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期待
しおりを挟む執務室は衣擦れの音一つしない静寂に包まれていた。
旦那様からの反応が無いので、重ねて説明を続けようと口を開いた時、硬質で冷たい声が私を貫いた。
「────冗談が過ぎる」
冷や水を浴びせかけられたようだった。
どこかで、やはりわかってもらえると期待していたのだろう。
心が急速に冷えていく。
緊張で早鐘を打ち巡っていた血が止まり、色を無くしていった。
右手首のブレスレットに左手を重ね握り込む。
ゆっくりと震える唇を動かした。
「……昨年、正式に婚約を済ませ、私と旦那様は三か月前に婚姻し正式に妻となりました。旦那様はこの度の事故で記憶が一部不確かな部分があると──」
「嘘はやめてくれ。おもしろくもなんともない」
「嘘ではありません。……クリフやお迎えに立ち会った騎士様から聞いてませんか?」
「クリフ……言っていたか……? いや、だとしても、待ってくれ。俺は君と結婚しているのか? まさか。自分のことは覚えているし……何より俺にはミアがいるんだ。子、も……」
ぐらり、と旦那様の体が傾いた。
咄嗟に支えようと立ち上がると、大丈夫だと制された手が
拒んでいるように感じられて、チクリと心を刺す。
しかし、とても大丈夫な様子には見えない。
目は開いているのに、何も映していないかのように瞳が動いていない。
吹き出すように額に汗が浮かんで来ている。
ただならぬ様子に、やはり記憶の不確かさを指摘するのは今では無かったのかもしれないと後悔が心を掠めた。
「旦那様……」
「やめてくれ。”旦那様”なんて呼ばないでくれ。このことはクリフに確認する。いや、クリフは王城か? ステファン……ステファンはどこだ!」
「だん……いえ、ジョエル様。お待ちください。わたくしがステファンを呼んで参りますわ。落ち着いてくださいませ」
取り乱しどこかに行こうとする旦那様の腕に触れた瞬間
強い力で、旦那様の方へと伸ばしていた手を払われた。
私を愛していると言った、いつも包み込むような愛情が込められていた深い蒼の目が鋭く私を拒絶した。
「きゃ……ッ」
強い力で払われた拍子に、体ごと倒れた。
体を支える手が床を這い、鎖が私の右手首で揺れた。
私と旦那様の未来を、乗せるはずだった鎖が揺れた。
私の視線は鎖に捕らわれたままだった。
旦那様が素早い速さで近づいて来た気配があったが、手を差し伸べられることは無かった。
「……!すまない!……触れないでもらえるだろうか。まだ、君のことを……信じられないんだ」
「……ステファンを呼んできます」
ゆっくりと、一人で立ち上がり、乱れてしまったスカートを軽く翻し整える。
ソファーに座り直し、うなだれる旦那様を横目で確認して執務室のドアに手をかけると扉が向こうから開いた。
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