昭和少年の貧乏ゆすり

末文治

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小学校入学-6

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 表札が掲げられた小さな門の格子戸を開け、雑草に挟まれた細い石の道を十数メートル余りも行くと玄関に辿り着く、Nの家を訪ねる。L字形に建った家の前の庭には椿や松の木、南天、八手など緑で溢れ、中程にはこじんまりんとした雲形の池が造られてある。
 <自分の家に池があり、鮒や鯉が泳いでいる、夢のような光景。こいつ、こんな家に住んでいたのか>
 そんな心を読めるはずもなく、「それ触ってみ」Nが気軽に声掛ける。指をさす方向に目をやると、池のそばにかわいい葉がたくさん並んでいる。何のことかと、その葉に指を触れた途端、葉が下に向かって動き出しぴったり閉じてしまったのでびっくり。次々に触っていくが、どれも一様にしおらしくうなだれる。
 「面白いやろ。それ、おじぎ草いうねんで。じぶんと違って皆んな素直やろ」
 Nが笑って説明する。
 「いま誰も居れへんから、上がり」とNが促す。よその家に上がるのは初めてのことだ。母の許可を得に帰らなくては、と躊躇する。「そんなことええやないか」と言うNに緊張して従う。玄関を入った正面の襖は閉まっていて、廊下に沿ってすぐの部屋に入ると、机と椅子がずらっと並んでいて、オルガンまで置いてある。
 家の中に廊下があることに始まって、何もかもに驚かされる。それだけで終わらない。そこを出た右の奥にガラス張りの部屋が控えていたのには感動すら覚えた。
 「中学生になったら、ここに入って勉強できるねん」Nが憧れるように言う。兄と弟、姉二人の五人兄弟、父親は                                           
一流高校の英語の教師をしているという。違う訳だ。
 一足先に玄関を出て待っていると、Nの足音が近づいてくる。それを見計らったように正面の襖が開いて、寝巻きのままの女の人が白い険しい顔つきで現れ、Nに小声で何やら言い続け頭を小突く。信じられない光景。
 外に出て来たNに「お母ちゃん、病気なんか。あれ、お母ちゃんなんやろ」と聞くが、Nは気まずそうにして返事をしない。
  公園を抜け、堤防を越え、川向こうの葦の群生が途切れた所に小さな池が潜んでいる。以前から狙いを付けていた小舟がまだそこにある。辺りを見回し、Nとそろりそろり乗り込む。備わっている棹をNが水中に突っ込み力を入れると、舟は音もなく進む。
 「わーっ、動いた動いた!」
 誰はばかることもなく歓声を上げ興奮する。舟に水が浸入してくるのでは、と冷や冷やするぐらい水面が迫ってくる、その心地良さに酔う。
 「そろそろ交代やで」Nに声を掛けようと思うが先に
 「誰に断って乗っとるんじゃーい!!」
 静寂を打ち破る怒声に、心臓が止まりそうになる。いつの間に、どこから現れたのか、岸辺に上半身裸のおっちゃんが全身を揺すって、こぶしを振り上げている。Nは棹を握り締めたまま動かない。
 「こらーっ、泥棒!!」
 喚きながら池伝いに追って来る。恐ろしい顔が見て取れる。
 「殺されてしまう。早よ、どこでもええから着けて逃げよ。早よ早よ!」
 舟が陸地にぶつかり、水際から死に物狂いで走る。振り返り振り返り走りまくり、おっちゃんの姿が見えなくなって、やっと走るのをめる。心臓が破裂しそうだ。
 「もう大丈夫やろ。怖かったな。あのおっちゃん、どこから出てきよったんや。びっくりさせよるで」
 「ほんまや、危ないとこやったな」
 荒い息をして顔を引き攣らせながらNが応える。
 「もうちょっと乗っていたかったな。漕ぎたかったし」
 Nに笑い掛けようとして足元が何だか頼りない。見ると、片一方が素足だ。
 「ああ、えらい事になったな。どこで脱げたんやろ。お母ちゃんに怒られるわ、どないしょ。もうちょっとしてから池まで探しに戻るわ」
 「あほなこと言うなよ。おっちゃんがまだ居ったら、どないするねん。ゴム草履片方ぐらいで済んで良かったやないか。あのおっちゃんに捕まってたら、どんな目にうてたと思うねん」
 Nの言葉に納得、草履を取り戻すのは諦める。悄気返って堤防を上がり下って行く。足取りが重い。公園の出入口近くにある水道の水をがぶ飲みする。いつもと変わらずうまい。
 「ここの水、なんとなく鉄管の匂いが混ざった<深緑色の味>がするやろ」 ーーこの表現が気に入り、来る度に友に訴えるが誰も理解しようとしない。Nも曖昧に頷くだけで不服だが、今日は草履のことで頭一杯だ。
 「今から学校に行ってみるわ。忘れ物か、捨てたやつがあるかも知れへん」
 学校に着いて、よその組の下駄箱の横長の蓋をNと片っ端から開けていく。埃臭い匂いがするだけで何の愛想もない。無駄足かと気落ちして最後、一番下の段の隅っこに片方だけのゴム草履が裏返しに、在る。急いで足を通してみると、鼻緒が相当くたびれて違和感があるものの履けないことはない。色も少々薄めだが同じ茶系でごまかしが利く。
 家に近づくにつれ夕闇が迫ってきて、足元を見ては安心感が増す。帰って炊事場で足を洗っていると、玄関で母の声がする。
 「草履、片方おかしいのと違う」
 「本間? それやったらNが間違えて履いて帰ったんかな。あいつ、あわてん坊のとこがあるからな」
 咄嗟に口をついて出る。頭を垂れて足を洗い続けていて、Nの庭のおじぎ草を想う。

                         
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