昭和少年の貧乏ゆすり

末文治

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小学校入学-10

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 朝、目覚めると、母に手を引かれ炊事場まで連れて行ってもらう。両目は脂(やに)で完全に塞がっている。洗面器にホウ酸を薄めたぬるま湯に脱脂綿を浸し、何度も丁寧に拭ってもらって、やっと目が開く。もう一週間もこんな状態が続いている。
 冬だというのに、半ズボンに太股まで引っ張り上げた綿の白い長靴下、この格好で学校に行くのが嫌で堪らない。寒いとか、股が幅広のゴムで締めつけられてうっとうしいとかいうより前に、とにかく「恥ずかしい!」。男として、皆と同じように長ズボンを履きたい! 文句をつける度に母は「言うてるやろ。三年生までは男の子も半ズボンの方がかわいいねん」と繰り返す。おおよそ、兄たちからのお下がりの具合が、ちぐはぐになっているのだろう。察しがつくから、我慢している。
 授業中、”しもやけ”の足指が堪らなく痒く、左右交互に踵で踏みつける。思わず歯をきつく噛み合わすほどの心地良さが頭のてっぺんまで走る。手の甲の”あかぎれ”は、見れば見るほど醜く不愉快極まる。一層汚したくなり鉛筆で無茶苦茶に塗りたくる。<望み通り>赤黒く変色した手を眺めていて口中に唾液が滲んでくる。そのざらざらした両の手の甲をきつく擦り合わせていると、痒みが熱っぽさと共に増し、溢れる唾を飲み込む。ついでにひび割れた皮膚をむしると淡いピンクの肉が顔を出す。次々に剥がしていって、痛痒さに耽っているうち、授業が終わる。
 シャツ一枚でドッジボールを楽しんだ体操の時間も済んで、教室で身繕いをする。汗ばんだ体に服を着ける。湿っぽく纏わり付く下着も授業が進むうち体温に馴染んでくるが、脇の辺りはいつまでも冷たく肌に触り気色悪くて仕方ない。それでも、授業が終わる頃にはすっかり乾いてくれる。
 下校時、何丁目の××で葬式があると伝わってくる。急いで駆けつけると、ちょうど棺が運び出されるところだ。間に合って良かった。霊柩車が土埃を上げて去ると、世話役さんが浅い木箱一杯に詰まった「岩おこし」を配り始める。人が群がるが、持ち前の身のこなしでちゃっかり二枚確保する。岩おこしが空になる頃、通りの人が引き、葬儀屋さんがちゃっちゃとシキビを片づけて葬式は終わる。亡くなったのは、おじいさんだったようだ。
 角のたばこ屋を曲がった所で焚き火(とんと)をしている。気ままにぶつかってくる煙を顔で避(よ)けながら日に当たる。おじさんが炭俵を放り込むと、喜び勇むように赤い炎が立ち、顔から腹、脛まで熱くて”しもやけ”や”あかぎれ”も治してくれるように思える。
「この”とんと”やったら、ええ塩梅に焼き上がるぞ」
 棒で火の中を突っつきながら、おじさんが言う。「焼き芋が入っている・・・・・・」
 いつか、燃えがらに埋もれた芋を掻き出すのを見つめていたら、おじさんが軍手をはめた手で割った鮮やかな黄色の一片を手渡してくれた。そのどっしりとした甘みが口中に甦る。今日もあわよくば・・・・・・いかにも体を暖めているふうに時間を稼ぐが、火はなかなか落ちない。おじさん達も話し込んでばかりいて動きはない。ひとり体裁悪くなって、その場を去る。
 あれほど温もった体も家に戻ると、すっかり冷え切っている。焚き火に比べると<火の消えたような>練炭火鉢に手をかざす。細かい網目が浮き上がったような醜い手の甲が嫌でも目に入る。腹立ち紛れに、脱脂綿にオキシドールをたっぷり染みこませて塗りまくる。じわじわと音立てて泡立ち、薬品の刺激臭を振りまいて皮膚に浸入していく。知らないうちに鼻汁が垂れている。
 明日は日曜日、楽しみな、風呂に行く日だ。先週は睡魔に襲われ、眠ってしまったから、二週間ぶりになる。楽しさが増す。

                      ***
「子供に年玉ぐらい置いて出て行き!」
 大晦日の晩、玄関の上がり框で屈み地下足袋を履いている父の肩を押さえて、母が言葉を浴びせる。母の手を払い、百円札二枚を投げ捨て父が出て行くーー。
 これで、明るいお正月が迎えられる。お腹の底から喜びが湧いてくる。毎日、お酒を飲んで帰ってきては母と言い合いし、時には怒鳴り声を上げうっとうしくて、うっとうしくて仕方がない。父の居ない生活が来るなんて、思ってもみなかった。この世の楽園だ。母は札を拾い上げ皺を伸ばしている。
 朗らかで「日本一」の母と兄二人、かわいい弟との「夢の五人家族」。二階には、母の姉と祖母(二人の母)が六畳と四畳の二間で住んでいる。伯母が夜に働きに出て祖母を養っている。
 元旦、年の順に段ばしごを上がって行き、改まって二人に挨拶する。ふだん使わない丁寧語で「おめでとうございます」と言うのが何とも照れくさいが、年に一回、お年玉のためなら致し方ない。伯母から貰った年玉袋を開けると、百円札一枚が入っている。むちゃくちゃ幸せな気分。
 表に出て、新年の外気に触れる。寒いが、清々しい! 通りを見渡す。二階から突き出して吊るされている大きな日の丸が真新しい物と取り替えられ、一際白く輝いている。さすが、旗屋さんだ。それに倣うように、あっちの軒先、こっちの軒先で日の丸が覗いている。祝祭日に国旗を立てる(というより、国旗がある)家は昔から決まっている。
 高く広がる薄水色の空を仰いで二度、三度と深呼吸をし、次兄と羽子板を始める。「カチン」「コチーン」、羽根をつく音が乾いた路上に歯切れ良く響く。隣や向かいのおばさんと顔を合わせては、畏まって「おめでとうございます」と声を掛けると、大人同士でするような丁寧なお辞儀で「おめでとうございます」と返され、気恥ずかしい。
 網一杯に餅を並べ置いた練炭火鉢の側で、母がカルタを読み上げる。兄弟四人が畳に散らばった札に目を配る。元日のカルタ取り、兄たちと互角に争っていて体が熱くなってくる。一枚も取れず拗ねていた弟がちゃっかりと膝元の札を押さえて笑顔を見せる。
 目隠しの日本手拭いを外した瞬間、福笑いのでたらめな顔の造りに一斉に噴き出し、遊びは延々と続く。伯母と祖母が便所を使いに下りてきて、戻りしなミカンの皮を剥きつつゲームを眺め、しばらくしてまた二階に上がっていく。
 双六は年齢差で力量が左右されないから、弟も身を乗り出してサイコロを放つ。「その五をくれ」と念仏を唱え、「上がり」「振り出し」と何度となく繰り返し飽きない。
 こんな毎日が一生続けば、どんなに幸せだろう。勉強はしなくていいし、母がずっと一緒に居て皆んなで冗談を言い合い涙が出るほど笑い転げる。
 酒飲みの父が帰って来ない、と分かっているだけで、こんなに伸び伸びと寛げるものなんだ、と父の有り難みを知る。皆も思いは同じだろう。その証拠に、誰も父のことなど口にしない。お母ちゃんも清々しているのだ。だから、こんなに笑いまくっている。ますます幸せな気分が深まってくる。後は長兄が「もうそろそろ止(や)めようか」と、いつ言い出すのかだけを心配していればいい。
 先程から急に北風が強まってきて、まるで人が叩くように玄関の戸を鳴らす。母がちらっと柱時計を見やり、「五人家族」の年の初めの夜が更けてゆく。

                       ***
 
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