上 下
10 / 31

幸福

しおりを挟む
 坂上秀一は底抜けに明るく、お喋り好きな人間だった。持ち前の明るさを前面に押し出していった彼はまるで最初からクラスの一員としてそこに存在していかのように自然とクラスに溶け込み、またたく間にヒエラルキーのトップへと上り詰めていった。

 一方、僕はといえば相変わらず他人に対して無関心な態度を決して崩そうとはしなかった。意識は常に自分の内側に向いていた。周りに気を配っていられるほどの余裕が僕にはなかったのである。

 時間が許す限り自問自答を繰り返した。母親のこと、これから先のこと、自分の感情や、あるいは人の死について。どれも一生かかっても答えが出そうにないものばかりだった。それを分かっていながらありもしない答えを追いかけ続けたのは、考えるという行為そのものに価値を僕が見出していたからだ。

 おかげで僕は孤独を感じずに済んだし、クラスの連中からの視線も気にならなくなった。耐えがたいほどの虚しさを味わうはめにはなったが、周りに流されにくくもなった。寂しさや悲しみに抗うにはまだ心もとないけれども、それでも僕は確実に鈍くなりつつあった自分の感情をそのまま受け入れることにした。

 いよいよ僕は人とは異なる道を歩み始めようとしていた。太陽の光に照らされた月の表側を歩いていく人の流れに逆らうように僕は光ひとつも届かない月の裏側への最初の1歩を踏み出そうとしていた。

 当時、僕のクラスの担任だった山口先生は帰りのホームルームの時間でこう言っていた。

『人は幸せになるためにこの世に生まれてきたのよ』

 僕はすぐにその言葉が先生自らのものではなく借り物の言葉であることに気づいた。言い終えた時の先生の得意げな顔つきからなんとなくそれが分かってしまったのだ。恐らくエッセイストか有名な芸能人、もしくは徳の高いお坊さんあたりの言葉を拝借しているだけなのだろう。残念ながら僕は他人から盗んできた出来合いの言葉にほだされるほど純粋な人間ではなかった。

 幸福とは人よりも自分が恵まれた環境にいると自覚することで発生する一種の心理状態のことである。誰もが幸せを享受できるようになればそれはたちまち”普通”になってしまうだろう。生贄となる誰かの存在がいることで人はようやく幸せを実感することができる。先生が語る「幸せ」と僕が考える「幸せ」の間にはどうしようもないほどの大きな隔たりがあるように思えた。

 幸せにならなくてはいけないという漫然とした意識が、多くの不幸を呼び寄せ、人々を失意のどん底に叩き落としているのではないのか。幸せに生きることができなかった人たちの人生について先生は思いを馳せてみたことはあるのか。己の幸福を追求しようとしすぎるが故に他人と対立し、争わなければならなくなるのではないのか。

 暗澹たる思いが胸の内で広がっていき気持ちが沈んでいった。

 僕は自らの幸福をすっかり放棄する気になっていた。絶えず自罰的な思考が頭の中を支配し、自分を追い詰めたその先にどんな景色がひろがっているのか見てみたいと思うようになった。その頃の僕は自分の人生に意味を与えるために、己の幸福を差し出そうとしている哀れな道化を演じているに過ぎなかった。

 冷静になって思い返してみると、それは誰かに自分という存在を認めてほしいという目に見えない心からの叫びだったのだと思う。多分、僕は母に気づいてほしかったのだろう。こんなにも傷つき、苦しんでいる本当の自分に。
しおりを挟む

処理中です...