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普通の人々

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 母の怒りは留まるところを知らなかった。まるで心の底でずっとわだかまっていた感情に火をつけたみたいに怒り、ダムが決壊したかのごとく母は思いつく限りの憎しみの言葉を兄にぶつけた。

 無論、伯父も黙ってはいない。

 2人は遠い過去にあった出来事を記憶の海の中から1つ1つ引っ張り出し、悪態と共にそれらを並べ立て、主題はいつのまにか僕の話題から兄妹間で生じた過去の確執に取って代わっていた。

 伯父も母も言葉という凶器を振りかざし、互いの心を傷つけあうことを止めようとはしなかった。終わりのない押し問答が繰り広げられていく。もはや苦しみから目を背けることはできなかった。

「お母さんからお金が無いから大学には行かせないと言われた時の私の気持ちが分かる? 行きたくても行かせてもらえなかった私の気持ちが!」

「それは地方の私立大学しか受からないような頭だったお前が悪いんだろうがよ。国立に比べて私立大学がどれだけ金かかるか知ってんの? 自分で調べたことあるか?  無いよな? お前のそういうとこがダメなんだよ。俺みたいに国立行くために努力したわけでもないくせに要求だけはしっかりしてきやがって。恨むんだったらこれまでロクに勉強もせず散々、遊び惚けてきた過去の自分を恨めよ。俺に八つ当たりするんじゃねぇ」

「でも、お父さんは行っていいよって言ってくれたわ。家にお金が無いわけじゃなかった。お母さんは私の将来よりも自分たちのに老後の蓄えの方が大事だったから私を大学に行かせなかったのよ! こんな酷い話って他にある!? あんまりだわ……」

 母は嗚咽を漏らしながら泣いていた。高ぶってしまった感情が行き場を失くし、いよいよ瞼から零れ落ちてしまったのだと思った。泣いている母はまるで赤子のように見え、僕はそんな母の姿を見たくなくて視線を床に落とし続けた。

「私……大学に行けてたら絶対にこんな生活してなかった……。職場でクソ男と知り合うようなこともなかっただろうし、周りから囃し立てられて焦って結婚するようなことはずなのに。あんな男より、本当はもっとずっと素敵な人と出会って幸せになってるはずなのにどうして……」

「最終的にそういう道を選んだのはお前自身だろ?  周りのせいにするのはいい加減止めろ。お前母親やってんだろ? もうガキじゃねぇんだぞ」

 そう言うと伯父は煙草の煙を吐き、舌を鳴らした。頭を掻いたり、足踏みをしたりと落ち着きのない佇まいから伯父が相当酷く苛立っていることが伺える。

「私がどれだけ辛い目にあってきたか知らないから平気な顔でそういうことが言えるんでしょ?お兄ちゃんはいいよねぇー。お母さんはお兄ちゃんのことばかりだったもの」

「それを言うならお前だって母さんと同じことをやってるじゃねぇかよ!」

「私がお母さんと同じ? どこが!? 私はちゃんと直樹のことだって真剣に考えてるわよ!!」

「自覚がない分、余計にタチが悪いな。 そりゃ旦那も他の女に逃げたくなるわけだ。同情するよ。お前の元旦那にはな!」

 それからは見苦しい罵りあいが始まった。それはほとんど喚き合い近かった。目を剥き、唾を飛ばし、なじるための言葉の弾を詰め込み、相手の人間性や人格そのものを否定する。その繰り返しだった。多分、言っていることは伯父の方が圧倒的に正しいのだろう。

 しかし、伯父の徹底的に追い込むような言葉遣いからは怒りという剥き出しの感情をただ相手にぶつけているだけのようにも思えた。正論を言っているようで結局、伯父も母と何ら変わらないのかもしれない。きっと伯父は正しいことを口にしている自分に酔っているのだけなのだ。

 怒りで我を忘れている2人のことがたまらなく恐ろしく、そして悲しかった。2人の中にいがみ合う僕と兄の虚像がうっすらと見えた気がした。僕もいつか兄とあんな風に醜く争う日が訪れるのだろうか。そう思うとやるせない思いが上からのしかかってくるようで辛くなった。

 地面が揺れているのではないかと錯覚するほどの眩暈を感じながら僕は不毛な口論を続ける2人に背を向け、部屋へと引き返すことにした。泣いていたことを兄に悟られないよう服の袖で涙を拭い呼吸を整えながら薄暗い廊下を音を立てないよう歩く。気持ちが重く沈み、言いようのない倦怠感が全身を覆っていた。

 部屋に戻るとそこには正月の特別番組を見て大声でゲラゲラと笑っている兄がいた。廊下から断片的に聞こえてくるはずの母たちの会話は兄の笑い声でかき消されていた。何も知らない幸せそうな兄が羨ましかった。

「 兄ちゃん」

「ん?」

「それ、面白い?」

「面白いけど……何?」

「いや……別に」

 液晶には大勢の客席の前でコントを披露している流行りの芸人が映し出されていた。僕は笑わなかった。
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