定まれる身の果つるところ~陶義隆、忠義の果てに~

君山洋太朗

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第1章

見上げる背中

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春になると、大内家の館の庭に咲く桜は、見事な花をつけた。山と海に囲まれた周防の国の中心に位置する大内館は、その威容を誇りながらも、季節の優しさを纏っていた。

大内義隆十九歳。その春を迎えた義隆は、館の射場で弓を引いていた。彼の横顔には、元服したばかりの頃の幼さはもはやなく、将来の国主としての確かな風格が宿っていた。射場の地面は、朝露に湿り、足元に広がる影は長く伸びていた。

義隆の横に立つのは、陶興昌。二十一歳になった彼は、すでに大内家の若き柱として、重臣たちからの信頼も厚かった。二人はしばしばこうして朝の射場で稽古を続けていた。家臣たちが目を覚ます前、朝焼けに染まる空の下で。

「行きます」

義隆の声は静かに響いた。彼は深く息を吸い込み、弓を引き絞った。その一瞬、時が止まったかのような緊張が場を支配した。そして彼は息を吐きながら、矢を放った。

矢は風を切って飛び、はるか先の的を射抜いた。

「見事です」

興昌の言葉に、義隆は無言で頷いた。興昌は弓を持つ義隆の脇を通り、的へと向かった。これは彼らの朝の習慣だった。義隆が射る、興昌が矢を回収する。その単純な繰り返しの中に、彼らの絆が表れていた。



縁側の陰で、小さな影が二人の様子を見つめていた。

陶家の次男五郎、五歳。興昌の弟である彼は、兄と主君の姿をじっと見つめていた。小さな手には、木製の子弓が握られていた。弟にとって、兄たちの姿は憧れそのものだった。

「うん…」

五郎は小さく息を吐き、兄の真似をして弓を構えた。しかし、その小さな腕には弓はまだ重く、矢を放つ前から腕が震え始めた。それでも、彼は必死に弓を持ち上げ、弦を引こうとした。

的を狙う。息を整える。矢を放つ―

だが、震える腕は思うように動かず、矢はわずかに飛んで地面に落ちた。

五郎は悔しさで唇を噛んだ。もう一度。今度こそは。彼は再び弓を構えようとした。

「その弓は、まだ五郎には重いぞ」

優しい声に、隆房は驚いて振り返った。

義隆が微笑みながら立っていた。彼は五郎の横に膝をつき、小さな手に自分の手を重ねた。

「こうして、ゆっくりと」

義隆は五郎の手を包みながら、弓を引く形を教えた。その手は温かく、そして強かった。

「義隆様…」

隆房は恐る恐る顔を上げた。目の前の主君は、彼にとって兄と同じくらい眩しい存在だった。

「五郎も、すぐに強くなるぞ」

義隆の声は優しく、しかし、それは五郎には遠く感じられた。まるで自分には届かない高みから語りかけられているような感覚。それは幼心に染み入る、憧れと寂しさが入り混じった複雑な感情だった。

興昌も近づいてきて、弟の頭を撫でた。彼も微笑みながら頷いている。

「そうだ。五郎も私たちのように、いずれは立派な武士になる」

五郎は兄の言葉に力強く頷いたが、内心は複雑だった。二人の立つ場所は陽に照らされており、自分はまだその影の中にいるように感じた。

幼いながらに、五郎は理解していた。義隆と興昌、"家を継ぐ者"たちの背は高く、彼にはまだ届かぬ憧れであり、永遠の遠さでもあった。



その日の午後、五郎は一人で庭の片隅にいた。小さな弓を持って、何度も何度も的を狙っていた。しかし、矢は思うように飛ばず、彼の小さな眉間にはしわが寄っていた。

「五郎様、そろそろお昼の食事の時間です」

乳母が呼びに来たが、隆房は首を振った。

「もう少し」

彼は真剣な表情で的を見つめていた。乳母は彼の熱心さに微笑み、少し離れたところで待っていた。

五郎は再び弓を構えた。兄の姿を思い出しながら。

息を吸い込む。ゆっくりと弦を引く。腕が震える。

「うぅ…」

震える腕を押さえようと必死だった。朝、義隆が教えてくれた通りに、体を動かす。

矢を放つ。

それは的には届かなかったが、朝よりは遠くに飛んだ。五郎は小さく笑った。成長の喜びを感じる瞬間だった。

「五郎、ここにいたのか」

声に振り返ると、興昌が立っていた。

「兄上…」

隆房は恥ずかしそうに弓を下げた。

興昌は弟の前にしゃがみ込み、その小さな肩に手を置いた。

「弓の稽古か。熱心だな」

隆房は少し顔を赤らめながら頷いた。

「兄上や義隆様のように、強くなりたいです」

その言葉に、興昌は優しく微笑んだ。

「そうか。しかし、強さとは何だろうな」

その問いかけに、五郎は首を傾げた。

「強さとは…弓が上手いこと、ですか?」

興昌は首を振った。

「それも一つの強さだ。だが、弓の腕だけが武士の強さではない」

興昌は空を見上げた。桜の花びらが風に揺れていた。

「武士の強さとは、心の強さでもある。己の道を信じ、主君に忠義を尽くし、そして何より―正しきを行う心だ」

五郎は兄の言葉を、まだ完全には理解できなかったが、それでも大切なことを聞いているのだと感じていた。

「私も、兄上のように…」

その言葉を聞いて、興昌は少し寂しそうな表情を見せた。

「いや、五郎は五郎のままでいい。お前だけの強さを見つければよい」

興昌は立ち上がり、弟の手を取った。

「さあ、食事にしよう。明日からまた一緒に稽古をつけてやろう」

五郎は嬉しそうに頷き、兄の大きな手に自分の小さな手を包まれながら館へと戻った。その背中は、隆房にとって最も安心できる、そして最も遠い背中でもあった。



数日後、五郎は再び弓場で練習していた。今度は乳母に内緒で、他の用事をこっそり抜け出してきたのだ。

日が高く昇り、弓場には誰もいなかった。五郎は一人、必死に弓を引いていた。

「もっと高く…」

彼は小さな体に鞭打つようにして、弓を持ち上げた。だが、やはりその重さに腕が震える。

そのとき、弓場の端から話し声が聞こえてきた。五郎は慌てて身を隠した。

「義隆様、このたびの対明貿易の件、ご判断をいただきたく」

老臣の声だった。五郎は木陰から、義隆と老臣たちの姿を見ることができた。

「博多での取引を増やしたいという申し出だが、そこには危うさもある」

義隆は冷静に答えた。彼の表情は若さを残しながらも、厳しい判断を下す主君のものだった。

「対明貿易は大内家の重要な収入源。しかし、我らの力を過信するのは危険だ」

義隆の言葉に、老臣たちは深く頷いた。

「分をわきまえた取引の拡大を進めよう。急がば回れだ」

「さすがは義隆様」

老臣の一人が感心したように言った。

五郎は木陰から、その様子をじっと見つめていた。義隆の姿は、もはや彼が朝に見せる優しい兄のような表情ではなく、次期国主として毅然と立つ姿だった。

彼らが去った後、五郎は再び弓を手に取った。義隆と興昌、二人の背中を思い出しながら。

「私も、いつか…」

彼は小さな唇を噛みしめた。その幼い目には、決意の光が宿っていた。



その夜、五郎は寝床で考え込んでいた。昼間見た義隆の姿と、朝の稽古で見る義隆の姿。同じ人なのに、まるで違うように感じられた。

「寝つけないのか、五郎」

部屋の入口に、興昌の姿があった。彼は弟の布団のそばに座った。

「兄上…」

隆房は起き上がった。

「義隆様は、強いですか」

唐突な質問に、興昌は少し驚いたが、すぐに穏やかな表情になった。

「ああ、強い。だが、それは弓だけではない」

「わかります」

五郎の答えに、今度は興昌が驚いた。

「今日、義隆様が老臣たちとお話しするのを見ました。義隆様は、強いお言葉で皆を導いていました」

興昌は感心したように頷いた。

「そうか。それに気づいたか」

五郎は熱心に続けた。

「私も、いつかそうなりたいです。義隆様のように、兄上のように…」

その言葉に、興昌は弟の頭を優しく撫でた。

「焦ることはない。五郎には五郎の時があるさ」

興昌は窓から見える月を指さした。

「あの月はいつも変わっていく。満ちては欠け、また満ちる。人もそうだ。今は小さくとも、必ず成長する時が来る」

隆房は月を見上げた。それは半月で、まだ満ちていく途中だった。

「兄上、私もいつか大きな月になれますか」

興昌は微笑んだ。

「なれるとも。だが、それには時が必要だ。今は、自分の力を少しずつ蓄えるときだ」

五郎は頷いた。その幼い胸には、未来への希望と、同時に今の自分への苛立ちが混在していた。

興昌は弟の頭を優しくなでてから立ち上がった。

「さあ、寝なさい。明日も朝は早い」

興昌が部屋を出ていくと、五郎は再び寝床に横になった。窓から差し込む月明かりが、彼の小さな顔を照らしていた。

彼は目を閉じる前に、もう一度月を見上げた。

「いつか、私も…」

その言葉は、まだ幼い願いだった。しかし、その胸に宿る思いは、やがて彼を「隆房」へと成長させる種子でもあった。



翌朝、五郎は早くから縁側に座っていた。朝露に濡れた庭を見ながら、義隆と興昌が弓場に現れるのを待っていたのだ。

やがて、二人の姿が見えた。昨日と同じように、静かに弓を構え、矢を放つ。その姿は様式美のようで、見惚れるほど美しかった。

義隆が放った矢が的を射抜く。興昌がそれを取りに行く。

五郎は小さな両手で、自分の弓を握りしめていた。

「五郎殿、そんな所におられましたか」

乳母が彼を見つけた。

「朝食の支度ができております。さあ、参りましょう」

五郎は一度は頷いたものの、最後にもう一度二人の姿を見た。

彼らの立つ場所は朝日に照らされ、長い影を引いていた。五郎は自分がその影の中にいることを感じた。

「行きます」

彼は立ち上がった。今はまだ、兄たちの背中を追うことしかできない。しかし、いつか—

五郎は小さな胸に、大きな決意を抱いて館の中へと戻っていった。彼の幼い心に焼きついた二人の背中は、その後の人生の道標となり、また彼を苦しめる鎖ともなるのだが、それはまだずっと先のことだった。

月は少しずつ満ちていく。彼もまた、少しずつ成長していくのだ。
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