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埋め合わせの日
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1. 思考の泥に沈む朝
羽生は、前日の疲労を忘れたかのような軽い目覚めを覚えた。
隣に沈む新城は、驚くほど静かだった。厳格な教授だった面影が抜け落ちた、石像のような無防備さ。羽生はその寝顔を、自ら手入れをした「作品」の状態を検分するかのように、じっと、深く見つめた。
羽生:(……ふふ。そこまでして僕を拒みたかったんだ。本当に、可愛い人)
羽生は、新城の乱れた髪をそっと指先で整えた。新城が昨夜、理性を殺すために睡眠薬を飲み下したことなど、羽生は知らない。――いや、正確には、その不自然なほど重い眠りの正体に、薄々感づいてはいた。
だが、それをあえて指摘せず、ただ眺めて楽しむのが羽生のやり方だ。自分の「焦らし」という毒が、この誇り高い男を内側から焼き、薬の力を借りなければ眠れないほどに追い詰めた。
その事実を自覚してなお、今は触れずにいられること。――その制御こそが、羽生にとってはどんな愛の言葉よりも甘美だった。
新城を起こさぬよう、静かにベッドを抜け出す。リビングで朝食を整え、出立の準備を終えた頃、鏡の中の自分と目が合った。
青白い新城の顔色を思い出し、胸の奥でわずかな憐憫が芽生える。「ああ、僕がいないと、この人は自分を壊してしまうんだな」という、支配欲の混じった残酷な慈しみ。羽生は小さく、自分でも無自覚な笑みをこぼした。
2.慈しみの紙片
羽生が去った気配さえ、新城の意識には届かなかった。
重い泥の底から這い上がるように、新城は目を開ける。薬の残滓が頭の奥で濁った拍動を刻み、全身が鉛のように重い。
一度は身体を浮かせようとしたが、抗いきれぬ倦怠感に、再びシーツへと沈み込んだ。昨夜、自ら理性を断ち切ったという苦い感覚だけが、虚脱とともに全身に残っていた。
部屋には、もう誰もいない。
新城は諦念のまま、ヘッドボードへ視線を滑らせた。眼鏡の隣に、羽生の走り書きがある。重い腕を伸ばし、指先を震わせながらその紙片を掴んだ。
『先生へ。
顔色が悪かったから、起こさなかったよ。朝食は冷蔵庫。講義が終わったら、すぐ帰ります。全部、僕に埋め合わせさせてね。ゆっくり休んで』
メモを握りしめたまま、新城は再び目を閉じた。
新城:「……っ、」
喉の奥で、ひきつった音が漏れる。
羽生が残した端正な文字は、薬の副作用で荒れ果てた新城の意識において、唯一の鮮明な色彩として焼き付いていた。それは凍える者に差し出された灯火のような、救いの温かさを帯びている。
だが、同時に理解していた。その温もりこそが、新城の理性を毟り取り、羽生の管理下という名の深淵へ繋ぎ止めるための「鎖」であるということを。
新城:(……お前に、何が埋め合わせられるというんだ。……俺を、ここまで壊しておいて)
羽生は、自分が新城を追い詰めた加害者であることを一秒も認めない。それどころか、「体調の悪い恋人を気遣う献身的なパートナー」という、一点の曇りもない善意の仮面を被って、逃げ場のない救いの手を差し伸べてくる。
暴力で屈服させられるならば、まだ抗う術もあっただろう。
だが、この無垢な装いの献身こそが、今の新城にとっては、どんな枷(かせ)よりも逃れられない「可愛い檻」だった。拒絶すれば自分が冷酷な人間に思えてしまう。その心理的包囲網の中で、新城は自ら進んで檻の鍵を閉めるしかなかった。
2. 黄昏の解体
羽生が帰宅したのは、西日がリビングの奥まで長く伸び、室内に濃い影が落ち始める時間だった。
ドアが開く音も、近づいてくる気配も、新城の耳には届いていたはずだ。
だが彼は、ソファに深く腰を沈め、膝の上のノートPCに向き合ったまま動こうとしない。仕事に打ち込もうとする厳格な背中は、羽生の視線を意識した瞬間、微かに強張った。
羽生は、逃げ場を塞ぐように新城のそばへ歩み寄り、その顔を両手で包み込んだ。
来るべき瞬間を待っていたはずの新城が、指先が触れた瞬間に小さく息を詰める。羽生はその無防備な額へ、慈しむような、あるいは新たな所有印を刻むようなキスを落とした。
羽生:「ただいま、先生。……無理してるの、まだ続ける気? そんなところも、すごく可愛いけど」
その声に、新城の張り詰めていた防衛線がわずかに緩む。羽生の体温を確かめるように、深く、重い息を吐き出した。
新城:「……おかえり。見ての通り、立て込んでいるんだ。お前の相手をしている暇はない」
拒絶の言葉とは裏腹に、その声は熱を帯びて掠れている。羽生は新城の膝からPCをそっと取り上げ、有無を言わさぬ動作で電源を切った。その下から現れたのは、握りつぶされた昨夜のメモだ。
大学の教授としての矜持、多忙な研究者としての盾。羽生はそれらを、電源を切るという指先一つで、無価値なガラクタに変えてみせた。
今この空間において、新城に許されたアイデンティティは、羽生の指先に震える「ただの男」でしかないのだ。
羽生はメモをゆっくりと広げ、アイロンをかけるように指先で丁寧に皺を伸ばすと、新城の目の前で、それを大切そうに自分のポケットへ仕舞い込んだ。
羽生:「……そんなに強く握ってくれてたんだ。本当に、先生は正直だね」
新城:「……自惚れるな。ただ、捨て損ねただけだ」
皮肉な言葉で距離を取ろうとするが、内腿の「孔雀の目」が脈動し、羽生の熱を求めて疼き始める。
羽生:「昨日は、ちゃんと自分を止めてた。……でも、もう限界だろ? いいよ、先生。そうやって必死に嘘をついてる間、あんたの体温がどんどん上がっていくのを見てるのが、僕は一番好きだから。――ねえ、必要なところだけ、全部僕がやり直してあげる」
羽生の低い声が、隠していた新城の核心を容赦なく射抜く。新城は言い返す言葉を失い、喉の奥で熱い喘ぎを漏らすと、耐えるように唇を噛み締めた。
羽生は、前日の疲労を忘れたかのような軽い目覚めを覚えた。
隣に沈む新城は、驚くほど静かだった。厳格な教授だった面影が抜け落ちた、石像のような無防備さ。羽生はその寝顔を、自ら手入れをした「作品」の状態を検分するかのように、じっと、深く見つめた。
羽生:(……ふふ。そこまでして僕を拒みたかったんだ。本当に、可愛い人)
羽生は、新城の乱れた髪をそっと指先で整えた。新城が昨夜、理性を殺すために睡眠薬を飲み下したことなど、羽生は知らない。――いや、正確には、その不自然なほど重い眠りの正体に、薄々感づいてはいた。
だが、それをあえて指摘せず、ただ眺めて楽しむのが羽生のやり方だ。自分の「焦らし」という毒が、この誇り高い男を内側から焼き、薬の力を借りなければ眠れないほどに追い詰めた。
その事実を自覚してなお、今は触れずにいられること。――その制御こそが、羽生にとってはどんな愛の言葉よりも甘美だった。
新城を起こさぬよう、静かにベッドを抜け出す。リビングで朝食を整え、出立の準備を終えた頃、鏡の中の自分と目が合った。
青白い新城の顔色を思い出し、胸の奥でわずかな憐憫が芽生える。「ああ、僕がいないと、この人は自分を壊してしまうんだな」という、支配欲の混じった残酷な慈しみ。羽生は小さく、自分でも無自覚な笑みをこぼした。
2.慈しみの紙片
羽生が去った気配さえ、新城の意識には届かなかった。
重い泥の底から這い上がるように、新城は目を開ける。薬の残滓が頭の奥で濁った拍動を刻み、全身が鉛のように重い。
一度は身体を浮かせようとしたが、抗いきれぬ倦怠感に、再びシーツへと沈み込んだ。昨夜、自ら理性を断ち切ったという苦い感覚だけが、虚脱とともに全身に残っていた。
部屋には、もう誰もいない。
新城は諦念のまま、ヘッドボードへ視線を滑らせた。眼鏡の隣に、羽生の走り書きがある。重い腕を伸ばし、指先を震わせながらその紙片を掴んだ。
『先生へ。
顔色が悪かったから、起こさなかったよ。朝食は冷蔵庫。講義が終わったら、すぐ帰ります。全部、僕に埋め合わせさせてね。ゆっくり休んで』
メモを握りしめたまま、新城は再び目を閉じた。
新城:「……っ、」
喉の奥で、ひきつった音が漏れる。
羽生が残した端正な文字は、薬の副作用で荒れ果てた新城の意識において、唯一の鮮明な色彩として焼き付いていた。それは凍える者に差し出された灯火のような、救いの温かさを帯びている。
だが、同時に理解していた。その温もりこそが、新城の理性を毟り取り、羽生の管理下という名の深淵へ繋ぎ止めるための「鎖」であるということを。
新城:(……お前に、何が埋め合わせられるというんだ。……俺を、ここまで壊しておいて)
羽生は、自分が新城を追い詰めた加害者であることを一秒も認めない。それどころか、「体調の悪い恋人を気遣う献身的なパートナー」という、一点の曇りもない善意の仮面を被って、逃げ場のない救いの手を差し伸べてくる。
暴力で屈服させられるならば、まだ抗う術もあっただろう。
だが、この無垢な装いの献身こそが、今の新城にとっては、どんな枷(かせ)よりも逃れられない「可愛い檻」だった。拒絶すれば自分が冷酷な人間に思えてしまう。その心理的包囲網の中で、新城は自ら進んで檻の鍵を閉めるしかなかった。
2. 黄昏の解体
羽生が帰宅したのは、西日がリビングの奥まで長く伸び、室内に濃い影が落ち始める時間だった。
ドアが開く音も、近づいてくる気配も、新城の耳には届いていたはずだ。
だが彼は、ソファに深く腰を沈め、膝の上のノートPCに向き合ったまま動こうとしない。仕事に打ち込もうとする厳格な背中は、羽生の視線を意識した瞬間、微かに強張った。
羽生は、逃げ場を塞ぐように新城のそばへ歩み寄り、その顔を両手で包み込んだ。
来るべき瞬間を待っていたはずの新城が、指先が触れた瞬間に小さく息を詰める。羽生はその無防備な額へ、慈しむような、あるいは新たな所有印を刻むようなキスを落とした。
羽生:「ただいま、先生。……無理してるの、まだ続ける気? そんなところも、すごく可愛いけど」
その声に、新城の張り詰めていた防衛線がわずかに緩む。羽生の体温を確かめるように、深く、重い息を吐き出した。
新城:「……おかえり。見ての通り、立て込んでいるんだ。お前の相手をしている暇はない」
拒絶の言葉とは裏腹に、その声は熱を帯びて掠れている。羽生は新城の膝からPCをそっと取り上げ、有無を言わさぬ動作で電源を切った。その下から現れたのは、握りつぶされた昨夜のメモだ。
大学の教授としての矜持、多忙な研究者としての盾。羽生はそれらを、電源を切るという指先一つで、無価値なガラクタに変えてみせた。
今この空間において、新城に許されたアイデンティティは、羽生の指先に震える「ただの男」でしかないのだ。
羽生はメモをゆっくりと広げ、アイロンをかけるように指先で丁寧に皺を伸ばすと、新城の目の前で、それを大切そうに自分のポケットへ仕舞い込んだ。
羽生:「……そんなに強く握ってくれてたんだ。本当に、先生は正直だね」
新城:「……自惚れるな。ただ、捨て損ねただけだ」
皮肉な言葉で距離を取ろうとするが、内腿の「孔雀の目」が脈動し、羽生の熱を求めて疼き始める。
羽生:「昨日は、ちゃんと自分を止めてた。……でも、もう限界だろ? いいよ、先生。そうやって必死に嘘をついてる間、あんたの体温がどんどん上がっていくのを見てるのが、僕は一番好きだから。――ねえ、必要なところだけ、全部僕がやり直してあげる」
羽生の低い声が、隠していた新城の核心を容赦なく射抜く。新城は言い返す言葉を失い、喉の奥で熱い喘ぎを漏らすと、耐えるように唇を噛み締めた。
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