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金魚

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 僕は四季の中で最も夏が好きだった。長い梅雨が終わり告げると土の中にいた虫たちが地上に這い出てくる頃、2階の窓から見える山の木々たちは瑞々しい新緑に色づき、じっとりとした夏の暖かな風に乗って遠くからアブラゼミの合唱や涼し気な風鈴の音色が聞こえてくるようになる。

 通り雨が過ぎ去った後の水分をたっぷり含んだ土の匂い、真夏の日照りに晒されて光って見えるアスファルトや、綿菓子みたいな入道雲、溶けかけのアイスに、祖母と一緒に行った神社の境内で開かれた露店ひしめき合う夜の縁日。

 いつしか僕は生命感みなぎるそういった夏の美しい情景から何1つ取りこぼすことがないよう五感を研ぎ澄ませるようになった。

 傍から見ると滑稽に見えるかもしれないこの行為は僕にとっては、ある種の発明であった。自分の進むべき道がようやく開けたような気がした。神様が道を示してくれたのだと。とりとめのないことをえんえんと考えている間だけ僕は透明な存在になることができた。

 奇妙な話に聞こえるかもしれないが僕は誰よりも孤独を恐れているくせに、誰よりも孤独であろうとしていた。他人と関わりを持ち続けるということは、すなわち心に傷を負ってしまったり、反対に相手の心に傷を負わせるようなリスクを孕んだ環境に身を置くことを意味している。だがほとんどの人間は孤独に耐えることはできない。どんなに他人が怖くても、どれほど遠ざけようとしても数分後には自分が誰かと繋がっていることを確かめずにはいられなくなる。そういうものなのだ。

 地獄がどんな場所か想像してみたことはあるだろうか。恐らく沸騰した大釜の中に人間が放り込まれていくような場所を想像する人もいるだろうし、きっとあの世とこの世を分け目に存在する河岸で鬼に監視さればがら永遠に石を積んでいくような光景を想像する人もいるだろう。

 僕にとってまさにここがそうであった。この世は地獄だ。自分以外の他者が存在し、常に傷つけられるかもしれないという恐怖に怯え、不条理なルールの下で行われる理不尽なゲームで遊ぶよう神様から無理やり強要され、ゴール地点に必ず死が大口を開けて獲物がかかるのをひたすら待ち構えている。例外はない。全ての生命は生まれた瞬間から死というただ1つの結果に向かって収束を始めているのだ。こんな酷い話があっていいはずがない。

 それ以来、僕は現実に対抗するためにあらゆる方法を模索し始めた。無いものをいくら探しても何かが見つかるようなことがはずがなかった。すべて承知の上での行動である。大事なことは何かが見つかったという結果ではない。何かを見つけようとする意志とその過程が重要なことだってある。何かがあると仮定しそれを信じて行動を起こす。未来に希望を見出す。結果がどうであれ何かを為そうとしたという事実があれば慰めや言い訳にもなる。自分を救う手立ては多いに越したことはない。

 度重なる愚かな思索の結果、僕は自分を特別な存在だと規定することで問題を先送りにすることができるという考えに辿り着いた。それは強靭な意思の力を持ち合わせることができれば、都合の悪い事実や自らの弱さや醜さに蓋をすることができるのではないかというものである。ひとたびその考えに囚われれば、だんだんとそれが世界の真実のように思えてくる。僕がナルシズムとプライドで塗り固められた生き物になるまでに、そう多くの時間は掛からなかった。

 ◆◆◆◆◆◆

 夜の帳が降りた。自室の窓を開けると、濃い油絵具で塗りたくられたような真っ暗な夜空に瞬く星達が舞台に上がっていた。白いレースのカーテンが夏の夜風でふくらんで僕の頬を優しく撫であげてくる。東の夜空を見上げていると、ひと際明るい光を放つ星を見つけた。あれは夏の大三角形を構成する3つの星の内の1つであるデネブだろう。

 僕は窓際の椅子に座り、夏の夜空で繰り広げられる天体ショーを眺めていた。1階からは聞こえてくる母のすすり泣く声が聞こえていた。祖母が死んだのが2年前。つまり兄が死んでまもなく4年の年月が経とうとしている。

 時間は傷ついた母の精神を治してはくれなかった。夜になると母は決まって寝室にこもり、ベッドに顔を押し付けながら泣きはじめる。それが兄の死後、新たに加わった母のルーティンであった。

 しばらくすると母の泣き声が聞こえなくなったので僕は窓とカーテンを閉め切り、星空を眺めるのを止めた。先ほどまで部屋を照らしてくれていた月の光はカーテンによって遮られ、代わりに水槽の青白いライトが殺風景な僕の部屋をぼんやりと浮かびあがらせた。

 部屋には本も無ければ、家庭用ゲーム機なども無かった。流行りの話題についていくことも、積極的に会話に交わろうともしなかったためクラスでは浮いた存在になった。彼らの目には恐らく僕という人間は何に対しても趣味を示さない、協調性に欠けた不気味なクラスメイトの1人としか映っていないのだろう。いてもいなくてもいい存在。それが教室での僕の立ち位置であり、与えられた役割なのだと思った。

 窓際から離れた僕はベッドの上に腰を下ろし、深くため息をつきながら部屋の中を見渡した。机の上の小さな水槽にじっと視線を注いだ。水槽の中では2年前に祖母と縁日に訪れた時に買ってもらった小さな金魚が寂しそうに泳いでいる。

 金魚が尾びれを動かすたびに水草がゆらゆらと揺れ、極採色に彩られた金魚の鱗に微細な泡がいくつも纏わりついている。僕にはそれが卵をぶら下げながら泳いでいるみたいに見えて、少し滑稽だなと思った。

 窮屈そうに水槽を泳ぎ回る金魚と視線が合う。黒い穴のような2つの目が真っ直ぐ僕を見つめている。金魚の目は、僕の目とどこか似ているような気がした。
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