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夢
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夢を見た。さざ波が打ち寄せる浜辺で母と一緒に同じ時間を過ごす夢を。僕らは海を眺めていた。夜の気配を含んだ夕暮れ時の風が、母の長い黒髪を吹き抜ける。地平線の彼方には今日の役割を終えたオレンジ色をした太陽が海の中へと今まさに沈もうとしていた。
海も、空も、視界に収まる世界の全てが、赤く染まっている。
夢の中で、僕は波に濡れないようズボンの裾を膝までたくし上げながら波打ち際で遊んでいた。砂を踏みしめた時の、ギュッギュという音がサンダルの底から微かに聞こえる。引いていたはずの波がざあざあと音を立てながら押し寄せ、僕の足元を濡らしていく。潮の匂いと足元から伝わってくる水の冷たい感触が心地良い。僕は後ろにいるはずの母に向かって先ほどから思っていたことを振り返らずに尋ねてみた。
「どうして海ってこんな匂いがするんだろう?」
「それは多分、いろんな生き物が海で死んでいるからよ」
母は静かな声で言った。
「死期が近づいている人間からも似たような匂いがしてくるらしいわ」
それは全くと言っていいほど体温を感じさせない冷たい声だった。抑揚もなく、何の感情も込められていない無機質な声は、機械が人間の声を真似て喋っているような。そんな感じがした。
「お母さんはね。海は神様みたい存在だなっていつも思ってるの。地球上に存在する全ての生命の源は海からきているわけでしょ? 海は神様みたいに命を与えもするし奪いもする。 人間はね、決して抗うことのできないものや山や海のような途轍もなく大きい”何か”に恐れたり、崇めることしかできないようにできているの。どうしてか分かる?」
僕は静かに首を横に振った。
「人は神様の奴隷なのよ。それは最初から決まっていることなの。みんな勝手に産み落とされて最期は孤独に死んでいく。神様って随分、意地悪な性格しているわよね。どうせ最後にみんな死んじゃうんだったら、生きる喜びを味わせる必要なんてないはずなのにね。 私たちはね。みんな死ぬためにこの世に生まれたのよ。神様の退屈しのぎにただ無理やり付き合わされているだけ。人はみな運命めいた『なにか』の奴隷でしかないのよ」
足元の砂に埋もれていた小さな貝殻が、波にさらわれ海の中へと消えた。生と死、その両方を司る広大な海は何もかも洗い流し、飲み込んでしまうのかもしれなかった。母が言っていることが正しいのだとすると生きることに意味なんてないのかもしれない。それぞれが、それぞれの人生を価値あるものにしようと必死にもがいているだけで、それ自体には大した意味も価値などないのかもしれない。
「母さんは……どうして僕を産んだの?」
口を衝いて思わず出た言葉に自分でもうろたえた。なんて馬鹿げたことを口にしまったんだという後悔と、どんな言葉が母の口から放たれるのかという好奇心が瞬時にせめぎ合う。両者の力関係は見事なまでに拮抗していた。眠っているかのような静かな沈黙がしばらく続き、細い吐息が背後から聞こえてくる。僕はこぶしをきつく握り締め、母から返事が返ってくるのを辛抱強く待った。
「亮介だけじゃ……可哀想でしょ?」
返ってきた答えは極めてシンプルなものだった。僕は兄の付属品だった。兄の孤独を癒すための道具でしかなかったのだ。しかも僕はその役目を果たすことができなかった。母の願いに反し、兄を死へと追いやった粗悪な付属品である僕という存在を母が肯定するはずがないのだ。考えるよりも身体がまず先に動いた。振り向いて母に何か言わなくてはいけないような気がした。けれども、そこには既に母の姿はいなくなっていた。
さっきまでそこにあったはずの誰かが作った砂の城も、誰かが捨てたスーパーで売られている花火もプラスチック片のゴミも空になったペットボトルも、一瞬の内に波にさらわれ消えてなくなってしまったのかもしれなかった。
周りの景色が突然遠のいていくように感じられた。海と砂浜と僕だけが世界に取り残されている。
"分かるだろ? お前は捨てられたんだよ”
自分自身の内なる声から逃れようとした。しかし時間が経つにつれ、その声は次第に大きくなっていき、言いようのない不安と恐怖がどっと溢れ出すことになった。当たり前にあったはずのものが手のひらからこぼれ落ち、何もかも失われていくような予感だけが残り火のように尾を引いた。
気づけば僕は地面を蹴って走り出していた。自分がどこに向かえばいいのかすらも分からないまま、ひたすら海岸沿いを走った。無邪気にじゃれついてくる白い波を蹴散らす。白い波が砕け、水しぶきがあがる。
ズボンが濡れてしまっても最早、構わなかった。僕はもうめそめそ泣き出していた。だんだんと息があがってくる。体は先ほどから懸命に疲労を訴えかけてきている。けれども僕はわけのわからぬ衝動に突き動かされるがまま、自分の身体が言うことを聞いてくれるかぎり走り続けた。
そうこうしているうちにいつの間にか体力が底をつき、砂に足を取られ、僕は地面に倒れ込んだ。膝が小刻みに震えている。もう走ることはできそうになかった。日の光は完全に消え、太陽は既に死に絶えていた。空には無数の銀の光が点々と輝いている。誰もいない静かな浜辺に冴えわたるような月の光が降り注いでいた。
1人で生きるにはこの世界はあまりにも広すぎる。誰でもいいから側にいて欲しかった。独りぼっちであることに耐えられそうになかった。僕は両膝に顔をうずめワーワーと、まるで生まれたばかりの赤子のようにみっともなく大声で泣き喚いた。どうしようもないほどの悲しみばかりが胸の内から次々と溢れでていった。
誰もいない岸辺にざぁざぁという単調な波の音が響く。波は人の悲しみまでは洗い流してはくれない。
海も、空も、視界に収まる世界の全てが、赤く染まっている。
夢の中で、僕は波に濡れないようズボンの裾を膝までたくし上げながら波打ち際で遊んでいた。砂を踏みしめた時の、ギュッギュという音がサンダルの底から微かに聞こえる。引いていたはずの波がざあざあと音を立てながら押し寄せ、僕の足元を濡らしていく。潮の匂いと足元から伝わってくる水の冷たい感触が心地良い。僕は後ろにいるはずの母に向かって先ほどから思っていたことを振り返らずに尋ねてみた。
「どうして海ってこんな匂いがするんだろう?」
「それは多分、いろんな生き物が海で死んでいるからよ」
母は静かな声で言った。
「死期が近づいている人間からも似たような匂いがしてくるらしいわ」
それは全くと言っていいほど体温を感じさせない冷たい声だった。抑揚もなく、何の感情も込められていない無機質な声は、機械が人間の声を真似て喋っているような。そんな感じがした。
「お母さんはね。海は神様みたい存在だなっていつも思ってるの。地球上に存在する全ての生命の源は海からきているわけでしょ? 海は神様みたいに命を与えもするし奪いもする。 人間はね、決して抗うことのできないものや山や海のような途轍もなく大きい”何か”に恐れたり、崇めることしかできないようにできているの。どうしてか分かる?」
僕は静かに首を横に振った。
「人は神様の奴隷なのよ。それは最初から決まっていることなの。みんな勝手に産み落とされて最期は孤独に死んでいく。神様って随分、意地悪な性格しているわよね。どうせ最後にみんな死んじゃうんだったら、生きる喜びを味わせる必要なんてないはずなのにね。 私たちはね。みんな死ぬためにこの世に生まれたのよ。神様の退屈しのぎにただ無理やり付き合わされているだけ。人はみな運命めいた『なにか』の奴隷でしかないのよ」
足元の砂に埋もれていた小さな貝殻が、波にさらわれ海の中へと消えた。生と死、その両方を司る広大な海は何もかも洗い流し、飲み込んでしまうのかもしれなかった。母が言っていることが正しいのだとすると生きることに意味なんてないのかもしれない。それぞれが、それぞれの人生を価値あるものにしようと必死にもがいているだけで、それ自体には大した意味も価値などないのかもしれない。
「母さんは……どうして僕を産んだの?」
口を衝いて思わず出た言葉に自分でもうろたえた。なんて馬鹿げたことを口にしまったんだという後悔と、どんな言葉が母の口から放たれるのかという好奇心が瞬時にせめぎ合う。両者の力関係は見事なまでに拮抗していた。眠っているかのような静かな沈黙がしばらく続き、細い吐息が背後から聞こえてくる。僕はこぶしをきつく握り締め、母から返事が返ってくるのを辛抱強く待った。
「亮介だけじゃ……可哀想でしょ?」
返ってきた答えは極めてシンプルなものだった。僕は兄の付属品だった。兄の孤独を癒すための道具でしかなかったのだ。しかも僕はその役目を果たすことができなかった。母の願いに反し、兄を死へと追いやった粗悪な付属品である僕という存在を母が肯定するはずがないのだ。考えるよりも身体がまず先に動いた。振り向いて母に何か言わなくてはいけないような気がした。けれども、そこには既に母の姿はいなくなっていた。
さっきまでそこにあったはずの誰かが作った砂の城も、誰かが捨てたスーパーで売られている花火もプラスチック片のゴミも空になったペットボトルも、一瞬の内に波にさらわれ消えてなくなってしまったのかもしれなかった。
周りの景色が突然遠のいていくように感じられた。海と砂浜と僕だけが世界に取り残されている。
"分かるだろ? お前は捨てられたんだよ”
自分自身の内なる声から逃れようとした。しかし時間が経つにつれ、その声は次第に大きくなっていき、言いようのない不安と恐怖がどっと溢れ出すことになった。当たり前にあったはずのものが手のひらからこぼれ落ち、何もかも失われていくような予感だけが残り火のように尾を引いた。
気づけば僕は地面を蹴って走り出していた。自分がどこに向かえばいいのかすらも分からないまま、ひたすら海岸沿いを走った。無邪気にじゃれついてくる白い波を蹴散らす。白い波が砕け、水しぶきがあがる。
ズボンが濡れてしまっても最早、構わなかった。僕はもうめそめそ泣き出していた。だんだんと息があがってくる。体は先ほどから懸命に疲労を訴えかけてきている。けれども僕はわけのわからぬ衝動に突き動かされるがまま、自分の身体が言うことを聞いてくれるかぎり走り続けた。
そうこうしているうちにいつの間にか体力が底をつき、砂に足を取られ、僕は地面に倒れ込んだ。膝が小刻みに震えている。もう走ることはできそうになかった。日の光は完全に消え、太陽は既に死に絶えていた。空には無数の銀の光が点々と輝いている。誰もいない静かな浜辺に冴えわたるような月の光が降り注いでいた。
1人で生きるにはこの世界はあまりにも広すぎる。誰でもいいから側にいて欲しかった。独りぼっちであることに耐えられそうになかった。僕は両膝に顔をうずめワーワーと、まるで生まれたばかりの赤子のようにみっともなく大声で泣き喚いた。どうしようもないほどの悲しみばかりが胸の内から次々と溢れでていった。
誰もいない岸辺にざぁざぁという単調な波の音が響く。波は人の悲しみまでは洗い流してはくれない。
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