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第1章
元服
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山間を吹き抜ける風が、大内家の館に掲げられた幟を激しく揺らしていた。春の訪れを告げる風だった。館の中央にある広間では、大内家の当主・興義をはじめとする重臣たちが厳かな面持ちで並び、ひとりの少年の元服の儀を執り行っていた。
亀童丸、大内家の跡取りとして十五年の歳月を過ごしてきた少年は、その日、将軍・足利義稙から偏諱を受けて「義隆」という名を得ようとしていた。金襴の直衣に身を包み、堂々とした佇まいで座していた亀童丸の顔には、まだ幼さの残る面影があったが、その眼差しには、すでに一国の主となる覚悟を持った青年の気配が漂っていた。
「これより、大内亀童丸殿、元服の儀を執り行う」
儀式の進行役である長老格の家臣が声高に宣言すると、広間に集まった者たちの緊張が一際高まった。
広間の一角に控えていた陶興昌は、儀式の一部始終を見守っていた。興昌はすでに元服を済ませており、立派な青年武士の姿をしていた。陶家の長男として、幼い頃から亀童丸と親しく交わってきた彼は、この日を心待ちにしていた。
亀童丸は静かに当主・興義の前に跪き、深々と頭を下げた。その背中は凛として、まるで生まれながらにして武家の後継者としての使命を背負っているかのようだった。興昌の目には、幼い頃からの友であった「亀童丸」の姿が、一国の将来を担う「義隆」として映った。
儀式は滞りなく進み、烏帽子親を務める家臣の手によって亀童丸の髪が結い上げられ、烏帽子が授けられた。そして、祝詞が述べられ、ついに「大内義隆」の名が正式に宣言された。広間に集まった家臣たちからは、祝いの声が上がった。
儀式の後、宴が催された。酒が注がれ、祝いの言葉が交わされる中、興昌は新たに「義隆」となった主君の姿を遠くから見つめていた。彼の視線が義隆と交差したとき、義隆は微かに頷いて、広間の隅にある小間へと姿を消した。それは二人だけの秘密の合図だった。
興昌は控えめに席を立ち、義隆の後を追った。
◇
障子を開けると、義隆はすでに小間の中央に座っていた。窓からは庭の梅の花が見え、春の日差しが部屋を優しく照らしていた。
「興昌、来てくれたか」
義隆の声には、いつもの少年らしい明るさがあった。しかし、その姿は烏帽子を戴き、大人の装いをした大内家の跡取りのものだった。
興昌は畳に正座し、深々と頭を下げた。
「義隆様、元服の儀、誠におめでとうございます」
彼の声は誠実で、心からの敬意に満ちていた。
義隆は少し困ったような表情を浮かべ、「そうか…これからはそうなるのだな」と呟いた。
「幼き頃より、亀童丸様とお呼びしてまいりましたが、今日よりは義隆様。家臣としての礼を尽くさせていただきます」
義隆はしばらく沈黙し、窓の外に視線を向けた。梅の花が風に揺れ、その香りが部屋に満ちていた。
「興昌、覚えているか。あの夏の日のことを」
義隆の声には懐かしさが混じっていた。興昌も記憶を手繰り寄せた。
「はい。三年前の夏、御館の裏手の小川で蛍を追いかけた日のことでしょうか」
義隆は微笑んだ。「あの日、そちは私に『亀童丸』と呼んでくれたな。」
興昌は顔を赤らめた。確かにその日、興奮のあまり礼を失していた。大内家の当主の息子を「亀童丸」と呼び捨てにしてしまったのだ。
「申し訳ありませんでした。若気の至りでございました」
義隆は首を振った。
「いや、あれが嬉しかったんだ。そちを友と思えた瞬間だった」
彼の声には、少年の頃の純真さがあった。興昌はその言葉に胸を打たれた。
「しかし、今日からは違う」
義隆の声が引き締まった。
「私は大内家の当主となる者として、家臣たちを導く立場になる。そしてそちは…」
「私は、命に代えても義隆様をお守りする陶家の者。主君と家臣の関係です」
興昌は毅然と答えた。
義隆はゆっくりと頷いた。その表情には寂しさと誇りが混在していた。
「寂しいものだな、大人になるというのは」
義隆の呟きは、風に揺れる梅の花のように儚かった。
「しかし、私たちはそれぞれの道を行く。大内家の当主として、また陶家の長男として」
興昌は真っ直ぐに義隆を見つめた。
「義隆様、どうか覚えておいてください。私の忠誠は、大内家に、そして義隆様にあることを」
彼の言葉は誓いのように重く、それでいて真実味に満ちていた。
義隆は静かに微笑んだ。
「ありがとう、興昌。私も忘れない。そちが初めて私を『亀童丸』と呼んだあの日のことを」
二人の間に静かな理解が流れた。それは少年時代の終わりを告げるとともに、新たな絆の始まりを示すものだった。
◇
宴もたけなわとなった頃、興昌は広間の端で、一人静かに杯を傾けていた。周りでは家臣たちが義隆の元服を祝い、賑やかに談笑していたが、興昌の心は少し離れたところにあった。
「興昌殿、随分と物思いに耽っておられるな」
声をかけられて顔を上げると、そこには陶家の家老・陶弘詮の姿があった。弘詮は興昌の伯父にあたる人物で、陶家を支える柱の一人だった。
「弘詮叔父上...義隆様の元服を目の当たりにして、身の引き締まる思いです」
弘詮は静かに頷き、興昌の隣に座った。
「お前もすでに元服し、一人前の武士となった。これからは義隆様を支える大きな柱となるのだぞ」
「はい、心得ております」
興昌は真摯に応えたが、その表情には何か迷いのようなものがあった。弘詮はそれを見逃さなかった。
「何か心配事でもあるのか」
興昌は少しためらってから口を開いた。
「義隆様は…本当に大内家を背負うことができるでしょうか」
その言葉は、主君への疑念を含むものだった。弘詮は周囲を警戒するように視線を巡らせ、声を落とした。
「そのような言葉、他の者に聞かれてはならぬ」
「申し訳ありません。ただ…」
興昌は言葉を選びながら続けた。
「義隆様は優しすぎるのではないかと危惧しております。この乱世、時に厳しさも必要かと」
弘詮は深く息を吐いた。
「それこそが、お前のような忠臣の役目だ。主君の足りぬところを補い、時に諌める。それが家臣の務めだ」
興昌はじっと伯父の言葉に耳を傾けた。
「義隆様ご自身も、成長される途上。お前とて、まだ若い。共に大内家を守り立てていくのだ」
弘詮の言葉には重みがあった。興昌は静かに頷き、改めて自らの役割を胸に刻んだ。
「叔父上、私はどのような武士になるべきでしょうか」
その問いに、弘詮は意外な言葉を返した。
「お前自身の心に問うてみよ。武士とは何か、忠義とは何か」
興昌は眉を寄せた。「心に問う…」
「そうだ。他人の言葉ではなく、己の内なる声に耳を傾けるのだ」
弘詮はそう言うと立ち上がり、他の家臣たちの輪に戻っていった。
興昌は一人残され、杯を見つめた。杯の中の酒は、まるで彼の心のように揺れていた。
◇
夜も更けた頃、興昌は館の裏手にある小さな神社に足を運んだ。ここは彼が幼い頃から、心を静めるために訪れていた場所だった。
境内は静寂に包まれ、月明かりだけが参道を照らしていた。彼は拝殿の前に跪き、深く頭を下げた。
「大内家の繁栄と、義隆様の安泰をお守りください」
彼の祈りは純粋で、何の偽りもなかった。
「興昌」
背後から声がして振り返ると、そこには義隆の姿があった。烏帽子を脱ぎ、普段着に着替えた彼は、まるで元服前の亀童丸に戻ったかのようだった。
「義隆様、こんな夜更けに」
興昌は慌てて立ち上がった。
「そちを見かけたから、後をついてきた」
義隆は笑った。その笑顔は、今日一日の緊張から解放されたかのように明るかった。
「何を祈っていたんだ」
「義隆様の安寧と、大内家の繁栄を」
興昌は正直に答えた。義隆はそれを聞いて、少し照れたように頬を赤らめた。
「私はまだ未熟だ。父上のように立派な当主になれるかどうか…」
彼の声には不安が垣間見えた。興昌は義隆の不安を和らげるように静かに答えた。
「義隆様はきっと立派な当主になられます。そして私は、その傍らで力になることをお誓い申し上げます」
義隆は興昌の誠実な表情をじっと見つめ、「ありがとう」と小さく呟いた。
二人は並んで参道を歩き始めた。月明かりが彼らの姿を淡く照らしていた。
「興昌、そちは私の友だ」
義隆の言葉に、興昌は驚いて足を止めた。
「いえ、私は義隆様の家臣にすぎません」
「違う」
義隆は強く否定した。
「そちは確かに私の家臣だ。しかし、それと同時に友でもある。それが大内義隆という人間の気持ちだ」
興昌は深く感動した。彼の心には、主君への忠誠と友情が交錯していた。
「私も同じ気持ちです、義隆様」
二人は再び歩き出した。彼らの前途には、まだ見ぬ試練と栄光が待ち受けていた。しかし、この夜、彼らの間に結ばれた絆は、どんな嵐にも耐えうる強さを持っていた。
春の夜風が、梅の花の香りを運んでくる。それは新たな季節の訪れを告げるものだった。
◇
翌朝、興昌は早くから道場で稽古に打ち込んでいた。昨日の元服の儀で感じた決意を、彼は剣の一振りひとふりに込めていた。
「相変わらず熱心だな」
振り向くと、父・陶興房が立っていた。興房は陶家の当主として、大内家に長年仕えてきた老練の武将だった。
「父上」
興昌は剣を下ろし、礼をした。
「義隆様の元服を目の当たりにして、私も身を引き締めねばと思いまして」
興房は穏やかに微笑んだ。
「お前は良き家臣になるだろう」
彼は道場の中央に歩み出て、興昌に向かって剣を構えた。
「さあ、一本」
興昌も剣を構え、父と向かい合った。二人の間に緊張が走る。
興昌が先に動いた。鋭い剣筋で父に迫るが、興房はそれを巧みにかわし、逆に一閃。興昌は体を捻って避けたが、わずかに袖を払われた。
「まだまだだな」
興房の声に、興昌は再び剣を構えた。今度は慎重に相手の動きを見極めようとする。
興房が動いた。興昌はその動きを読み、剣を交わす。鋭い金属音が道場に響いた。しかし、やはり興昌は父の経験と技に押され、膝をつく形となった。
「興昌、武士の剣は何のためにある」
稽古の間に、興房が問うた。
「敵を倒すためです」
興昌の答えに、興房は首を振った。
「それだけか」
興昌は考え込んだ。「…主君を守るためでもあります」
「それも正しい。しかし、最も大切なことがある」
興房は剣を下ろし、息子の前に座った。
「武士の剣は、義を守るためにある」
「義…」
興昌はその言葉を噛みしめた。
「主君への忠誠、家への忠義、そして何より、正しきを行う心。それが武士の本分だ」
興房の言葉は、昨日から興昌の心を占めていた疑問に、一つの答えを示しているようだった。
「父上、もし主君と義が相反するときは…」
興昌の問いに、興房は厳しい表情を見せた。
「そのような時が来ることを祈るな。しかし、もしそのような時が来たら…命を懸けて諫言せねばならない。それが忠義というものだ」
興房はそう言うと立ち上がり、道場を後にした。
興昌は一人残され、父の言葉を反芻した。
「命を懸けて…」
彼はもう一度剣を持ち上げ、形を練り始めた。一振り、また一振り。その動きには、昨日よりも確かな意志が宿っていた。
主君・義隆と共に歩む道。それは平坦ではないかもしれない。しかし、興昌の心には、どんな困難も乗り越えていくという揺るぎない決意があった。
亀童丸、大内家の跡取りとして十五年の歳月を過ごしてきた少年は、その日、将軍・足利義稙から偏諱を受けて「義隆」という名を得ようとしていた。金襴の直衣に身を包み、堂々とした佇まいで座していた亀童丸の顔には、まだ幼さの残る面影があったが、その眼差しには、すでに一国の主となる覚悟を持った青年の気配が漂っていた。
「これより、大内亀童丸殿、元服の儀を執り行う」
儀式の進行役である長老格の家臣が声高に宣言すると、広間に集まった者たちの緊張が一際高まった。
広間の一角に控えていた陶興昌は、儀式の一部始終を見守っていた。興昌はすでに元服を済ませており、立派な青年武士の姿をしていた。陶家の長男として、幼い頃から亀童丸と親しく交わってきた彼は、この日を心待ちにしていた。
亀童丸は静かに当主・興義の前に跪き、深々と頭を下げた。その背中は凛として、まるで生まれながらにして武家の後継者としての使命を背負っているかのようだった。興昌の目には、幼い頃からの友であった「亀童丸」の姿が、一国の将来を担う「義隆」として映った。
儀式は滞りなく進み、烏帽子親を務める家臣の手によって亀童丸の髪が結い上げられ、烏帽子が授けられた。そして、祝詞が述べられ、ついに「大内義隆」の名が正式に宣言された。広間に集まった家臣たちからは、祝いの声が上がった。
儀式の後、宴が催された。酒が注がれ、祝いの言葉が交わされる中、興昌は新たに「義隆」となった主君の姿を遠くから見つめていた。彼の視線が義隆と交差したとき、義隆は微かに頷いて、広間の隅にある小間へと姿を消した。それは二人だけの秘密の合図だった。
興昌は控えめに席を立ち、義隆の後を追った。
◇
障子を開けると、義隆はすでに小間の中央に座っていた。窓からは庭の梅の花が見え、春の日差しが部屋を優しく照らしていた。
「興昌、来てくれたか」
義隆の声には、いつもの少年らしい明るさがあった。しかし、その姿は烏帽子を戴き、大人の装いをした大内家の跡取りのものだった。
興昌は畳に正座し、深々と頭を下げた。
「義隆様、元服の儀、誠におめでとうございます」
彼の声は誠実で、心からの敬意に満ちていた。
義隆は少し困ったような表情を浮かべ、「そうか…これからはそうなるのだな」と呟いた。
「幼き頃より、亀童丸様とお呼びしてまいりましたが、今日よりは義隆様。家臣としての礼を尽くさせていただきます」
義隆はしばらく沈黙し、窓の外に視線を向けた。梅の花が風に揺れ、その香りが部屋に満ちていた。
「興昌、覚えているか。あの夏の日のことを」
義隆の声には懐かしさが混じっていた。興昌も記憶を手繰り寄せた。
「はい。三年前の夏、御館の裏手の小川で蛍を追いかけた日のことでしょうか」
義隆は微笑んだ。「あの日、そちは私に『亀童丸』と呼んでくれたな。」
興昌は顔を赤らめた。確かにその日、興奮のあまり礼を失していた。大内家の当主の息子を「亀童丸」と呼び捨てにしてしまったのだ。
「申し訳ありませんでした。若気の至りでございました」
義隆は首を振った。
「いや、あれが嬉しかったんだ。そちを友と思えた瞬間だった」
彼の声には、少年の頃の純真さがあった。興昌はその言葉に胸を打たれた。
「しかし、今日からは違う」
義隆の声が引き締まった。
「私は大内家の当主となる者として、家臣たちを導く立場になる。そしてそちは…」
「私は、命に代えても義隆様をお守りする陶家の者。主君と家臣の関係です」
興昌は毅然と答えた。
義隆はゆっくりと頷いた。その表情には寂しさと誇りが混在していた。
「寂しいものだな、大人になるというのは」
義隆の呟きは、風に揺れる梅の花のように儚かった。
「しかし、私たちはそれぞれの道を行く。大内家の当主として、また陶家の長男として」
興昌は真っ直ぐに義隆を見つめた。
「義隆様、どうか覚えておいてください。私の忠誠は、大内家に、そして義隆様にあることを」
彼の言葉は誓いのように重く、それでいて真実味に満ちていた。
義隆は静かに微笑んだ。
「ありがとう、興昌。私も忘れない。そちが初めて私を『亀童丸』と呼んだあの日のことを」
二人の間に静かな理解が流れた。それは少年時代の終わりを告げるとともに、新たな絆の始まりを示すものだった。
◇
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「興昌殿、随分と物思いに耽っておられるな」
声をかけられて顔を上げると、そこには陶家の家老・陶弘詮の姿があった。弘詮は興昌の伯父にあたる人物で、陶家を支える柱の一人だった。
「弘詮叔父上...義隆様の元服を目の当たりにして、身の引き締まる思いです」
弘詮は静かに頷き、興昌の隣に座った。
「お前もすでに元服し、一人前の武士となった。これからは義隆様を支える大きな柱となるのだぞ」
「はい、心得ております」
興昌は真摯に応えたが、その表情には何か迷いのようなものがあった。弘詮はそれを見逃さなかった。
「何か心配事でもあるのか」
興昌は少しためらってから口を開いた。
「義隆様は…本当に大内家を背負うことができるでしょうか」
その言葉は、主君への疑念を含むものだった。弘詮は周囲を警戒するように視線を巡らせ、声を落とした。
「そのような言葉、他の者に聞かれてはならぬ」
「申し訳ありません。ただ…」
興昌は言葉を選びながら続けた。
「義隆様は優しすぎるのではないかと危惧しております。この乱世、時に厳しさも必要かと」
弘詮は深く息を吐いた。
「それこそが、お前のような忠臣の役目だ。主君の足りぬところを補い、時に諌める。それが家臣の務めだ」
興昌はじっと伯父の言葉に耳を傾けた。
「義隆様ご自身も、成長される途上。お前とて、まだ若い。共に大内家を守り立てていくのだ」
弘詮の言葉には重みがあった。興昌は静かに頷き、改めて自らの役割を胸に刻んだ。
「叔父上、私はどのような武士になるべきでしょうか」
その問いに、弘詮は意外な言葉を返した。
「お前自身の心に問うてみよ。武士とは何か、忠義とは何か」
興昌は眉を寄せた。「心に問う…」
「そうだ。他人の言葉ではなく、己の内なる声に耳を傾けるのだ」
弘詮はそう言うと立ち上がり、他の家臣たちの輪に戻っていった。
興昌は一人残され、杯を見つめた。杯の中の酒は、まるで彼の心のように揺れていた。
◇
夜も更けた頃、興昌は館の裏手にある小さな神社に足を運んだ。ここは彼が幼い頃から、心を静めるために訪れていた場所だった。
境内は静寂に包まれ、月明かりだけが参道を照らしていた。彼は拝殿の前に跪き、深く頭を下げた。
「大内家の繁栄と、義隆様の安泰をお守りください」
彼の祈りは純粋で、何の偽りもなかった。
「興昌」
背後から声がして振り返ると、そこには義隆の姿があった。烏帽子を脱ぎ、普段着に着替えた彼は、まるで元服前の亀童丸に戻ったかのようだった。
「義隆様、こんな夜更けに」
興昌は慌てて立ち上がった。
「そちを見かけたから、後をついてきた」
義隆は笑った。その笑顔は、今日一日の緊張から解放されたかのように明るかった。
「何を祈っていたんだ」
「義隆様の安寧と、大内家の繁栄を」
興昌は正直に答えた。義隆はそれを聞いて、少し照れたように頬を赤らめた。
「私はまだ未熟だ。父上のように立派な当主になれるかどうか…」
彼の声には不安が垣間見えた。興昌は義隆の不安を和らげるように静かに答えた。
「義隆様はきっと立派な当主になられます。そして私は、その傍らで力になることをお誓い申し上げます」
義隆は興昌の誠実な表情をじっと見つめ、「ありがとう」と小さく呟いた。
二人は並んで参道を歩き始めた。月明かりが彼らの姿を淡く照らしていた。
「興昌、そちは私の友だ」
義隆の言葉に、興昌は驚いて足を止めた。
「いえ、私は義隆様の家臣にすぎません」
「違う」
義隆は強く否定した。
「そちは確かに私の家臣だ。しかし、それと同時に友でもある。それが大内義隆という人間の気持ちだ」
興昌は深く感動した。彼の心には、主君への忠誠と友情が交錯していた。
「私も同じ気持ちです、義隆様」
二人は再び歩き出した。彼らの前途には、まだ見ぬ試練と栄光が待ち受けていた。しかし、この夜、彼らの間に結ばれた絆は、どんな嵐にも耐えうる強さを持っていた。
春の夜風が、梅の花の香りを運んでくる。それは新たな季節の訪れを告げるものだった。
◇
翌朝、興昌は早くから道場で稽古に打ち込んでいた。昨日の元服の儀で感じた決意を、彼は剣の一振りひとふりに込めていた。
「相変わらず熱心だな」
振り向くと、父・陶興房が立っていた。興房は陶家の当主として、大内家に長年仕えてきた老練の武将だった。
「父上」
興昌は剣を下ろし、礼をした。
「義隆様の元服を目の当たりにして、私も身を引き締めねばと思いまして」
興房は穏やかに微笑んだ。
「お前は良き家臣になるだろう」
彼は道場の中央に歩み出て、興昌に向かって剣を構えた。
「さあ、一本」
興昌も剣を構え、父と向かい合った。二人の間に緊張が走る。
興昌が先に動いた。鋭い剣筋で父に迫るが、興房はそれを巧みにかわし、逆に一閃。興昌は体を捻って避けたが、わずかに袖を払われた。
「まだまだだな」
興房の声に、興昌は再び剣を構えた。今度は慎重に相手の動きを見極めようとする。
興房が動いた。興昌はその動きを読み、剣を交わす。鋭い金属音が道場に響いた。しかし、やはり興昌は父の経験と技に押され、膝をつく形となった。
「興昌、武士の剣は何のためにある」
稽古の間に、興房が問うた。
「敵を倒すためです」
興昌の答えに、興房は首を振った。
「それだけか」
興昌は考え込んだ。「…主君を守るためでもあります」
「それも正しい。しかし、最も大切なことがある」
興房は剣を下ろし、息子の前に座った。
「武士の剣は、義を守るためにある」
「義…」
興昌はその言葉を噛みしめた。
「主君への忠誠、家への忠義、そして何より、正しきを行う心。それが武士の本分だ」
興房の言葉は、昨日から興昌の心を占めていた疑問に、一つの答えを示しているようだった。
「父上、もし主君と義が相反するときは…」
興昌の問いに、興房は厳しい表情を見せた。
「そのような時が来ることを祈るな。しかし、もしそのような時が来たら…命を懸けて諫言せねばならない。それが忠義というものだ」
興房はそう言うと立ち上がり、道場を後にした。
興昌は一人残され、父の言葉を反芻した。
「命を懸けて…」
彼はもう一度剣を持ち上げ、形を練り始めた。一振り、また一振り。その動きには、昨日よりも確かな意志が宿っていた。
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と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。
「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に
「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」
— 『源氏物語』「夕顔」光源氏
と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。
なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。
またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。
漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。
「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。
この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。
それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。
読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。
作家 蔵屋日唱
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
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史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
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