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第1章
春駆ける
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朝靄が大地を優しく包み込み、田園の緑が朝日に煌めくほんの一瞬、大内館の南の道に二騎の馬影が現れた。
「亀童丸、待て!」
先を行く少年は九歳の亀童丸――のちの大内義隆――。大内家当主の御曹司である。黒紫の小袖に身を包み、少年とは思えぬ端正な騎乗姿で馬を操る姿は、遠目にも気品が漂っていた。その背後から、やや背の高い少年が馬を疾駆させていた。十一歳の鶴寿丸――のちの陶興昌――である。父・陶興房は大内家の重臣として仕え、鶴寿丸自身も館での奉公を始めたばかりであった。
馬上の義隆は肩越しに鶴寿丸を見やると、くすりと笑みを浮かべた。それは挑戦の笑み——いつも通りの朝の競走が始まったのだ。
「待てぬ! 追いつくなら追いついてみよ、鶴寿丸!」
風を切って亀童丸の声が響く。その声音は少年のものでありながら、どこか凛とした威厳を帯びていた。鶴寿丸はその背中に目を細め、鞭を一閃させた。
「今日こそは勝つぞ、亀童丸!」
二頭の馬が朝の田園を駆け抜ける。田に映る朝日が揺れ、刈り残された稲穂が風に靡いた。蹄の音が大地を叩き、泥が跳ね上がる。少年たちの息遣いが白く霞み、冷たい朝の空気の中に溶けていった。
鶴寿丸は亀童丸の背中を見据えながら、心の中で思いを巡らせていた。九歳の御曹司は、すでに並々ならぬ才を見せていた。書物の読みも早く、武芸の稽古も人一倍熱心だ。しかし、その笑顔の裏に時折垣間見える孤独を、鶴寿丸は見逃さなかった。大内家の血を引く者の孤独——それは誰にも理解されぬ重みを背負った者だけが知る感覚なのだろう。
「もう少し……!」
鶴寿丸は僅かな差を詰めようと身を前に倒した。馬の手綱を操る手に力を込め、音もなく言葉を紡ぐ。
「走れ、走れ」
しかし、義隆の乗る馬は一段と速度を上げ、再び差を広げていく。
「なかなかやるな、鶴寿丸!」
亀童丸の声には喜びが滲んでいた。共に時を過ごす友がいる——その喜びが、少年の澄んだ声に反映されていた。
朝靄の中を走る二人の姿を、里人たちが振り返って見つめる。その視線には敬意と親しみが混在していた。大内家の御曹司と陶家の若殿——未来を担う二人の若武者の姿に、里人たちは希望を見出していたのかもしれない。
二騎は長く続く田の畦道を駆け抜け、やがて小さな竹林へと入っていった。竹の間を縫うように走る細道は、二頭の馬が並んで走ることを許さない。亀童丸が先頭を走り、鶴寿丸がその後に続く。竹の葉が風に揺れ、朝日の光が斑模様を地面に落とす。
竹林を出ると、目の前に広がったのは一面の野原だった。春の息吹を感じさせる若草が風に揺れ、野花がそこかしこに顔を覗かせている。
亀童丸は馬を緩め、野原の中央で止まった。息を整える間もなく、鶴寿丸も横に馬を寄せた。
「次は負けぬぞ、亀童丸」
鶴寿丸は軽口を叩いたが、その目は真剣だった。今日も負けた——しかし、その悔しさよりも、亀童丸の満足げな横顔を見る喜びのほうが大きかった。
亀童丸は馬上で姿勢を正すと、鶴寿丸に視線を向けた。朝日に照らされた少年の顔は、まだあどけなさを残しつつも、確かな凛々しさを湛えていた。
「父上のように、いつか強くなりたい」
亀童丸の言葉は、風のように静かに広がった。大内義興——周防の国主として名を轟かせる父の背中は、亀童丸にとって遥か高みにあった。
鶴寿丸はその言葉に、わずかに首を傾げた。
「そなたは、すでに立派だ」
鶴寿丸はそう言って肩をすくめた。亀童丸は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに笑みに変わった。
二人は馬から降り、野原の端にある石垣に腰を下ろした。春の朝の風が髪を揺らし、汗ばんだ額を心地よく冷やす。亀童丸は袖の端を使って鶴寿丸の額の汗を拭った。
「汗かきめが」
その言葉に、鶴寿丸も袖を使って亀童丸の額を拭う。
「亀童丸こそ」
二人の間に流れる静けさは、血のつながりはなくとも、本当の兄弟のようだった。亀童丸にとって鶴寿丸は、家臣の子でありながら、兄のような存在。鶴寿丸にとって亀童丸は、主君の子でありながら、弟のような存在。それは、二人が共有する特別な絆だった。
「陶の鶴寿丸、いつか俺の右腕になるな」
ふと、亀童丸がそう言った。その目は遠くを見つめ、十歳にも満たぬ少年とは思えぬ凛とした光を湛えていた。
鶴寿丸は一瞬言葉を失った。右腕——それは主君の最も信頼する者に与えられる称号だ。それを、この年齢で口にする亀童丸の姿に、鶴寿丸は畏敬の念を抱かずにはいられなかった。
「このいのち、亀童丸のために使おう」
鶴寿丸は胸に手を当て、真摯に答えた。その言葉は、未熟な少年のものでありながら、確かな覚悟を秘めていた。
亀童丸はその反応に満足げに頷くと、石垣から身を乗り出し、野原に広がる花々を眺めた。鶴寿丸も同じように身を乗り出し、二人は並んで花を見つめた。
「美しいな……」
亀童丸の呟きに、鶴寿丸も頷いた。
「周防の土地は、どこも美しい」
「それを守るのが、大内家の役目だ」
亀童丸の言葉は、少年とは思えぬ重みを持っていた。その言葉に込められた責任の重さを、鶴寿丸は感じ取っていた。
「その道を、共に歩こう」
鶴寿丸の言葉は、儀礼的なものではなく、心からの誓いだった。
二人が見つめる先に広がる周防の景色——その美しさは、まるで絵巻物のようだった。山々の連なり、広がる田園、そして遠くに見える海の輝き。それはやがて二人が守るべきものとなる。
春の風が二人の間を通り抜けていく。その風が、この情景をどれほど遠くに運ぶのか——二人はまだ知らない。時が流れ、世が変わり、やがて二人の間に横たわる運命の深淵を、今はまだ誰も予見することはできなかった。
◇
野原に戻った亀童丸と鶴寿丸は、そろそろ館に戻る時間が近づいていることを悟った。二人は再び馬に跨り、来た道を引き返し始めた。しかし今度は競走ではなく、並んでゆっくりと進む。
春の陽光が二人の背中を温かく照らしていた。亀童丸は馬上から遠くを眺め、静かに言葉を紡いだ。
「鶴寿丸、まだ見ぬ日々のことを考えることがあるか」
鶴寿丸は少し驚いた表情を見せたが、すぐに真剣な眼差しで答えた。
「ああ。時折、考える」
「どんな未来を思い描く?」
亀童丸の問いに、鶴寿丸は少し考え込んだ。
「大内家のため、義興様と亀童丸のため、この身を捧げる日々だ」
その言葉に、亀童丸は微笑んだ。
「忠義深いな、鶴寿丸は」
「当然のことだ」
「だが、己の望みはないのか」
亀童丸の問いは、鶴寿丸の心の奥底を揺さぶった。己の望み——それは主君に仕える身として、考えてよいものなのか。
「私の望みは……」
鶴寿丸は言葉を選びながら続けた。
「亀童丸が理想とする世を、共に創ること...だな」
それは儀礼的な言葉ではなく、心からの願いだった。亀童丸はその言葉に満足げに頷いた。
「よき答えだ。我らは共に、この周防を、いや、この国を変えていくのだ」
馬は静かに歩みを進め、二人は春の風景の中に溶け込んでいった。やがて館が見えてくると、二人はほんの少し足を止めた。
「明日も、馬を走らせようぞ」
亀童丸の言葉に、鶴寿丸は笑みを返した。
「明日は、必ず勝つ」
「ふむ、楽しみにしておこう」
二人の笑い声が風に乗って遠くへ消えていく。
春駆ける二騎の姿は、やがて来る時代の嵐を知らぬまま、今は平穏な日々の中に在った。亀童丸の胸に芽生えた大志と、鶴寿丸の忠誠心——その純粋さは、まだ世の荒波に揉まれることなく、清らかな光を放っていた。
小さな二つの馬影が館へと消えていく。春の風だけが、未来を知るかのように、二人の背中をそっと押していた。
「亀童丸、待て!」
先を行く少年は九歳の亀童丸――のちの大内義隆――。大内家当主の御曹司である。黒紫の小袖に身を包み、少年とは思えぬ端正な騎乗姿で馬を操る姿は、遠目にも気品が漂っていた。その背後から、やや背の高い少年が馬を疾駆させていた。十一歳の鶴寿丸――のちの陶興昌――である。父・陶興房は大内家の重臣として仕え、鶴寿丸自身も館での奉公を始めたばかりであった。
馬上の義隆は肩越しに鶴寿丸を見やると、くすりと笑みを浮かべた。それは挑戦の笑み——いつも通りの朝の競走が始まったのだ。
「待てぬ! 追いつくなら追いついてみよ、鶴寿丸!」
風を切って亀童丸の声が響く。その声音は少年のものでありながら、どこか凛とした威厳を帯びていた。鶴寿丸はその背中に目を細め、鞭を一閃させた。
「今日こそは勝つぞ、亀童丸!」
二頭の馬が朝の田園を駆け抜ける。田に映る朝日が揺れ、刈り残された稲穂が風に靡いた。蹄の音が大地を叩き、泥が跳ね上がる。少年たちの息遣いが白く霞み、冷たい朝の空気の中に溶けていった。
鶴寿丸は亀童丸の背中を見据えながら、心の中で思いを巡らせていた。九歳の御曹司は、すでに並々ならぬ才を見せていた。書物の読みも早く、武芸の稽古も人一倍熱心だ。しかし、その笑顔の裏に時折垣間見える孤独を、鶴寿丸は見逃さなかった。大内家の血を引く者の孤独——それは誰にも理解されぬ重みを背負った者だけが知る感覚なのだろう。
「もう少し……!」
鶴寿丸は僅かな差を詰めようと身を前に倒した。馬の手綱を操る手に力を込め、音もなく言葉を紡ぐ。
「走れ、走れ」
しかし、義隆の乗る馬は一段と速度を上げ、再び差を広げていく。
「なかなかやるな、鶴寿丸!」
亀童丸の声には喜びが滲んでいた。共に時を過ごす友がいる——その喜びが、少年の澄んだ声に反映されていた。
朝靄の中を走る二人の姿を、里人たちが振り返って見つめる。その視線には敬意と親しみが混在していた。大内家の御曹司と陶家の若殿——未来を担う二人の若武者の姿に、里人たちは希望を見出していたのかもしれない。
二騎は長く続く田の畦道を駆け抜け、やがて小さな竹林へと入っていった。竹の間を縫うように走る細道は、二頭の馬が並んで走ることを許さない。亀童丸が先頭を走り、鶴寿丸がその後に続く。竹の葉が風に揺れ、朝日の光が斑模様を地面に落とす。
竹林を出ると、目の前に広がったのは一面の野原だった。春の息吹を感じさせる若草が風に揺れ、野花がそこかしこに顔を覗かせている。
亀童丸は馬を緩め、野原の中央で止まった。息を整える間もなく、鶴寿丸も横に馬を寄せた。
「次は負けぬぞ、亀童丸」
鶴寿丸は軽口を叩いたが、その目は真剣だった。今日も負けた——しかし、その悔しさよりも、亀童丸の満足げな横顔を見る喜びのほうが大きかった。
亀童丸は馬上で姿勢を正すと、鶴寿丸に視線を向けた。朝日に照らされた少年の顔は、まだあどけなさを残しつつも、確かな凛々しさを湛えていた。
「父上のように、いつか強くなりたい」
亀童丸の言葉は、風のように静かに広がった。大内義興——周防の国主として名を轟かせる父の背中は、亀童丸にとって遥か高みにあった。
鶴寿丸はその言葉に、わずかに首を傾げた。
「そなたは、すでに立派だ」
鶴寿丸はそう言って肩をすくめた。亀童丸は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに笑みに変わった。
二人は馬から降り、野原の端にある石垣に腰を下ろした。春の朝の風が髪を揺らし、汗ばんだ額を心地よく冷やす。亀童丸は袖の端を使って鶴寿丸の額の汗を拭った。
「汗かきめが」
その言葉に、鶴寿丸も袖を使って亀童丸の額を拭う。
「亀童丸こそ」
二人の間に流れる静けさは、血のつながりはなくとも、本当の兄弟のようだった。亀童丸にとって鶴寿丸は、家臣の子でありながら、兄のような存在。鶴寿丸にとって亀童丸は、主君の子でありながら、弟のような存在。それは、二人が共有する特別な絆だった。
「陶の鶴寿丸、いつか俺の右腕になるな」
ふと、亀童丸がそう言った。その目は遠くを見つめ、十歳にも満たぬ少年とは思えぬ凛とした光を湛えていた。
鶴寿丸は一瞬言葉を失った。右腕——それは主君の最も信頼する者に与えられる称号だ。それを、この年齢で口にする亀童丸の姿に、鶴寿丸は畏敬の念を抱かずにはいられなかった。
「このいのち、亀童丸のために使おう」
鶴寿丸は胸に手を当て、真摯に答えた。その言葉は、未熟な少年のものでありながら、確かな覚悟を秘めていた。
亀童丸はその反応に満足げに頷くと、石垣から身を乗り出し、野原に広がる花々を眺めた。鶴寿丸も同じように身を乗り出し、二人は並んで花を見つめた。
「美しいな……」
亀童丸の呟きに、鶴寿丸も頷いた。
「周防の土地は、どこも美しい」
「それを守るのが、大内家の役目だ」
亀童丸の言葉は、少年とは思えぬ重みを持っていた。その言葉に込められた責任の重さを、鶴寿丸は感じ取っていた。
「その道を、共に歩こう」
鶴寿丸の言葉は、儀礼的なものではなく、心からの誓いだった。
二人が見つめる先に広がる周防の景色——その美しさは、まるで絵巻物のようだった。山々の連なり、広がる田園、そして遠くに見える海の輝き。それはやがて二人が守るべきものとなる。
春の風が二人の間を通り抜けていく。その風が、この情景をどれほど遠くに運ぶのか——二人はまだ知らない。時が流れ、世が変わり、やがて二人の間に横たわる運命の深淵を、今はまだ誰も予見することはできなかった。
◇
野原に戻った亀童丸と鶴寿丸は、そろそろ館に戻る時間が近づいていることを悟った。二人は再び馬に跨り、来た道を引き返し始めた。しかし今度は競走ではなく、並んでゆっくりと進む。
春の陽光が二人の背中を温かく照らしていた。亀童丸は馬上から遠くを眺め、静かに言葉を紡いだ。
「鶴寿丸、まだ見ぬ日々のことを考えることがあるか」
鶴寿丸は少し驚いた表情を見せたが、すぐに真剣な眼差しで答えた。
「ああ。時折、考える」
「どんな未来を思い描く?」
亀童丸の問いに、鶴寿丸は少し考え込んだ。
「大内家のため、義興様と亀童丸のため、この身を捧げる日々だ」
その言葉に、亀童丸は微笑んだ。
「忠義深いな、鶴寿丸は」
「当然のことだ」
「だが、己の望みはないのか」
亀童丸の問いは、鶴寿丸の心の奥底を揺さぶった。己の望み——それは主君に仕える身として、考えてよいものなのか。
「私の望みは……」
鶴寿丸は言葉を選びながら続けた。
「亀童丸が理想とする世を、共に創ること...だな」
それは儀礼的な言葉ではなく、心からの願いだった。亀童丸はその言葉に満足げに頷いた。
「よき答えだ。我らは共に、この周防を、いや、この国を変えていくのだ」
馬は静かに歩みを進め、二人は春の風景の中に溶け込んでいった。やがて館が見えてくると、二人はほんの少し足を止めた。
「明日も、馬を走らせようぞ」
亀童丸の言葉に、鶴寿丸は笑みを返した。
「明日は、必ず勝つ」
「ふむ、楽しみにしておこう」
二人の笑い声が風に乗って遠くへ消えていく。
春駆ける二騎の姿は、やがて来る時代の嵐を知らぬまま、今は平穏な日々の中に在った。亀童丸の胸に芽生えた大志と、鶴寿丸の忠誠心——その純粋さは、まだ世の荒波に揉まれることなく、清らかな光を放っていた。
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今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。
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— 『源氏物語』「夕顔」光源氏
と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。
なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。
またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。
漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。
「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。
この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。
それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。
読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。
作家 蔵屋日唱
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