定まれる身の果つるところ~陶義隆、忠義の果てに~

君山洋太朗

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序章

風の音、海の果て

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潮のうごめく海面を滑るように、数十艘の軍船が進んでいった。九月の薄曇りの日、瀬戸内海の波は穏やかであったが、その水底に潜む何かを感じさせるようにわずかに揺れていた。

舳先に立つ陶晴賢は、潮に濡れた甲冑の襟元を無言で直しながら、前方に浮かぶ厳島の島影を見つめていた。五十を目前にして、その顔には刻まれた歳月の深い溝が残されていた。背後では家臣たちが静かに準備を進め、緊張の空気が船団全体を包みこんでいた。

「陶様」

誰かが声をかけても、晴賢は振り返らなかった。彼の視線は、島の上に重くのしかかる灰色の雲の向こうにあった。あるいはそれよりも遠く、時の彼方にある何かを見ているかのようであった。

舳先の近くで水が弾け、小さな飛沫が甲板を濡らした。晴賢の手甲の上にも水滴が落ち、日の光を受けて一瞬だけ銀色に輝いた。しかし、その光は瞬く間に消えてしまった。

「殿」

熟知した声に、晴賢はわずかに目を動かした。副将・弘中隆包が半歩下がった位置から慎重に声をかけてきた。

「殿、この戦、不利にございます。上陸をお控えなされませぬか」

隆包の声には、これまでにない切迫感があった。風雨を読む老練な水軍衆からも、潮の流れが異様だとの報せが届いていた。毛利の伏兵の気配も消えない。

晴賢はただ小さく首を横に振るだけだった。

「既に決めたことだ」

その声は波の音にかき消されそうなほど小さかったが、隆包の耳には届いた。彼は苦渋を滲ませた表情で晴賢の背を見つめ、そして舵手に向かって「進め」と命じた。

波音だけが響く中、戦の火蓋は誰にも止められぬ形で開かれつつあった。



晴賢の胸中を横切るのは、「神域」に軍を差し向けることへの潜在的な躊躇だった。厳島は古来、武力を忌む聖地とされていた。その鳥居をくぐり、戦場とすることは畏れ多いことである。

だが今、戦局は切迫していた。

「これが、大内家の命運か」

自らの口から漏れた言葉は、誰に向けたものでもなかった。しかし苦い現実としてそこにあった。大きな波が船の側面を打ち、その揺れが晴賢の身体を通り過ぎた。

晴賢は静かに自問する。

この手で、神の御地を穢すのか。それでも、我は忠義を貫くのか。

大内義隆亡き後、大内家を立て直すため、彼が歩んできた道は「義」の名のもとにあった。しかし今、その「義」を支える確信は潮に揺れる船のように揺らいでいた。自らの行為を"義"と呼ぶしかない彼にとって、この問いはもう、答えのない祈りに似ていた。



波が船体に当たる音が、いつしか昔の風の音に重なっていく。

晴賢の脳裏には、かつて大内館の庭で弓を引き合ったあの日の風景が蘇った。晴々とした夏の日、兄たちとともに汗を流しながら的を射ていた。

「義隆様、兄上、見ててください!」

「五郎、その構えでは矢が落ちるぞ」

幼名で呼ばれ、笑い合った記憶。大内義隆と陶興昌。その背中は少年の目には、どこまでも高く、どこまでも遠かった。主君である義隆と兄である興昌は、常に晴賢の一歩先を行く存在だった。

いつから距離が生まれたのか。

大寧寺で、義隆は何を思い、自害したのか。

儚い記憶の中で義隆は振り返り、晴賢に向かって笑っている。その笑顔の輪郭が曖昧になるにつれ、晴賢は胸の奥に痛みを覚えた。

「義隆様……」

今の自分を兄が見たら、何と言うだろうか。かつての主君を死へと追いやり、今はその家を守ると称して軍を進める自分を、どのように見るだろうか。

「兄上……私は義隆様を守れなかった……」



雲間から差し込んだ一筋の光が、海面を銀色に照らした。風は少し強まり、船に結ばれた幟がはためいた。その音に我に返った晴賢の眼前には、ついに厳島の輪郭がはっきりと浮かび上がっていた。

「上陸だ!」

号令が飛び、兵士たちが動き始める。船の甲板に立つ晴賢は一瞬、天に視線を上げた。雲の切れ間から青い空が覗いていた。

かつて主君の理想を支えようと誓ったその手で、主君を死に追いやり、いまやその家さえ潰れかけている現実。すべては自分の忠義の果てなのか、それとも義隆が夢に溺れたせいなのか。

答えを求めても、潮の音は、ただ沈黙を返した。

晴賢の船が徐々に厳島に近づいていく。潮の香りが濃くなり、神社の朱色の鳥居が見えてきた。神の島が、すべてをのみ込むように眼前に広がっていた。



島に足を踏み入れる直前、晴賢はふと胸の内でかすかに思った。

「あのとき、もし……」

その思いが形になるより先に、景色は入れ替わった。厳島の灰色の海から、あの夏の光溢れる庭へ。兄が弓を引く音。蝉の声。義隆の笑い声。

その日、晴賢は初めて義隆と同じ高さの的を射抜いた。義隆は晴賢を褒めてくれた。

「わしの元に興昌と五郎がいれば、大内家は安泰だな」

あの時、誰が思っただろう。二人の道がこれほどまでに離れ、やがて血で塗られることになるとは。

晴賢は眼を閉じ、その記憶の鮮やかさに一瞬だけ身を委ねた。そしてゆっくりと目を開けると、厳島の浜辺が目の前に広がっていた。足元から水が引いていく音がして、船は砂に接地した。

家臣が声をあげる。

「陶様、上陸でございます」

晴賢は静かに頷いた。そして腰の刀の柄に手を置くと、戦に向かって歩み出した。すべての過去が、彼を今この瞬間へと導いていた。

忠義とは何か。

義を守るとは何か。

その問いを胸に、陶晴賢は神の島に足を踏み入れた。

雨がぽつりと落ち始めていた。
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