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皇太后、遠く思いて
泥濘
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まったく。あの道士、何を考えているのやら。
話せば緩むものもありましょう――などと。話せるわけがないではありませんか、我が七情の源など。
宮廷の中、どこに耳があるかはわかりませぬ。部屋を閉め切ったとて、洩れるものはどこからか洩れるもの。
まして私は皇太后、帝の生母。舌の禍いは、帝の――息子の名誉を直に揺るがす。
我が心は、決して、口にしてはならぬのです。
もとより私は醜い女です。
開封府の華やかなりし頃、我が主上――宣和の太上皇陛下の後宮では、数十人の妻妾が寵を競っておりました。群れ咲く百花の中、私の容姿は凡庸でした。義妹の推挙で後宮に入ったはよいものの、恩寵を受けた夜は片手にも足りぬほど。幸運にも子ひとりを授かりはしたものの、皇位は望めぬ九番目の男子。主上に顧みられることはなく、宮城の隅でひとり不遇をかこっておりました。脂粉や錦繍の煌めきは、私にとって遠いものでした。
私はこのまま、誰にも顧みられず朽ちてゆくのか。
我が居室を訪れる者は、康王を別にすれば、菓子をねだりに来る幼い帝姫くらいでした。童女のあどけない笑みさえ、私は憎みました。姫はいずれ美しく育ち、高官の家に降嫁するのでしょう。誉れと幸福に満ちた将来を思うたび、身の内に暗い澱みが溜まってゆきました。手元に毒があったなら、菓子に混ぜていたやもしれません。心根優しい、罪なき幼女さえ恨むほど、私は醜い女だったのです。
ですので開封府が陥落し、虜囚として金国の陣に留め置かれていた時……あの男がかけてきた言葉に、私はひどく驚いたのです。
「見せてみよ。高貴な女とは、どのようなものか」
男は完顔宗賢と名乗りました。完顔は金の皇族の姓です。虜囚の女はいかようにも選べたはずです。なのに、なぜ私などに興味を持つのか。皆目わかりませんでした。
歳の頃は二十五くらいと思われました。目は細く眼光は鋭く、手足は武人らしく太かった。他の金人たちと同様に、嗅ぎ慣れない臭いをまとっておりました。それが日数の経った汗だったとは、後になって嫌というほどわかりましたが。
その夜のうちに、私はあの男に買われました。金一千錠と引き換えに捕虜たちの陣から出され、かの者の陣に引き込まれ、夜明けまで留め置かれました。
頭の中を、数多の女たちが過りました。金の太子に抵抗した姫。傷つきながら薬を乞う和福帝姫。陣中で見た、数え切れぬ悲嘆と怨嗟。ですがどれもが、不思議なほどに己と重ならない。それどころか、己の値が彼女たちよりも高価なことに、後ろ暗い悦びさえ見出しておりました。
他人事として、あまりにも多くの惨劇を見すぎていたのかもしれません。その時になれば、私も泣き叫ぶのだろうとは漠然と思っておりました。ですが時が来てみれば、涙の一粒も零れ落ちはしませんでした。
「抗わんのか?」
強い訛りのある声で、男は言いました。
「無駄だとは、わかっておりますので」
「高貴な女は貞節を重んじると聞くが?」
奇妙な笑いが、出てきました。
「高貴では、ありませんので」
男は、もう何も言いませんでした。鷹のような目で睨みながら、私を獣の毛皮の上に倒し、帯を解き始めました。
私は既に四十八歳でした。顔には皺が刻まれ、肌に艶はなく、黒子や染みも少なからず浮いていました。誰からも求められぬ、はずの体でした。
男の指が固いことに、私はまず驚きました。それはそうでしょう。私の肌が知るのは、普段は絵筆や書物しか持たない御方の指だけ、それも十数年も昔のことです。弓や槍を持つ男の手は、このように固くざらついているのだと、私は初めて知りました。
そうして、私は奪われました。夜が明けるまで、幾度も。
惨めな気持ちはありました。辱められたというのに、怒りも嘆きも感じぬことが惨めでした。昂り、言い知れぬ悦楽を覚えたことが恥でした。己は、どうしようもなく醜い女でした。
一夜の「恥辱」の後、あの男は私の簪を抜いていきました。牡丹の飾りがついた黄金の簪でした。朱皇后が、立后の祝いに贈ってくれたものでした。
その後も私は、他の妃嬪たちが屈辱に晒されるのを、奇妙に冷徹に眺めておりました。手の届かぬところで天子の寵を競っていた、美しく華やかな方々が、悲嘆と苦悶に堕ちていく様のなんと愉しかったことか。
己自身の悲憤や憂悶も、もちろん感じてはおりました。城を失い、街を失い、国を失い、女としての名節も失ったのですから。けれど、口にしてもよい悲しみは、誰かが代わりに口にしてくれた。
そうなれば、我が身の内に残ったものは、あの若き将が与えてくれた許されぬ熱だけでした。
私は高貴な女でした。皇子を生んだ高位の妃でした。
けれど高貴な者にあるべき徳を、私は持ち合わせなかった。朱皇后と語らえば、否応なく思い知らされました。有徳とはどのようなことか、隣に立てば解る。解ってしまう。
ゆえに忌まわしかった。我が内の醜悪を、あの女は容赦なく引きずり出して突き付けてくる。決して、舌鋒鋭く責め立てる訳ではない。軽蔑することもない。ただ貴く、隣に在るだけ。それが最も堪えた。
朱皇后が自ら命を絶った時、私は密かに安堵しました。これで自らの毒と向き合わずに済むと。あまりにも浅ましい考えを、私は己の奥底深くに沈めました。口に出して良いことと、そうでないことの区別だけは、せめてつけておこうと思いながら。
話せば緩むものもありましょう――などと。話せるわけがないではありませんか、我が七情の源など。
宮廷の中、どこに耳があるかはわかりませぬ。部屋を閉め切ったとて、洩れるものはどこからか洩れるもの。
まして私は皇太后、帝の生母。舌の禍いは、帝の――息子の名誉を直に揺るがす。
我が心は、決して、口にしてはならぬのです。
もとより私は醜い女です。
開封府の華やかなりし頃、我が主上――宣和の太上皇陛下の後宮では、数十人の妻妾が寵を競っておりました。群れ咲く百花の中、私の容姿は凡庸でした。義妹の推挙で後宮に入ったはよいものの、恩寵を受けた夜は片手にも足りぬほど。幸運にも子ひとりを授かりはしたものの、皇位は望めぬ九番目の男子。主上に顧みられることはなく、宮城の隅でひとり不遇をかこっておりました。脂粉や錦繍の煌めきは、私にとって遠いものでした。
私はこのまま、誰にも顧みられず朽ちてゆくのか。
我が居室を訪れる者は、康王を別にすれば、菓子をねだりに来る幼い帝姫くらいでした。童女のあどけない笑みさえ、私は憎みました。姫はいずれ美しく育ち、高官の家に降嫁するのでしょう。誉れと幸福に満ちた将来を思うたび、身の内に暗い澱みが溜まってゆきました。手元に毒があったなら、菓子に混ぜていたやもしれません。心根優しい、罪なき幼女さえ恨むほど、私は醜い女だったのです。
ですので開封府が陥落し、虜囚として金国の陣に留め置かれていた時……あの男がかけてきた言葉に、私はひどく驚いたのです。
「見せてみよ。高貴な女とは、どのようなものか」
男は完顔宗賢と名乗りました。完顔は金の皇族の姓です。虜囚の女はいかようにも選べたはずです。なのに、なぜ私などに興味を持つのか。皆目わかりませんでした。
歳の頃は二十五くらいと思われました。目は細く眼光は鋭く、手足は武人らしく太かった。他の金人たちと同様に、嗅ぎ慣れない臭いをまとっておりました。それが日数の経った汗だったとは、後になって嫌というほどわかりましたが。
その夜のうちに、私はあの男に買われました。金一千錠と引き換えに捕虜たちの陣から出され、かの者の陣に引き込まれ、夜明けまで留め置かれました。
頭の中を、数多の女たちが過りました。金の太子に抵抗した姫。傷つきながら薬を乞う和福帝姫。陣中で見た、数え切れぬ悲嘆と怨嗟。ですがどれもが、不思議なほどに己と重ならない。それどころか、己の値が彼女たちよりも高価なことに、後ろ暗い悦びさえ見出しておりました。
他人事として、あまりにも多くの惨劇を見すぎていたのかもしれません。その時になれば、私も泣き叫ぶのだろうとは漠然と思っておりました。ですが時が来てみれば、涙の一粒も零れ落ちはしませんでした。
「抗わんのか?」
強い訛りのある声で、男は言いました。
「無駄だとは、わかっておりますので」
「高貴な女は貞節を重んじると聞くが?」
奇妙な笑いが、出てきました。
「高貴では、ありませんので」
男は、もう何も言いませんでした。鷹のような目で睨みながら、私を獣の毛皮の上に倒し、帯を解き始めました。
私は既に四十八歳でした。顔には皺が刻まれ、肌に艶はなく、黒子や染みも少なからず浮いていました。誰からも求められぬ、はずの体でした。
男の指が固いことに、私はまず驚きました。それはそうでしょう。私の肌が知るのは、普段は絵筆や書物しか持たない御方の指だけ、それも十数年も昔のことです。弓や槍を持つ男の手は、このように固くざらついているのだと、私は初めて知りました。
そうして、私は奪われました。夜が明けるまで、幾度も。
惨めな気持ちはありました。辱められたというのに、怒りも嘆きも感じぬことが惨めでした。昂り、言い知れぬ悦楽を覚えたことが恥でした。己は、どうしようもなく醜い女でした。
一夜の「恥辱」の後、あの男は私の簪を抜いていきました。牡丹の飾りがついた黄金の簪でした。朱皇后が、立后の祝いに贈ってくれたものでした。
その後も私は、他の妃嬪たちが屈辱に晒されるのを、奇妙に冷徹に眺めておりました。手の届かぬところで天子の寵を競っていた、美しく華やかな方々が、悲嘆と苦悶に堕ちていく様のなんと愉しかったことか。
己自身の悲憤や憂悶も、もちろん感じてはおりました。城を失い、街を失い、国を失い、女としての名節も失ったのですから。けれど、口にしてもよい悲しみは、誰かが代わりに口にしてくれた。
そうなれば、我が身の内に残ったものは、あの若き将が与えてくれた許されぬ熱だけでした。
私は高貴な女でした。皇子を生んだ高位の妃でした。
けれど高貴な者にあるべき徳を、私は持ち合わせなかった。朱皇后と語らえば、否応なく思い知らされました。有徳とはどのようなことか、隣に立てば解る。解ってしまう。
ゆえに忌まわしかった。我が内の醜悪を、あの女は容赦なく引きずり出して突き付けてくる。決して、舌鋒鋭く責め立てる訳ではない。軽蔑することもない。ただ貴く、隣に在るだけ。それが最も堪えた。
朱皇后が自ら命を絶った時、私は密かに安堵しました。これで自らの毒と向き合わずに済むと。あまりにも浅ましい考えを、私は己の奥底深くに沈めました。口に出して良いことと、そうでないことの区別だけは、せめてつけておこうと思いながら。
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