朝敵となった父~貞姫の生涯~

君山洋太朗

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朝敵となった父

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春の光が山の端を照らしはじめた頃、貞姫は目を覚ました。

四歳の目には、障子から漏れる朝の薄明かりも不思議に映る。畳の上に落ちる光の四角い形が、少しずつ色を変えていく。暗から明へ、灰色から白へ。その変化を、彼女はただ黙って見つめていた。

「貞、起きましたか」

母の声だった。いや、貞姫の記憶の中では、後に「母」と呼ばれた女性の声だったのかもしれない。天正十年、武田家最後の春。彼女の記憶は、この日からすべてが朧になる。



「急ぎなさい」

叔母・松姫の声が、闇夜に震えていた。普段は凛として少しも揺らぐことのない声が、今宵ばかりは震えていた。その声の揺れが、幼い貞姫の不安を掻き立てた。

「叔母様、どこへ?」
「八王子へ。急ぎなさい」

松姫は、貞姫の小さな体を強く抱きしめたまま、廊下を走った。足音を殺しながらも、早く、早くと急かす息遣い。その胸の鼓動が、貞姫の背中に直接伝わってくる。

昨日まで、穏やかだった。父・勝頼は厳しい顔をしていたけれど、兄・信勝とお庭で遊んだ時は、少しだけ微笑んでくれた。それが昨日のことのようでいて、もう遠い記憶のように思える。

「叔母様、父上は? 兄上は?」

松姫は答えず、貞姫の体をさらに強く抱きしめた。その腕の力が、これから起きる悲劇への抵抗のようにも思えた。

外へ出ると、空気が熱かった。新府城の空を見上げると、東の空が不自然に明るい。それは朝の光ではなかった。

「火だ」

貞姫の耳に届いたのは、叔母のつぶやきではなく、遠くの誰かの叫び声だった。

城下の坂に上がる炎は、夜空を赤く染め、星々を飲み込んでいた。風に煽られるたびに、赤い蛇のように舌を伸ばし、次々と家々を飲み込んでいく。

「松、急げ」

男の声だった。馬を引いた侍が二人、彼女たちを待っていた。

「お嬢様を頼む。私は殿の元へ」

そう告げた侍の一人は、すぐに城の方へ馬を走らせた。もう一人は、松姫と貞姫を乗せ、城と反対方向へ向かった。

「父上は?」

貞姫は繰り返した。松姫は答えない。ただ、貞姫の体を硬い腕で抱きしめていた。その腕は震えていた。恐怖か、怒りか、悲しみか。四歳の貞姫には、その震えの意味を理解することはできなかった。

彼女にわかったのは、ただ一つ。

この夜を境に、すべてが変わるということ。



八王子への道は、長かった。

山道を抜け、谷を越え、何度も馬を変えながら進んだ。貞姫は松姫の膝の上で眠り、目覚め、また眠った。どれほどの時が経ったのか、わからない。

夢と現実の境も曖昧になった。ときおり父の顔が浮かぶ。厳しい目、そして僅かな微笑み。兄・信勝の笑い声。それらの記憶の断片が、揺れる馬の背に乗りながら、少しずつ霧の中へ消えていくようだった。

松姫は馬上で一度も泣かなかった。黙って前を見つめ、ときおり空を仰いだ。静かな嘆きを胸に畳みこむように。

「貞、覚えておきなさい」

長い沈黙の後、松姫が低い声で言った。

「あなたは武田信玄様の血を引く者。どんなときも、その矜持を失ってはならぬ」

言葉の意味は、当時の貞姫には理解できなかった。ただ、その声の重みが、どこか終わりを告げるものであることだけは、幼心にも感じ取っていた。

「信玄様の血を引く者」

その言葉を、貞姫は繰り返した。松姫の腕の中で、小さく、しかし確かに。



八王子での日々は、まるで水の中にいるような感覚だった。

音も色も、すべてが遠く感じられる。人々の声も、風の音も、すべてが水中に響くように鈍く、遠い。

松姫と共に身を寄せたのは、古い武家屋敷だった。誰の家なのか、貞姫は知らされなかった。ただ、彼女たちを温かく迎え入れ、何も問わなかった。

「しばらくの間だけ」

松姫はそう告げて、屋敷の一室に貞姫と共に籠った。外からは、様々な噂が聞こえてきた。

「武田は滅んだ」
「勝頼殿は自害されたと」
「信勝様も」

夜になると、松姫は一人で庭に立ち、月を見上げた。その姿を、貞姫は障子の隙間から見つめていた。叔母の背中は、まるで石像のように固く、動かなかった。

ある晩、松姫は部屋に戻ると、貞姫を正座させた。

「聞きなさい、貞」

松姫の声は、いつになく澄んでいた。それは悲しみを超えた声だった。

「あなたの父上と兄上は、もういらっしゃらない」

四歳の貞姫には、死という概念を正確に理解することはできなかった。ただ、「もういない」という言葉の持つ重みだけは、痛いほど感じ取った。

「どこに...行ったの?」

「お空の向こうだよ」

それは松姫からの初めての嘘だった。優しさから生まれた嘘。現実の残酷さから貞姫を守ろうとした、小さな慈悲の嘘。後に貞姫が知ることになる真実よりも、ずっと優しい言葉だった。



八王子での生活は、一ヶ月と続かなかった。

「徳川家康様のご意向です」

そう告げる使者が訪れたのは、八王子に着いてから二十日目のことだった。使者は静かに頭を下げ、松姫に書状を差し出した。

「高力正長殿のお屋敷に」

松姫は黙って頷いた。反論する様子もなく、ただ従うように。それが四歳の貞姫には不思議だった。いつも凛として、誰にでも堂々と向き合っていた叔母が、この時ばかりは黙って頭を垂れていた。

「家康様は、武田の姫君に慈悲をお掛けになられた」

使者はそう言った。慈悲という言葉の重みを、貞姫はまだ知らなかった。それが勝者から敗者への施しであること、その裏には常に条件が伴うことを、彼女はまだ理解していなかった。

「貞、行きますよ」

松姫は貞姫の手を取り、立ち上がった。その手は冷たかった。



駿府への道も、長かった。

馬ではなく、今度は駕籠に乗せられた。揺れる駕籠の中で、貞姫は新府城の最後の日々を思い出していた。断片的な記憶。父の姿。兄の笑顔。そして赤く染まった空。

記憶は既に遠ざかりつつあった。父の顔は輪郭だけになり、声も薄れていく。兄の姿も、霧の向こうに消えかけていた。

(あなたは武田信玄様の血を引く者。どんなときも、その矜持を失ってはならぬ)

松姫が言った言葉を、貞姫は心の中で繰り返していた。何を覚えていなければならないのか。父の顔か、兄の声か、それとも自分が何者であるかということか。

駕籠が止まった。陽の光が差し込む。

「着きました」

外の声に、貞姫は目を開けた。松姫が駕籠から降り、貞姫の手を取った。

目の前には、大きな屋敷が広がっていた。門構えも立派で、武家の格式を感じさせる。

「ここが...」

貞姫が言いかけると、松姫は小さく頷いた。

「ここがこれからのあなたのお家よ」

その言葉には、別れの色が染みついていた。

高力家の門をくぐると、几帳面に整えられた庭が広がっていた。石の配置も、木々の剪定も、すべてが規則正しく、厳格だった。新府城の自由な庭とは違う。

縁側には、中年の武士と、その隣に女性が立っていた。高力正長とその妻だった。

「よくおいでくださいました」

高力夫人は優しく微笑み、貞姫に手を差し伸べた。しかし、貞姫は松姫の着物の袖に隠れるように身を寄せた。

「貞、ここがこれからのお家だ。高力様のお言葉に従いなさい」

松姫は貞姫の背中を優しく押した。先に進めと。新しい人生へと。

「叔母様も...一緒に?」

貞姫の問いに、松姫は小さく首を振った。それが最後の別れであることを、貞姫は直感的に悟った。幼くとも、彼女には見えた。叔母の目に浮かぶ諦めと決意が。

「貞」

高力正長の声は低く、穏やかだった。優しさを含んでいたが、どこか遠い感じがした。貞姫は恐る恐る顔を上げた。

「これからは、わしの娘じゃ。不自由はさせぬ」

約束の言葉。慈悲の言葉。しかし、その背後にある現実の厳しさを、貞姫の小さな心は感じ取っていた。

松姫は最後に貞姫を抱きしめた。強く、長く。そして何も言わずに立ち去った。

貞姫は松姫の背中が門を出るまで見つめ続けた。その姿が完全に見えなくなっても、まだ立ち尽くしていた。

「さあ、中へ」

高力夫人の声に、ようやく我に返った。貞姫は小さく頷き、新しい「家」へと足を踏み入れた。

これが彼女の人生の転換点だった。



高力家での生活は、静かに始まった。

貞姫に与えられた部屋は、小さいながらも清潔で明るかった。床の間には季節の花が活けられ、障子は白く張り替えられていた。新しい着物も用意され、髪を結う櫛も贈られた。

物質的には、何一つ不自由はなかった。それでも、貞姫の心は常に何かを探し求めていた。記憶の断片を。父の顔を。兄の声を。火に包まれた城の光景を。

「朝敵の娘」

ある日、屋敷の隅でそんな言葉が聞こえた。給仕の女たちが、小声で話しているのだった。

「家康様のお慈悲とはいえ...」
「武田の姫君を養女に...」
「朝敵の血筋を...」

言葉の意味はわからなくとも、その言葉に込められた軽蔑や恐れは、貞姫にも感じ取れた。

朝敵。

その言葉は後々まで、貞姫の人生に影を落とすことになる。父が何者であったのか、なぜ「朝敵」と呼ばれるのか。それを知るには、まだ時間が必要だった。

高力正長は、貞姫を実の娘のように接した。毎朝の挨拶、時折の散歩、食事の際の軽い会話。それらは形式的でありながらも、温かみがあった。

「貞、学問は大切じゃ」

正長は、貞姫に文字を教え始めた。最初は平仮名から。やがて漢字も。貞姫は驚くほど早く習得していった。

「賢い子だ」

正長はそう言って、頭を撫でた。その手は大きく、温かかった。父の手とは違う。そう思った瞬間、貞姫は胸が痛んだ。父の手の記憶が、既に曖昧になりつつあることに気づいたから。

高力夫人も、貞姫に優しかった。実の母のようにはなれなくとも、慈しみを持って接してくれた。髪を梳き、着物の着付けを教え、女としての所作を少しずつ示していった。

「背筋を伸ばして。そう、美しいわ」

夫人の褒め言葉に、貞姫は小さく微笑んだ。それは表面的な笑みだった。心の奥では、常に問い続けていた。

「なぜ、私だけが...」

生きているのか。救われたのか。新しい家族を与えられたのか。

その答えは、誰も教えてくれなかった。



五歳になった春、貞姫は初めて徳川家康に謁見した。

「これが武田の姫か」

家康の視線は鋭かった。何かを見抜くような、何かを測るような。貞姫は教えられた通りに深く頭を下げた。

「よく育っておる」

家康の言葉に、高力正長は安堵の表情を浮かべた。それは保護者としての責任を果たした証でもあった。

「朝敵の娘とはいえ、幼き者に罪はない」

「朝敵」という言葉が再び出た。貞姫の耳に刺さる言葉。

「高力、よく育てよ。武家の誇りと節度を持った姫君に」

家康の命令は、温情を示しながらも、明確な意図を含んでいた。武田の血を引く者として、徳川に忠誠を誓わせるための教育を。歴史の闇に葬られた家の子として、静かに生き、波風を立てぬよう育てることを。

貞姫自身は、その場の空気を正確に理解することはできなかった。ただ、自分が特別な存在であること、そしてその特別さには暗い影が伴うことだけは、感じ取っていた。

高力家に戻る駕籠の中で、正長は珍しく言葉を投げかけた。

「貞、覚えておきなさい。家康様のご恩を」

それは命令であり、人生の指針でもあった。

「はい」

貞姫は小さく答えた。しかし心の中では、松姫の言葉も同時に響いていた。

「あなたは武田信玄様の血を引く者」

相反する二つの教え。二つの忠誠。その間で、彼女の人生は揺れ動くことになる。



歳月は、静かに流れていった。

六歳、七歳と成長する貞姫は、高力家の中で徐々に自分の居場所を見つけていった。学問では目覚ましい才能を見せ、女としての所作も早くに身につけた。表面上は、何の問題もない成長ぶりだった。

しかし、彼女の内側には常に空洞があった。それは父と兄の不在が作り出した空白であり、過去の記憶の断片が作り出す闇だった。

夜、一人で布団に入ると、時折その闇が彼女を襲った。炎の夢。叫び声。そして赤く染まった空。

そんな夜は、貞姫は決して泣かなかった。ただ布団の中で震え、夜明けを待った。泣くことすら、彼女は許されないと思っていた。生き残った者の特権として。

七歳の冬のことだった。

高力家に、一人の老武士が訪れた。かつての武田家の家臣だという。正長は丁重に彼を迎え、奥の間で長時間話し込んだ。

貞姫は障子の陰から、その老武士の姿を見た。白髪混じりの髭、深い皺、そして鋭い眼光。どこか懐かしさを感じる風貌だった。

老武士が帰る際、貞姫は思わず姿を現した。老人はその姿を見るなり、足を止めた。

「姫君...」

老武士の目に、涙が浮かんだ。

「お父上に、そっくりだ...」

その言葉に、貞姫の心は大きく揺れた。父に似ているという言葉。それは彼女が最も欲していた言葉だった。

老武士は深々と頭を下げ、何も言わずに去っていった。

その夜、貞姫は初めて父の夢を見た。顔ははっきりしない。声も聞こえない。ただ、温かい光の中に立つ大きな背中。それだけの夢だった。

朝、目覚めると、枕は涙で濡れていた。



八歳になった春、貞姫は庭の一角に小さな祠を作った。

誰にも言わず、自分だけの秘密として。祠といっても、実際は石を二つ重ねただけの簡素なものだった。その前に座り、貞姫は毎日のように手を合わせた。

「父上、兄上」

名前を呼ぶだけ。何を願うでもなく、何を訴えるでもなく。ただ、存在を確認するように。

ある日、高力夫人がその姿を見つけた。

「貞、何をしているの?」

驚いた貞姫は、慌てて立ち上がった。叱られると思ったからだ。

しかし夫人は、ただ静かに微笑んだ。

「そうね。手を合わせることは、大切なことだわ」

それ以上は何も言わなかった。問わなかった。貞姫の心の闇に、触れようとはしなかった。

それが優しさだったのか、それとも逃避だったのか。貞姫には分からなかった。ただ、夫人がその祠を壊さなかったことに、感謝した。



九歳になった貞姫は、ある日、偶然に真実を知った。

それは夏の終わりの日のことだった。蝉の声が弱まりつつある時期。貞姫は高力家の蔵の中で、古い巻物を見つけた。掃除を手伝っていた際に、奥の棚から落ちてきたものだった。

何気なく広げた巻物には、「武田勝頼」の名があった。

父の名。

貞姫は心臓が高鳴るのを感じた。父について書かれた文書。それは彼女にとって、宝物のような存在だった。

急いで巻物を隠し、自分の部屋に持ち帰った。誰にも見られぬよう、障子を閉め、行灯の明かりだけを頼りに、貞姫は文字を追った。

「天正十年三月十一日、武田勝頼、新府城にて自害...」

自害。

その言葉の意味を、貞姫は既に知っていた。学問の中で学んだ言葉。武士の最後の選択。

「側に嫡男・信勝も同じく自害。家臣多数も殉死...」

兄も。

貞姫の手が震えた。今まで「お空の向こう」という言葉で曖昧にされていた真実が、冷たい文字となって彼女の前に横たわっていた。

「城と館に火を放ち...」

あの日の赤い空。それは父と兄の選択の結果だったのだ。

巻物には、さらに続きがあった。

「朝敵として滅ぼされし武田家...」

朝敵。

何度も聞いた言葉。しかし、その言葉が父と兄を形容するものだとは。

「貞姫殿は、松姫の助けにより脱出...」

自分の名を見つけ、貞姫は息を呑んだ。ここに歴史が記されている。彼女自身の歴史が。

その夜、貞姫は眠れなかった。布団の中で巻物の言葉を何度も反芻した。

父と兄は、自ら命を絶った。

それはどういうことなのか。なぜ彼らは死を選び、なぜ自分だけが生かされたのか。

「朝敵の娘」

その言葉の意味を、貞姫は初めて理解した気がした。それは消えることのない烙印。父の選択の結果として、自分に与えられた宿命。

翌朝、貞姫は誰にも気づかれぬよう、巻物を元の場所に戻した。しかし、彼女の心に刻まれた言葉は、もう消すことはできなかった。



十歳の誕生日、高力正長は貞姫を書院に呼んだ。

「貞、十歳になったな」

正長の声は、いつもよりも重々しかった。

「はい」

貞姫は静かに頷いた。

「そろそろ、話しておくべきことがある」

貞姫は息を呑んだ。巻物で知った真実を、正長が語り始めるのではないかと思ったからだ。

しかし、正長の言葉は別の方向へ向かった。

「貞は、この家の娘として、徳川家に忠誠を尽くして生きていくのだ」

それは命令であり、運命の宣告でもあった。

「武田の血は尊いものだ。だが、それは過去のもの。これからは、高力の名で生き、徳川に仕える女として生きるのだ」

貞姫は黙って聞いていた。反論する余地もなく、問いかける勇気もなく。ただ、運命を受け入れるように。

「わかっておるか?」

正長の問いに、貞姫は小さく頷いた。

「はい、父上」

初めて、貞姫は正長を「父上」と口にした。それは表面的な服従だった。心の奥では、別の父への忠誠が脈打っていた。

巻物で読んだ「朝敵」の父。自ら命を絶った父。しかし、それでも彼女の血を分けた真の父。

「よい返事だ」

正長は満足げに頷き、貞姫の肩に手を置いた。

「女として、美しく、賢く、そして従順に育つのだ」

それが彼女に課せられた使命であり、生き残った代償でもあった。

貞姫は静かに部屋を出た。廊下に立ち、庭を見下ろす。秋の日差しが、石の祠を静かに照らしていた。

「父上、兄上」

心の中で、彼女は呼びかけた。

「私は、生きます」

それは約束であり、決意表明でもあった。自分だけが生き残ったことへの贖罪として。父と兄の分まで、強く生きることを誓うように。

十歳の貞姫は、そうして自分の生を受け入れた。表面上は従順な高力家の娘として。心の奥では、武田の血を引く姫として。

その二重性が、これからの彼女の人生を形作っていくことになる。

泣かず、訴えず、ただ静かに生きること。

それが、朝敵の娘として生き残った彼女の、唯一の道だった。



淡い陽の光が障子を透して、部屋の隅まで届いていた。貞姫は膝の上に置いた和紙に筆を走らせながら、ときおり庭先の桜を見つめた。十歳になった春、彼女は幼き日の記憶を追うように、文字を覚え始めていた。

「貞姫様、お上手になられましたね」

側に座った老女が優しく微笑む。貞姫は小さく頷いて、筆を置いた。

「おじいさまのように、美しい字が書けるようになりたいのです」

養父である高力正長の書は端正で、品があった。貞姫は彼の筆遣いを見るたび、どこか懐かしさを覚えた。それが何なのか、彼女にはまだわからなかった。ただ、養父が筆を持つ手の動きに、夢の中で見る影のような人の姿が重なることがあった。

「そなたは高力家の娘として、りっぱに育っておいで」

老女はそう言って、貞姫の肩をそっと撫でた。貞姫はいつも通り黙って頷いたが、心の中には違和感がいくつも積み重なっていた。高力家の娘―そう呼ばれる度に、自分の中の何かが小さく揺らぐのを感じていた。



貞姫が十二歳になった冬の夜のことだった。高力家の広間で家臣たちが集う宴があり、酒が入った男たちの声が庭の向こうから聞こえてきた。

「武田の残党も、もはや影も形もありませぬな」
「そうとも。勝頼殿の最期も、哀れなものでござった」
「しかし、あの娘は…」

声が急に小さくなった。貞姫は廊下の陰で息を潜めていた。心臓が早鐘を打ち、手が冷たくなる。

「おお、貞姫殿のことか。あれはもう、わが殿の娘じゃ。過去など…」

再び声が遠ざかり、貞姫は両手で耳を塞いだ。耳を塞いでも、あの言葉だけは聞こえてしまう。「武田の残党」「勝頼殿の最期」―そして「あの娘」。

その夜、布団に入っても眠れなかった。天井を見上げると、闇の中に浮かぶのは赤い空の記憶だった。誰の記憶なのか、それが自分のものなのか、もはやはっきりとはわからない。ただ確かなのは、その記憶が彼女の中だけに残された、かけがえのないものだということだった。

「父上…」

暗闇の中で初めて、その言葉を口にした。震える唇から漏れた「父上」という言葉は、まるで禁じられた呪文のように感じられた。貞姫は自分の声に驚き、慌てて布団に頭を埋めた。



「貞姫、今日は裁縫の稽古じゃ」

養母の声に、貞姫は静かに頷いた。十三の春、彼女は女子としての嗜みを着実に身につけていった。裁縫、詩歌、琴、茶道―すべて与えられた課題をこなし、決して不満を漏らさなかった。

「まあ、この縫い目の細かさ。貞姫様は本当にお上手」

女中たちが褒めるたび、貞姫は謙遜して笑みを見せた。けれども、彼女の中には常に穏やかならぬ波が揺れていた。針を持つ手に力が入りすぎて、指を刺すことも珍しくなかった。血が滲むと、不思議と心が落ち着くことがあった。

ある日の昼下がり、庭の一角で一人茶を点てていた貞姫は、塀の外から子供たちの声を聞いた。

「あそこに住んでるのは逆賊の娘だってさ」
「嘘だろ?高力様のお嬢様じゃないのか?」
「いいや、本当は武田勝頼の娘なんだ。わが父上が言っていた」

貞姫の手が止まった。茶碗を持つ指が震える。

「朝敵の娘が、どうして生きておられるのだろうな」
「さあ…けど、口にするなよ。徳川様のご意向だそうだ」

子供たちの足音が遠ざかっていく。貞姫は動かない。ただ、茶碗の中の緑が揺れるのを見つめていた。

逆賊の娘。朝敵の子。

言葉は心に針のように刺さった。しかし、彼女は涙を流さなかった。ただ、茶を点て続けた。作法通りに、一つ一つの動きを丁寧に。その所作の中に、彼女は自分を閉じ込めた。



「貞姫、今宵は月がきれいじゃな」

養父・正長が縁側に腰を下ろし、貞姫を隣に座らせた。十四歳になった彼女は、身長も伸び、容姿も整ってきていた。長い黒髪と凛とした眉、そして静かな瞳―それは幼き日の面影を残しつつも、新たな美しさを湛えていた。

「はい、おじいさま」

貞姫は小さく答えた。二人の間に流れる沈黙が、彼女には心地よかった。正長は決して過去を問わず、彼女の出自について語ることもなかった。それが貞姫には救いでもあり、同時に深い溝でもあった。

「貞姫、そなたはこの家でよい娘に育った。わしは誇りに思う」

月明かりの中、正長の横顔が優しく見えた。貞姫は静かに頷いた。

「おじいさまのおかげでございます」

それ以上の言葉は出てこなかった。感謝の気持ちは本物だったが、同時に胸の奥に広がる空虚感も確かなものだった。彼女は徐々に理解し始めていた。自分がこの家で生きることは、武田の娘としての記憶を消し去ることと同義なのだと。

その晩、貞姫は養父の書庫へと忍び込んだ。ろうそくの灯りを頼りに、彼女は書物を一つずつ手に取った。朧気な記憶を頼りに、「武田」の文字を探した。

やがて彼女の手に触れた一冊の書物。「甲州征伐記」と記された表紙を開くと、そこには父・勝頼の名が記されていた。

貞姫は息を殺して読み進めた。

「…武田勝頼、新府城にて自刃。嫡男・信勝も同じく果つ。これにより甲斐の武田氏、滅亡す…」

文字が踊り、視界が歪んだ。それでも貞姫は涙を流さなかった。ただ、掌が冷たくなり、心臓が早鐘を打つのを感じた。書物の中の「勝頼」は、彼女の中の朧げな記憶とは結びつかない、ただの歴史上の人物のように思えた。

彼女は静かに書物を元の場所に戻した。部屋に戻り、布団に潜り込んだ時、初めて小さく震えた。それは涙ではなく、心の奥底から湧き上がる何か名状しがたい感情だった。父を知りたい。だが、知れば知るほど、自分の存在そのものが問われてしまう。

貞姫は夜明けまで眠れなかった。



十六歳の春、貞姫の髪を梳きながら、養母は穏やかに語りかけた。

「そろそろ、嫁入りの話も出てくるじゃろう」

貞姫は黙って頷いた。養母の手つきは優しく、彼女の長い髪を丁寧に梳いていく。それは日々の儀式のようなもので、貞姫はこの時間が好きだった。何も語らなくてもよい静かな時間。

「貞姫、何を思う?」

突然の問いに、貞姫は少し驚いた。

「何も…特には」

「そなたはいつも、何も語らぬな」

養母の声には、わずかな悲しみが混じっていた。貞姫は黙って前を見つめた。鏡に映る自分の顔は、年齢よりも大人びて見えた。それは笑顔の少ない子供時代の名残かもしれなかった。

「わたくしは…高力家の娘として、恥ずかしくないようにしたいと思うだけです」

言葉は嘘ではなかったが、全てでもなかった。貞姫の心の奥には、いつも問いがあった。「なぜ、私だけが生きているのか」と。

「そなたは立派な娘じゃ。どこの家に嫁いでも、きっと幸せになれる」

養母の言葉に、貞姫は微笑んだ。しかし、その笑顔の陰で、彼女は思った。

(幸せになる資格が、わたくしにあるのでしょうか)



十七歳の秋、貞姫は初めて家康に謁見した。徳川家康―父の敵であり、自分を生かした男。複雑な思いを胸に秘めながら、彼女は礼を尽くした。

「貞姫殿、立派に成長されたな」

家康の声は予想外に優しかった。老齢に差しかかった彼の目には、何か深い感慨が宿っているように見えた。

「ご恩に報いるべく、精進してまいりました」

貞姫は静かに答えた。言葉の裏には無数の問いがあった。なぜ私を生かしたのか。父と兄を殺しておいて、なぜ私だけを。

家康は長く彼女を見つめた後、小さくため息をついた。

「武田の血は尊い。そなたには、その血を穢さぬよう生きてほしい」

貞姫は目を見開いた。初めて、自分の出自を正面から認める言葉を聞いたのだ。心臓が早鐘を打ち、震える手を袴の下に隠した。

「心得ております」

それ以上の言葉は、彼女の口からは出なかった。しかし、その日から彼女の中で何かが変わり始めた。武田の血―それは消し去るべき過去ではなく、彼女自身の一部なのだと。



十八の冬、貞姫に縁談が持ち上がった。相手は宮原義久、高家旗本の一人だった。

「義久殿は穏やかな方だそうだ。そなたに相応しい」

養父はそう言って、貞姫の肩に手を置いた。彼女は静かに頷いた。この縁談の裏には、きっと家康の配慮があるのだろう。武田の娘として生き永らえるための、最適な場所を用意してくれたのだ。

初めて義久と対面した日、貞姫は彼の目に宿る穏やかな光に安堵した。四十に近い男ではあったが、その物腰は柔らかく、彼女を見る目に偏見の色はなかった。

「貞姫殿、わたくしめが未熟者ゆえ、多々ご不満もあろうかと存じますが」

義久の声には誠実さがあった。貞姫は初めて、心から微笑むことができた。

「いいえ、こちらこそ、どうかよろしくお願い申し上げます」

彼女の声は小さかったが、確かな意志を宿していた。義久との結婚は、彼女にとって新たな船出となる。それは武田の娘としての過去から逃れるためではなく、その過去とともに生きる道を模索するためだった。



「貞姫殿、これは先祖伝来の簪でございます。どうぞお納めください」

嫁入り前夜、養母は小さな木箱を差し出した。開けると、中には繊細な模様の簪が収められていた。貞姫は慎重にそれを手に取った。

「これほどの品を、わたくしが…」

「そなたは我が家の娘。これを身につけるにふさわしい」

養母の目には涙が光っていた。貞姫は突然、胸が締め付けられるような思いに襲われた。高力家での十四年の暮らし―それは平穏で、恵まれたものだった。養父母は決して過去を蒸し返すことなく、彼女を我が子として慈しんでくれた。

「おかあさま…」

貞姫は初めて、養母の手を取った。言葉にならない思いが込み上げる。感謝と懺悔と、名状しがたい寂しさが交錯した。

「ありがとうございました。この恩は、生涯忘れません」

養母は彼女を優しく抱きしめた。

「ただ幸せになれ。それだけがわしらの願いじゃ」

幸せ―その言葉に、貞姫は再び自問した。武田の最後の血を引く者が、幸せを求める資格があるのだろうか。父と兄の死の上に、自分だけが幸福を築いてもよいのだろうか。

その夜、貞姫は小さな紙に筆を走らせた。

「父上、兄上、わたくしは明日、宮原家に嫁ぎます。あなた方のことを、わたくしはほとんど知りません。それでも、あなた方の娘であり、妹であったことは忘れません」

書き終えると、彼女はその紙を灯心に近づけた。炎が紙を包み、灰となって消えていった。煙が天井へと昇っていくのを見送りながら、貞姫は思った。これが、せめてもの供養だと。



宮原家に嫁いで二年が過ぎた頃、貞姫は身籠った。夫・義久は大いに喜び、周囲も祝福の声をかけた。二十歳になった彼女は、静かに新しい命の芽生えを受け入れた。

「お体を大事になさってくださいませ」

女中たちが心配そうに世話を焼く中、貞姫は穏やかに過ごした。彼女の静けさは、周囲からは「慎ましやかな奥方」として称えられたが、実際には彼女の中で静かな闘いが続いていた。

おなかの中で育つ命―それは武田の血を継ぐ新たな命。自分が消し去ろうとしてきた過去が、この子の中にも流れる。それは祝福すべきことなのか、それとも…。

ある夜、ひとり庭を眺めていた貞姫は、月明かりに照らされた桜の木に父の面影を見た気がした。幻に過ぎないとわかっていても、彼女はその影に語りかけた。

「父上、わたくしはこの子に何を伝えるべきでしょうか。武田の誇りを、それとも…沈黙を」

答えはなかった。ただ、夜風が彼女の頬を優しく撫でた。それは父からの返答のようにも、思い過ごしのようにも思えた。



「男の子でございます。おめでとうございます」

産湯に浸かる我が子を見つめながら、貞姫は胸の奥に広がる温かさを感じた。小さな命は、彼女の心の空白を埋めるように、強く泣いていた。

「晴克と名付けましょう」

義久の提案に、貞姫は頷いた。晴れやかに克つ―その名には、これから生きていく力強さが込められていた。彼女は密かに思った。この子は武田の最後ではなく、新たな始まりなのだと。

その夜、授乳を終えた貞姫は、眠る赤子の顔を見つめながら夢うつつの中にいた。すると、ぼんやりとした父の姿が立っているような気がした。夢なのか現実なのか、判然としない。

「よく生きたな」

声は風のように消えたが、彼女の耳には確かに届いていた。目を開けると、頬に涙が伝っていた。産後初めての涙。それは悲しみの涙ではなく、長い間凍りついていた何かが、ようやく溶け始めた証のように思えた。



「貞姫殿、よろしければ茶会に」

義久の母からの誘いに、貞姫は応じた。二十五歳になった彼女は、宮原家の奥方として周囲から一目置かれる存在になっていた。晴克も五歳になり、元気に走り回る姿に義久は目を細めた。

表面上は何不自由ない生活。貞姫自身も、その日常に感謝していた。それでも、心の奥底にある「語られなかった声」は、彼女の一部として在り続けた。晴克が成長するにつれ、貞姫は自分の幼少期を思い返すことが増えた。彼と同じ年頃、自分は何を見て、何を感じていたのか。

夕暮れ時、庭の隅に座り込んだ晴克を見つけた貞姫は、その姿に一瞬、兄・信勝の面影を見た気がした。幻に過ぎないとわかっていても、胸が締め付けられた。

「晴克、何をしているの」

「母上、この虫、死んでしまいました」

晴克の小さな手のひらには、一匹の蝉が横たわっていた。

「でも、きっとお空で生まれ変わるのですよね」

純粋な瞳で問いかける息子に、貞姫は優しく微笑んだ。

「そうね、きっと」

「母上は、お空のお父様のことを覚えていますか」

突然の問いに、貞姫は息を呑んだ。晴克は義久から何かを聞いたのだろうか。それとも、子供の鋭い直感だろうか。

「わたくしが小さな頃、お空に行ってしまったの」

言葉を選びながら、貞姫は静かに答えた。それは嘘ではなかったが、すべてでもなかった。彼女は静かに息子の髪を撫でた。

「でも、あなたが生まれてきてくれたから、わたくしは幸せよ」

その言葉は心からのものだった。晴克の誕生は、彼女の人生に新たな光をもたらした。それは過去を消し去るものではなく、過去とともに生きる力を与えてくれるものだった。

「わたくしも、母上が居てくれて幸せです」

晴克の無邪気な笑顔に、貞姫は初めて心から安らぎを覚えた。この子と生きていくことで、彼女の中の「語られなかった声」も、いつか平安を得るのかもしれない。

彼女は空を見上げた。夕暮れの空は、血の色ではなく、穏やかな橙色に染まっていた。



ろうそくの灯りが揺れる中、貞姫は小さな紙に筆を走らせていた。それは日々の記録というより、心の整理のためのものだった。

「父上、兄上、わたくしは今日も生きております。晴克は日に日に大きくなり、その姿はときに兄上に似て見えることがございます」

筆を置き、彼女はため息をついた。もう十数年、こうして亡き家族に語りかけることが習慣になっていた。書き終えた文は決して人に見せることなく、翌朝には灰にする。それでも、彼女にとってはこの瞬間だけが、武田の娘としての自分を取り戻す時間だった。

「わたくしが父上の顔を覚えていないように、いつか晴克もわたくしの記憶を失うのでしょうか」

そう書きながら、彼女は不意に涙がこぼれそうになった。しかし、長年の習慣で、それを堪えた。泣くことさえ、彼女には許されない贅沢のように思えていた。

「それでも、血は流れ続ける。武田の意志は、静かに生き続ける」

最後にそう記し、貞姫は筆を置いた。窓の外では新月の夜が静まり返っていた。闇の中に身を沈めながら、彼女は思った。

沈黙の中にこそ、時に最も雄弁な言葉が宿るのだと。



祝言の夜から何十年という時が流れた。

屋敷の庭で、貞姫は冬枯れの梅を見つめていた。四十九を数えた彼女の髪には、ほんのわずかな白いものが交じり始めていた。その隣に立つ長男・晴克はすでに中年の風格を帯び、宮原家の家督を継いで久しかった。

「母上、風が冷とうございます。お部屋にお戻りになられては」

晴克の声に、貞姫はゆっくりと顔を上げた。

「いや、もう少し」

冬の陽は優しく、かつ冷たかった。貞姫は庭石に目をやる。その苔むした表情が、なぜか今日は父の顔に見えた。幼き日、四歳の春に最後に見た顔ではない。彼女の心が作り上げた幻の父の顔だ。

風が吹き、梅の枝がかすかに揺れる。白く細い枝が、まるで何かを指し示すかのように。

「晴克、お前はもう三十年になるか」
「はい、そのようでございます」
「時の流れは早いものよ」

晴克は黙って頷いた。彼は母の沈黙の意味を、長い年月をかけて理解するようになっていた。貞姫が過去を語らないことを、そして語らないことの奥に何があるかを。

「晴克、武田の名を知っておるか?」

突然の問いに、晴克の表情がわずかに強張った。これほど直接的に母が自らの出自について口にすることは稀だった。

「はい。父上より聞き及んでおります」

貞姫はうっすらと微笑んだ。

「そうか。義久は話しておったか」

晴克は静かに答えた。

「父上は、母上が武田勝頼様のお姫様であることを、わたくしが元服する前に語りました。『お前の母上は、いかなる時も己の出自を恥じることなく、されど決して誇ることもなく、ただ清く生きてこられた』と」

貞姫は目を閉じた。夫・義久の言葉が今も生きていることに、胸の中に温かさが広がった。それは同時に、長い間彼女を支えてきた夫を失った虚無感をも呼び起こした。

「義久は良き人であった」

三年前の冬、宮原義久は長い病の末に息を引き取った。臨終の床で彼が貞姫に告げた言葉は、今も彼女の胸に深く刻まれていた。

「おまえは、父上の名を誰よりも綺麗に保ってきた」

義久の言葉に、当時の貞姫は何も答えられなかった。ただ夫の手を握り締め、涙を流すことさえできずにいた。涙より深い何かが、彼女の内側で揺れ動いていたからだ。

「晴克、義久の十三回忌が近いな」
「はい、来月でございます」

貞姫は庭の石を見つめたまま、静かに告げた。

「甲府に参りたい」

晴克の顔から血の気が引いた。

「母上、それは……」

「武田の城があった場所だ。もう何も残っておらぬだろうがな」

「そのようなところへ……どうして」

貞姫は黙って立ち上がった。着物の裾を正し、晴克に向き直る。その顔には、いつもの貞姫の穏やかさではなく、どこか凜とした決意が浮かんでいた。

「義久に黙って、ずっと胸にしまっておったことがある。今、それを見届けねばならぬのだ」



翌日から、貞姫は甲府行きの準備を始めた。晴克は最初こそ反対したが、母の決意の固さを知ると、供の者を多く付けることを条件に承諾した。しかし貞姫はそれすら拒んだ。

「侍女一人と、老いた武士一人で十分」

「しかし母上、道中の危険もございます」

「この老いた身に、何があろうか」

晴克は頭を下げた。

「せめて、私も同行を」

「いや」

貞姫は微笑んだ。

「これは私一人の旅なのだ。お前に見せるものではない」

晴克は黙って母を見つめた。貞姫は息子の正面に座ると、ゆっくりと言葉を続けた。

「晴克、お前には何も語らぬまま、長い年月を過ごしてきた。わたしは武田の娘だが、武田の記憶はほとんどない。四歳の時に城を出た。火の手が上がり、叔母に抱かれ、山を越えた。そこまでは覚えている。父の顔も、兄の顔も、はっきりとは思い出せぬ」

晴克は黙って聞いていた。これほど多くを母が過去を語ることは、彼の記憶になかった。

「だが、ひとつだけ鮮明に残っているものがある。甲府の坂を下る時に見上げた空の色だ。赤かった。そして黒い煙が立ち上っていた」

貞姫の目に光が宿った。それは記憶の光だ。四十年以上前の記憶が、今も彼女の中で生きていた。

「父と兄は、その時すでに……」

貞姫は言葉を切った。

「わたしは知らぬ。最期の様子も、どこに眠っているのかも知らぬ。ただ、坂がある。あの日、逃げ出した坂がある。その場所に一度立ってみたいのだ」

晴克は黙って頭を垂れた。

「承知いたしました」



三日後、貞姫は侍女の「梅」と、父・正長の代からの古い家臣である富永弥右衛門を伴い、甲府へ向かった。

旅籠に入り、晩餐を終えた貞姫は、障子を開け放ち、遠く甲斐の山々を眺めていた。

「姫様、寒むうございます」

梅が心配そうに声をかけるが、貞姫は首を振った。

「懐かしい風だ」

本当は、彼女自身もその「懐かしさ」が何なのか分からなかった。四歳の記憶など、断片的なものでしかない。それでも、この風に触れた時、体の奥底から何かが呼応するように感じた。

夜、敷き布団に横たわっても、貞姫は眠れなかった。闇の中で目を開けたまま、彼女は過ぎ去った時間を黙って見つめていた。

四歳の春。叔母の腕の中で見た赤い空。
幼いころ、高力家で学んだ作法と礼節。
どこへ行っても背負っていた「敗者の娘」という無言の重み。
宮原家に嫁ぎ、晴克を産み、義久と静かな幸せを紡いだ日々。

そのすべてが今、彼女の中で結びつこうとしていた。

「私は何を求めて来たのだろう」

暗闇の中で、貞姫は自らに問うた。赦しか、それとも贖いか。父への、あるいは武田の名への謝罪か。

答えは見つからないまま、彼女はようやく浅い眠りに落ちた。夢の中で、誰かが彼女の名を呼んでいた。



「姫様、甲府でございます」

翌日の昼過ぎ、富永の声で貞姫は旅籠の窓から顔を上げた。遠くに山々が連なり、かつて新府城があったという丘が見えた。

「ここから近いのか」

「はい、あの丘の向こうにございます」

富永は年老いていたが、武士としての威厳は失っていなかった。その眼差しに、貞姫は何かの覚悟を見た。

「富永殿、あなたは父上をご存知か」
「いいえ、お会いしたことはございません。しかし……」

富永は言葉を選びながら続けた。

「かつて高力様が、武田勝頼様のことを語られるのを聞いたことがございます。『義を重んじ、民を慈しんだ武将だった』と」

貞姫は静かに頷いた。養父・正長は生前、決して武田家のことを彼女に語ることはなかった。それが家康の意向だったのか、あるいは彼女を傷つけまいとする配慮だったのか、今となっては分からない。

「行こう」

貞姫は立ち上がった。着物を正し、髪を整える。梅が手伝おうとするが、彼女は静かに制した。

「自分でする。これは……私自身の旅なのだから」



夕暮れが近づく頃、貞姫は富永と梅を旅籠に残し、ひとりで坂を登り始めた。富永は猛反対したが、彼女は譲らなかった。

「心配には及ばぬ。日が暮れる前に戻る」

かつて新府城があった場所へ続く坂道は、今は人家も少なく、静かだった。五十余年の時を経て、木々は生い茂り、道は細くなっていた。それでも、坂の傾斜は変わらない。幼い足で駆け下りた、あの坂だ。

貞姫はゆっくりと一歩一歩、坂を上っていった。春とはいえ、まだ冷たい風が頬を撫でる。息が少し荒くなってきたが、彼女は歩みを止めなかった。

坂の中腹まで来たとき、ふと右手に開けた場所があった。そこから谷間を見下ろすと、かつての城下町が広がっていただろう場所が見えた。今はただの田畑と点在する民家だけだ。

その光景に、貞姫の胸が強く締め付けられた。

「ここだ」

彼女は誰に言うでもなく呟いた。記憶の中の断片が、今の風景と重なる。赤い空の下、叔母に抱かれ、泣きながら振り返った場所。

貞姫はその場に膝をつき、目を閉じた。

風の音。土の匂い。遠くから聞こえる鳥の声。

それらすべてが、彼女の記憶の扉を開いていく。

突然、涙が溢れてきた。六十年近く生きてきて、彼女がこれほど激しく泣いたことはなかった。それは悲しみの涙ではない。解放の、そして赦しの涙だった。

「父上……兄上……」

彼女は地面に手をつき、額をつけるように深く頭を垂れた。

「私は……生きておりました。お二人の名を口にできぬまま、ただ心の奥に封じ込めて……生きておりました」

声にならない言葉が、彼女の内側から押し寄せる。

「徳川の庇護の下、高力の名を貰い、宮原に嫁ぎ……私だけが生き延びて……幸せな時間を過ごしました」

貞姫の背中が震えた。

「それは、裏切りでしょうか。敵に身を委ね、名を変え、敗者の悲しみをも忘れて生きることは……」

長年封印してきた感情が、堰を切ったように溢れ出す。

「でも、私は……ただ生きたかった。ただそれだけを……」

風が強く吹き、貞姫の髪が乱れた。それでも彼女は顔を上げなかった。

「父上、兄上、私は貴方たちの顔も、声も、はっきりとは覚えていません。でも、この身に流れる血は、確かに武田の血。それだけは、誰にも奪われませんでした」

土の感触が、彼女の記憶を呼び覚ます。城の庭で遊んだ日々、父に抱かれた温かさ、兄の笑い声。それはぼんやりとした記憶だが、確かに彼女の心の中にあった。

「私は……武田の最後の姫。この身一つに、すべてを背負って生きてきました」

彼女はゆっくりと身を起こした。顔に流れる涙を拭うこともせず、空を見上げる。夕暮れの空。もうすぐ闇が訪れようとしていた。

「今、ようやく言葉にできます。私は武田勝頼の娘、貞姫」

ようやく口にした自らの出自に、彼女の体から力が抜けていくように感じた。それは六十年の重みを手放す、解放の感覚だった。

貞姫はしばらくその場に座り込んだまま、風に身を任せていた。やがて西の空が赤く染まり始めると、彼女はゆっくりと立ち上がった。

「さようなら、父上。さようなら、兄上」

貞姫は深く一礼し、坂を下り始めた。二度と戻ることのない場所に別れを告げるように。



旅籠に戻ると、心配そうな表情で待っていた梅と富永が、貞姫の様子に驚いた。無言で頭を下げる二人に、貞姫は静かに告げた。

「明日、江戸に戻ろう」

その晩、久しぶりに深い眠りに落ちた貞姫は、夢を見た。

赤く染まった夕焼けの中、一人の武将が立っていた。その姿は後ろ姿で、顔は見えない。だが、貞姫にはそれが誰なのか分かった。父・勝頼だ。

傍らには若い武者の姿。兄・信勝だ。二人は何も語らず、ただ西に沈む夕日を見つめていた。

貞姫は二人に近づこうとする。だが足が動かない。彼女が声を上げようとした時、夢は終わった。

目覚めると、枕元に涙が滲んでいた。しかし、心は奇妙なほど軽かった。



江戸に戻った貞姫を、晴克は心配そうに迎えた。

「母上、お体はよろしゅうございましたか」

「ええ、何も問題はなかったよ」

貞姫は以前と変わらない穏やかさで答えたが、晴克には何かが違うことが分かった。母の目の奥に、新しい光が宿っていた。それは悲しみでも喜びでもない、ある種の覚悟のような輝きだった。

「晴克」
「はい」
「義久の十三回忌には、心を込めて準備をしておくれ」

貞姫はそう言うと、自室に向かった。

夜が更けると、貞姫は小さな文箱を取り出した。その中には一枚の白い和紙が納められていた。長年彼女が大切にしてきた、まだ何も書かれていない紙だ。

筆を手に取り、墨をすり、彼女は静かに筆を走らせ始めた。

『父上へ』

六十年間、一度も書いたことのない言葉が、紙の上に黒々と残る。

『私はあなたのことを知りません。顔も、声も、温もりも、はっきりとは覚えていません。

けれど、この六十年、あなたの娘であることは決して忘れませんでした。言葉にせず、形にもせず、ただ心の奥に灯し続けました。

敵の庇護の下、朝敵の娘として、それでも私は生き抜きました。それはあなたへの裏切りだったかもしれません。でも、それが私に残された唯一の道でした。

今、甲府の坂に立ち、あの日を思い出しました。赤い空と、黒い煙と、叔母様の震える腕の中で見たすべてを。

父上、許してください。あなたの娘が、あなたの敵の下で生きることを選んだことを。』

貞姫の筆は止まることなく、滑るように進んでいった。その夜、彼女は生まれて初めて、父と兄への思いをすべて言葉にした。最後の一文を認め終えたとき、東の空が白み始めていた。

『この世で再び会うことはありませんが、いつか黄泉の国で、私はあなたの顔を見たいと思います。そして言いたいのです。

「私は武田勝頼の娘、貞姫でございます」と。』

筆を置いた貞姫の顔に、朝日が差し込んでいた。



十三回忌の前日、貞姫は晴克を呼んだ。

「これを」

彼女は封がされた書状を息子に差し出した。

「なんでございますか」

「父と兄への手紙だ」

晴克は驚いたように母を見た。

「開いてはならぬ。私の死後、私の遺品と共に焼いておくれ」

「はい……」

晴克は言葉に詰まった。

「しかし、なぜ今……」

貞姫は静かに微笑んだ。

「武田という名は、記されずとも、心に咲く名だ」

その言葉の意味を、晴克はすぐには理解できなかった。しかし、母の表情に浮かぶ安らぎに、彼は何も尋ねることができなかった。

義久の十三回忌は厳かに執り行われた。貞姫は静かに夫の位牌に向かい、長い間黙祷を捧げた。その姿は小柄でありながら、奇妙な威厳に満ちていた。

それは彼女自身も気づいていなかった、武田の血が作り出す凛とした佇まいだった。

法要の後、屋敷の庭に立つ貞姫の背には、初めて見る者が思わず振り返るような、静かな光が宿っていた。

七十を目前にしても、彼女の瞳は澄んでいた。そこには、もはや迷いはなかった。

「長い旅だった」

貞姫は庭の梅の木を見上げながら、独り呟いた。六十年という時を経て、彼女はようやく自分自身の場所を見つけたのだ。

敗者の娘として。
生き残った者として。
そして、武田勝頼の娘として。

「私は貞姫。武田の姫でありながら、高力の養女となり、宮原の妻となった。すべては私の人生。恥じることもなく、誇ることもなく、ただありのままに生きてきた」

彼女の言葉は風に溶け、夕暮れの空へと消えていった。

それから十年あまりの月日が流れ、貞姫は八十余年の生涯を静かに閉じることになる。彼女の墓には、ただ一言「貞」とだけ刻まれた。それは彼女自身の名であり、生涯を貫いた誠実さの証でもあった。

父の名も、母の名も、何一つ記されていない。

だが、その墓に立つ者たちは知っていた。この墓の下に眠る女性が、かつて戦国の世に散った武田家の最後の灯だったことを。そして、その灯が静かに、しかし確かに燃え続けたことを。
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