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とろける琥珀と石油王
見知らぬ街で
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アダムは徒歩で街を案内してくれた。
ルイの家を出てしばらくは、住宅街だった。出歩く人は疎らで、静かな街だった。
「徒歩で大丈夫でしたか? 車だと思うように動けないことがあるので」
街を歩きながら、アダムは申し訳なさそうに言った。
「いいよ、歩くのは好きだから」
香港でもそうだったし、歩くのは苦にならない。どちらかといえば好きな方だった。
「私もです」
アダムが微笑む。
「静かな街だね」
「この辺りは少し静かなんです」
フランスの街を、ユーシーは映像でしか知らない。
こうやって街の風を、光を、匂いを感じることになるなんて思ったこともなかった。
ついこの間まで、香港から出るところなんて想像したこともなかった。
じっとりと絡みつくような湿度はなく、ユーシーには少し肌寒く感じた。
香港の街とは違う雰囲気の街並みは、古いのに、綺麗で、行き交う人々もなんだか上品な気がするから不思議だ。
裏街のような猥雑さはなく、静かでそれでも賑わいはあって。ユーシーはこの雰囲気が好きだと思った。
そんなユーシーとアダムの元に歩いてくる人影があった。
「よおアダム。なんだ? 新しいご主人様か?」
声をかけてきたのは、白人の男だった。フランス人だろうか。話すのはフランス語のようで、ユーシーには男の話す内容がわからなかった。
「久しぶりですね、テオ」
アダムが話すのもフランス語だ。なにを言ったのかわからなかったが、アダムの纏う空気が鋭くなったのがわかった。
「お、上玉だな」
男の手がユーシーに触れるより早く、ユーシーが反応するより早く、アダムの手が男の手を捻り上げた。
「相変わらず手癖が悪いですね。そろそろ切り落としましょうか」
「悪かったよ。勘弁してくれ」
アダムの動きは速くて見えなかった。
元殺し屋、というのは冗談ではなかったようだ。
しかも、動きがいい。ユーシーとは、基本的な素養が違うように思えた。
アダムとまともにやりあうことになれば、まず勝てないだろう。
退散していく男の後ろ姿を眺めながら、ユーシーはそんなことを考えた。
「知り合い?」
「古い馴染みですよ。気を悪くさせていたらすみません」
アダムは申し訳なさそうに眉を下げた。
香港にいた頃に比べたら、それほど気にならなかった。ユーシーは身体も小さく細いせいか、よく絡まれていた。
「大丈夫」
それから、商店のある通りを歩いた。所謂マルシェというやつだった。果物に野菜、海産物にチーズもある。
「本当は午前に来るといいんですが」
「そうなの?」
「この時間だと売れてしまっているものもあるので。今度は昼前に来ましょう」
「うん」
香港の市場とは違うが、見ているだけで楽しかった。アダムと並んで歩くうち、果物屋の前に差し掛かるとアダムが足を止めた。
「ユーシーは、好きな果物は?」
「桃が好き」
「じゃあ、買って帰りましょうか」
アダムは桃を買ってくれた。ユーシーの手のひらくらいの大きさの桃は、豊かな香りを放っている。こちらにも桃があるのかとユーシーは意外に思った。
その後も、アダムと一緒に市場を見て回った。
「楽しそうな街だね」
「それならよかった」
「でも、フランス語はわからない」
ユーシーがジンに教わったのは英語だけで、フランス語はちょっとした挨拶くらいしかわらない。
「じゃあ一緒に勉強しましょうか」
アダムの声は穏やかだった。一人でするよりも励みになるのでありがたいと思う。アダムはジンよりも優しく教えてくれる気がした。
「ユーシーは、広東語と英語が使えるとました」
「うん。アダムはあと何語が使えるの?」
「チェコ語と、少しですが、ドイツ語とロシア語。それからスペイン語も少しだけ」
「すごいな」
「仕事の関係で」
「アダムは、どこの生まれなの」
「よくわからないんです。孤児だったもので」
アダムのグレーの美しい瞳が、遠くを眺める。西陽を受けてちらちらときらめく様を、ユーシーは綺麗だと思った。
「そうなんだ。俺も、似たような感じ」
「ふふ、私たちは、似たもの同士ですね。仲良くしましょう」
アダムの笑みを見て、アダムとならきっとうまくやっていけると思った。
誰かと暮らすのは初めてだった。ルイと、アダムと、それからジェイ。三人と一匹の暮らしはきっと楽しいものになるだろうとユーシーは思う。
その後もユーシーはアダムと並んで市場を眺めて歩いた。アダムは時々ハムや野菜や果物を買った。ユーシーはそれを眺めるだけだった。
「ユーシーはあまり欲しいものは無いんですか」
「ん、うん」
ユーシーは物欲が薄かった。服は着られたらよかったし、食事も腹が膨れたらよかった。家は雨風が凌げて寒くなければよかった。
「そうですか」
「だめ?」
それについて、ジンから何か言われたことはなかったのでユーシーは少し驚いていた。
「いえ、慎ましいのは良いことですよ。ジェイにも見習ってもらわないと」
「ジェイ?」
「帰る頃には夕飯を寄越せと喚いているでしょうね」
アダムは肩を竦めてみせた。
「じゃあ早く帰らないと」
可愛らしい兄貴分が腹を空かせているのかと思うと少しかわいそうに思えた。
「その前に、夕飯の買い物をしないと、今晩は皆でオートミールを啜ることになりますよ」
「ふふ、それはやだな」
ユーシーは苦笑した。オートミールは食べたことはないが、どういうものかくらい知識はある。
「ユーシー、好きな食べ物はありますか。桃以外で」
そう言われて、思いつくのは一つだけだった。
「フライドチキン」
ユーシーの数少ない好物だ。
「じゃあ、買って帰りましょうか」
「あるの?」
まさか買ってもらえるとは思っていなかったユーシーは、思わず声を上げていた。
「ええ」
変わらず穏やかな笑みを浮かべるアダムについていくと、フライドチキンを売っている店があった。アダムはそこで三人分買ってくれた。
アダムの案内で買い物を終えて帰宅すると、アダムの足元にジェイが絡みついてきた。長い尻尾を絡めるようにして、ジェイは可愛らしい声で鳴いてブルーグリーンの美しい瞳でアダムを見上げる。
「言ったでしょう?」
アダムの脚に頭を擦り付けるジェイを抱き上げてアダムが苦笑した。
夕食はアダムが作ってくれた。ユーシーはその隣で手伝いをした。アダムは手際が良かった。ユーシーの手伝いなんてなくても良さそうだったが、アダムと一緒に食事の支度をするのは楽しかった。
それから三人と一匹で揃って食事をした。食事が終わると、まだ仕事が残っているようでルイは再び仕事部屋に戻っていった。
アダムとテレビを見て、アダムが淹れてくれたお茶を飲んで、シャワーを浴びた後ベッドルームに戻った。
ルイの家を出てしばらくは、住宅街だった。出歩く人は疎らで、静かな街だった。
「徒歩で大丈夫でしたか? 車だと思うように動けないことがあるので」
街を歩きながら、アダムは申し訳なさそうに言った。
「いいよ、歩くのは好きだから」
香港でもそうだったし、歩くのは苦にならない。どちらかといえば好きな方だった。
「私もです」
アダムが微笑む。
「静かな街だね」
「この辺りは少し静かなんです」
フランスの街を、ユーシーは映像でしか知らない。
こうやって街の風を、光を、匂いを感じることになるなんて思ったこともなかった。
ついこの間まで、香港から出るところなんて想像したこともなかった。
じっとりと絡みつくような湿度はなく、ユーシーには少し肌寒く感じた。
香港の街とは違う雰囲気の街並みは、古いのに、綺麗で、行き交う人々もなんだか上品な気がするから不思議だ。
裏街のような猥雑さはなく、静かでそれでも賑わいはあって。ユーシーはこの雰囲気が好きだと思った。
そんなユーシーとアダムの元に歩いてくる人影があった。
「よおアダム。なんだ? 新しいご主人様か?」
声をかけてきたのは、白人の男だった。フランス人だろうか。話すのはフランス語のようで、ユーシーには男の話す内容がわからなかった。
「久しぶりですね、テオ」
アダムが話すのもフランス語だ。なにを言ったのかわからなかったが、アダムの纏う空気が鋭くなったのがわかった。
「お、上玉だな」
男の手がユーシーに触れるより早く、ユーシーが反応するより早く、アダムの手が男の手を捻り上げた。
「相変わらず手癖が悪いですね。そろそろ切り落としましょうか」
「悪かったよ。勘弁してくれ」
アダムの動きは速くて見えなかった。
元殺し屋、というのは冗談ではなかったようだ。
しかも、動きがいい。ユーシーとは、基本的な素養が違うように思えた。
アダムとまともにやりあうことになれば、まず勝てないだろう。
退散していく男の後ろ姿を眺めながら、ユーシーはそんなことを考えた。
「知り合い?」
「古い馴染みですよ。気を悪くさせていたらすみません」
アダムは申し訳なさそうに眉を下げた。
香港にいた頃に比べたら、それほど気にならなかった。ユーシーは身体も小さく細いせいか、よく絡まれていた。
「大丈夫」
それから、商店のある通りを歩いた。所謂マルシェというやつだった。果物に野菜、海産物にチーズもある。
「本当は午前に来るといいんですが」
「そうなの?」
「この時間だと売れてしまっているものもあるので。今度は昼前に来ましょう」
「うん」
香港の市場とは違うが、見ているだけで楽しかった。アダムと並んで歩くうち、果物屋の前に差し掛かるとアダムが足を止めた。
「ユーシーは、好きな果物は?」
「桃が好き」
「じゃあ、買って帰りましょうか」
アダムは桃を買ってくれた。ユーシーの手のひらくらいの大きさの桃は、豊かな香りを放っている。こちらにも桃があるのかとユーシーは意外に思った。
その後も、アダムと一緒に市場を見て回った。
「楽しそうな街だね」
「それならよかった」
「でも、フランス語はわからない」
ユーシーがジンに教わったのは英語だけで、フランス語はちょっとした挨拶くらいしかわらない。
「じゃあ一緒に勉強しましょうか」
アダムの声は穏やかだった。一人でするよりも励みになるのでありがたいと思う。アダムはジンよりも優しく教えてくれる気がした。
「ユーシーは、広東語と英語が使えるとました」
「うん。アダムはあと何語が使えるの?」
「チェコ語と、少しですが、ドイツ語とロシア語。それからスペイン語も少しだけ」
「すごいな」
「仕事の関係で」
「アダムは、どこの生まれなの」
「よくわからないんです。孤児だったもので」
アダムのグレーの美しい瞳が、遠くを眺める。西陽を受けてちらちらときらめく様を、ユーシーは綺麗だと思った。
「そうなんだ。俺も、似たような感じ」
「ふふ、私たちは、似たもの同士ですね。仲良くしましょう」
アダムの笑みを見て、アダムとならきっとうまくやっていけると思った。
誰かと暮らすのは初めてだった。ルイと、アダムと、それからジェイ。三人と一匹の暮らしはきっと楽しいものになるだろうとユーシーは思う。
その後もユーシーはアダムと並んで市場を眺めて歩いた。アダムは時々ハムや野菜や果物を買った。ユーシーはそれを眺めるだけだった。
「ユーシーはあまり欲しいものは無いんですか」
「ん、うん」
ユーシーは物欲が薄かった。服は着られたらよかったし、食事も腹が膨れたらよかった。家は雨風が凌げて寒くなければよかった。
「そうですか」
「だめ?」
それについて、ジンから何か言われたことはなかったのでユーシーは少し驚いていた。
「いえ、慎ましいのは良いことですよ。ジェイにも見習ってもらわないと」
「ジェイ?」
「帰る頃には夕飯を寄越せと喚いているでしょうね」
アダムは肩を竦めてみせた。
「じゃあ早く帰らないと」
可愛らしい兄貴分が腹を空かせているのかと思うと少しかわいそうに思えた。
「その前に、夕飯の買い物をしないと、今晩は皆でオートミールを啜ることになりますよ」
「ふふ、それはやだな」
ユーシーは苦笑した。オートミールは食べたことはないが、どういうものかくらい知識はある。
「ユーシー、好きな食べ物はありますか。桃以外で」
そう言われて、思いつくのは一つだけだった。
「フライドチキン」
ユーシーの数少ない好物だ。
「じゃあ、買って帰りましょうか」
「あるの?」
まさか買ってもらえるとは思っていなかったユーシーは、思わず声を上げていた。
「ええ」
変わらず穏やかな笑みを浮かべるアダムについていくと、フライドチキンを売っている店があった。アダムはそこで三人分買ってくれた。
アダムの案内で買い物を終えて帰宅すると、アダムの足元にジェイが絡みついてきた。長い尻尾を絡めるようにして、ジェイは可愛らしい声で鳴いてブルーグリーンの美しい瞳でアダムを見上げる。
「言ったでしょう?」
アダムの脚に頭を擦り付けるジェイを抱き上げてアダムが苦笑した。
夕食はアダムが作ってくれた。ユーシーはその隣で手伝いをした。アダムは手際が良かった。ユーシーの手伝いなんてなくても良さそうだったが、アダムと一緒に食事の支度をするのは楽しかった。
それから三人と一匹で揃って食事をした。食事が終わると、まだ仕事が残っているようでルイは再び仕事部屋に戻っていった。
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