朝敵となった父~貞姫の生涯~
貞姫は、4歳の春にすべてを失った。甲府の山を越え、叔母・松姫に抱かれて八王子に逃れた幼い日、見上げた空は血の色だった。父・武田勝頼と兄・信勝の最期は語られぬまま、心の奥に焼きついたまま、彼女の成長を静かに支配していく。
家康の命によって高力正長に引き取られ、徳川の庇護のもとで育つも、「朝敵の娘」であることは密やかに囁かれる。
父・勝頼の顔を、貞姫ははっきりとは覚えていない。兄も同様に、記憶は霧のように淡い。だが、父は敗者であった、ということだけは幼いころから知っていた。
その「敗者の影」を背負いながら、彼女は武士の女として品位を保ち、徳川の庇護下で慎ましく生きることを選ぶ。養父も養母も優しかったが、父を語ることはなかった。
ただ静かに、礼儀と節度を守る女として成長していく。
やがて宮原義久に嫁ぎ、ひとりの母となった日、ふと、父と兄が消えた武田の山々が夢に現れる。彼女は己の中にまだ「武田の血」が脈打つのを感じる。
老いの入り口に差し掛かった彼女は、亡き夫の十三回忌を前に、ひそかに甲府を訪れる。かつて火の手が上がったその坂で、彼女は初めて涙を流す――父と兄のために、生き残ったことへの贖いとして。
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