うつしよの波 ~波およぎ兼光異伝~

春疾風

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関ヶ原の章

第十五話 関ヶ原の戦い(前編)

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 慶長五年(一六〇〇年)九月十五日。五十間(約九十メートル)先も見えぬ霧の中、小早川秀秋とその軍勢は松尾山の麓に布陣していた。
 一兵たりとも松尾山城に残してはいない。元より、望むのは短期決戦である。なれば留守居は必要ないと、秀秋は全ての兵をこの場に集結させていた。
 そしてまた、望むのは家康・三成という両軍の主力が干戈を交える決戦である。なれば、その戦いで小早川軍は傍観者であってはならない。秀秋は次代の政権にて秀頼を守り通せるだけの影響力を得ねばならぬのである。
 松尾山から万の軍勢が下るには半刻(約一時間)は掛かる。故に秀秋は小雨となった夜明けに合わせ、軍勢を率い山を下りていた。

 この霧が晴れた時、戦が始まる。戦の世を終わらせるための、最後の大戦おおいくさが。
 馬上に在った秀秋は、腰に差した波およぎ兼光の柄に触れた。
 遠き日の桜と義兄の笑顔が、脳裏に浮かぶ。
 義兄上。私は。貴方の見たかった世を、貴方の望んでいた世を、必ずもたらします。
 否、もうこの望みは私自身の血肉となっているのでしょう。
 どうか、若し叶うのならば、見守っていてください。
 秀秋の心は澄んでいた。
 そして――秀秋のその想いが届いたか。霧が、晴れてゆく。
 何処かで鉄砲の音が響く。続く、つわもの共の鬨の声。
「両軍動きました! 秀秋様、御下知を!」
 傍らに馬を並べる稲葉正成が秀秋を仰ぐ。秀秋は力強く頷いた。
 波およぎ兼光を抜き放ち、頭上に掲げる。
 正成が息を呑む。

 ――生きてくれ。

 何処からか、しかし確かに秀秋の耳にその声は届いた。
 心の蔵が沸き立つ。

 私は今、義兄と共にある!

 勢い良く振り降ろされた波およぎ兼光が、眼前の一隊を捉えた。
「大谷刑部少輔吉継の陣へ攻め上れ! 諸君らの命運は、我が背負いたり!」

 少年のその叫びは、確かにこの男の耳へも届いていた。
 関白様。見ておられますか。秀秋殿は今、確かに良き将として此処に居られます。
 藤堂高虎は、その大柄な背に負う大太刀を鞘より抜き放った。
 大兼光。高虎が秀吉の遺物として拝領したこの大太刀もまた、波およぎ兼光と同じく名工・備前長船兼光により鍛えられた刀である。
「我らも大谷吉継の陣を攻めよ! 秀秋殿と挟撃するのだ!」
 高虎の怒号にも似た号令が戦場に響き渡る。一斉に軍勢が声を上げ駆け抜けていく。
 某は、秀秋殿を必ず勝たせる。そう、その為に手は既に打っている。
 ――関白様が世に活かせと仰って下さった某の才、とくと味わうが良い、大谷吉継。

「押せ! 押せ! 押せえっ!」
 福島正則の低い怒声が大気を震わせる。正則は焦っていた。
 この戦、本来の先鋒は正則であった。しかし、徳川の重臣・井伊直政と家康の四男・松平忠吉に抜け駆けされ先鋒を許してしまう。
 本来、抜け駆けは軍法違反として厳しく処罰される。しかし、二人はあえて・・・抜け駆けを行った。
 恐らく、家康は彼らを処罰しない。家康はこの戦、いや、三成との政争に勝ち、その様な「無理」を押し通せる存在と成るだろう。それはまるで、かつての豊臣秀吉の様に。
 だからこそ正則はこれまでの戦、特に岐阜城の戦いでは自身ら豊臣恩顧の大名が主体となって戦功を得られるよう行動していたのだ。徳川の政権下でも自身らが影響力を持てるようにと。
 だが、其処に来てこの抜け駆け。家康がこの戦を「徳川の物」と為さんとしている事は明白であった。
 しかし、否、それ故に手を緩めてはならぬのだ。
 正則は手にした太刀、福島光忠を振り上げ怒号を轟かせた。
「進め! 進めっ! この戦に福島此処に在りと示すのだ!」

「皆の者! 気迫で負けるな!」
 宇喜多秀家の声が朗々と響く。彼の軍勢は正則・直政の軍勢と矛を交えていた。秀秋の聞いた開戦の鬨の声は彼らのものであった。
「この戦で家康を下す! 世を我らの手に取り戻すのだ!」
 秀家が手にした刀・薩摩正宗を真直ぐに正則の軍勢へと向ける。
「この戦に負けることがあってはならぬ! 我らが生き残る為に!」
 秀家の号令と共に鉄砲の音が連なって響いた。

 秀家様も、こういう所では本音を出すことが出来るではないか。
 秀家の軍勢の脇に布陣していた小西行長は、心中でそう呟いた。
 結局、秀家も本心では豊臣政権下での自身の五大老としての影響力を欲していたのだ。
 無論、その思いに善悪など無い。行長は唯、人の営みとは矢張りそういう物なのだと噛み締めていた。
 剥き出しの感情、思いの儘流れる声。この場にては取り繕う必要など無い。行長は平時の一種独特な言葉遣いではなく、己が心の声を有るが儘叫んだ。
「私どもも負けてはおれぬぞ! 秀家様を援護しろ! 間違っても討たせるな!」
 行長が刀・芦葉江を大きく振り上げる。その声に鼓舞されたか、槍を携えた兵が一斉に突撃する。
 それにしても。
 行長がちらりと南宮山へ視線を向ける。
 ――南宮山に動く気配は無い。やはり、広家殿は……。

「関ヶ原で両軍が激突した! 何ゆえ我らは出ぬのか!」
 南宮山・麓、広家の陣。吉川広家は二人の男――毛利秀元と安国寺恵瓊に詰め寄られていた。秀元が激昂し叫んでいる。
「元より、南宮山の我らに出陣の命は下っていない。出る訳には参りません」
 相対する広家は冷静に、あくまでも淡々と秀元へ返答した。
「例え命があろうと広家殿に出陣する気は無いのであろうが」
 憎々しげに片目を瞑り、恵瓊が広家に言い放つ。
「では恵瓊殿は如何する」
「広家殿が動かぬと言うのであれば、拙僧らのみでも打って出てくれるわ」
 恵瓊のその言に、広家は冷笑する様に口角を吊り上げた。
「南宮山の先鋒はこの吉川広家。よもや軍法に煩き坊主殿が抜け駆けなさるお積もりか?」
 恵瓊が口篭る。かつて蔚山城救援の折、恵瓊は広家を軍法違反として糾弾していた。ここで自身が軍法違反を犯しては立つ瀬が無い。
 ぎりっ。秀元は歯軋りすると短刀の柄を握る。厚藤四郎。かつて秀次が所持していたこの短刀は、秀吉の形見分けにより秀元の手に渡っていた。
「最早広家殿は我らの同心では無い! ならば討ち果たしたとて軍法違反に問われようか!」
「俺を斬って気が済むのならどうぞお斬り下さい。秀元様が如何に動こうが、最早家康殿の勝利は揺るがない」
 秀元と広家、二人の視線が交差する。
「ふざけるなああああっ!」
 秀元が厚藤四郎を抜き、踏み込む。
 刹那、火花が散った。
「但し。俺を斬ると言うのならば、これよりの徳川との調停、秀元様は全て背負う覚悟が御有りなのですね?」
「そんなもの……!」
 広家は腰の太刀を抜き放ち、秀元の厚藤四郎を受けていた。狐ヶ崎為次。吉川家重代の宝であり、その名もまた、吉川家の祖・吉川友兼が駿河・狐ヶ崎の地で敵を討った事に由来している。
「如何様に謗られようと、罵られようと、毛利を守り貫く覚悟が、本当に御有りなのですね?」
「……っ!」
 指が痺れ、掌にじわりと血が滲む。秀元の怪力に、じりじりと狐ヶ崎為次が押し戻されてゆく。
「嘗めるなよ。こっちだってなあ……半端な覚悟で毛利守ってんじゃねえんだよ!」
 響く、鉄の打ち合う音。広家の気迫が秀元を押し返していた。
「まだ、やりますか?」
 広家は上がる息のまま、狐ヶ崎為次を秀元へと向ける。
「……退くぞ、恵瓊殿」
「仕方ありませんな」
 秀元が恵瓊の肩を引き寄せる。恵瓊は一つ溜息を吐いた。
 二人が広家に背を向け歩いてゆく。しかし秀元は陣幕を潜る前に踵を返し、言った。
「だが私は、お前の事を決して許しはしないからな」
 陣幕が翻り、二人の姿は見えなくなった。
 狐ヶ崎為次を黒塗りの鞘に納めると、広家はどっかと床几に腰を下ろした。
 本当に辛いのは……ここからだな。
 広家は大きく溜息を吐いた。見える筈も無いが、関ヶ原を向く。
 ――後は……上手くやれよ、秀秋。

「押し返されたとて怯むな! 整然と馬を進めよ!」
 戦場に響き渡る少年の声。秀秋と高虎の軍勢は、大谷吉継、そして戸田勝成と平塚為広の陣へと攻め上っていた。
 あの男も中々のものだ。流石、我が策を弄しても殺しきれなかった男よ。
 輿に揺られながら、吉継は刀・敦賀正宗を確かに秀秋の在る方へと向けていた。その様は、この男がとうに瞳から光を失っていることを感じさせぬものであった。
「地の利は我らにある、守りを固めよ!」
 後世、吉継の軍勢は敵勢を三度押し返したと伝わるが、何の事は無い。戦と言う物は大抵の場合守備側が有利なのだ。吉継らの軍勢は去る九月三日にはこの地に布陣を始めていた。即ち、それよりこの九月十五日までの間、吉継らは防柵を整えるだけの時を有していた事になる。
 しかし、秀秋の軍勢はそれでも果敢に攻め寄せていた。
「味方がたおれても臆するな! 蔚山城を思い出せ! 諸君らはかの秀秋様の兵なのだ!」
 秀秋のやや前方を駆ける正成が、手にした脇差を掲げ叫ぶ。
 その声に鼓舞されたか、軍勢が野に咲く彼岸花を散らし駆けてゆく。舞い散る赤き花弁が晴れ渡る青空に鮮やかに映えた。
 秀秋率いる軍勢の士気は高かった。無論、元来隆景の鍛え上げた屈強の兵というのも一理ある。しかし何より、彼らは蔚山城の戦いであの秀秋と――鮮やかに緋色の陣羽織を翻し駆け、波およぎ兼光で十三騎もの敵を屠った秀秋と共に戦ったのである。
 その鮮烈な若き名将に恥じぬ兵でありたいという気概。それが彼らの士気――即ち、例え眼前で味方が討たれようとその屍を乗り越え戦う狂気にも似た覚悟を生み出していた。

 よもやあの男がこの様な力攻めの策を取ろうとは。争いを好まぬ小倅だと、我は何処かで侮っていたのやも知れぬな。
 吉継は敦賀正宗を翻しながら、その秀秋とよく似たある男の事を思い出していた。
 ――敵が防衛しておる所に迂闊に攻め寄せても優位には立てぬし、万一陣形が崩れては甚大な損害を被るであろう。なれば、此方は時を掛けても整然と進軍した方が手合いを焦燥させられると思ったのみよ。
 碧蹄館の戦いの後、何故直ぐに攻め寄せなかったのかと問う吉継に、その男はこう答えて笑っていた。
 眼前に迫る軍勢を率いる男の義父――小早川隆景だ。
 だが、それでも。我は退く訳にはいかぬ。我は誓ったのだ、三成を勝たせると。
 吉継がそう力んだ直後、目前の藪が割れ、一騎の騎馬武者が姿を現した。
「吉継殿っ!」
 騎馬武者――戸田勝成が下馬し吉継の元に駆け寄る。足元で彼岸花が踏み折れていた。
「脇坂・朽木・赤座・小川ら四将が、我らに攻撃を……!」
「何っ」
 吉継の目が大きく見開かれた。
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