるため、勿論一般人は入館不可だ。
一般人の分類にあるマサカズも当然入館は断られたが、夜に不法侵入し、今こうして魔導書を読み漁っているのだ。
「違う。これじゃない⋯⋯」
マサカズは人ならざる存在、不死者化が目的である。その中でもお目当てはアンデッド最強種族である吸血鬼、もっと言えば始原の吸血鬼だ。
「──あった! これだ!」
探し始めて四時間。そろそろ日も登ってくる直前に、ようやく彼は目的の魔導書を見つけられた。
タイトルは『リーテルの書』という。内容は要約すると不老不死の術についてであり、著者リーテルはそうなれる唯一の方法はアンデッド化のみである、と述べている。勿論、アンデッドになる方法も書かれていた。
まさにマサカズが望んでいるものであり、彼は躊躇なくそれを盗んだ。
しばらくして、彼は大図書館から遠く離れた位置にある廃墟、もとい隠れ家へと逃げ込むと、魔導書を開き、すぐさまじっくりと読み出す。
どうやらアンデッド化と言っても、単純に肉体構造を変化させれば良いというわけではなさそうだった。
そもそも、低位のアンデッドには知能がない。そして、普通に、とりあえずで創ったアンデッド化の魔法ではその低位のアンデッドになってしまったらしい。
目標は知能のある高位のアンデッドだ。その中でも基礎身体能力が比較的高いヴァンパイアにのみ視点を当てて、リーテルは研究した。
研究開始から五年という短期間でリーテルはヴァンパイアとなる魔法を創り出した。しかし、その魔法はあまりにも高位──推定では、第八階級魔法に分類されるらしいため、到底人間には活用できないものらしいのだが、これ以下のものにしてしまうと低位のアンデッドになってしまうらしい。
「⋯⋯」
更なる研究はそこで終わったようだ。
理論上は可能だが、普通の人間には使うことができない魔法。──しかし、普通の人間でもそれを行える術があるとも、リーテルは書き残していた。
その術とは、儀式魔法だった。とてつもなく長い時間詠唱をすることで、本来使えないほどの高位の魔法も使えるようにするといった魔法技術である。
「⋯⋯儀式魔法か。⋯⋯できるなら、やってやるよ」
◆◆◆
一ヶ月後。
褐色肌で隻眼の男は、目の前の少年に傷一つ付ける事さえ叶わなかった。
尻餅をついて、無様な姿で、エルティア公国最強の剣士は敗北したのだ。
スティレットを首に突きつけられており、彼の生死は少年が握っている。
「殺せよ」
剣士とは剣に生きる者たちのことだ。剣で負けたのならば、例え生きていても、それは死と同義。あるいは、死よりも屈辱であろう。
隻眼の男も立派な剣士である。だから、死を望んだ。
「生憎だが、俺はお前から公国最強の剣士なんて言う下らない称号を奪いに来たわけじゃない。俺はお前の力が欲しいから、ここに来たんだ」
「⋯⋯は?」
何を言っているのかが分からない。
「そうだな。分かりやすいように言い換えよう。⋯⋯俺の配下になれ。さもなくば死よりも最悪な苦痛を、屈辱を味あわせてやる」
それは脅迫だった。
「⋯⋯断ればどうなる?」
隻眼の男は恐る恐る、真っ黒なローブに身を包んで、顔が全く見えない少年にそう聞く。
「お前には妻と一人の愛娘が居るらしいな? 公国随一の美少女にして、歴代最少年で、国家魔法試験を突破した超天才だとか」
公国の国家魔法試験は、それに合格するだけで、一生、絶対に職に困らないとされる資格が獲得できるような試験だ。勿論、そんな試験に合格することは非常に難しく、合格率は、高い年でも10%ほどである。
「しかもその上、父親の身体能力も、母親の知能指数も引き継いでいて、まさに文武両道⋯⋯全く、羨ましいものだぜ。俺にはないものばかりだ」
どうやら個人情報は知られているようだった。
「⋯⋯ああ、あと、凄く良い子だったな。見知らぬ薄汚れた黒ローブを着た少年を、彼女は一日だけとはいえ家に泊めてくれた。⋯⋯ああ、凄く優しくて⋯⋯とても、美味しかった」
「──っ!?」
目の前の少年は、おそらく吸血鬼だ。そしてそんな彼が美味しいと言った意味。
ヴェルムはしばらく家に帰れなかった。だから、妻と娘の安否が分からない。
人間とはどうしてこんなにも不完全で、悲観的なのか。
彼は嫌な未来しか考えつかず、血の気が引き、そしてあとから来る壮絶な怒りに身も心も支配され、彼我の実力の差をを知っても尚、少年に剣を振る。
だが少年は軽々とヴェルムの腕を受け止めた。
「何を怒っている?」
少年は本当にわけが分からないと言いたげな表情で、ヴェルムにそう問いかけた。
「貴様ぁ!」
人間の心理を理解できない化物であると、ヴェルムは思ったのだが、それはとんだ間違いであった。
ヴェルムの雄叫びに、少年は少しその赤い目を見開いたあとに、考えるような仕草を見せた。
「⋯⋯ああ、そうか。すまないな。少し語弊があった。俺が彼女の血を啜り、干からびた死体へと変貌させたのは前回の話だ。今回は、彼女はきちんと生きている。じゃないと、お前との交渉材料にならないだろう?」
困惑。ただただ困惑。
前回? 今回?
何を言っているのかがさっぱり、少しも、全く理解することができない。
「⋯⋯」
「まあ、そう怒るな。お前の娘は生きている。これは本当の話だからさ」
少年の声質や、瞳からは、嘘の気配がしない。それは本当である確率が高いし、少年が言うように、娘を殺してしまえば、彼の目的であるヴェルムを仲間にするということが不可能となる。
「⋯⋯分かった。お前の仲間になる」
ヴェルムは、少年に対して跪き、忠誠を誓った。
「それが聞きたかった。⋯⋯俺の組織、『マギロサフォニア』へようこそ、ヴェルム・エインシス」
裏組織『マギロサフォニア』。
一ヶ月ほど前に創設されたばかりだというのに、今や世界中で暗躍する大組織である。その創設者にして、支配者であるのが、
「マサカズ・クロイ⋯⋯俺の役目はなんだ?」
「そうだな⋯⋯側近にでもなってくれ。お前を止められるのは俺だけだろうし、監視もできる」
ヴェルムほどの強者に匹敵する実力者は、早々居ない。
それこそ、彼を超える実力者であり、かつ表舞台に立つ人間なのは帝国の神父くらいだろうが、つい最近、その神父は魔女に、ついでに帝国ごと滅ぼされたそうだ。
「⋯⋯ああ、そうそう」
少年、マサカズはとても軽い口調で、後ろに居るヴェルムに見向きもせず、その場から、血の匂いが充満する公国の大聖堂から離れるべく歩きながら喋り始めた。
「俺たち『マギロサフォニア』は、当然だが危険な仕事が多い。いくらかの大組織とも敵対していて、抗争ばかりでうんざりするくらいだ。つまり、いつ死んでもおかしくない状態にある」
創設直後の組織が、一気に肥大化し、大きな力を有する。当然、同じような組織たちからは目の敵にされ、表の、所謂正義を語る組織からは、大変警戒されている。何度か、マサカズの暗殺命令が出ているほどだ。
「だから、お前の家族は保護した。一日中とても安全な部屋の中で、一日三食、十分な食事と娯楽を提供している。俺の命令をすぐに聞く部下を監視につけてるから、侵入者が出たとしても安心だ」
口ではそういうが、保護したなんていうのは上辺だけだ。本質は、その価値にある。つまり、人質である。
「⋯⋯性格が悪いな」
「そりゃどうも。だが、客人として、最上級のおもてなしをしていることも、何も悪いこともしていないことは保証してやるし、面会どころか一緒に遊ぶことも自由だ。まあ勿論、その際にも監視の目はあるがな」
本当に性格が悪い。
どこまでも、逆らわせようとさせてくれない。絶妙な束縛加減を知り尽くしているようだ。反発を、満足という形で抑えている。
「⋯⋯さてと⋯⋯今日は休んでいい。だが明日からは働いて貰う」
少年は被っていたフードを脱ぎ、ヴェルムにその素顔を見せる。
「⋯⋯!」
「俺は今年、吸血鬼になったばかりだから、外見年齢がそのまま俺自身の年齢だ。⋯⋯驚いたか? まさか、自身の娘と同じくらいの年齢の子供だとは思わなかっただろう?」
まだ、若い。まだ、子供だ。
だが、彼は人ではない。精神も、同年齢くらいの子供とはまるで違う。どこか壊れていて、どこか死んでいる。
人を知っていて、理解しているが、共感はしない。しようとしないのが、目の前の少年の本性だ。
彼は──吸血鬼。異形の化物である。
◆◆◆
「初めまして、ボス! 今日からお世話になります!」
『マギロサフォニア』の本部にて、マサカズはたまたま廊下で出会ったガタイの良い大男の部下にそう挨拶された。
マサカズは冷酷で無慈悲で残酷だ。しかし、意味もなく部下を殺したりすることはないし、普通に接してくるならば彼は良い上司として接し返す。
「⋯⋯ああ」
今日、その大男はこの組織に加入して、初めてボスに出会った──そう、彼は認識しているだけである。
本当は、もう彼は何度も今と同じことをしている。
これは大男が意図してやっているわけではない。単に──記憶が消されているだけなのだ。
「⋯⋯面倒だな。毎回挨拶されるというのも」
マサカズは自分と血以外を信用することができない。他の人間なんかもってのほかで、自分に友好的で有能な人間以外は即殺害するほどだ。
一度仲間になったって、そのときは忠誠を誓ってくれていても、時間後経てばもしかしたら裏切るかもしれない。
「⋯⋯でも、信用できないから仕方ない、か」
マサカズは独り言を呟きながら、自室へ戻った。
部屋は殺風景だった。書類を保管するための棚と、机と椅子だけがある、無機質な部屋。寝る必要がないため、そこにベッドなどはない。
何もないように思われる壁にマサカズは近づき、ある魔法を詠唱すると、壁は消失し、地下に続く階段が現れた。
階段は、一人の少年が通るくらいならば何も問題はない程度には広く、明かりは一切ないが、彼には必要ない。
降りきった先には、鉄製の重々しい扉があり、マサカズはそれを開いた。
少し広い場所に出た。一般家屋のリビングほどの面積だろうか。だがそこには、そのスペースを有効活用できるくらいの家具などは置かれておらず、代わりに、部屋全体に、光を失った魔法陣が描かれているばかりだったが、マサカズがその部屋に入るやいなや、自動的に、その魔法陣は白い光を発しながら、いつでも発動可能な状態となる。
「⋯⋯正直、行きたくないが⋯⋯まあ、無断で行かなかったら、今度は部下何人が死ぬかわからないし⋯⋯仕方ないか」
マサカズは魔法陣の上に立つと、魔法陣は効果を発揮し、彼を転移させた。
転移先の、先程までとはまた異なる部屋は、妙に息苦しかった。たしかにこの部屋の、いや、この居住区全体の時間の流れは異常であり、それが原因の一つでもあるのだが、やはり、一番大きな原因はそれではない。
「⋯⋯時間ギリギリですね。もう少しで、あなたの可愛い部下と戯れに行こうとしましたよ」
「それは勘弁してくれ。文字通り、骨抜きにされてしまうからな」
マサカズが会いに来たのは、とても長い黒髪を持ち、黒目の、東洋人風の女性だった。豊満な体から漂う妖艶かつ不思議な魅力には、あまり人間の異性への関心が少ないマサカズでさえ、思わず惹かれそうになるくらいだった。
彼女の名は、分からない。誰も彼女の名を知らなくて、彼女自身も、その名を名乗ろうとしたことがないからだ。だが、彼女には二つ名がある。それは──黒の魔女だ。
「⋯⋯お前に言われた通り、駒は確保した。だから、さっさと計画について話せ」
「まあまあ、そう急がないでくださいよ。時間はたっぷりとありますので」
マサカズは明確に殺意を、黒の魔女に向けることで威圧する。
「ああ、怖いですね。思わず震えてしまいそうです」
「本当に怖いと思ってるなら、そんなこと言うことさえできないだろ。⋯⋯化物め」
黒の魔女は、白の魔女と互角とされる。だから、マサカズは腕試しに黒の魔女を何度か殺そうとしたのだ。
だが⋯⋯結果は惨敗。殺すどころか、傷一つつけることなく、ただ『死に戻り』を何度もしただけで、1mm足りとも勝利というゴールに近づいているという感触がしなかった。
黒の魔女には勝てないと、確信したのは、5227回目のことだった。
「俺はお前を打ち負かして、俺の目標のための手駒にするはずだった。だが、結果はこの通り、お前に協力するという形になった。これだけでも、俺は⋯⋯結構頭に来てる。自分の思い通りに行かないということが、これほどまでに不愉快だとは思わなかったんだぜ? だから、これが終わったらお前をまず殺してやる」
「そんなことで、わざわざ私の部下たちを殺し尽くしたのですか」
黒の魔女本人には手も足も出なかったマサカズは、それならばと黒の教団を殆ど壊滅へと追いやった。今殺せていないのは教祖だけである。
今のマサカズにとって、世界各地に散らばっている黒の教団幹部を各個撃破するのは容易であった。
だが、黒の魔女は、そんな事をされても、マサカズに屈服することさえせず、あまつさえ、興味を示し、また、マサカズを圧倒し、絶望させた。
「しかも、協力したあとは殺す宣言⋯⋯自分でおかしいと思わないのですか?」
「約三日間の付き合いで分かるぜ、お前のその狂気くらい。普通なら断るどころか殺すべき相手でも、面白そうだと判断したならお前は受け入れる。俺自身もだいぶ狂ってるんだろうなとは自覚しているが、お前の前じゃ俺の狂気も所詮、正気らしい」
次元が違う。強さ的な意味でも、その狂っている具合でも。何もかもが、黒の魔女の前では下位互換である気さえする。
「そうですか。そうですか⋯⋯まあ、あなたの提案は受け入れますが、殺される気はありません。一時の協力関係、ですね」
黒の魔女からしてみれば、マサカズと協力するなんて、一つもメリットはない。ただ彼が面白そうだと、彼女の興味を惹いたからに過ぎない。
「俺もそこまでの高望みはしない⋯⋯が、女性に断られるのは少し残念だし、心に来るな」
「そんなことを言う人間は珍しいですね──いえ、あなたは既に人を辞めた存在でしたか」
「ああ。元人間、だ」
黒の魔女は嫣然とする。とても魅惑的であるはずなのに、狂気を感じてしまい、マサカズでさえ思わず恐怖してしまう。今こうやって会話している間にも、彼の精神力は更に削れていっていたのだ。常人なら、四ヶ月前の彼ならば、既に発狂していただろう。
「さて⋯⋯そういえば、あなたにはまだ名前を教えていませんでしたね。これから協力していくのです。いつまでも『黒の魔女』と二つ名で呼ばれるのも少し余所余所しい」
ここ数百年、彼女は、自身の名前を誰にも言ったことがなかった。
だが、マサカズからしてみれば、そんなこととても下らなかった。
「⋯⋯好きにしてくれ。そんなどうでもいいこと」
「ええ。では好きにします。⋯⋯私の名前は──」
◆◆◆
「クソ⋯⋯黒の魔女め」
自室に戻ってきた途端、マサカズはいきなり黒の魔女に向かっての愚痴を一人寂しく吐く。
「あんな狂気的で理性の欠片もない思考をしてるってのに、なんであんなにも頭が切れるんだよ。まんまと奴の思い通りに俺は動いたってわけだし⋯⋯しかも対策まであの一瞬で思いつきやがって⋯⋯」
マサカズは自身の加護である『死に戻り』の力を、黒の魔女に知られてしまった。
凄まじい洞察力だ。彼女からしてみれば、マサカズは正体不明で、どんな力を持つかわからない、言うなれば特異点のようなものである。そんな相手をしてその力を一瞬で考察し、理解し、試し、そして確定付ける。発想にさえ出にくいような彼の力を、だ。ただの力のある狂人ではないことが判明した。してしまった。
何か裏があるのではないか。もしあったとしたらその目的は何か。いやこう思わせ、嘘と本当の入り混じった情報を与えることで、間接的に思考を操作しようとしているのではないか。
黒の魔女のあらゆる能力が不明だ。一方的に情報が抜き取られているにも関わらず、マサカズが知っている彼女の情報は世間一般で知られているようなものだけだ。
情報戦でも、直接戦闘でも、負けている。
自分が自分のために自分だけで、練って考えて思索したことでさえ、全て黒の魔女の思い通りのことなのではないかと思わせられる。
「⋯⋯ああもう。俺の十八番は頭で考えることじゃない。未来をカンニングできることだろ。──黒井正和、いくら泣き喚いたって、いくら嘆いたって意味はない。いくら考えたって、いくら事前に準備したって、そんなのは所詮、確率を上げるだけだ。試験に合格するのだって、どれだけ勉強してもその当日のコンディションによっては水の泡になることもある。しかも試験勉強は確率を100%に近くすることはできるが、今この状況は試験なんていうぬるま湯じゃない。努力でなんとかできるのは0%を1%にする程度のことだ。でも、お前は何度でも世界をやり直せる。お前は何度でも不条理で理不尽でクソッタレなゲームに挑戦できる。だって『死に戻り』の力があるから。その1%を、いやもしかしたらそれに満たないほどの低確率でも、何度も試行すればいつか必ず引き当てられる。だったら、何をそんなに怖がる必要がある? 今更お前は死を恐怖するような正常な感性は持っていないだろ。お前はアンデッドであって、生者ではない。死んでも死んでも、何度死んでも、どれだけの時間軸を捨てようとも、どれだけの人間性を捨てようとも、結局最後に生きてた奴が勝者だ。生きることが、生きていることが、死なずに明日を迎えることができれば、それで良いだろ。生か死か。生者か死者か。勝者か敗者か。そして俺の力は最弱だが死ぬことは決してない。そう、それは敗者には決してならないということだ。引き分けなんて生易しいルールはこの世界にはない。つまり、俺は常に勝者で居続けられるということだ。負けない負けることができない死なない死ぬことができない。最弱であり最強の存在がこの俺だ。黒の魔女は決して俺を前に勝者にはなれない。いつか絶体、敗者になる。⋯⋯信じろ。そう信じて、生き続けろ。魔女も魔王もこの世に存在するあらゆる俺の障害になる者を全員殺してから、永遠の安心を得てから。お前はきっと成し遂げなくちゃならないことがあるんだろ。この殺伐としている世界から抜け出して、普通の黒井正和で居られるあの世界に帰ること。俺を暖かく迎えてくれるあの二人の元に帰ること。そして普通で幸せなあの日常を取り戻すこと。それらが叶うまで、そんな幻想が現実になるまで、俺は生き続けなくちゃならないだろ。勝者であり続けなくてはならないんだろ。だから、捨てろ。感情なんて。自立精神なんて。自我なんて。勝者であるために必要なら、全てを捨てる覚悟をしろ。俺が、弱い俺が、強くない俺ができることなんて、それしかないんだからよ」
「──ト」
掠れた声で、彼は何かを発言する。それが最早言葉なのか、あるいは単なる喘ぎ声なのかさえ分からない。本人のみぞ知る、と言ったところだ。
「──」
彼の視界は、殆どが白黒で構成されていた。どこで、どのタイミングでそうなったのかは、本人にも分からない。ただいつの間にかそうなっていただけだし、今の彼の精神状態では、その異常を気にしていられる余裕はない。
本能のまま、歩く。
それは知性ある、自我ある知的生命体には相応しくない活動であり、人としての尊厳なんて微塵も感じられない。ある意味で、アンデッドよりも非生命体らしい状態。それが今の彼だ。
だが彼はアンデッドではなく、れっきとした人間。精神が崩壊していても、肉体は正常な人間そのものだ。勿論、食事をしなければ彼はやがて倒れて、餓死に至る。それを防ぐために、彼の体は食を求め、胃が空腹を訴えた。
「⋯⋯に、く」
あれから三日が経過した。その間ずっと、彼は平原を彷徨いていた。幸いにも、いや、不幸にも、この間、他の人間と彼は接触していなかった。
だが、どうやら、世界は彼に望むものを与えてくれるほど、優しいらしい。
「なんだ、お前?」
一つの冒険者のパーティが、彼の目の前に現れた。男女四人それぞれ、ランクにして3──中堅以上の腕の冒険者だ。この辺りのモンスター程度では、足止めにさえならないだろう。
「何かあったのか? とにかく、その様子じゃ歩くのさえ厳しいだろう。ほら、王都に行こう」
冒険者には、ならず者が多い。だがそんなならず者には、高ランクの冒険者は居ない。何せ、ランクの昇格試験では、単純な強さだけでなく、人柄なども検査されるからだ。護衛任務もあるのだ。その人の信頼は重要になる要素である。
心から心配して、パーティリーダーは彼に手を差し伸べる。彼はその差し伸べられた手を取る──そう、文字通り。
「──へ?」
手首から先が、引き千切られた、一瞬で。とんでもない力によってそれは行われて、刹那、冒険者は痛みも何も感じなかったが、
「うわぁぁぁぁっ!」
血飛沫が撒き散らされて、外気に触れた神経が、脳に痛みを送る。砕けた骨が露出し、痛々しさを強調する。
「リーダーっ!?」
突然のことに、メンバーたちの思考は停滞した。だが流石はランク3冒険者。すぐに意識を戻して、哀れな少年を卑劣な化物と再認識する。しかし、いくらその思考速度が大きくても、それは所詮、普通の人間関における比較でしかない。転移者である彼──マサカズからしてみれば、ナメクジの動くスピードと、何が違うのか分からないほど、彼らは遅かった。
蹴りを入れてリーダーと呼ばれた男の頭を鷲掴みにして、破裂させる。
「ぁ」
女魔法使いの頭部を、マサカズは撫でるように触れると、次の瞬間、彼女の首は180度回転し、死亡する。
「っ! テメェ!」
屈強そうな男が大剣をマサカズに振るうが、彼は片手でそれを受け止めた。まるでそこには力が入っていないように見えるというのに、彼は爪楊枝でも折るように軽々しく鉄製の大剣を砕いた。
「なっ⋯⋯」
信じられない光景に驚愕し、そして恐怖した。だから何だというのだ。マサカズには人殺しへの躊躇なんてない。単に、空腹になったから、彼は人を殺すのだ。そこに慈悲も愉快も何もない。本能だけが、そこにある。
マサカズは屈強そうな男の首を掴み、そして握り潰す。肉が裂ける音が響くと共に、二人目の、いや二つの命を奪った。
「ひっ⋯⋯逃げ」
空腹に狂う野生の肉食動物が、目の前に居る捕食対象をそう易易と逃がすだろうか。勿論、そんなはずはない。
逃げようとした神官の少女だったが、マサカズに簡単に捕まる。右肩が砕かれた挙句、マサカズの見た目からは想像もできない剛力によって少女は地面に叩きつけられた。
だが、少女はそれで死ぬことができなかった。体は痛みで動かせなかったが、あらゆる感覚は正常に作動している。
「や、やめ──っう!」
マサカズにとって、少女の生死なんてどうでもよかった。ただそれが肉であるならば、それ以上の違いなんて気にするほどでもなかったのだ。
──少女は、生きたまま捕食行為の対象となった。
右の前腕に噛みつかれて、そして切られる。想像に絶する激痛に少女は気絶しそうになったし、気絶したかったが、できなかった。どこまでも世界は少女に厳しかった。
痛覚が麻痺してきた。しかし生きたまま食われるという不快感は今も継続して覚え続けている。
その後も、足を食い散らかされたが、少女は死ぬことを許されなかった。ただぼんやりとした意識の下、赤く染まる空を眺めていた。その瞳には光がなかった。
食われていた感触が無くなったとき、少女の意識は覚醒を開始した。だがその覚醒具合に応じて、少女の痛みは増していったのだ。
「⋯⋯〈上位治癒〉」
自分に治癒魔法を行使することで、痛みを和らげ傷を癒やす。失った肉を少女は取り戻し、ボヤケていた視界が鮮明になっていく。
「──っ!」
そして、見た。
酷い光景だった。ただの死体なんかではなく、食い荒らされた死体というのは、見た者に対して、これまでに味わった何よりもの不快感を覚えさせる。それが仲間の死体であるということが、少女のその不快感をより一層、高めていた。
「くっ! この⋯⋯殺人鬼!」
満腹になったことで、赤子のように眠る少年の口辺りは特に、他より血が付着していた。
「殺してやる!」
少女は手に持つ魔法杖で、少年の喉仏を狙い、力いっぱいに振り下ろそうとする。しかし──魔法杖が貫いたのは、少年の喉仏ではなく、地面だった。
「どう⋯⋯して⋯⋯どうしてなの!?」
少女は神官だ。人を癒やす、人を助けることがその役目だ。だから、どんなに憎むべき相手でも、命を奪うなんていう、本来の役目とは真逆の行為ができなかった。
「どうして⋯⋯どうして⋯⋯」
少女は膝から崩れ落ちて、両手で顔を覆い、涙を零す。
疑問と憎悪と哀情に心をグチャグチャに掻き回されて、しばらく、少女はそこから離れることができなかった。
◆◆◆
次にマサカズの意識が覚醒したとき、彼は王都の刑務所のような施設の牢獄に居た。それもそのはずだ。三人を殺害し、一人の少女に重症を与えたからだ。殺人及び傷害罪。前者だけで、彼は死刑執行の対象者となった。
しかし、それは彼の精神状態がハッキリとしたことで、取り消しとなった。だが、当然だが無罪というわけにもいかなかった。牢獄での治療が完了したならば、死ぬその時まで罪を償うだけの一生を過ごすことになっただろう。
彼の精神はボロボロもボロボロ、どうして動けるのか分からないほどだった。魔法という技術でさえ、彼の精神を、コミュニケーション可能なほどまで戻すのには、長い長い時間を要した。
──冒険者パーティ殺害の事件から、三ヶ月が経過した。
マサカズ・クロイは、自身の行った大罪を償うために、今日もモンスターの討伐を行っていた。
「⋯⋯知るか。人間が三人死んだくらいで、何を大袈裟に」
しかし、当の本人は、反省の微塵もしていなかった。
彼にとって人間とは、虚弱で、貧弱で、無知で、無能で、無価値で、無様な存在だ。勿論、自分自身のことも、そうだと思っている。思っているからこそ、人間如きの命に価値などないと思っている。
「あの冒険者組合長が居なければ、俺は⋯⋯」
冒険者組合長、ジュン・カブラギ。マサカズと同じ異世界人であるが、彼は転生者。対して転移者であるマサカズとは比べ物にもならないほどの力の差が二人の間にはあった。
「⋯⋯逃げ出そう」
マサカズにはある目的がある。それを達成するには、こんなところで生涯を捧げてまで、罪を償うなんてしている場合ではない。無価値な人間に、ましてや他者に、貴重な時間を使うことなんて愚かなのだから。
◆◆◆
「同郷人を殺すのは、少しだけ、そう、ほんの少しだけ気分が悪いな」
真夜中。人々が寝静まる頃、マサカズはジュンの寝込みを襲ったのだ。
胸にナイフが突き立てられ、灼熱の痛みに悶苦しむ中、ジュンはマサカズの嗤う姿を見た。
「貴⋯⋯様⋯⋯!」
無理に喋ったことで、ジュンは血を吐き出す。
「どうした、どうしたぁ? 何か喋るなら、もっとハキハキと声に出して言わなくちゃ。学校で教えて貰わなかったのか?」
マサカズの精神の治療をしたのは間違いであった。あの場で殺しておくべきだった。だがそんなのはタラレバの話であって、いくら後悔しても遠い過去は変えられない。
「『死氷──』」
自分の愛刀の名前を呼ぶ。ジュンの刀は『生きている武器』であり、その呼び掛けに反応して、きっとマサカズを殺すはず⋯⋯だったのだが、
「コイツのことか? 初見殺しだよなぁ。まさか、無機物が生きているなんて思いもしなかったぜ。一回死んだしな、これで」
マサカズは、既に、『死氷霧』を支配していた。意思があるならば、精神があるならば、それを破壊すれば無力化できる。氷魔法を無制限に使えるただの無機物へと、彼女は成り下がったのだ。
「何⋯⋯言って⋯⋯」
初見殺し。一回死んだ。マサカズのそれらの言葉の意味が、ジュンには理解できなかった。
「今から逝くお前に、我が力を教えてやろう⋯⋯何てのは、人生で一回は言ってみたいセリフだよな」
死にそうな少年を目の前に、彼はそんな冗談を言う。もっとも、笑えない類のものであったが。
「⋯⋯っと、もう時間切れか。本当に人は簡単に死ぬな」
目から生気がなくなり、体が少しも動かなくなったジュンを見て、マサカズは呟いた。
「⋯⋯俺も、簡単に死ねたら良いんだが⋯⋯」
◆◆◆
冒険者組合長、ジュン・カブラギを抹殺したことで、マサカズは自由に動けるようになった。
「白の魔女、エスト」
憎むべき相手。殺すべき相手。自分をこんなふうにしたのだから、報復として殺さなくてはならない。
マサカズの目的は、エストの殺害だ。
だが、それには、マサカズはあまりにも弱すぎた。今のまま戦ったって、今度のエストは油断の欠片もないだろう。つまり漬け込む隙がなく、剣の先さえ届かずに死を何度も繰り返す羽目になってしまうことが容易く想像できてしまう。
人間とは本当に弱小らしい。
──よって、マサカズは人間を辞めることにした。
しばらく時間が経過した。
「⋯⋯ここにもないか」
魔法技術が高水準にある国、アサイフ聖王国にマサカズは訪れて──いや、侵入していた。
この国にはリスタンス魔法大図書館というものがある。その名前通り、ありとあらゆる魔導書が集められた大図書館で、中には見ることさえ危ぶまれるような危険な魔導書もあるため、勿論一般人は入館不可だ。
一般人の分類にあるマサカズも当然入館は断られたが、夜に不法侵入し、今こうして魔導書を読み漁っているのだ。
「違う。これじゃない⋯⋯」
マサカズは人ならざる存在、不死者化が目的である。その中でもお目当てはアンデッド最強種族である吸血鬼、もっと言えば始原の吸血鬼だ。
「──あった! これだ!」
探し始めて四時間。そろそろ日も登ってくる直前に、ようやく彼は目的の魔導書を見つけられた。
タイトルは『リーテルの書』という。内容は要約すると不老不死の術についてであり、著者リーテルはそうなれる唯一の方法はアンデッド化のみである、と述べている。勿論、アンデッドになる方法も書かれていた。
まさにマサカズが望んでいるものであり、彼は躊躇なくそれを盗んだ。
しばらくして、彼は大図書館から遠く離れた位置にある廃墟、もとい隠れ家へと逃げ込むと、魔導書を開き、すぐさまじっくりと読み出す。
どうやらアンデッド化と言っても、単純に肉体構造を変化させれば良いというわけではなさそうだった。
そもそも、低位のアンデッドには知能がない。そして、普通に、とりあえずで創ったアンデッド化の魔法ではその低位のアンデッドになってしまったらしい。
目標は知能のある高位のアンデッドだ。その中でも基礎身体能力が比較的高いヴァンパイアにのみ視点を当てて、リーテルは研究した。
研究開始から五年という短期間でリーテルはヴァンパイアとなる魔法を創り出した。しかし、その魔法はあまりにも高位──推定では、第八階級魔法に分類されるらしいため、到底人間には活用できないものらしいのだが、これ以下のものにしてしまうと低位のアンデッドになってしまうらしい。
「⋯⋯」
更なる研究はそこで終わったようだ。
理論上は可能だが、普通の人間には使うことができない魔法。──しかし、普通の人間でもそれを行える術があるとも、リーテルは書き残していた。
その術とは、儀式魔法だった。とてつもなく長い時間詠唱をすることで、本来使えないほどの高位の魔法も使えるようにするといった魔法技術である。
「⋯⋯儀式魔法か。⋯⋯できるなら、やってやるよ」
◆◆◆
一ヶ月後。
褐色肌で隻眼の男は、目の前の少年に傷一つ付ける事さえ叶わなかった。
尻餅をついて、無様な姿で、エルティア公国最強の剣士は敗北したのだ。
スティレットを首に突きつけられており、彼の生死は少年が握っている。
「殺せよ」
剣士とは剣に生きる者たちのことだ。剣で負けたのならば、例え生きていても、それは死と同義。あるいは、死よりも屈辱であろう。
隻眼の男も立派な剣士である。だから、死を望んだ。
「生憎だが、俺はお前から公国最強の剣士なんて言う下らない称号を奪いに来たわけじゃない。俺はお前の力が欲しいから、ここに来たんだ」
「⋯⋯は?」
何を言っているのかが分からない。
「そうだな。分かりやすいように言い換えよう。⋯⋯俺の配下になれ。さもなくば死よりも最悪な苦痛を、屈辱を味あわせてやる」
それは脅迫だった。
「⋯⋯断ればどうなる?」
隻眼の男は恐る恐る、真っ黒なローブに身を包んで、顔が全く見えない少年にそう聞く。
「お前には妻と一人の愛娘が居るらしいな? 公国随一の美少女にして、歴代最少年で、国家魔法試験を突破した超天才だとか」
公国の国家魔法試験は、それに合格するだけで、一生、絶対に職に困らないとされる資格が獲得できるような試験だ。勿論、そんな試験に合格することは非常に難しく、合格率は、高い年でも10%ほどである。
「しかもその上、父親の身体能力も、母親の知能指数も引き継いでいて、まさに文武両道⋯⋯全く、羨ましいものだぜ。俺にはないものばかりだ」
どうやら個人情報は知られているようだった。
「⋯⋯ああ、あと、凄く良い子だったな。見知らぬ薄汚れた黒ローブを着た少年を、彼女は一日だけとはいえ家に泊めてくれた。⋯⋯ああ、凄く優しくて⋯⋯とても、美味しかった」
「──っ!?」
目の前の少年は、おそらく吸血鬼だ。そしてそんな彼が美味しいと言った意味。
ヴェルムはしばらく家に帰れなかった。だから、妻と娘の安否が分からない。
人間とはどうしてこんなにも不完全で、悲観的なのか。
彼は嫌な未来しか考えつかず、血の気が引き、そしてあとから来る壮絶な怒りに身も心も支配され、彼我の実力の差をを知っても尚、少年に剣を振る。
だが少年は軽々とヴェルムの腕を受け止めた。
「何を怒っている?」
少年は本当にわけが分からないと言いたげな表情で、ヴェルムにそう問いかけた。
「貴様ぁ!」
人間の心理を理解できない化物であると、ヴェルムは思ったのだが、それはとんだ間違いであった。
ヴェルムの雄叫びに、少年は少しその赤い目を見開いたあとに、考えるような仕草を見せた。
「⋯⋯ああ、そうか。すまないな。少し語弊があった。俺が彼女の血を啜り、干からびた死体へと変貌させたのは前回の話だ。今回は、彼女はきちんと生きている。じゃないと、お前との交渉材料にならないだろう?」
困惑。ただただ困惑。
前回? 今回?
何を言っているのかがさっぱり、少しも、全く理解することができない。
「⋯⋯」
「まあ、そう怒るな。お前の娘は生きている。これは本当の話だからさ」
少年の声質や、瞳からは、嘘の気配がしない。それは本当である確率が高いし、少年が言うように、娘を殺してしまえば、彼の目的であるヴェルムを仲間にするということが不可能となる。
「⋯⋯分かった。お前の仲間になる」
ヴェルムは、少年に対して跪き、忠誠を誓った。
「それが聞きたかった。⋯⋯俺の組織、『マギロサフォニア』へようこそ、ヴェルム・エインシス」
裏組織『マギロサフォニア』。
一ヶ月ほど前に創設されたばかりだというのに、今や世界中で暗躍する大組織である。その創設者にして、支配者であるのが、
「マサカズ・クロイ⋯⋯俺の役目はなんだ?」
「そうだな⋯⋯側近にでもなってくれ。お前を止められるのは俺だけだろうし、監視もできる」
ヴェルムほどの強者に匹敵する実力者は、早々居ない。
それこそ、彼を超える実力者であり、かつ表舞台に立つ人間なのは帝国の神父くらいだろうが、つい最近、その神父は魔女に、ついでに帝国ごと滅ぼされたそうだ。
「⋯⋯ああ、そうそう」
少年、マサカズはとても軽い口調で、後ろに居るヴェルムに見向きもせず、その場から、血の匂いが充満する公国の大聖堂から離れるべく歩きながら喋り始めた。
「俺たち『マギロサフォニア』は、当然だが危険な仕事が多い。いくらかの大組織とも敵対していて、抗争ばかりでうんざりするくらいだ。つまり、いつ死んでもおかしくない状態にある」
創設直後の組織が、一気に肥大化し、大きな力を有する。当然、同じような組織たちからは目の敵にされ、表の、所謂正義を語る組織からは、大変警戒されている。何度か、マサカズの暗殺命令が出ているほどだ。
「だから、お前の家族は保護した。一日中とても安全な部屋の中で、一日三食、十分な食事と娯楽を提供している。俺の命令をすぐに聞く部下を監視につけてるから、侵入者が出たとしても安心だ」
口ではそういうが、保護したなんていうのは上辺だけだ。本質は、その価値にある。つまり、人質である。
「⋯⋯性格が悪いな」
「そりゃどうも。だが、客人として、最上級のおもてなしをしていることも、何も悪いこともしていないことは保証してやるし、面会どころか一緒に遊ぶことも自由だ。まあ勿論、その際にも監視の目はあるがな」
本当に性格が悪い。
どこまでも、逆らわせようとさせてくれない。絶妙な束縛加減を知り尽くしているようだ。反発を、満足という形で抑えている。
「⋯⋯さてと⋯⋯今日は休んでいい。だが明日からは働いて貰う」
少年は被っていたフードを脱ぎ、ヴェルムにその素顔を見せる。
「⋯⋯!」
「俺は今年、吸血鬼になったばかりだから、外見年齢がそのまま俺自身の年齢だ。⋯⋯驚いたか? まさか、自身の娘と同じくらいの年齢の子供だとは思わなかっただろう?」
まだ、若い。まだ、子供だ。
だが、彼は人ではない。精神も、同年齢くらいの子供とはまるで違う。どこか壊れていて、どこか死んでいる。
人を知っていて、理解しているが、共感はしない。しようとしないのが、目の前の少年の本性だ。
彼は──吸血鬼。異形の化物である。
◆◆◆
「初めまして、ボス! 今日からお世話になります!」
『マギロサフォニア』の本部にて、マサカズはたまたま廊下で出会ったガタイの良い大男の部下にそう挨拶された。
マサカズは冷酷で無慈悲で残酷だ。しかし、意味もなく部下を殺したりすることはないし、普通に接してくるならば彼は良い上司として接し返す。
「⋯⋯ああ」
今日、その大男はこの組織に加入して、初めてボスに出会った──そう、彼は認識しているだけである。
本当は、もう彼は何度も今と同じことをしている。
これは大男が意図してやっているわけではない。単に──記憶が消されているだけなのだ。
「⋯⋯面倒だな。毎回挨拶されるというのも」
マサカズは自分と血以外を信用することができない。他の人間なんかもってのほかで、自分に友好的で有能な人間以外は即殺害するほどだ。
一度仲間になったって、そのときは忠誠を誓ってくれていても、時間後経てばもしかしたら裏切るかもしれない。
「⋯⋯でも、信用できないから仕方ない、か」
マサカズは独り言を呟きながら、自室へ戻った。
部屋は殺風景だった。書類を保管するための棚と、机と椅子だけがある、無機質な部屋。寝る必要がないため、そこにベッドなどはない。
何もないように思われる壁にマサカズは近づき、ある魔法を詠唱すると、壁は消失し、地下に続く階段が現れた。
階段は、一人の少年が通るくらいならば何も問題はない程度には広く、明かりは一切ないが、彼には必要ない。
降りきった先には、鉄製の重々しい扉があり、マサカズはそれを開いた。
少し広い場所に出た。一般家屋のリビングほどの面積だろうか。だがそこには、そのスペースを有効活用できるくらいの家具などは置かれておらず、代わりに、部屋全体に、光を失った魔法陣が描かれているばかりだったが、マサカズがその部屋に入るやいなや、自動的に、その魔法陣は白い光を発しながら、いつでも発動可能な状態となる。
「⋯⋯正直、行きたくないが⋯⋯まあ、無断で行かなかったら、今度は部下何人が死ぬかわからないし⋯⋯仕方ないか」
マサカズは魔法陣の上に立つと、魔法陣は効果を発揮し、彼を転移させた。
転移先の、先程までとはまた異なる部屋は、妙に息苦しかった。たしかにこの部屋の、いや、この居住区全体の時間の流れは異常であり、それが原因の一つでもあるのだが、やはり、一番大きな原因はそれではない。
「⋯⋯時間ギリギリですね。もう少しで、あなたの可愛い部下と戯れに行こうとしましたよ」
「それは勘弁してくれ。文字通り、骨抜きにされてしまうからな」
マサカズが会いに来たのは、とても長い黒髪を持ち、黒目の、東洋人風の女性だった。豊満な体から漂う妖艶かつ不思議な魅力には、あまり人間の異性への関心が少ないマサカズでさえ、思わず惹かれそうになるくらいだった。
彼女の名は、分からない。誰も彼女の名を知らなくて、彼女自身も、その名を名乗ろうとしたことがないからだ。だが、彼女には二つ名がある。それは──黒の魔女だ。
「⋯⋯お前に言われた通り、駒は確保した。だから、さっさと計画について話せ」
「まあまあ、そう急がないでくださいよ。時間はたっぷりとありますので」
マサカズは明確に殺意を、黒の魔女に向けることで威圧する。
「ああ、怖いですね。思わず震えてしまいそうです」
「本当に怖いと思ってるなら、そんなこと言うことさえできないだろ。⋯⋯化物め」
黒の魔女は、白の魔女と互角とされる。だから、マサカズは腕試しに黒の魔女を何度か殺そうとしたのだ。
だが⋯⋯結果は惨敗。殺すどころか、傷一つつけることなく、ただ『死に戻り』を何度もしただけで、1mm足りとも勝利というゴールに近づいているという感触がしなかった。
黒の魔女には勝てないと、確信したのは、5227回目のことだった。
「俺はお前を打ち負かして、俺の目標のための手駒にするはずだった。だが、結果はこの通り、お前に協力するという形になった。これだけでも、俺は⋯⋯結構頭に来てる。自分の思い通りに行かないということが、これほどまでに不愉快だとは思わなかったんだぜ? だから、これが終わったらお前をまず殺してやる」
「そんなことで、わざわざ私の部下たちを殺し尽くしたのですか」
黒の魔女本人には手も足も出なかったマサカズは、それならばと黒の教団を殆ど壊滅へと追いやった。今殺せていないのは教祖だけである。
今のマサカズにとって、世界各地に散らばっている黒の教団幹部を各個撃破するのは容易であった。
だが、黒の魔女は、そんな事をされても、マサカズに屈服することさえせず、あまつさえ、興味を示し、また、マサカズを圧倒し、絶望させた。
「しかも、協力したあとは殺す宣言⋯⋯自分でおかしいと思わないのですか?」
「約三日間の付き合いで分かるぜ、お前のその狂気くらい。普通なら断るどころか殺すべき相手でも、面白そうだと判断したならお前は受け入れる。俺自身もだいぶ狂ってるんだろうなとは自覚しているが、お前の前じゃ俺の狂気も所詮、正気らしい」
次元が違う。強さ的な意味でも、その狂っている具合でも。何もかもが、黒の魔女の前では下位互換である気さえする。
「そうですか。そうですか⋯⋯まあ、あなたの提案は受け入れますが、殺される気はありません。一時の協力関係、ですね」
黒の魔女からしてみれば、マサカズと協力するなんて、一つもメリットはない。ただ彼が面白そうだと、彼女の興味を惹いたからに過ぎない。
「俺もそこまでの高望みはしない⋯⋯が、女性に断られるのは少し残念だし、心に来るな」
「そんなことを言う人間は珍しいですね──いえ、あなたは既に人を辞めた存在でしたか」
「ああ。元人間、だ」
黒の魔女は嫣然とする。とても魅惑的であるはずなのに、狂気を感じてしまい、マサカズでさえ思わず恐怖してしまう。今こうやって会話している間にも、彼の精神力は更に削れていっていたのだ。常人なら、四ヶ月前の彼ならば、既に発狂していただろう。
「さて⋯⋯そういえば、あなたにはまだ名前を教えていませんでしたね。これから協力していくのです。いつまでも『黒の魔女』と二つ名で呼ばれるのも少し余所余所しい」
ここ数百年、彼女は、自身の名前を誰にも言ったことがなかった。
だが、マサカズからしてみれば、そんなこととても下らなかった。
「⋯⋯好きにしてくれ。そんなどうでもいいこと」
「ええ。では好きにします。⋯⋯私の名前は──」
◆◆◆
「クソ⋯⋯黒の魔女め」
自室に戻ってきた途端、マサカズはいきなり黒の魔女に向かっての愚痴を一人寂しく吐く。
「あんな狂気的で理性の欠片もない思考をしてるってのに、なんであんなにも頭が切れるんだよ。まんまと奴の思い通りに俺は動いたってわけだし⋯⋯しかも対策まであの一瞬で思いつきやがって⋯⋯」
マサカズは自身の加護である『死に戻り』の力を、黒の魔女に知られてしまった。
凄まじい洞察力だ。彼女からしてみれば、マサカズは正体不明で、どんな力を持つかわからない、言うなれば特異点のようなものである。そんな相手をしてその力を一瞬で考察し、理解し、試し、そして確定付ける。発想にさえ出にくいような彼の力を、だ。ただの力のある狂人ではないことが判明した。してしまった。
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情報戦でも、直接戦闘でも、負けている。
自分が自分のために自分だけで、練って考えて思索したことでさえ、全て黒の魔女の思い通りのことなのではないかと思わせられる。
「⋯⋯ああもう。俺の十八番は頭で考えることじゃない。未来をカンニングできることだろ。──黒井正和、いくら泣き喚いたって、いくら嘆いたって意味はない。いくら考えたって、いくら事前に準備したって、そんなのは所詮、確率を上げるだけだ。試験に合格するのだって、どれだけ勉強してもその当日のコンディションによっては水の泡になることもある。しかも試験勉強は確率を100%に近くすることはできるが、今この状況は試験なんていうぬるま湯じゃない。努力でなんとかできるのは0%を1%にする程度のことだ。でも、お前は何度でも世界をやり直せる。お前は何度でも不条理で理不尽でクソッタレなゲームに挑戦できる。だって『死に戻り』の力があるから。その1%を、いやもしかしたらそれに満たないほどの低確率でも、何度も試行すればいつか必ず引き当てられる。だったら、何をそんなに怖がる必要がある? 今更お前は死を恐怖するような正常な感性は持っていないだろ。お前はアンデッドであって、生者ではない。死んでも死んでも、何度死んでも、どれだけの時間軸を捨てようとも、どれだけの人間性を捨てようとも、結局最後に生きてた奴が勝者だ。生きることが、生きていることが、死なずに明日を迎えることができれば、それで良いだろ。生か死か。生者か死者か。勝者か敗者か。そして俺の力は最弱だが死ぬことは決してない。そう、それは敗者には決してならないということだ。引き分けなんて生易しいルールはこの世界にはない。つまり、俺は常に勝者で居続けられるということだ。負けない負けることができない死なない死ぬことができない。最弱であり最強の存在がこの俺だ。黒の魔女は決して俺を前に勝者にはなれない。いつか絶体、敗者になる。⋯⋯信じろ。そう信じて、生き続けろ。魔女も魔王もこの世に存在するあらゆる俺の障害になる者を全員殺してから、永遠の安心を得てから。お前はきっと成し遂げなくちゃならないことがあるんだろ。この殺伐としている世界から抜け出して、普通の黒井正和で居られるあの世界に帰ること。俺を暖かく迎えてくれるあの二人の元に帰ること。そして普通で幸せなあの日常を取り戻すこと。それらが叶うまで、そんな幻想が現実になるまで、俺は生き続けなくちゃならないだろ。勝者であり続けなくてはならないんだろ。だから、捨てろ。感情なんて。自立精神なんて。自我なんて。勝者であるために必要なら、全てを捨てる覚悟をしろ。俺が、弱い俺が、強くない俺ができることなんて、それしかないんだからよ」
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