定まれる身の果つるところ~陶義隆、忠義の果てに~

君山洋太朗

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第1章

初陣

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五月、晩春の陽光が安芸の山々を薄緑に染め上げていた。

「義隆様、これより佐東銀山城へ進軍いたします。」

陶興房は鎧の袖口を整えながら、若き主君に声をかけた。16歳になったばかりの大内義隆は、陣羽織を身にまとい、青年と呼べる面持ちだった。それでも、初陣に緊張し、武具の重さに慣れぬ様子が見て取れる。

「父上は本隊と共に何時頃到着されるのか」

義隆の問いに、興房は南西の方角を指さした。

「義興様は昼過ぎには到着される予定です。我らはそれまでに城の東側を攻め、敵の注意をそちらに引きつけるのが役目」

「銀山城は武田氏の重要な拠点と聞いています。おそらく簡単には落ちないでしょう」

興房は若き主の洞察に僅かに目を見開いた。まだ幼いと思っていたが、若殿はすでに戦の現実を理解していた。

「さすがは義隆様、よくご存じです。この城を手に入れれば、周防・長門だけでなく、安芸にも我らが影響力を及ぼせましょう。」

義隆は静かに頷いた。彼の隣には興房の長男・興昌が控えていた。興昌は義隆より数歳年長なだけだが、父親からの厳しい薫陶を受けてきた彼は、既に戦場の空気になじんでいた。

「いざ、参りましょう。」

興房の号令と共に、別働隊が動き出した。



山の斜面を登りながら、義隆は自分の置かれた状況を噛みしめていた。初陣。それは武家の子として、一人前の証である。父・義興は「そちも16となった。もはや子供ではない」と告げ、自ら軍を率いて安芸遠征に伴わせた。

彼は陶興房の背中を見つめた。陶氏は代々、大内家の家臣として仕えてきた重臣である。その武勇と誠実さは広く知られ、父・義興が最も信頼を寄せる家臣の一人であった。

「あの陶殿は、幼き日から父上を支えてきたのだ。」

義隆はそう思いながら、自分の周りを見渡した。この戦もまた、大内家と陶氏の絆の証なのだろう。

隊列の最前部を行く興房は、時折後ろを振り返り、義隆に目を配っていた。いつしか、「急がば回れ」という言葉が興房の口から漏れるのを聞いた。安芸の山道は険しく、一歩間違えば転落する崖もある。主君の安全を第一に考えるのは当然だが、興房のその言葉には、単なる道案内以上の意味が込められているように思えた。

「興房殿、急がば回れとは、今日の戦にも当てはまるのですか。」

義隆の問いに、興房はしばし足を止め、振り返った。

「さようでございます。勝利を急ぐあまり、兵を無駄に失えば、大きな戦の妨げとなる。時に、遠回りに見える道が、実は最も早く目的地に辿り着く道でございます。」

その言葉に、義隆は深く頷いた。初めての戦場に臨む彼の胸には、複雑な思いが渦巻いていた。それは恐怖ではなく、また興奮でもなく、むしろ「責任」という言葉で形容すべきものだった。

「我は大内家の嫡子。この戦もまた、家の名を守るための戦いなのだ。」

山道を進みながら、義隆は自分の立場を噛みしめていた。



佐東銀山城の東門が見えてきたとき、陣中に緊張が走った。

「敵は我らの動きを察知していると見える。」

興房の言葉に従い、隊は三手に分かれた。義隆は中央部隊として、興房と共に後方に控える。右翼を興昌、左翼を別の家臣が率いる形で、挟撃の態勢を整えた。

「義隆様、まずは矢の雨で敵を威嚇し、右翼が突撃いたします。敵が動揺したところで、左翼も続く...」

興房の説明を聞きながら、義隆は戦の組み立てを頭に描いていた。それは書物で読んだ戦術とは異なり、生きた人間の血と汗が混じる現実の戦だった。

「いざ、行け!」

興房の号令とともに、最初の矢が放たれた。遠くから弓を引く音と、城壁に矢が刺さる音が聞こえる。その瞬間、興昌率いる右翼が突撃を開始した。

興昌は息子ながら、既に一人前の武将としての貫禄があった。彼の叫び声は、山肌を震わせるほどの迫力だ。

「大内義隆公のため!」

義隆は思わず身を乗り出した。自分の名が戦場に響き渡る。それは誇りであると同時に、重い責任でもあった。

「あれが、興房殿の息子...」

義隆の視線の先で、興昌が率いる部隊が東門に向かって駆け上がっていく。城からは矢が放たれるが、興昌は防具で身を守りながら、先頭を走っていた。

「息子を先頭に立たせるとは...」

義隆は思わず興房を見た。興房の表情は厳しいままだが、その目には確かに不安の色が宿っていた。

「興房殿、息子を思う気持ちがあるのなら、なぜあのような危険な...」

言いかけた義隆の言葉を、興房は静かに遮った。

「義隆様、これが武の道です。わが子であろうとも、戦においては一武将。彼は大内家のために戦う覚悟を持っております。」

その言葉に、義隆は沈黙した。「家」という存在が、一人一人の命よりも重いものだと知る。それは生まれたときから教えられてきたことだが、この瞬間、その意味を実感した。

---

激しい攻防が続く中、義隆の心は揺れ動いていた。目の前で繰り広げられる戦いは、書物で読んだそれとは全く異なる。血の匂い、叫び声、切りつける音。それらすべてが彼の感覚を刺激した。

「これが、戦なのだ...」

そして、その混沌の中で、興房の姿が際立って見えた。彼は冷静に戦況を見極め、的確な指示を出し続けていた。時に息子・興昌の危機に目を向けながらも、決して個人的な感情に流されることなく、戦全体の流れを把握している。

「あれが、武家の在り方なのだろうか。」

義隆は心の中で問いかけた。父・義興もまた、そうやって大内家を守ってきたのだろうか。

「義隆様、敵が混乱し始めております。このまま攻めれば、東門を突破できる可能性が高い。」

興房の報告に、義隆は頷いた。しかし、その時、一つの疑問が彼の心に浮かんだ。

「興房殿、父上の到着を待たずに城を陥落させても良いのでしょうか。」

興房は一瞬、驚いたような表情を見せたが、すぐに微笑んだ。

「義隆様、さすがでございます。実は、この攻撃は敵の注意を引くためのもの。我らが東門に集中している間に、義興公は北側から攻め入られる予定です。」

「そうだったのですか。」

「はい。しかし、機を見て実際に東門を突破できるなら、それはそれで良い戦果。状況次第で判断いたします。」

興房の言葉に、義隆は深く頷いた。「状況次第で判断する」—それは単純な言葉だが、その背後には幾多の経験と知恵が隠されている。

そして、興房は次の言葉を紡いだ。

「義隆様、戦は常に変化します。計画通りに行くことは稀。その変化に対応できる柔軟さこそが、勝利の鍵かと存じます。」

義隆は興房の言葉を心に刻み込んだ。それは戦だけでなく、政においても同じことが言えるのではないか。大内家の当主として、彼が背負っていくべき道筋が、少しずつ見えてきたように感じた。

---

戦況は刻一刻と変化していた。

「興昌様が負傷されました!」

報告を受けた興房の表情が一瞬曇った。しかし、彼はすぐに平静を取り戻し、次の命令を下した。

「左翼を前進させよ。右翼を支援せよ。」

義隆は興房の決断の速さに驚いた。父の息子を思う気持ちと、武将としての冷静さ。その二つの間で揺れ動く興房の内面を垣間見た気がした。

「興房殿、お子上を心配されるのは当然です。私も—」

「義隆様、このような時こそ感情に流されてはなりません。戦に私情を持ち込めば、多くの命が危険にさらされます。」

興房の言葉は厳しかったが、義隆には、その底にある苦悩が感じられた。これが「家」のために生きる者の覚悟なのだと理解した。

「興房殿、私もいつか父上のように、多くの人の命を預かる立場になる。その時、どうすれば正しく導けるのでしょうか。」

戦場の喧騒の中での問いかけだったが、興房は真剣な表情で答えた。

「義隆様、それは『義』の心を持つことです。目先の利害に惑わされず、何が正しいかを見極める。そして、その義に忠実であること。」

「義に忠実...」

義隆はその言葉を反芻した。単純な言葉だが、その実践は容易でないだろう。

「はい。時に、その義は苦渋の決断を迫ることもあります。しかし、大内家の当主として、その覚悟も必要となりましょう。」

興房のその言葉が、後に大きな意味を持つとは、この時の義隆には想像もつかなかった。

---

昼過ぎ、予定通り大内義興率いる本隊が北側から攻め入った。東と北の二方向からの攻撃に、武田氏の守備陣は混乱し始めた。

義隆は父の指揮する本隊の動きを遠目に見ながら、深く考え込んでいた。父・義興の作戦は、まさに興房が言っていた通りの「急がば回れ」の実践だった。東門での陶軍の攻撃は、敵の注意をそちらに引きつけるための陽動。その間に本隊が北から攻め入り、城の中枢を襲う。

「見事な采配だ...」

義隆は父の戦略に感嘆しながらも、東門で戦う陶軍の犠牲にも思いを馳せた。興昌の負傷もその一つ。彼らの命があってこそ、この戦略は成り立つのだ。

しばらくして、城内から白旗が上がった。

「降伏のようです、義隆様。」

興房の表情に、僅かな安堵の色が見えた。

「怪我人はどうなりましたか。」

「興昌は肩に矢を受けましたが、命に別状はありません。他の兵も、重傷者は数名のみ。」

義隆は胸をなでおろした。しかし、同時に戦の現実も突きつけられた。「数名のみ」とは言え、それは確かに命を落とした者がいるということだ。

「太刀や鎧は、御作法として鍛えておくべきもの。そう思っていました。しかし、その先には...」

義隆の言葉に、興房は静かに頷いた。

「はい。武は人を殺めるためのもの。しかし、大内家のような大きな家は、その武を持って初めて多くの民を守ることができるのです。」

「民を...守る。」

「さようでございます。今回の銀山城の攻略も、単なる利益のためではなく、この地域の安定のため。それが、大きな家が背負うべき責任なのです。」

義隆は深く頷いた。家を継ぐということは、単に家名を守るだけではない。その力をもって、より大きな世界で責任を果たすということなのだ。

---

夕暮れ時、大内義興は銀山城内で息子・義隆との再会を果たした。

「よくやった、義隆。初陣としては上出来だ。」

父の声に、義隆は深く頭を下げた。

「父上、これはすべて興房殿の采配のおかげです。私はただ...」

「違う。」

義興は息子の言葉を遮った。

「お前が前線にいたことで、兵たちは大内家の名のもとに戦うことができた。それは大きな意味を持つ。」

義隆は父の言葉に驚きを隠せなかった。

「しかし、私は何もしていません。」

「武家の嫡子として前線に立つことは、既に多くを語っている。お前はこれから多くの経験を積み、いずれ大内家を率いる器となるだろう。」

義隆は黙って父の言葉を聞いた。今日の経験は、確かに彼の心に大きな変化をもたらした。戦場の現実、命の重さ、そして「家」という存在が持つ意味。

「父上、今日の戦で、私は多くのことを学びました。特に興房殿から...」

「ああ、陶一族は代々大内家に仕えてきた。彼らの忠義は疑いようがない。」

義興の言葉に、義隆は頷いた。しかし、同時に彼の心の中には、今日見た興房の姿が強く残っていた。息子を戦場に送り出し、その負傷を知りながらも、冷静に全体を見据える姿。それは「義」と「忠」の間で揺れ動く、人間の複雑さを示していた。

夜が更けていくなか、義隆は窓辺に立ち、星空を見上げた。今日の初陣は、彼にとって単なる戦の経験ではなく、「政」という大きな世界への第一歩だった。

「家を継ぐとは、このようなことか...」

彼の心の中に、新たな覚悟が芽生え始めていた。それは少年から青年への変化であり、家の当主としての責任への目覚めでもあった。

「父上のように、興房殿のように、私も大内家を守り、民を導かねばならない。」

義隆の眼差しは既に、遠い未来の「政」を見つめていた。しかし、彼はまだ知らない。この決意が、十数年後、彼自身と陶一族の運命を大きく変えることになるとは。

義に忠実であれ—その言葉が、やがて両刃の剣となり、大内家と陶家の絆を引き裂くことになるとは。

戦は終わったが、より大きな戦いは、まだ始まってもいなかった。
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