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第1章
初陣
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五月、晩春の陽光が安芸の山々を薄緑に染め上げていた。
「義隆様、これより佐東銀山城へ進軍いたします。」
陶興房は鎧の袖口を整えながら、若き主君に声をかけた。16歳になったばかりの大内義隆は、陣羽織を身にまとい、青年と呼べる面持ちだった。それでも、初陣に緊張し、武具の重さに慣れぬ様子が見て取れる。
「父上は本隊と共に何時頃到着されるのか」
義隆の問いに、興房は南西の方角を指さした。
「義興様は昼過ぎには到着される予定です。我らはそれまでに城の東側を攻め、敵の注意をそちらに引きつけるのが役目」
「銀山城は武田氏の重要な拠点と聞いています。おそらく簡単には落ちないでしょう」
興房は若き主の洞察に僅かに目を見開いた。まだ幼いと思っていたが、若殿はすでに戦の現実を理解していた。
「さすがは義隆様、よくご存じです。この城を手に入れれば、周防・長門だけでなく、安芸にも我らが影響力を及ぼせましょう。」
義隆は静かに頷いた。彼の隣には興房の長男・興昌が控えていた。興昌は義隆より数歳年長なだけだが、父親からの厳しい薫陶を受けてきた彼は、既に戦場の空気になじんでいた。
「いざ、参りましょう。」
興房の号令と共に、別働隊が動き出した。
◇
山の斜面を登りながら、義隆は自分の置かれた状況を噛みしめていた。初陣。それは武家の子として、一人前の証である。父・義興は「そちも16となった。もはや子供ではない」と告げ、自ら軍を率いて安芸遠征に伴わせた。
彼は陶興房の背中を見つめた。陶氏は代々、大内家の家臣として仕えてきた重臣である。その武勇と誠実さは広く知られ、父・義興が最も信頼を寄せる家臣の一人であった。
「あの陶殿は、幼き日から父上を支えてきたのだ。」
義隆はそう思いながら、自分の周りを見渡した。この戦もまた、大内家と陶氏の絆の証なのだろう。
隊列の最前部を行く興房は、時折後ろを振り返り、義隆に目を配っていた。いつしか、「急がば回れ」という言葉が興房の口から漏れるのを聞いた。安芸の山道は険しく、一歩間違えば転落する崖もある。主君の安全を第一に考えるのは当然だが、興房のその言葉には、単なる道案内以上の意味が込められているように思えた。
「興房殿、急がば回れとは、今日の戦にも当てはまるのですか。」
義隆の問いに、興房はしばし足を止め、振り返った。
「さようでございます。勝利を急ぐあまり、兵を無駄に失えば、大きな戦の妨げとなる。時に、遠回りに見える道が、実は最も早く目的地に辿り着く道でございます。」
その言葉に、義隆は深く頷いた。初めての戦場に臨む彼の胸には、複雑な思いが渦巻いていた。それは恐怖ではなく、また興奮でもなく、むしろ「責任」という言葉で形容すべきものだった。
「我は大内家の嫡子。この戦もまた、家の名を守るための戦いなのだ。」
山道を進みながら、義隆は自分の立場を噛みしめていた。
◇
佐東銀山城の東門が見えてきたとき、陣中に緊張が走った。
「敵は我らの動きを察知していると見える。」
興房の言葉に従い、隊は三手に分かれた。義隆は中央部隊として、興房と共に後方に控える。右翼を興昌、左翼を別の家臣が率いる形で、挟撃の態勢を整えた。
「義隆様、まずは矢の雨で敵を威嚇し、右翼が突撃いたします。敵が動揺したところで、左翼も続く...」
興房の説明を聞きながら、義隆は戦の組み立てを頭に描いていた。それは書物で読んだ戦術とは異なり、生きた人間の血と汗が混じる現実の戦だった。
「いざ、行け!」
興房の号令とともに、最初の矢が放たれた。遠くから弓を引く音と、城壁に矢が刺さる音が聞こえる。その瞬間、興昌率いる右翼が突撃を開始した。
興昌は息子ながら、既に一人前の武将としての貫禄があった。彼の叫び声は、山肌を震わせるほどの迫力だ。
「大内義隆公のため!」
義隆は思わず身を乗り出した。自分の名が戦場に響き渡る。それは誇りであると同時に、重い責任でもあった。
「あれが、興房殿の息子...」
義隆の視線の先で、興昌が率いる部隊が東門に向かって駆け上がっていく。城からは矢が放たれるが、興昌は防具で身を守りながら、先頭を走っていた。
「息子を先頭に立たせるとは...」
義隆は思わず興房を見た。興房の表情は厳しいままだが、その目には確かに不安の色が宿っていた。
「興房殿、息子を思う気持ちがあるのなら、なぜあのような危険な...」
言いかけた義隆の言葉を、興房は静かに遮った。
「義隆様、これが武の道です。わが子であろうとも、戦においては一武将。彼は大内家のために戦う覚悟を持っております。」
その言葉に、義隆は沈黙した。「家」という存在が、一人一人の命よりも重いものだと知る。それは生まれたときから教えられてきたことだが、この瞬間、その意味を実感した。
---
激しい攻防が続く中、義隆の心は揺れ動いていた。目の前で繰り広げられる戦いは、書物で読んだそれとは全く異なる。血の匂い、叫び声、切りつける音。それらすべてが彼の感覚を刺激した。
「これが、戦なのだ...」
そして、その混沌の中で、興房の姿が際立って見えた。彼は冷静に戦況を見極め、的確な指示を出し続けていた。時に息子・興昌の危機に目を向けながらも、決して個人的な感情に流されることなく、戦全体の流れを把握している。
「あれが、武家の在り方なのだろうか。」
義隆は心の中で問いかけた。父・義興もまた、そうやって大内家を守ってきたのだろうか。
「義隆様、敵が混乱し始めております。このまま攻めれば、東門を突破できる可能性が高い。」
興房の報告に、義隆は頷いた。しかし、その時、一つの疑問が彼の心に浮かんだ。
「興房殿、父上の到着を待たずに城を陥落させても良いのでしょうか。」
興房は一瞬、驚いたような表情を見せたが、すぐに微笑んだ。
「義隆様、さすがでございます。実は、この攻撃は敵の注意を引くためのもの。我らが東門に集中している間に、義興公は北側から攻め入られる予定です。」
「そうだったのですか。」
「はい。しかし、機を見て実際に東門を突破できるなら、それはそれで良い戦果。状況次第で判断いたします。」
興房の言葉に、義隆は深く頷いた。「状況次第で判断する」—それは単純な言葉だが、その背後には幾多の経験と知恵が隠されている。
そして、興房は次の言葉を紡いだ。
「義隆様、戦は常に変化します。計画通りに行くことは稀。その変化に対応できる柔軟さこそが、勝利の鍵かと存じます。」
義隆は興房の言葉を心に刻み込んだ。それは戦だけでなく、政においても同じことが言えるのではないか。大内家の当主として、彼が背負っていくべき道筋が、少しずつ見えてきたように感じた。
---
戦況は刻一刻と変化していた。
「興昌様が負傷されました!」
報告を受けた興房の表情が一瞬曇った。しかし、彼はすぐに平静を取り戻し、次の命令を下した。
「左翼を前進させよ。右翼を支援せよ。」
義隆は興房の決断の速さに驚いた。父の息子を思う気持ちと、武将としての冷静さ。その二つの間で揺れ動く興房の内面を垣間見た気がした。
「興房殿、お子上を心配されるのは当然です。私も—」
「義隆様、このような時こそ感情に流されてはなりません。戦に私情を持ち込めば、多くの命が危険にさらされます。」
興房の言葉は厳しかったが、義隆には、その底にある苦悩が感じられた。これが「家」のために生きる者の覚悟なのだと理解した。
「興房殿、私もいつか父上のように、多くの人の命を預かる立場になる。その時、どうすれば正しく導けるのでしょうか。」
戦場の喧騒の中での問いかけだったが、興房は真剣な表情で答えた。
「義隆様、それは『義』の心を持つことです。目先の利害に惑わされず、何が正しいかを見極める。そして、その義に忠実であること。」
「義に忠実...」
義隆はその言葉を反芻した。単純な言葉だが、その実践は容易でないだろう。
「はい。時に、その義は苦渋の決断を迫ることもあります。しかし、大内家の当主として、その覚悟も必要となりましょう。」
興房のその言葉が、後に大きな意味を持つとは、この時の義隆には想像もつかなかった。
---
昼過ぎ、予定通り大内義興率いる本隊が北側から攻め入った。東と北の二方向からの攻撃に、武田氏の守備陣は混乱し始めた。
義隆は父の指揮する本隊の動きを遠目に見ながら、深く考え込んでいた。父・義興の作戦は、まさに興房が言っていた通りの「急がば回れ」の実践だった。東門での陶軍の攻撃は、敵の注意をそちらに引きつけるための陽動。その間に本隊が北から攻め入り、城の中枢を襲う。
「見事な采配だ...」
義隆は父の戦略に感嘆しながらも、東門で戦う陶軍の犠牲にも思いを馳せた。興昌の負傷もその一つ。彼らの命があってこそ、この戦略は成り立つのだ。
しばらくして、城内から白旗が上がった。
「降伏のようです、義隆様。」
興房の表情に、僅かな安堵の色が見えた。
「怪我人はどうなりましたか。」
「興昌は肩に矢を受けましたが、命に別状はありません。他の兵も、重傷者は数名のみ。」
義隆は胸をなでおろした。しかし、同時に戦の現実も突きつけられた。「数名のみ」とは言え、それは確かに命を落とした者がいるということだ。
「太刀や鎧は、御作法として鍛えておくべきもの。そう思っていました。しかし、その先には...」
義隆の言葉に、興房は静かに頷いた。
「はい。武は人を殺めるためのもの。しかし、大内家のような大きな家は、その武を持って初めて多くの民を守ることができるのです。」
「民を...守る。」
「さようでございます。今回の銀山城の攻略も、単なる利益のためではなく、この地域の安定のため。それが、大きな家が背負うべき責任なのです。」
義隆は深く頷いた。家を継ぐということは、単に家名を守るだけではない。その力をもって、より大きな世界で責任を果たすということなのだ。
---
夕暮れ時、大内義興は銀山城内で息子・義隆との再会を果たした。
「よくやった、義隆。初陣としては上出来だ。」
父の声に、義隆は深く頭を下げた。
「父上、これはすべて興房殿の采配のおかげです。私はただ...」
「違う。」
義興は息子の言葉を遮った。
「お前が前線にいたことで、兵たちは大内家の名のもとに戦うことができた。それは大きな意味を持つ。」
義隆は父の言葉に驚きを隠せなかった。
「しかし、私は何もしていません。」
「武家の嫡子として前線に立つことは、既に多くを語っている。お前はこれから多くの経験を積み、いずれ大内家を率いる器となるだろう。」
義隆は黙って父の言葉を聞いた。今日の経験は、確かに彼の心に大きな変化をもたらした。戦場の現実、命の重さ、そして「家」という存在が持つ意味。
「父上、今日の戦で、私は多くのことを学びました。特に興房殿から...」
「ああ、陶一族は代々大内家に仕えてきた。彼らの忠義は疑いようがない。」
義興の言葉に、義隆は頷いた。しかし、同時に彼の心の中には、今日見た興房の姿が強く残っていた。息子を戦場に送り出し、その負傷を知りながらも、冷静に全体を見据える姿。それは「義」と「忠」の間で揺れ動く、人間の複雑さを示していた。
夜が更けていくなか、義隆は窓辺に立ち、星空を見上げた。今日の初陣は、彼にとって単なる戦の経験ではなく、「政」という大きな世界への第一歩だった。
「家を継ぐとは、このようなことか...」
彼の心の中に、新たな覚悟が芽生え始めていた。それは少年から青年への変化であり、家の当主としての責任への目覚めでもあった。
「父上のように、興房殿のように、私も大内家を守り、民を導かねばならない。」
義隆の眼差しは既に、遠い未来の「政」を見つめていた。しかし、彼はまだ知らない。この決意が、十数年後、彼自身と陶一族の運命を大きく変えることになるとは。
義に忠実であれ—その言葉が、やがて両刃の剣となり、大内家と陶家の絆を引き裂くことになるとは。
戦は終わったが、より大きな戦いは、まだ始まってもいなかった。
「義隆様、これより佐東銀山城へ進軍いたします。」
陶興房は鎧の袖口を整えながら、若き主君に声をかけた。16歳になったばかりの大内義隆は、陣羽織を身にまとい、青年と呼べる面持ちだった。それでも、初陣に緊張し、武具の重さに慣れぬ様子が見て取れる。
「父上は本隊と共に何時頃到着されるのか」
義隆の問いに、興房は南西の方角を指さした。
「義興様は昼過ぎには到着される予定です。我らはそれまでに城の東側を攻め、敵の注意をそちらに引きつけるのが役目」
「銀山城は武田氏の重要な拠点と聞いています。おそらく簡単には落ちないでしょう」
興房は若き主の洞察に僅かに目を見開いた。まだ幼いと思っていたが、若殿はすでに戦の現実を理解していた。
「さすがは義隆様、よくご存じです。この城を手に入れれば、周防・長門だけでなく、安芸にも我らが影響力を及ぼせましょう。」
義隆は静かに頷いた。彼の隣には興房の長男・興昌が控えていた。興昌は義隆より数歳年長なだけだが、父親からの厳しい薫陶を受けてきた彼は、既に戦場の空気になじんでいた。
「いざ、参りましょう。」
興房の号令と共に、別働隊が動き出した。
◇
山の斜面を登りながら、義隆は自分の置かれた状況を噛みしめていた。初陣。それは武家の子として、一人前の証である。父・義興は「そちも16となった。もはや子供ではない」と告げ、自ら軍を率いて安芸遠征に伴わせた。
彼は陶興房の背中を見つめた。陶氏は代々、大内家の家臣として仕えてきた重臣である。その武勇と誠実さは広く知られ、父・義興が最も信頼を寄せる家臣の一人であった。
「あの陶殿は、幼き日から父上を支えてきたのだ。」
義隆はそう思いながら、自分の周りを見渡した。この戦もまた、大内家と陶氏の絆の証なのだろう。
隊列の最前部を行く興房は、時折後ろを振り返り、義隆に目を配っていた。いつしか、「急がば回れ」という言葉が興房の口から漏れるのを聞いた。安芸の山道は険しく、一歩間違えば転落する崖もある。主君の安全を第一に考えるのは当然だが、興房のその言葉には、単なる道案内以上の意味が込められているように思えた。
「興房殿、急がば回れとは、今日の戦にも当てはまるのですか。」
義隆の問いに、興房はしばし足を止め、振り返った。
「さようでございます。勝利を急ぐあまり、兵を無駄に失えば、大きな戦の妨げとなる。時に、遠回りに見える道が、実は最も早く目的地に辿り着く道でございます。」
その言葉に、義隆は深く頷いた。初めての戦場に臨む彼の胸には、複雑な思いが渦巻いていた。それは恐怖ではなく、また興奮でもなく、むしろ「責任」という言葉で形容すべきものだった。
「我は大内家の嫡子。この戦もまた、家の名を守るための戦いなのだ。」
山道を進みながら、義隆は自分の立場を噛みしめていた。
◇
佐東銀山城の東門が見えてきたとき、陣中に緊張が走った。
「敵は我らの動きを察知していると見える。」
興房の言葉に従い、隊は三手に分かれた。義隆は中央部隊として、興房と共に後方に控える。右翼を興昌、左翼を別の家臣が率いる形で、挟撃の態勢を整えた。
「義隆様、まずは矢の雨で敵を威嚇し、右翼が突撃いたします。敵が動揺したところで、左翼も続く...」
興房の説明を聞きながら、義隆は戦の組み立てを頭に描いていた。それは書物で読んだ戦術とは異なり、生きた人間の血と汗が混じる現実の戦だった。
「いざ、行け!」
興房の号令とともに、最初の矢が放たれた。遠くから弓を引く音と、城壁に矢が刺さる音が聞こえる。その瞬間、興昌率いる右翼が突撃を開始した。
興昌は息子ながら、既に一人前の武将としての貫禄があった。彼の叫び声は、山肌を震わせるほどの迫力だ。
「大内義隆公のため!」
義隆は思わず身を乗り出した。自分の名が戦場に響き渡る。それは誇りであると同時に、重い責任でもあった。
「あれが、興房殿の息子...」
義隆の視線の先で、興昌が率いる部隊が東門に向かって駆け上がっていく。城からは矢が放たれるが、興昌は防具で身を守りながら、先頭を走っていた。
「息子を先頭に立たせるとは...」
義隆は思わず興房を見た。興房の表情は厳しいままだが、その目には確かに不安の色が宿っていた。
「興房殿、息子を思う気持ちがあるのなら、なぜあのような危険な...」
言いかけた義隆の言葉を、興房は静かに遮った。
「義隆様、これが武の道です。わが子であろうとも、戦においては一武将。彼は大内家のために戦う覚悟を持っております。」
その言葉に、義隆は沈黙した。「家」という存在が、一人一人の命よりも重いものだと知る。それは生まれたときから教えられてきたことだが、この瞬間、その意味を実感した。
---
激しい攻防が続く中、義隆の心は揺れ動いていた。目の前で繰り広げられる戦いは、書物で読んだそれとは全く異なる。血の匂い、叫び声、切りつける音。それらすべてが彼の感覚を刺激した。
「これが、戦なのだ...」
そして、その混沌の中で、興房の姿が際立って見えた。彼は冷静に戦況を見極め、的確な指示を出し続けていた。時に息子・興昌の危機に目を向けながらも、決して個人的な感情に流されることなく、戦全体の流れを把握している。
「あれが、武家の在り方なのだろうか。」
義隆は心の中で問いかけた。父・義興もまた、そうやって大内家を守ってきたのだろうか。
「義隆様、敵が混乱し始めております。このまま攻めれば、東門を突破できる可能性が高い。」
興房の報告に、義隆は頷いた。しかし、その時、一つの疑問が彼の心に浮かんだ。
「興房殿、父上の到着を待たずに城を陥落させても良いのでしょうか。」
興房は一瞬、驚いたような表情を見せたが、すぐに微笑んだ。
「義隆様、さすがでございます。実は、この攻撃は敵の注意を引くためのもの。我らが東門に集中している間に、義興公は北側から攻め入られる予定です。」
「そうだったのですか。」
「はい。しかし、機を見て実際に東門を突破できるなら、それはそれで良い戦果。状況次第で判断いたします。」
興房の言葉に、義隆は深く頷いた。「状況次第で判断する」—それは単純な言葉だが、その背後には幾多の経験と知恵が隠されている。
そして、興房は次の言葉を紡いだ。
「義隆様、戦は常に変化します。計画通りに行くことは稀。その変化に対応できる柔軟さこそが、勝利の鍵かと存じます。」
義隆は興房の言葉を心に刻み込んだ。それは戦だけでなく、政においても同じことが言えるのではないか。大内家の当主として、彼が背負っていくべき道筋が、少しずつ見えてきたように感じた。
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戦況は刻一刻と変化していた。
「興昌様が負傷されました!」
報告を受けた興房の表情が一瞬曇った。しかし、彼はすぐに平静を取り戻し、次の命令を下した。
「左翼を前進させよ。右翼を支援せよ。」
義隆は興房の決断の速さに驚いた。父の息子を思う気持ちと、武将としての冷静さ。その二つの間で揺れ動く興房の内面を垣間見た気がした。
「興房殿、お子上を心配されるのは当然です。私も—」
「義隆様、このような時こそ感情に流されてはなりません。戦に私情を持ち込めば、多くの命が危険にさらされます。」
興房の言葉は厳しかったが、義隆には、その底にある苦悩が感じられた。これが「家」のために生きる者の覚悟なのだと理解した。
「興房殿、私もいつか父上のように、多くの人の命を預かる立場になる。その時、どうすれば正しく導けるのでしょうか。」
戦場の喧騒の中での問いかけだったが、興房は真剣な表情で答えた。
「義隆様、それは『義』の心を持つことです。目先の利害に惑わされず、何が正しいかを見極める。そして、その義に忠実であること。」
「義に忠実...」
義隆はその言葉を反芻した。単純な言葉だが、その実践は容易でないだろう。
「はい。時に、その義は苦渋の決断を迫ることもあります。しかし、大内家の当主として、その覚悟も必要となりましょう。」
興房のその言葉が、後に大きな意味を持つとは、この時の義隆には想像もつかなかった。
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昼過ぎ、予定通り大内義興率いる本隊が北側から攻め入った。東と北の二方向からの攻撃に、武田氏の守備陣は混乱し始めた。
義隆は父の指揮する本隊の動きを遠目に見ながら、深く考え込んでいた。父・義興の作戦は、まさに興房が言っていた通りの「急がば回れ」の実践だった。東門での陶軍の攻撃は、敵の注意をそちらに引きつけるための陽動。その間に本隊が北から攻め入り、城の中枢を襲う。
「見事な采配だ...」
義隆は父の戦略に感嘆しながらも、東門で戦う陶軍の犠牲にも思いを馳せた。興昌の負傷もその一つ。彼らの命があってこそ、この戦略は成り立つのだ。
しばらくして、城内から白旗が上がった。
「降伏のようです、義隆様。」
興房の表情に、僅かな安堵の色が見えた。
「怪我人はどうなりましたか。」
「興昌は肩に矢を受けましたが、命に別状はありません。他の兵も、重傷者は数名のみ。」
義隆は胸をなでおろした。しかし、同時に戦の現実も突きつけられた。「数名のみ」とは言え、それは確かに命を落とした者がいるということだ。
「太刀や鎧は、御作法として鍛えておくべきもの。そう思っていました。しかし、その先には...」
義隆の言葉に、興房は静かに頷いた。
「はい。武は人を殺めるためのもの。しかし、大内家のような大きな家は、その武を持って初めて多くの民を守ることができるのです。」
「民を...守る。」
「さようでございます。今回の銀山城の攻略も、単なる利益のためではなく、この地域の安定のため。それが、大きな家が背負うべき責任なのです。」
義隆は深く頷いた。家を継ぐということは、単に家名を守るだけではない。その力をもって、より大きな世界で責任を果たすということなのだ。
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夕暮れ時、大内義興は銀山城内で息子・義隆との再会を果たした。
「よくやった、義隆。初陣としては上出来だ。」
父の声に、義隆は深く頭を下げた。
「父上、これはすべて興房殿の采配のおかげです。私はただ...」
「違う。」
義興は息子の言葉を遮った。
「お前が前線にいたことで、兵たちは大内家の名のもとに戦うことができた。それは大きな意味を持つ。」
義隆は父の言葉に驚きを隠せなかった。
「しかし、私は何もしていません。」
「武家の嫡子として前線に立つことは、既に多くを語っている。お前はこれから多くの経験を積み、いずれ大内家を率いる器となるだろう。」
義隆は黙って父の言葉を聞いた。今日の経験は、確かに彼の心に大きな変化をもたらした。戦場の現実、命の重さ、そして「家」という存在が持つ意味。
「父上、今日の戦で、私は多くのことを学びました。特に興房殿から...」
「ああ、陶一族は代々大内家に仕えてきた。彼らの忠義は疑いようがない。」
義興の言葉に、義隆は頷いた。しかし、同時に彼の心の中には、今日見た興房の姿が強く残っていた。息子を戦場に送り出し、その負傷を知りながらも、冷静に全体を見据える姿。それは「義」と「忠」の間で揺れ動く、人間の複雑さを示していた。
夜が更けていくなか、義隆は窓辺に立ち、星空を見上げた。今日の初陣は、彼にとって単なる戦の経験ではなく、「政」という大きな世界への第一歩だった。
「家を継ぐとは、このようなことか...」
彼の心の中に、新たな覚悟が芽生え始めていた。それは少年から青年への変化であり、家の当主としての責任への目覚めでもあった。
「父上のように、興房殿のように、私も大内家を守り、民を導かねばならない。」
義隆の眼差しは既に、遠い未来の「政」を見つめていた。しかし、彼はまだ知らない。この決意が、十数年後、彼自身と陶一族の運命を大きく変えることになるとは。
義に忠実であれ—その言葉が、やがて両刃の剣となり、大内家と陶家の絆を引き裂くことになるとは。
戦は終わったが、より大きな戦いは、まだ始まってもいなかった。
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さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。
「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。
今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。
この風習は広く日本で行われている。
「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。
「たそかれ」という言葉は『万葉集』に
誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」
— 『万葉集』第10巻2240番
と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。
「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に
「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」
— 『源氏物語』「夕顔」光源氏
と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。
なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。
またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。
漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。
「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。
この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。
それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。
読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。
作家 蔵屋日唱
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