終末レンタル家族

井上シオ

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第2章:ほころびの家

第18話「名前のない街」

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 都市の境界線を越えると、空気の色が変わった。

 アスファルトは割れ、ビルは外壁を剥がし、電灯はまばたきのように不規則に瞬いていた。
 “名前のない街”――制度の外。
 そこには「家族構成」も「市民番号」も存在しない。
 人々は、“名前を捨てて”生きていた。
 

 ヒカルは、ナオトから譲り受けた簡易IDをポケットに入れ、フードを深くかぶった。

 「この街じゃ、名前を持ってるだけで“異物”扱いされる。気をつけろ」

 そう言って送り出されたときの言葉を、何度も思い返す。
 

 通りのあちこちに、手作りの屋台が並んでいた。
 焼けた鉄板の匂い、ひび割れたラジオ、笑い声。
 だがそのどれもが、どこかぼやけていた。

 なぜなら、誰も誰かを“名前で呼ばない”のだ。
 

「おーい! そこのあんたー! 荷物持ってくれ!」

「そっちの姉さん、水汲みはもう済んだのかい?」
 

 “おーい”“あんた”“姉さん”
 呼びかけはあるが、名前はない。
 人は互いを“存在”としては認めても、
 “関係”としては結ばない。
 

 ヒカルは、胸の奥に冷たいものを感じていた。

 これは、制度とは真逆の世界だ。
 “理想”の代わりに、“無関心”で自分を守っている場所。
 

 おもちが足元でぴたりと止まった。

「……どうした?」

 声をかけると、おもちは静かに、細い路地へと歩き出した。
 まるで――知っている道をたどっているように。

 

 ヒカルは無言でその後を追った。
 建物の影、さびた鉄の柵、つぎはぎの段ボールが積まれた細道。

 やがてその先に、小さな青いドアが見えた。

 

 おもちが、その前で止まった。

 ヒカルの胸が強く脈打つ。

 ドアの向こうに、誰かがいる気配。
 声はしない。けれど、確かに“待っている気配”がある。

 

 ヒカルは、深く息を吸って、扉をノックした。

 トン トン トン

 少しの間。
 そして、ゆっくりとドアが開いた。
 

 出てきたのは、一人の女性だった。
 髪は肩まで伸び、服は古びていたが、どこか見覚えのある輪郭。
 目の奥に、疲れと光が同時に宿っていた。

 ヒカルは、言葉を失った。
 

 彼女は、言った。
 

「……あなたの名前、聞かせてくれる?」
 

 ヒカルは、答えた。
 涙でにじんだ声で。

「……本間ヒカル、です」
 

 その瞬間、女性の瞳が見開かれ、唇が震えた。

 そして――
 

「ヒカル……ヒカル……」
 

 その声は、何度もヒカルの名を呼んだ。
 小さくて、震えていて、でも確かに――生きていた。

 それは、何よりも強い“再会”だった。
 

 名前のない街に響いた、
 たったひとつの、本物の名前。

 それが、ふたりを繋ぎ直していた。
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