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最終章2 日常
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目覚ましの音で、目が覚めた。
スマホの画面には 7:00 の文字。
軽く伸びをしてから、簡単な朝食を作る。
スクランブルエッグと、焼きすぎたトースト。
まあまあの出来である。
一人暮らしのアパートを出て、駅へ向かう。
電車で五駅。
その隣にそびえるビルの十二階
――俺がSEとして勤める会社のオフィスがある。
今日から、プロジェクトは詳細設計フェーズに入る。
割り振られた機能の詳細設計。
基本設計をさらにブレークダウンし、実装へ橋渡しする重要な工程だ。
単に細かく書けばいいわけじゃない。
コーディングを担当する人が迷わず書けること。
基本設計の仕様にバグがないかも目を光らせること。
――三年目にして、
ようやく「ああ、こういうものか」と思えるようになってきた。
集中して作業していると、あっという間に昼休みが来た。
コンビニで買ったおにぎりとウーロン茶を、いつものデスクで食べる。
栄養のことも考えたほうがいいんだろうけど、結局これになる。
午後はプロジェクトマネージャーとの打ち合わせ。
スケジュールの確認、工数の調整、懸念点の洗い出し。
淡々と、けれど確実に時間は進んでいく。
打ち合わせが終われば、また静かに設計へ戻る。
数時間ほど進めていくうちに、今日予定していた作業がすべて終わった。
時計を見ると、18:00。
「よし、定時上がりだな。」
椅子から立ち、軽く伸びをする。
今日も順調に仕事が終わった。
オフィスを出て、エレベーターで一階へと降りる。
自動ドアが開くと、夜気を含んだ風が頬に触れた。
家に帰ったら、夕飯を軽く作って、シャワーを浴びて、適当に動画でも見よう。
◇
その日、研究室は――騒然としていた。
兄さんたちの脳波に、突如、大きな変化が現れたのだ。
ディスプレイには長期ログが並び、
その中に異様な波形の切り替わりが刻まれていた。
つい数時間前まで兄さんが示していた――
“夢を見ているような脳波”でも、“多層的な意識活動”でもなく。
今、そこに表示されているのは、
完全に、通常の意識不明患者と同じ脳波。
深く沈み、揺らぎが少なく、刺激に対して反応しにくい。
教科書で学ぶような、ごくありふれた昏睡状態の脳波だった。
麻衣子さんは、コンソールに映し出される波形を凝視する。
その表情がみるみる険しくなっていく。
「これ……あまりよくないわ。」
「どういうこと、ですか……?」
震える声で尋ねると、麻衣子さんは短く息をついた。
「キララ。
あなたのお兄さんたちは今まで、“通常の昏睡とは違う状態”にあった。
意識活動が残存していたことで、身体機能も安定していたの。」
私は黙って、次の言葉を待った。
「でも今の脳波は……完全に“普通の昏睡”よ。
これはつまり――」
麻衣子さんは、言葉を選ぶようにゆっくり続けた。
「身体機能も、通常の昏睡患者と同じように低下していく、ということ。」
胸が一気に冷えた。
「そんな……じゃあ兄さんは……」
「一般的にはね、
昏睡が長引けば長引くほど、合併症のリスクが上がる。
呼吸、循環、筋力……あらゆる機能が落ちていく。
最悪の場合――」
そこまで言いかけた麻衣子さんは、かろうじて口を閉ざした。
でも、分かってしまった。
兄さんの状態が、このままでは危険だということ。
「……時間が、ない。」
自分の声が震えていた。
◇
夕日が窓から差し込み、病室を淡い橙色に染めていた。
兄さんのベッドは、その光の中で静かに横たわっている。
機械の規則正しい電子音だけが、部屋の静けさをかすかに揺らしていた。
私は椅子に座り、そっと兄さんの手を握った。
昔から変わらない、温かい手。
でも今は、その温度にどこか不安が混じっているように感じた。
「兄さん……」
眠ったままの兄さんは、もちろん返事をしない。
胸がゆっくり上下する様子だけが、ここに生きている証だった。
――でも、その証が、いつまで続くのか分からない。
そう考えるだけで、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
「……兄さん……」
声が震える。
涙がにじむのがわかった。
「兄さん……帰ってきて……!」
思わず叫んでいた。
その瞬間、堪えていた涙がこぼれ落ちる。
握ったままの兄さんの手に――
ぽとり。
一粒、透明な雫が落ちた。
◇
翌日。
俺はいつも通り、オフィスで詳細設計を進めていた。
資料、仕様書、設計書。
全部、予定どおりの速度で片付いていく。
三年目にもなると、この作業にもだいぶ慣れてきたものだ。
順調だ。
今日も問題なし。
――そう思っていた。
ふと、机の横に置いていたスマホが震えた気がした。
(……ん?)
手に取り、画面を開く。
だが、通知は来ていない。
メールも、チャットも、アプリもいつもどおり。
(気のせいか……。)
画面を閉じようとしたその時だった。
**「ファイル」**フォルダのアイコンが、なぜか目に留まった。
普段はほとんど開かない。
資料・画像の保存先だけで、特に使い道もないフォルダだ。
……なのに、無意識のうちに指がそのアイコンをタップしていた。
一覧に並ぶファイルの中。
ひとつ、見覚えのない動画ファイルがあった。
“memory/self_record_01”
(……こんなの、あったか?)
仕事中にもかかわらず、なぜかそのファイルが気になった。
何気なく――本当に何気なく、タップした。
動画が再生される。
最初に映ったのは、薄暗い室内。
どこかの食堂のようでもあり、休憩スペースのようでもある――
不思議な場所だった。
そしてその画面の中心に――
俺がいた。
レンズの向こうの俺は、ひどく疲れた表情をしていた。
額に汗を浮かべ、焦りと決意をにじませた目。
「……?」
いつ撮った?
そもそも撮影した覚えなんてない。
画面の向こうの俺が、ゆっくり口を開いた。
『この世界に長くいたら、きっと記憶が消える。
……でも、お前には大切な人がいる。妹だ。希星だ。
お前を信じて待ってる。だから、絶対に忘れるな。』
息が止まった。
声の震え。
言葉の重さ。
それが、自分のものだとは思えないほど切実だった。
『元の世界に戻る方法は、きっとある。
焦るな。でも諦めるな。
もし何も思い出せなくなっても、この映像を見ろ。
それが、“お前が お前である”証拠だ。』
レンズの向こうの俺が、静かにうなずいた。
その目は、今の俺よりずっと強く、はっきりと前を見ていた。
『……頼んだぞ、未来の俺。』
そこで動画は途切れた。
しばらく、何も考えられなかった。
ただ、ぼんやりと再生画面を見つめていた。
そして――
動画の中の言葉が、ゆっくりと頭の中にこだました。
『……でも、お前には大切な人がいる。妹だ。希星だ。』
妹?
……キララ。
胸の奥を何かが駆け抜けた。
その瞬間だった。
キララの姿が、鮮明に脳裏に蘇った。
あの笑顔。
あの声。
すべてが、一気に戻ってきた。
頭の奥が、まぶしいほどの光で満たされる。
(……キララ……!)
俺は――
目を覚ました。
スマホの画面には 7:00 の文字。
軽く伸びをしてから、簡単な朝食を作る。
スクランブルエッグと、焼きすぎたトースト。
まあまあの出来である。
一人暮らしのアパートを出て、駅へ向かう。
電車で五駅。
その隣にそびえるビルの十二階
――俺がSEとして勤める会社のオフィスがある。
今日から、プロジェクトは詳細設計フェーズに入る。
割り振られた機能の詳細設計。
基本設計をさらにブレークダウンし、実装へ橋渡しする重要な工程だ。
単に細かく書けばいいわけじゃない。
コーディングを担当する人が迷わず書けること。
基本設計の仕様にバグがないかも目を光らせること。
――三年目にして、
ようやく「ああ、こういうものか」と思えるようになってきた。
集中して作業していると、あっという間に昼休みが来た。
コンビニで買ったおにぎりとウーロン茶を、いつものデスクで食べる。
栄養のことも考えたほうがいいんだろうけど、結局これになる。
午後はプロジェクトマネージャーとの打ち合わせ。
スケジュールの確認、工数の調整、懸念点の洗い出し。
淡々と、けれど確実に時間は進んでいく。
打ち合わせが終われば、また静かに設計へ戻る。
数時間ほど進めていくうちに、今日予定していた作業がすべて終わった。
時計を見ると、18:00。
「よし、定時上がりだな。」
椅子から立ち、軽く伸びをする。
今日も順調に仕事が終わった。
オフィスを出て、エレベーターで一階へと降りる。
自動ドアが開くと、夜気を含んだ風が頬に触れた。
家に帰ったら、夕飯を軽く作って、シャワーを浴びて、適当に動画でも見よう。
◇
その日、研究室は――騒然としていた。
兄さんたちの脳波に、突如、大きな変化が現れたのだ。
ディスプレイには長期ログが並び、
その中に異様な波形の切り替わりが刻まれていた。
つい数時間前まで兄さんが示していた――
“夢を見ているような脳波”でも、“多層的な意識活動”でもなく。
今、そこに表示されているのは、
完全に、通常の意識不明患者と同じ脳波。
深く沈み、揺らぎが少なく、刺激に対して反応しにくい。
教科書で学ぶような、ごくありふれた昏睡状態の脳波だった。
麻衣子さんは、コンソールに映し出される波形を凝視する。
その表情がみるみる険しくなっていく。
「これ……あまりよくないわ。」
「どういうこと、ですか……?」
震える声で尋ねると、麻衣子さんは短く息をついた。
「キララ。
あなたのお兄さんたちは今まで、“通常の昏睡とは違う状態”にあった。
意識活動が残存していたことで、身体機能も安定していたの。」
私は黙って、次の言葉を待った。
「でも今の脳波は……完全に“普通の昏睡”よ。
これはつまり――」
麻衣子さんは、言葉を選ぶようにゆっくり続けた。
「身体機能も、通常の昏睡患者と同じように低下していく、ということ。」
胸が一気に冷えた。
「そんな……じゃあ兄さんは……」
「一般的にはね、
昏睡が長引けば長引くほど、合併症のリスクが上がる。
呼吸、循環、筋力……あらゆる機能が落ちていく。
最悪の場合――」
そこまで言いかけた麻衣子さんは、かろうじて口を閉ざした。
でも、分かってしまった。
兄さんの状態が、このままでは危険だということ。
「……時間が、ない。」
自分の声が震えていた。
◇
夕日が窓から差し込み、病室を淡い橙色に染めていた。
兄さんのベッドは、その光の中で静かに横たわっている。
機械の規則正しい電子音だけが、部屋の静けさをかすかに揺らしていた。
私は椅子に座り、そっと兄さんの手を握った。
昔から変わらない、温かい手。
でも今は、その温度にどこか不安が混じっているように感じた。
「兄さん……」
眠ったままの兄さんは、もちろん返事をしない。
胸がゆっくり上下する様子だけが、ここに生きている証だった。
――でも、その証が、いつまで続くのか分からない。
そう考えるだけで、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
「……兄さん……」
声が震える。
涙がにじむのがわかった。
「兄さん……帰ってきて……!」
思わず叫んでいた。
その瞬間、堪えていた涙がこぼれ落ちる。
握ったままの兄さんの手に――
ぽとり。
一粒、透明な雫が落ちた。
◇
翌日。
俺はいつも通り、オフィスで詳細設計を進めていた。
資料、仕様書、設計書。
全部、予定どおりの速度で片付いていく。
三年目にもなると、この作業にもだいぶ慣れてきたものだ。
順調だ。
今日も問題なし。
――そう思っていた。
ふと、机の横に置いていたスマホが震えた気がした。
(……ん?)
手に取り、画面を開く。
だが、通知は来ていない。
メールも、チャットも、アプリもいつもどおり。
(気のせいか……。)
画面を閉じようとしたその時だった。
**「ファイル」**フォルダのアイコンが、なぜか目に留まった。
普段はほとんど開かない。
資料・画像の保存先だけで、特に使い道もないフォルダだ。
……なのに、無意識のうちに指がそのアイコンをタップしていた。
一覧に並ぶファイルの中。
ひとつ、見覚えのない動画ファイルがあった。
“memory/self_record_01”
(……こんなの、あったか?)
仕事中にもかかわらず、なぜかそのファイルが気になった。
何気なく――本当に何気なく、タップした。
動画が再生される。
最初に映ったのは、薄暗い室内。
どこかの食堂のようでもあり、休憩スペースのようでもある――
不思議な場所だった。
そしてその画面の中心に――
俺がいた。
レンズの向こうの俺は、ひどく疲れた表情をしていた。
額に汗を浮かべ、焦りと決意をにじませた目。
「……?」
いつ撮った?
そもそも撮影した覚えなんてない。
画面の向こうの俺が、ゆっくり口を開いた。
『この世界に長くいたら、きっと記憶が消える。
……でも、お前には大切な人がいる。妹だ。希星だ。
お前を信じて待ってる。だから、絶対に忘れるな。』
息が止まった。
声の震え。
言葉の重さ。
それが、自分のものだとは思えないほど切実だった。
『元の世界に戻る方法は、きっとある。
焦るな。でも諦めるな。
もし何も思い出せなくなっても、この映像を見ろ。
それが、“お前が お前である”証拠だ。』
レンズの向こうの俺が、静かにうなずいた。
その目は、今の俺よりずっと強く、はっきりと前を見ていた。
『……頼んだぞ、未来の俺。』
そこで動画は途切れた。
しばらく、何も考えられなかった。
ただ、ぼんやりと再生画面を見つめていた。
そして――
動画の中の言葉が、ゆっくりと頭の中にこだました。
『……でも、お前には大切な人がいる。妹だ。希星だ。』
妹?
……キララ。
胸の奥を何かが駆け抜けた。
その瞬間だった。
キララの姿が、鮮明に脳裏に蘇った。
あの笑顔。
あの声。
すべてが、一気に戻ってきた。
頭の奥が、まぶしいほどの光で満たされる。
(……キララ……!)
俺は――
目を覚ました。
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