SE転職。~妹よ。兄さん、しばらく、出張先(異世界)から帰れそうにない~

しばたろう

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最終章2 日常

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 目覚ましの音で、目が覚めた。

 スマホの画面には 7:00 の文字。

 軽く伸びをしてから、簡単な朝食を作る。
 スクランブルエッグと、焼きすぎたトースト。
 まあまあの出来である。

 一人暮らしのアパートを出て、駅へ向かう。
 電車で五駅。
 その隣にそびえるビルの十二階
 ――俺がSEとして勤める会社のオフィスがある。

 今日から、プロジェクトは詳細設計フェーズに入る。

 割り振られた機能の詳細設計。
 基本設計をさらにブレークダウンし、実装へ橋渡しする重要な工程だ。

 単に細かく書けばいいわけじゃない。
 コーディングを担当する人が迷わず書けること。
 基本設計の仕様にバグがないかも目を光らせること。

 ――三年目にして、
 ようやく「ああ、こういうものか」と思えるようになってきた。
 
 集中して作業していると、あっという間に昼休みが来た。

 コンビニで買ったおにぎりとウーロン茶を、いつものデスクで食べる。
 栄養のことも考えたほうがいいんだろうけど、結局これになる。

 午後はプロジェクトマネージャーとの打ち合わせ。
 スケジュールの確認、工数の調整、懸念点の洗い出し。
 淡々と、けれど確実に時間は進んでいく。

 打ち合わせが終われば、また静かに設計へ戻る。
 数時間ほど進めていくうちに、今日予定していた作業がすべて終わった。

 時計を見ると、18:00。

「よし、定時上がりだな。」

 椅子から立ち、軽く伸びをする。
 今日も順調に仕事が終わった。

 オフィスを出て、エレベーターで一階へと降りる。
 自動ドアが開くと、夜気を含んだ風が頬に触れた。

 家に帰ったら、夕飯を軽く作って、シャワーを浴びて、適当に動画でも見よう。



 その日、研究室は――騒然としていた。

 兄さんたちの脳波に、突如、大きな変化が現れたのだ。

 ディスプレイには長期ログが並び、
 その中に異様な波形の切り替わりが刻まれていた。

 つい数時間前まで兄さんが示していた――
 “夢を見ているような脳波”でも、“多層的な意識活動”でもなく。
 今、そこに表示されているのは、
 完全に、通常の意識不明患者と同じ脳波。

 深く沈み、揺らぎが少なく、刺激に対して反応しにくい。
 教科書で学ぶような、ごくありふれた昏睡状態の脳波だった。

 麻衣子さんは、コンソールに映し出される波形を凝視する。
 その表情がみるみる険しくなっていく。

「これ……あまりよくないわ。」

「どういうこと、ですか……?」

 震える声で尋ねると、麻衣子さんは短く息をついた。

「キララ。
 あなたのお兄さんたちは今まで、“通常の昏睡とは違う状態”にあった。
 意識活動が残存していたことで、身体機能も安定していたの。」

 私は黙って、次の言葉を待った。

「でも今の脳波は……完全に“普通の昏睡”よ。
 これはつまり――」

 麻衣子さんは、言葉を選ぶようにゆっくり続けた。

「身体機能も、通常の昏睡患者と同じように低下していく、ということ。」

 胸が一気に冷えた。

「そんな……じゃあ兄さんは……」

「一般的にはね、
 昏睡が長引けば長引くほど、合併症のリスクが上がる。
 呼吸、循環、筋力……あらゆる機能が落ちていく。
 最悪の場合――」

 そこまで言いかけた麻衣子さんは、かろうじて口を閉ざした。
 でも、分かってしまった。

 兄さんの状態が、このままでは危険だということ。

「……時間が、ない。」

 自分の声が震えていた。
 


 夕日が窓から差し込み、病室を淡い橙色に染めていた。

 兄さんのベッドは、その光の中で静かに横たわっている。
 機械の規則正しい電子音だけが、部屋の静けさをかすかに揺らしていた。

 私は椅子に座り、そっと兄さんの手を握った。
 昔から変わらない、温かい手。
 でも今は、その温度にどこか不安が混じっているように感じた。

「兄さん……」

 眠ったままの兄さんは、もちろん返事をしない。
 胸がゆっくり上下する様子だけが、ここに生きている証だった。

 ――でも、その証が、いつまで続くのか分からない。

 そう考えるだけで、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。

「……兄さん……」

 声が震える。
 涙がにじむのがわかった。

「兄さん……帰ってきて……!」

 思わず叫んでいた。

 その瞬間、堪えていた涙がこぼれ落ちる。
 握ったままの兄さんの手に――

 ぽとり。

 一粒、透明な雫が落ちた。



 翌日。
 俺はいつも通り、オフィスで詳細設計を進めていた。

 資料、仕様書、設計書。
 全部、予定どおりの速度で片付いていく。
 三年目にもなると、この作業にもだいぶ慣れてきたものだ。

 順調だ。
 今日も問題なし。

 ――そう思っていた。

 ふと、机の横に置いていたスマホが震えた気がした。

 (……ん?)

 手に取り、画面を開く。
 だが、通知は来ていない。
 メールも、チャットも、アプリもいつもどおり。

(気のせいか……。)

 画面を閉じようとしたその時だった。

 **「ファイル」**フォルダのアイコンが、なぜか目に留まった。

 普段はほとんど開かない。
 資料・画像の保存先だけで、特に使い道もないフォルダだ。

 ……なのに、無意識のうちに指がそのアイコンをタップしていた。

 一覧に並ぶファイルの中。
 ひとつ、見覚えのない動画ファイルがあった。

 “memory/self_record_01”

(……こんなの、あったか?)

 仕事中にもかかわらず、なぜかそのファイルが気になった。
 何気なく――本当に何気なく、タップした。

 動画が再生される。

 最初に映ったのは、薄暗い室内。
 どこかの食堂のようでもあり、休憩スペースのようでもある――
 不思議な場所だった。
 そしてその画面の中心に――

 俺がいた。

 レンズの向こうの俺は、ひどく疲れた表情をしていた。
 額に汗を浮かべ、焦りと決意をにじませた目。

「……?」

 いつ撮った?
 そもそも撮影した覚えなんてない。

 画面の向こうの俺が、ゆっくり口を開いた。

『この世界に長くいたら、きっと記憶が消える。
 ……でも、お前には大切な人がいる。妹だ。希星だ。
 お前を信じて待ってる。だから、絶対に忘れるな。』

 息が止まった。

 声の震え。
 言葉の重さ。
 それが、自分のものだとは思えないほど切実だった。

『元の世界に戻る方法は、きっとある。
 焦るな。でも諦めるな。
 もし何も思い出せなくなっても、この映像を見ろ。
 それが、“お前が お前である”証拠だ。』

 レンズの向こうの俺が、静かにうなずいた。

 その目は、今の俺よりずっと強く、はっきりと前を見ていた。

『……頼んだぞ、未来の俺。』

 そこで動画は途切れた。

 しばらく、何も考えられなかった。
 ただ、ぼんやりと再生画面を見つめていた。

 そして――

 動画の中の言葉が、ゆっくりと頭の中にこだました。

『……でも、お前には大切な人がいる。妹だ。希星だ。』

 妹?
 ……キララ。

 胸の奥を何かが駆け抜けた。

 その瞬間だった。

 キララの姿が、鮮明に脳裏に蘇った。

 あの笑顔。
 あの声。

 すべてが、一気に戻ってきた。

 頭の奥が、まぶしいほどの光で満たされる。

(……キララ……!)

 俺は――

 目を覚ました。
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