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01-04 不詳 熊
しおりを挟む耳元になにかの感触がした。
それは風の音に変わった。
そうして、ふうふうという息になった。
耳に吹きかけられる息は、始め感触の一塊として立ち上がり、そのあとに風や息になるのだと不思議な発見のような気がした。
社会生活の中では、すでに加工された息を息としてだけ受け取っていたのだと何かの驚きを覚えた。
頭が妙に冴えていた。
目を開けると木漏れ日が眩しかった。
高い木々の隙間から雲のゆったりと流れるのが見えた。
体の背面に湿り気を感じ、手のひらには繁茂した草むらを知覚していた。森に倒れているのだとわかった。
たしか、図書館で論文を書いていたはずだが……。
隣で塊が動くのを感じた。何かがひっくり返った音だとわかった。
音のする方を横目に見た。体は動かない。
そこには巨大な熊のような生き物がいた。
生き物が動かした塊は、頭が半壊し内臓が食い破られた人間だった。その人間は振り回される度に物のように手足をだらりだらりと動かせた。
目の前の出来事が森の中に黒い陰影になった。
それは瞳の上に記号が滑るように映じられて、皮膜を流れる光、まさにその光だけを見ている気がした。現実感がなかった。
初めは訳が分からなかった。
それから熊のような生き物の無用な執着が脳内に粘り気のある液体として浸潤してくるように思われた。突如体中を氷の刃で突かれたような痛みが走った。恐ろしかった。
先ほどの耳に感じた息は、この熊のような生き物のものだったのだ。
その息が血中を駆け巡り血を汚し、それによって体が痺れているのだ。
俺は死んだのか。今まさに死のうとしているのか。
自分の体を見ようとしたが、目以外の器官は一切動かない。
体の感触を探した。
体の位置を把握しようとした。
血の流れでまだ使える場所を探った。
体は動かないが感触はあるようだ。
自己イメージと身体存在そのものは生きている。少し安堵して冷静さを取り戻した。
額が涼しい。
額が爽やかですっきりしていることが妙に鮮明にわかる。
覚醒し始めていた。
熊のようなものはすぐ傍に人の生の気配を感じたのか、つい今まで夢中になって死んだ物を弄んでいたのをぴたりとやめて、こちらに向かってきた。
「令を変えなさい」
突然どこかから声がした。
いや、頭の中にいるものがそのまま脳に干渉したかのようだ。
「令を変えればいいのだわ」
「令を変える? どういうことだ!?」
「令を変えなさい」
「どうすればいいんだ?」
心に絶叫した。
「令を変えなさい!」
こちらからの声は聞こえていないらしい。
聞こえるように伝えることができないのだろうか。
そんなことをやっている間にも、熊のような生き物は近づいてくる。
感情のない丸い目がこちらを覗いている。
この世に何の障害もないかのように、ただ物を扱うことだけを求めているかのように、ゆさゆさとこちらに向かってくる。
強い毛がところどころ逆立ち、陽の光を背に背負って、黒く巨大な自然の驚異として人間の前に立ちはだかっている。
この生き物に食われてしまえば、この巨大な自然の一部となって、空や鳥と同時に存在する何かになれるのだろうか。
無数の細胞の世界のひとかけらとして、無限の広がりに消えてしまえるのだろうか。そんなことが頭をよぎった。
「令を変えなさい」
「熊の一部になって、この世界に浸潤することにしたよ」
「どうやら自分でやるつもりはないらしいわね」
そう女の声がしたとき、熊のような生き物は俺の頭に齧りついた。
がりごりと頭蓋骨が砕ける音がよく聞こえた。骨の折れる音は奇麗な旋律なのだと考えたりした。人の頭蓋骨を簡単に食い破るこの生き物の力強さに頼もしささえ感じた。
目玉に下顎の犬歯がうまく刺さって硝子体がぷしゅんと破れた。そうしてどろりとした液体が頬について懐かしい気がした。
前にもこんなことがあったように思う。そんなわけはないのに、こんなことがもう何百年も前にあった気がしていた。
体のほぼ三割は食べられたらしい。
熊のような生き物の中は暗く温かかった。
気づくと赤い膜のかかった風景を見ていた。
ふうふうという息を吐く音が聞こえた。
俺は人間から熊になっていた。
目を血走らせ何かを欲して歩いているらしい。
山の隅々を駆け巡り、探すものは見つからない。
これは一つの天国であり地獄なのかもしれない。この方法では世界の手前までしか行かれないのだと急に理解した。
「令を改めなさい」
強く清い声がした。
声だと思っていたものは、声ではないのだとわかってきた。
これは日本人に共通の何かだ。声を仮の姿に響くものだ。
「令を改めてみよう。熊になって世界をさまようのも、もう十分だろう」
そう思った途端に熊は苦しみだした。
厚い皮膚がびりびりと破れて、粘膜に濡れた人間の体が中から出てきた。新しい動く体を手に入れた何者かだ。視界も思考も自分のものなのだが、熊のような生き物にもなった俺には、これが自分なのか何者なのかわからなかった。
最早明確な個人というものは幻想であることを知っていた。
「令を変え切れていないわ。危なかったことに気づいてすらいない。そのうち令と刻を教えに行くわ」
「この世に教育というものがあるとでも思っているのか。教育が可能と思う傲慢さを反省しもしない奴らは、決して相手と本当の意味で向き合うこともない」
前の世界の思いがとっさに声に出た。
今ならさらにわかる気がする。
「令を変える。つまりこの世の仕組みを変えるということか」
これは夢なのか。
覚めるまではこの気分のままいよう。
熊の体を脱したのだから、この体で試してみよう。
さあ、出かけよう。
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