年下幼馴染から逃げられない

南ひかり

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20話 昨夜

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 自分の手で終わらせられるはずのものを、いつまでも長引かせてしまう時がある。
 いつか、誰かが何とかしてくれる。
 いつか、時間が経てば変わっていくはずだ。
 そんな甘えた言葉に縋って、いつまでも変わらない日常にしがみつく。
 それは決して忍耐などではなく、逃避なのだと心のどこかでは分かっていた。
 変わりたいと思うのに、変化を恐れる自分がいる。
 置いて行かれる日常を誰かのせいにして、周りが妬ましく思う瞬間がある。
 そんなものは単なる自分勝手なのに。一歩踏み出せば、そこへたどり着けるはずなのに。
 けれどそれでも、足は動かない。誰かが手を引いてくれるのだと期待している。
 そしてその度に思うのだ。

 ああ自分はなんて。
 なんて、弱い人間なのだろうと。


◆◆◆



「んっ……」

 眩い光が反射した。無意識に伸ばしていた手の先には何もない。
 一体何に縋ろうとしたのか分からないまま、見慣れない天井が視界に入った。
(どこ……)
 むくりと体を起こすと、昨日のソファだった。
 確かソファで悠のおもりをしていたはずだが、いつのまにか眠ってしまっていたようだ。
 着ていたはずのジャケットとベルトが窓際のハンガーにかけられている。
(いつ脱いだっけ……?)
 ぼんやりとしたまま、何も思い出せない。隣に悠の姿が見えず、あたりを見回していると、トーストの焦げる匂いがした。

「おはよう、ちーちゃん」

 フライパンを片手に卵を割る悠の姿が目に入った。一瞬、状況を理解できずにぽかんと口が開く。

「お、おはよう……ございます……」
「もうすぐできるから待ってて」

 時計を見ればすでに九時。いつもなら出社時間だ。
 どこの世界に、社長より後に起きて朝食を作らせる秘書がいるものか。
 この時ばかりはさすがにやってしまったと頭を抱えた。

「ごめんね、うちベッドなくてさ」
「いや……大丈夫だけど……」

 まさかこのソファで毎日眠っているというのだろうか。確かに成人男性でも足を伸ばしてくつろげる大きさだが、毎日これでは疲れが取れないはずだ。
 テーブルには黄味がぷっくりと膨らんだ目玉焼きと、バターと苺ジャムをたっぷり塗ったトーストが並ぶ。
 昨日まで冷蔵庫には何も入っていなかった。まさか朝早くから買いに行ってくれたのだろうか。どう考えても秘書がやるべき仕事だ。
 せめて飲み物ぐらいは任せて欲しいと悠の手からマグカップを奪って珈琲を淹れた。
 あまりの罪悪感に顔が俯く。テーブルを見つめたまま手をつけずにいると、悠が不安そうに顔を覗き込む。

「あんまりお腹空いてなかった……?」
「そ、そうじゃなくて!」

 あまりの不甲斐なさに自己嫌悪に陥っていただけだ。

「じゃあ一緒に食べよ?」
「頂きます……」

 冷めてしまう前に頂かなければと箸を持つ。無意識に醤油に手を伸ばして目玉焼きに数滴垂らした。
(そういえば……)
 ちらっと悠を見る。その手元には醤油ではなく塩コショウの瓶がある。
(そういうとこ、ずるいのよね)
 朝からこんなことに気づきたくなかった。これでは昨日のことも怒れない。
 悠の顔色はすっかり良くなっていた。まだ完全に疲れが取れたとは言えないだろうが、ひとまず安心だ。


 片付けを終えて、ソファでくつろぐ。
 悠の予定が午後からとはいえ、もちろん私は出社していなければいけない時間だ。
 だが悠が笹桐さんに電話をして、結局一緒に出勤することになった。
(なんか……平和だなあ)
 こんなにもゆっくりした朝は随分久しぶりだ。いつも朝は一分一秒の戦い。
 こんな風にソファでゆっくりする時間はない。
 驚くほど心地よい朝にふっと口元が緩む。きっと昨夜は何もなかった。過ちなどあったはずがない。
 だって体は軽く、こんなにも清々しいのだから。

「昨日の夜だけど……覚えてる?」
「え!?」

 だがその平和も束の間、にこりと意味深な笑みを浮かべる悠に、だらだらと汗が流れる。
 やはり何か過ちを犯してしまったのだろうか。昨夜の記憶が全くない。
 言葉が見つからず押し黙っていると、ますますそんな気がしてきて顔が青ざめる。

「わ、私……何かした……?」

 きょとんと目を丸くして首を傾げたあと、悠は悪戯な笑みを浮かべた。

「じゃあもう一回、してみる?」

 ソファに押し倒され悠が覆い被さってくる。両手を掴まれ、目前に迫った顔に頭が真っ白になると、瞬きさえ忘れてしまう。
 ありえない。そんな過ちはさすがに犯さないはずだ。だが記憶がない分、正面から切ってかかれない。
 意識すればするほど不自然に身体が重いような気がしてくる。
(まさか、本当に……)
 ――悠と一線を越えてしまったのだろうか。
 すると悠がくすくす笑いながら、ぱっと手を離した。

「冗談だよ。なにもしてない」
「オレも馬鹿だよなあほんと。色々考えてたのにまさかすぐ寝ちゃうなんて」

 くしゃりと苦笑いを浮かべて髪をかきあげる。
 良かった。やはり何もなかったのだ。あからさまに安心して身体の力が抜けていく。

「体調悪かったんだから当然でしょ。あとちゃんとベッド買いなさい」
「買ったら一緒に寝てくれる?」

 期待に満ちた上目遣いで見上げられ、思わず視線を逸らす。

「ゆ……床で寝たほうがマシよ!」
「ひどいなあ。昔はよく一緒に寝たじゃん」
「昔と一緒にしないで」
「まあでもベッドは買うよ。ちーちゃんをソファで寝かせるわけにはいかないし」
「もう来ないわよ。これからお見送りは玄関まで」
「そう? じゃあ俺、また家で倒れちゃうかもなあ」
「うっ……」

 そんなことを言われてしまえば、強くは出られない。確かに昨日のようなことになるぐらいなら、悠が寝静まるまで見届けた方がマシだ。

「あのさちーちゃん……良かったら俺と一緒に――」

 その時だった。現実を告げるインターフォンが鳴り響く。
 時計を確認すると、ちょうど笹桐さんが迎えに行くと言っていた時間だった。

「……いこっか、ちーちゃん」

 残念そうに眉を垂れ下げて、悠が手を差し伸べる。
 いつもなら、一人で歩けますと言ってスタスタと先に歩いて行ったかもしれない。
 けれど弱った悠の姿を見てしまうと、どうもそんな気にはなれなかった。

「……はい」

 その手を取ってしまう自分が、どれだけ愚かで残酷なことをしているのか分かっている。
 けれどそれでも今は、この手を振り払う事はできなかった。

(嬉しそうな顔してさ……)

 まるで壊れものに触れるように握られたその手は、ほんの少しだけ震えていた。

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