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関ヶ原の章
第十七話 秀包と宗茂
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同日。慶長五年(一六〇〇年)九月十五日、大津城。
「さて、これで遅れた分の役は果たせたかな」
立花宗茂は満足げに微笑み、備前長船兼光を鞘へ納めた。
「笑止。寧ろこれよりが本番なのだ」
「ふっ、違いないな」
雨夜手拍子を肩に担ぎ、フン、と何時もの様に鼻を鳴らす毛利秀包に宗茂は苦笑した。
九月三日より大津城に籠城を始めていた京極高次であったが、秀包・宗茂らの奮戦もありこの十五日、高野山の僧・木食応其の仲介により開城していた。
「なれば、あまり此処に長居する必要も無いな。大垣を目指し、三成殿と合流する事としよう」
そう宗茂が言い掛けた時であった。
「宗茂様、秀包様、申し上げます!」
突如、二人の元へ伝令が駆け寄ってくる。伝令は数里を一息に駆けて来たが如く土埃にまみれ、只ならぬ様子であった。
「どうした、何があった」
「ほ、本日明け方より関ヶ原にて三成殿と家康殿の大軍勢を率いた合戦があり、お味方悉く敗走或いは討死と」
何を言っているのか分からない。それが二人の率直な感想であった。僅かの沈黙の後、二人の声が静寂を裂いた。
「敗走或いは討死だと? 秀秋は……秀元様や広家殿はどうなったと言うのだ」
「関ヶ原にて三成殿と家康殿の合戦? 何ゆえその様な戦が起こっている」
秀包は伝令の肩を掴み引き寄せる様に問い詰めた。傍らでは宗茂が険しい表情を浮かべている。
「も、申し上げにくいのですが……」
「申せ、それがお前の役目であろう」
見る間に青ざめていく使者の肩を秀包が揺らす。
「秀秋様が家康殿に同心され松尾山城を奪い取り、三成殿らは其れを謀叛として討伐の兵を関ヶ原へ差し向けました。しかし後を追う様に家康殿の軍勢も着陣され、合戦が起こるに至ったと。合戦の際毛利勢は南宮山に陣しておりましたが、ついぞ動く事は無かったと……」
秀包は一息つき、使者の肩を離した。
「つまり、秀秋や毛利の者共は生きておるのだな」
「は。今は佐和山城の接収に向かわれたと」
宗茂は眉間に皺を寄せると、吐き捨てる様に言った。
「何と言う事だ。秀秋殿がその様な手を使うとは。毛利の者共も家康殿に同心したも同然ではないか」
「……うむ」
宗茂の言に、秀包の心に波が立つ。その波はざわめく様に畝っていた。平生冷静な秀包である。その心に波が立ったのは幾年振りであろうか。
「とにかく、今俺達の取る事の出来る方策は二つだ。佐和山城に籠城するか、大坂城に籠城するか。使者殿、三成殿の行方は存じているか」
宗茂の言に使者がかぶりを振る。
「戦場より撤退したとお聞き致しましたが、それより後の行方は知れずと」
「三成殿の生死は知れず。となれば大坂城へ向かうより他に手は無いか」
宗茂は腕を組み強く頷くと、秀包へと向き直った。
「俺は大坂城へ向かい、輝元様に籠城を進言する。お前も来てくれるか、秀包」
「……ああ」
秀包の心の波は止む事無く畝っている。その波に、秀包は悪しき予感を覚えていた。
九月十六日、京・三条。
十六夜の月の元、宗茂と秀包は馬を並べていた。その後ろには軍勢が率いられている。
「宗茂、大坂城へ向かうのでは無いのか。何故京に馬を走らせている」
「より籠城を確実とする為に、いや、徳川方との交渉を有利に進める為に、俺に一つ手立てがある」
月影を背に宗茂の顔が浮かび上がる。逆光で表情を窺い知る事は出来なかったが、その目だけが剣呑な光を放っていた。
ある屋敷の前に宗茂が馬を止める。それを見て、秀包もまた馬を止めた。
「この屋敷は、まさか……」
「そう。おね様の屋敷だ。今、この屋敷は家定殿……秀秋殿の実の父君が守っておられる。おね様と家定殿、このお二方に大坂城へ入って頂くのだ」
秀包が口篭る。恐らく、宗茂は秀秋を警戒している。だからこそ実の叔母と父である二人を質にせんと目論んだのだ。確かに秀秋がこの二人に刃を向けるとは思えない。手立てとしてはかなり効果的だろう。
だが――秀包は何処か違和感を感じていた。
「家定殿! 木下肥後守家定殿はおられますか!」
悩む秀包を他所に、宗茂は屋敷の門扉へと声を張り上げていた。
「はい、どなた様でしょうか?」
まるで平時に客人が来たかの如く気の抜けそうな声がし、ゆるりと門扉が開いてゆく。
その隙間から壮年の男が顔を覗かせていた。何処か秀秋に似ている気がする、と秀包は思った。
「柳川侍従・立花宗茂と久留米侍従・毛利秀包に御座います。家定殿、本日はお願いに上がりました」
「はいはい、何でしょう」
剣呑な宗茂と相対しても家定はその飄々とした態度を一切崩さない。宗茂は僅かに咳払いをし、言った。
「御子息・秀秋殿の関ヶ原での行いを聞いていらっしゃいますか」
家定の眉が僅かに動く。
「私としては、あの子はもう隆景殿の御子息の心算でいるけどね。それで、秀秋が何か?」
まるで悪戯をした童の親の様な口振りで家定が宗茂に返答する。
「関ヶ原の合戦にて御子息・秀秋殿は約定を変じ家康殿に与し、その為三成殿が敗北致しました。家定殿が若し殿下への御恩を御忘れで無ければ、我らの軍勢と共に大坂城に篭り秀頼様への忠を尽くしましょう」
宗茂が朗々と口上を述べる。秀包はただ傍らで口篭っていた。心の波は愈々波頭を立て始めている。
「ああ、成程。そういう事か。少し待っていてくれるかな」
そう言うと、家定は門を閉じ引っ込んでいった。宗茂と秀包が二人、門の前に残される。無論、その後ろには軍勢が控えているのであるが。
「宗茂、本当に家定殿が我らに与すると思うか?」
秀包が目線のみを宗茂へ向ける。その怜悧な顔には、心の波を写したかの如く眉間に皺が浮かんでいた。
「無論だ。与する宛があると考えている故、私は此処に来ているのだ」
四半刻程待たされた後だろうか、開け放つかの様に勢い良く扉が開かれた。其処に立っていたのは鞘に入れられた太刀を持つ家定。そして――こちら側へ槍を向ける兵士達であった。
「これが私の答えだよ、宗茂殿」
射抜く様な視線を宗茂に投げかけたまま、家定は笑っていた。
「貴殿も約定を変じる心算なのか!」
叫びながら腰の備前長船兼光に手を掛ける宗茂に、家定は溜息を吐く様に僅かに息を吐き出した。
「そもそも、先に約定を違えたのは君達だよ、宗茂殿。家康殿は『秀頼様のため』、豊家の認を得て兵を上げたんだ。それに対して君達が秀頼様を奪い取って謀叛を起こした――あの子の手柄で家康殿が勝った今、そう言う事になったんだよ。分かったら退いてくれるかい」
飄々と言い放つ家定に、宗茂は吠える様に叫んだ。
「御同心頂けないのであれば……!」
「私にも、守らねばならない物があるんだ」
家定が鞘から太刀を抜き放つ。上品な輝きを放つ刃、そして何よりその佇まいの美しさに宗茂が思わず息を飲む。
「本当は妹の物なんだけれど、この一大事だからね。借りて来たんだ」
打のけの三日月が月光を映し、光る。
三日月宗近。平安時代、この三条の地にて活躍した名工・宗近により鍛えられた刀である。この刀は打のけが三日月の如くであることからその名が付いたと言う。
そして。この三日月宗近は室町時代より天下五剣として鬼丸国綱、童子切安綱、大典太光世、数珠丸恒次と共に称された名刀中の名刀であった。
「私はあの子の様に頭が切れる訳でも無いし、君達の様に腕が立つ訳でも無い。でもね。妹や子供達――家族の為ならこの腕の残っている限り戦う覚悟ではあるよ」
家定が三日月宗近を構える。それは型など無い、言ってしまえば構えにすら成っていない稚拙な物であった。
しかし。このまま刃を交える事になれば、家定は文字通り死ぬまで戦うだろう。否、この圧倒的な戦力差では戦闘にすらなりはしない。一方的な嬲り殺しだ。
だが若しその様な事態となれば、おねが自害する事も考えられない事では無い。
そうなれば秀秋は自分達を決して許しはしないだろう。間違い無く全身全霊を掛け潰しに掛かるであろう。
宗茂とて大坂城に籠城し討死しようと言うのではない。「生き残る」為に家康と有利な条件で和睦を結ぶ事が目的なのである。
「退くぞ、秀包」
其処までしてこの男を連れて行く利は無い。宗茂は最終的にそう判断した。
宗茂が掌を翻し、率いていた軍勢を引き返させる。そのまま軽く秀包の肩を叩き、宗茂もまた去っていった。
しかし、秀包はその場から動く事が出来なかった。殺気の失せた事を察してか家定も三日月宗近を鞘に納め、兵を散開させていた。
「家定殿……有難うございます」
己でも何故その言葉が口を衝いたのか分からない。気が付けば、秀包は家定に感謝の言葉を口走っていた。
「私は礼を言われる事など何もしていないよ」
家定はまた飄々とした人当たりの良い態度に戻っていた。僅かに俯く秀包に、家定が和やかに声を掛ける。
「礼を言うのは私の方だ。あの子の兄になってくれてありがとう。秀包殿」
秀包の視界が微かにぼやける。秀包はこみ上げる物を堪えると、家定に真直ぐに向き合った。
「某は未だ兄らしい事は一つも出来ておりませぬ。ですが……そう思って頂けて有難く存じます」
秀包は深々と辞儀をしていた。顔を上げた時、其処には変わらぬ家定の笑顔があった。
翌日。九月十七日。大坂に至った宗茂は大坂城に登り、輝元と面会していた。
「かくなる上はこの大坂城に籠城し、家康殿と一戦仕りましょうぞ」
家定とおねを大坂城に質とする計画が破綻した宗茂は、最早この手しか無いと「総大将」である輝元へ直談判という手段に出ていたのである。
「籠城か……」
余計な事を言ってくれるな。それが輝元の本音であった。
輝元は八月に岐阜城の陥落した時分より、広家を通して家康との和睦の途を探り始めていた。尤も、その時点では情勢がどちらに転んだとしても対応できる様にと言う性質の物であったのだが。
しかし関ヶ原で三成が敗れ去りその行方も知れずとなった今、形振り構わず和睦するより他に道は無かった。輝元とて毛利を滅ぼしたい訳では無い。毛利存続の為には多少不利な条件でも飲む覚悟はしていた。加えて、この日秀秋らが佐和山城攻めを開始したと聞いては悠長に構えている時間すら無かったのである。
「この様な事態と成った今、徒に籠城して秀頼様の身を危険に晒すよりも性急に家康殿と講和し城を明け渡す方が秀頼様の御為と思うが、どうか」
輝元の返答に、宗茂は失望を覚えていた。
一見、この言は忠義心に訴えかけている様に見える。しかし、その実は毛利のみの和睦である。その言に乗ったとて、立花家は改易を待つだけなのだ。
「……もう良い、輝元殿。某は柳川へ帰参する事とする。然らば御免」
苛立った声で輝元へ返答した宗茂は踵を返し、振り返る事無く早足でその場を発った。
結局、こののち「此度の事は三成と恵瓊の独断であり、輝元は担ぎあげられただけであるので毛利は不問とする」という内容の和議を取り付けた輝元は、九月二十五日に大坂城を退去する事となる。
「秀包。俺は柳川に戻り、家康殿に与した諸将と一戦仕ろうと考えている」
安芸・蒲刈島。航路で九州・筑後へ向かう宗茂は、瀬戸内に浮かぶこの島の港で休息を取っていた。傍らには秀包が佇んでいる。秀包も船で宗茂と共にこの蒲刈島まで来ていた。恐らく己と共に筑後まで帰参するのだろうと宗茂は考えていた。
「そうか……」
しかし、相対する秀包はどこか気がそぞろといった様子で海を眺めている。宗茂は大きく息を吸い込むと、一際声を響かせた。
「この際だ。俺の胸中を隠さず伝えたい」
宗茂は秀包を真直ぐに見据えた。その眼差しに、秀包が思わず向き直る。
「秀包。お前が毛利を大切に思っている事は知っている。しかし、今回の関ヶ原での企てについては俺にもお前にも何の相談も無かった。お前は殿下より久留米に領地を頂いた独立大名と言える地位だ。最早毛利に従う道理は無い」
波音が大きく響いた。空に舞う飛沫が日の光を受け綺羅の如く輝く。
「どうか、俺と共に九州へ下ってくれ。その上で柳川城・久留米城一丸となって徳川方と一戦仕り、武門の意地を示すのだ。その上で和睦し、本領安堵を勝ち取ろう」
燃え盛る炎の様な宗茂、凍て付く氷の様な秀包。二人の視線が交差する。
しかし秀包は不意に目を伏せた。
「俺は、お前と行く事は出来ない」
「何故だ……? ならば、何故俺と共に此処まで来たのだ」
宗茂は愕然とした。
秀包と己は義兄弟の契りを交わし、数多の戦場を共にした仲である。なれば命運を共にするのであろう。無意識の内に宗茂はそう考えていた。
「此処までお前と共に来たのは監視の為だ。若し、お前が畿内・中国で騒乱を起こす心算ならば俺が止める算段であった」
そう語る秀包の目は、冷たくも僅かに哀情を含んでいた。
「……毛利の為に、お前が其処までする義理が何処にあると言うのだ!」
「毛利の為では無い。これは俺の選んだ道だ」
激昂する宗茂に、秀包は視線を戻し明瞭な声で答えた。
「俺は、兄としてあいつの……秀秋の決断を無為にしたくは無いのだ」
「秀包、お前もあの男と同じだと言うのか!」
其れは悲憤か哀傷か。気が付けば、宗茂は備前長船兼光を抜き放ち秀包へと斬りかかっていた。
「否。俺は俺、あいつはあいつ、お前はお前だ」
しかし、その太刀筋は秀包の鉄砲兼光により受け止められる。それを嚆矢として秀包の供回りと宗茂の供回りの小競り合いが始まった。
「俺よりもあの男が正しいと言うのか!」
「正しいかなど分からぬ。唯俺は、兄上が後継と認めたあいつの決断であるからこそ認めたのだ」
秀包が宗茂の剣筋を的確に読み、受け流す。まるで剣舞の如きその光景は、確かに阿吽の呼吸で戦場を渡ってきたこの二人にしか出来ぬものであった。
「宗茂、刀を収めてくれ。この様な争いは無意味だろう」
「意味の有無では無い! 戦場を共に駆けたあの日々は偽りだったと言うのか!」
宗茂が一歩踏み込み、秀包に斬りかかる。秀包はその刃をしかと受け止めると、宗茂を真直ぐに見据えた。
「それは違う。お前は掛けがえのない相棒だ、だからこそ俺は」
しかし秀包の声は銃声に掻き消された。
身を屈めるように蹲る秀包。撃たれた――そう思うのも束の間、脇腹に燃えるような痛みが走る。
秀包の供回りが憤怒の形相で宗茂に襲いかからんとする。
「止めよ」
だが、その刃は秀包の声によって遮られた。
「俺はお前と共には行けない。だが、お前の望みは遂げさせたい。故に俺はお前を止めない」
切れた唇から血を零しながら、秀包は微笑んでいた。宗茂はその秀包の顔を見詰めたまま、眉を吊り上げた。
怒っているのか、悲しんでいるのか、それとも喜んでいるのか。最早分からなかった。
だが、目前のこの男は確かに己の片割れと言うべき相棒である。
「済まぬ……俺は行く」
「謝るな。お前の思う道を行けばいい」
宗茂は踵を返し、振り返る事無く港へと歩き出した。
――これで、義理は果たせたか。
その背中を見遣りながら、秀包は瞑目し崩れ落ちた。
九月二十一日、夜。名島城。
九州へ到達した宗茂は、秀秋の居城であるこの城に赴いていた。
「我らはこれより筑前を通り、柳川へと帰参する所存である。しかしながら、秀秋殿は家康殿に同心なされた。なれば、名島城は我らを敵と為して一戦仕るか否か。お聞かせ願いたい」
宗茂と相対する名島城の留守居は、取り立てて思案する様子も無く答えた。
「なれば、其の儘筑前をお通りになり柳川へと御帰還なさって下さい」
この者の名は堀田正吉。文禄元年(一五九二年)より小早川隆景に仕え始め、秀秋の養子入りに伴いそのまま秀秋の家臣となった男である。稲葉正成の娘婿であり、その立場もあってかこの名島城の留守居を任されていた。
「臆されたか」
「いいえ。秀秋様の御活躍で大勢の決した以上、此処で戦う事に何の意味もありません。秀秋様は戦を望んでおられる訳でも、三成殿憎しで兵を挙げたのでもありません。ただ、秀頼様の御無事と天下の静謐を望まれているのです」
正吉の返答に、宗茂は思い起こす。秀秋は家康に与したのだから、当然三成に与した己とは敵対するものだと考えていた。しかし、そうは成らなかった。
秀秋殿は、敵と味方と言う二元では物を見ていないのやも知れない。
「心得た。非礼を許されよ。なれば我らはこれより筑前を進み柳川へと向かわせて頂こう」
宗茂は深く辞儀をすると、名島城を後にした。
九月二十三日、宗茂は柳川へと帰還する。
そして十月十五日より、鍋島直茂・勝茂父子、黒田如水による柳川攻めが始まる。
鍋島勝茂は元々会津征伐に与する算段で出立したが、三成による関所の封鎖により三成方に与する事を余儀無くされた。故に、鍋島家が生き残る為には家康方として武功を挙げねばならぬ状況に陥っていたのである。黒田如水はその鍋島勢の軍監として赴いていた。
江上・八院の戦いでは鍋島勢を多数討ち取った立花勢であったが、大軍の前には如何ともし難く柳川城への籠城を余儀なくされる事となる。
其処へ、一人の男が調停に訪れる。加藤清正であった。
小西行長の居城・宇土城を接収した清正は、九州の騒乱を収めるべく柳川へと馬を奔らせていたのである。
「これ以上の戦いは無意味だ。下ってくれないか、宗茂殿」
柳川城の一室で、清正は宗茂と相対する。
「意味の有無は当方が決める事。我らは、生半可で膝を屈する事は出来ぬのだ」
宗茂は固く拳を握り締めた。己の半身とも言える相棒を、秀包を撃ってまでこの戦に臨んでいるのだ。その秀包に恥ずべき戦は出来ない。秀包と別れ一月近くが経った今、その思いはより強固になっていた。
「鍋島殿には既に話を付けている。江上と八院の戦で鍋島勢は十分に活躍した、これで家康殿への義理は立ったであろうと。故に、もう鍋島勢が攻めかかる事は無い。立花勢も同じだ。あの戦で十二分に武門の意地を見せ付けた。故に家康殿も決して悪くは扱わない」
「だが、俺は」
眉間に皺を寄せ唇を噛む宗茂に、清正は慮る様に言った。
「秀包殿の事を気にかけているのか」
宗茂が僅かに清正から視線を離した。
「秀包殿は秀包殿、宗茂殿は宗茂殿だろう」
ふと、秀包の声が宗茂の脳裏に蘇る。
――俺は俺、あいつはあいつ、お前はお前だ。
溢れそうな涙を、一層唇を噛み締め抑え付ける。
「正直に申せば、立花家の改易は免れないだろう。だが宗茂殿に奥方殿、そして御家衆の無事は俺が必ず保証する。若し家康殿がこれを違えるのならば俺が斬る。宗茂殿の武勇なれば、必ず復領は成るだろう」
清正が、ぐい、と頭を下げた。
「だから、どうか頼む」
宗茂は僅かに目を伏せた。怜悧だが優しい、あの声が脳裏に浮かぶ。
――お前の望みは遂げさせたい。故に俺はお前を止めない。
秀包の心中も、今ならば理解できる気がした。否。本当は分かっていたのだ。刃を交えたあの時、既に。
それを納得できず、俺は刃を振り翳していたのだ。
俺は、生きよう。生きて立花の名を残そう。
「相分かった。家康殿の元へ下ろう」
かくして十一月三日。宗茂は柳川城を開城、その身は清正の預かりとなった。
その名が再び歴史の表舞台へと登場するのは、これより十四年後の事となる。
「さて、これで遅れた分の役は果たせたかな」
立花宗茂は満足げに微笑み、備前長船兼光を鞘へ納めた。
「笑止。寧ろこれよりが本番なのだ」
「ふっ、違いないな」
雨夜手拍子を肩に担ぎ、フン、と何時もの様に鼻を鳴らす毛利秀包に宗茂は苦笑した。
九月三日より大津城に籠城を始めていた京極高次であったが、秀包・宗茂らの奮戦もありこの十五日、高野山の僧・木食応其の仲介により開城していた。
「なれば、あまり此処に長居する必要も無いな。大垣を目指し、三成殿と合流する事としよう」
そう宗茂が言い掛けた時であった。
「宗茂様、秀包様、申し上げます!」
突如、二人の元へ伝令が駆け寄ってくる。伝令は数里を一息に駆けて来たが如く土埃にまみれ、只ならぬ様子であった。
「どうした、何があった」
「ほ、本日明け方より関ヶ原にて三成殿と家康殿の大軍勢を率いた合戦があり、お味方悉く敗走或いは討死と」
何を言っているのか分からない。それが二人の率直な感想であった。僅かの沈黙の後、二人の声が静寂を裂いた。
「敗走或いは討死だと? 秀秋は……秀元様や広家殿はどうなったと言うのだ」
「関ヶ原にて三成殿と家康殿の合戦? 何ゆえその様な戦が起こっている」
秀包は伝令の肩を掴み引き寄せる様に問い詰めた。傍らでは宗茂が険しい表情を浮かべている。
「も、申し上げにくいのですが……」
「申せ、それがお前の役目であろう」
見る間に青ざめていく使者の肩を秀包が揺らす。
「秀秋様が家康殿に同心され松尾山城を奪い取り、三成殿らは其れを謀叛として討伐の兵を関ヶ原へ差し向けました。しかし後を追う様に家康殿の軍勢も着陣され、合戦が起こるに至ったと。合戦の際毛利勢は南宮山に陣しておりましたが、ついぞ動く事は無かったと……」
秀包は一息つき、使者の肩を離した。
「つまり、秀秋や毛利の者共は生きておるのだな」
「は。今は佐和山城の接収に向かわれたと」
宗茂は眉間に皺を寄せると、吐き捨てる様に言った。
「何と言う事だ。秀秋殿がその様な手を使うとは。毛利の者共も家康殿に同心したも同然ではないか」
「……うむ」
宗茂の言に、秀包の心に波が立つ。その波はざわめく様に畝っていた。平生冷静な秀包である。その心に波が立ったのは幾年振りであろうか。
「とにかく、今俺達の取る事の出来る方策は二つだ。佐和山城に籠城するか、大坂城に籠城するか。使者殿、三成殿の行方は存じているか」
宗茂の言に使者がかぶりを振る。
「戦場より撤退したとお聞き致しましたが、それより後の行方は知れずと」
「三成殿の生死は知れず。となれば大坂城へ向かうより他に手は無いか」
宗茂は腕を組み強く頷くと、秀包へと向き直った。
「俺は大坂城へ向かい、輝元様に籠城を進言する。お前も来てくれるか、秀包」
「……ああ」
秀包の心の波は止む事無く畝っている。その波に、秀包は悪しき予感を覚えていた。
九月十六日、京・三条。
十六夜の月の元、宗茂と秀包は馬を並べていた。その後ろには軍勢が率いられている。
「宗茂、大坂城へ向かうのでは無いのか。何故京に馬を走らせている」
「より籠城を確実とする為に、いや、徳川方との交渉を有利に進める為に、俺に一つ手立てがある」
月影を背に宗茂の顔が浮かび上がる。逆光で表情を窺い知る事は出来なかったが、その目だけが剣呑な光を放っていた。
ある屋敷の前に宗茂が馬を止める。それを見て、秀包もまた馬を止めた。
「この屋敷は、まさか……」
「そう。おね様の屋敷だ。今、この屋敷は家定殿……秀秋殿の実の父君が守っておられる。おね様と家定殿、このお二方に大坂城へ入って頂くのだ」
秀包が口篭る。恐らく、宗茂は秀秋を警戒している。だからこそ実の叔母と父である二人を質にせんと目論んだのだ。確かに秀秋がこの二人に刃を向けるとは思えない。手立てとしてはかなり効果的だろう。
だが――秀包は何処か違和感を感じていた。
「家定殿! 木下肥後守家定殿はおられますか!」
悩む秀包を他所に、宗茂は屋敷の門扉へと声を張り上げていた。
「はい、どなた様でしょうか?」
まるで平時に客人が来たかの如く気の抜けそうな声がし、ゆるりと門扉が開いてゆく。
その隙間から壮年の男が顔を覗かせていた。何処か秀秋に似ている気がする、と秀包は思った。
「柳川侍従・立花宗茂と久留米侍従・毛利秀包に御座います。家定殿、本日はお願いに上がりました」
「はいはい、何でしょう」
剣呑な宗茂と相対しても家定はその飄々とした態度を一切崩さない。宗茂は僅かに咳払いをし、言った。
「御子息・秀秋殿の関ヶ原での行いを聞いていらっしゃいますか」
家定の眉が僅かに動く。
「私としては、あの子はもう隆景殿の御子息の心算でいるけどね。それで、秀秋が何か?」
まるで悪戯をした童の親の様な口振りで家定が宗茂に返答する。
「関ヶ原の合戦にて御子息・秀秋殿は約定を変じ家康殿に与し、その為三成殿が敗北致しました。家定殿が若し殿下への御恩を御忘れで無ければ、我らの軍勢と共に大坂城に篭り秀頼様への忠を尽くしましょう」
宗茂が朗々と口上を述べる。秀包はただ傍らで口篭っていた。心の波は愈々波頭を立て始めている。
「ああ、成程。そういう事か。少し待っていてくれるかな」
そう言うと、家定は門を閉じ引っ込んでいった。宗茂と秀包が二人、門の前に残される。無論、その後ろには軍勢が控えているのであるが。
「宗茂、本当に家定殿が我らに与すると思うか?」
秀包が目線のみを宗茂へ向ける。その怜悧な顔には、心の波を写したかの如く眉間に皺が浮かんでいた。
「無論だ。与する宛があると考えている故、私は此処に来ているのだ」
四半刻程待たされた後だろうか、開け放つかの様に勢い良く扉が開かれた。其処に立っていたのは鞘に入れられた太刀を持つ家定。そして――こちら側へ槍を向ける兵士達であった。
「これが私の答えだよ、宗茂殿」
射抜く様な視線を宗茂に投げかけたまま、家定は笑っていた。
「貴殿も約定を変じる心算なのか!」
叫びながら腰の備前長船兼光に手を掛ける宗茂に、家定は溜息を吐く様に僅かに息を吐き出した。
「そもそも、先に約定を違えたのは君達だよ、宗茂殿。家康殿は『秀頼様のため』、豊家の認を得て兵を上げたんだ。それに対して君達が秀頼様を奪い取って謀叛を起こした――あの子の手柄で家康殿が勝った今、そう言う事になったんだよ。分かったら退いてくれるかい」
飄々と言い放つ家定に、宗茂は吠える様に叫んだ。
「御同心頂けないのであれば……!」
「私にも、守らねばならない物があるんだ」
家定が鞘から太刀を抜き放つ。上品な輝きを放つ刃、そして何よりその佇まいの美しさに宗茂が思わず息を飲む。
「本当は妹の物なんだけれど、この一大事だからね。借りて来たんだ」
打のけの三日月が月光を映し、光る。
三日月宗近。平安時代、この三条の地にて活躍した名工・宗近により鍛えられた刀である。この刀は打のけが三日月の如くであることからその名が付いたと言う。
そして。この三日月宗近は室町時代より天下五剣として鬼丸国綱、童子切安綱、大典太光世、数珠丸恒次と共に称された名刀中の名刀であった。
「私はあの子の様に頭が切れる訳でも無いし、君達の様に腕が立つ訳でも無い。でもね。妹や子供達――家族の為ならこの腕の残っている限り戦う覚悟ではあるよ」
家定が三日月宗近を構える。それは型など無い、言ってしまえば構えにすら成っていない稚拙な物であった。
しかし。このまま刃を交える事になれば、家定は文字通り死ぬまで戦うだろう。否、この圧倒的な戦力差では戦闘にすらなりはしない。一方的な嬲り殺しだ。
だが若しその様な事態となれば、おねが自害する事も考えられない事では無い。
そうなれば秀秋は自分達を決して許しはしないだろう。間違い無く全身全霊を掛け潰しに掛かるであろう。
宗茂とて大坂城に籠城し討死しようと言うのではない。「生き残る」為に家康と有利な条件で和睦を結ぶ事が目的なのである。
「退くぞ、秀包」
其処までしてこの男を連れて行く利は無い。宗茂は最終的にそう判断した。
宗茂が掌を翻し、率いていた軍勢を引き返させる。そのまま軽く秀包の肩を叩き、宗茂もまた去っていった。
しかし、秀包はその場から動く事が出来なかった。殺気の失せた事を察してか家定も三日月宗近を鞘に納め、兵を散開させていた。
「家定殿……有難うございます」
己でも何故その言葉が口を衝いたのか分からない。気が付けば、秀包は家定に感謝の言葉を口走っていた。
「私は礼を言われる事など何もしていないよ」
家定はまた飄々とした人当たりの良い態度に戻っていた。僅かに俯く秀包に、家定が和やかに声を掛ける。
「礼を言うのは私の方だ。あの子の兄になってくれてありがとう。秀包殿」
秀包の視界が微かにぼやける。秀包はこみ上げる物を堪えると、家定に真直ぐに向き合った。
「某は未だ兄らしい事は一つも出来ておりませぬ。ですが……そう思って頂けて有難く存じます」
秀包は深々と辞儀をしていた。顔を上げた時、其処には変わらぬ家定の笑顔があった。
翌日。九月十七日。大坂に至った宗茂は大坂城に登り、輝元と面会していた。
「かくなる上はこの大坂城に籠城し、家康殿と一戦仕りましょうぞ」
家定とおねを大坂城に質とする計画が破綻した宗茂は、最早この手しか無いと「総大将」である輝元へ直談判という手段に出ていたのである。
「籠城か……」
余計な事を言ってくれるな。それが輝元の本音であった。
輝元は八月に岐阜城の陥落した時分より、広家を通して家康との和睦の途を探り始めていた。尤も、その時点では情勢がどちらに転んだとしても対応できる様にと言う性質の物であったのだが。
しかし関ヶ原で三成が敗れ去りその行方も知れずとなった今、形振り構わず和睦するより他に道は無かった。輝元とて毛利を滅ぼしたい訳では無い。毛利存続の為には多少不利な条件でも飲む覚悟はしていた。加えて、この日秀秋らが佐和山城攻めを開始したと聞いては悠長に構えている時間すら無かったのである。
「この様な事態と成った今、徒に籠城して秀頼様の身を危険に晒すよりも性急に家康殿と講和し城を明け渡す方が秀頼様の御為と思うが、どうか」
輝元の返答に、宗茂は失望を覚えていた。
一見、この言は忠義心に訴えかけている様に見える。しかし、その実は毛利のみの和睦である。その言に乗ったとて、立花家は改易を待つだけなのだ。
「……もう良い、輝元殿。某は柳川へ帰参する事とする。然らば御免」
苛立った声で輝元へ返答した宗茂は踵を返し、振り返る事無く早足でその場を発った。
結局、こののち「此度の事は三成と恵瓊の独断であり、輝元は担ぎあげられただけであるので毛利は不問とする」という内容の和議を取り付けた輝元は、九月二十五日に大坂城を退去する事となる。
「秀包。俺は柳川に戻り、家康殿に与した諸将と一戦仕ろうと考えている」
安芸・蒲刈島。航路で九州・筑後へ向かう宗茂は、瀬戸内に浮かぶこの島の港で休息を取っていた。傍らには秀包が佇んでいる。秀包も船で宗茂と共にこの蒲刈島まで来ていた。恐らく己と共に筑後まで帰参するのだろうと宗茂は考えていた。
「そうか……」
しかし、相対する秀包はどこか気がそぞろといった様子で海を眺めている。宗茂は大きく息を吸い込むと、一際声を響かせた。
「この際だ。俺の胸中を隠さず伝えたい」
宗茂は秀包を真直ぐに見据えた。その眼差しに、秀包が思わず向き直る。
「秀包。お前が毛利を大切に思っている事は知っている。しかし、今回の関ヶ原での企てについては俺にもお前にも何の相談も無かった。お前は殿下より久留米に領地を頂いた独立大名と言える地位だ。最早毛利に従う道理は無い」
波音が大きく響いた。空に舞う飛沫が日の光を受け綺羅の如く輝く。
「どうか、俺と共に九州へ下ってくれ。その上で柳川城・久留米城一丸となって徳川方と一戦仕り、武門の意地を示すのだ。その上で和睦し、本領安堵を勝ち取ろう」
燃え盛る炎の様な宗茂、凍て付く氷の様な秀包。二人の視線が交差する。
しかし秀包は不意に目を伏せた。
「俺は、お前と行く事は出来ない」
「何故だ……? ならば、何故俺と共に此処まで来たのだ」
宗茂は愕然とした。
秀包と己は義兄弟の契りを交わし、数多の戦場を共にした仲である。なれば命運を共にするのであろう。無意識の内に宗茂はそう考えていた。
「此処までお前と共に来たのは監視の為だ。若し、お前が畿内・中国で騒乱を起こす心算ならば俺が止める算段であった」
そう語る秀包の目は、冷たくも僅かに哀情を含んでいた。
「……毛利の為に、お前が其処までする義理が何処にあると言うのだ!」
「毛利の為では無い。これは俺の選んだ道だ」
激昂する宗茂に、秀包は視線を戻し明瞭な声で答えた。
「俺は、兄としてあいつの……秀秋の決断を無為にしたくは無いのだ」
「秀包、お前もあの男と同じだと言うのか!」
其れは悲憤か哀傷か。気が付けば、宗茂は備前長船兼光を抜き放ち秀包へと斬りかかっていた。
「否。俺は俺、あいつはあいつ、お前はお前だ」
しかし、その太刀筋は秀包の鉄砲兼光により受け止められる。それを嚆矢として秀包の供回りと宗茂の供回りの小競り合いが始まった。
「俺よりもあの男が正しいと言うのか!」
「正しいかなど分からぬ。唯俺は、兄上が後継と認めたあいつの決断であるからこそ認めたのだ」
秀包が宗茂の剣筋を的確に読み、受け流す。まるで剣舞の如きその光景は、確かに阿吽の呼吸で戦場を渡ってきたこの二人にしか出来ぬものであった。
「宗茂、刀を収めてくれ。この様な争いは無意味だろう」
「意味の有無では無い! 戦場を共に駆けたあの日々は偽りだったと言うのか!」
宗茂が一歩踏み込み、秀包に斬りかかる。秀包はその刃をしかと受け止めると、宗茂を真直ぐに見据えた。
「それは違う。お前は掛けがえのない相棒だ、だからこそ俺は」
しかし秀包の声は銃声に掻き消された。
身を屈めるように蹲る秀包。撃たれた――そう思うのも束の間、脇腹に燃えるような痛みが走る。
秀包の供回りが憤怒の形相で宗茂に襲いかからんとする。
「止めよ」
だが、その刃は秀包の声によって遮られた。
「俺はお前と共には行けない。だが、お前の望みは遂げさせたい。故に俺はお前を止めない」
切れた唇から血を零しながら、秀包は微笑んでいた。宗茂はその秀包の顔を見詰めたまま、眉を吊り上げた。
怒っているのか、悲しんでいるのか、それとも喜んでいるのか。最早分からなかった。
だが、目前のこの男は確かに己の片割れと言うべき相棒である。
「済まぬ……俺は行く」
「謝るな。お前の思う道を行けばいい」
宗茂は踵を返し、振り返る事無く港へと歩き出した。
――これで、義理は果たせたか。
その背中を見遣りながら、秀包は瞑目し崩れ落ちた。
九月二十一日、夜。名島城。
九州へ到達した宗茂は、秀秋の居城であるこの城に赴いていた。
「我らはこれより筑前を通り、柳川へと帰参する所存である。しかしながら、秀秋殿は家康殿に同心なされた。なれば、名島城は我らを敵と為して一戦仕るか否か。お聞かせ願いたい」
宗茂と相対する名島城の留守居は、取り立てて思案する様子も無く答えた。
「なれば、其の儘筑前をお通りになり柳川へと御帰還なさって下さい」
この者の名は堀田正吉。文禄元年(一五九二年)より小早川隆景に仕え始め、秀秋の養子入りに伴いそのまま秀秋の家臣となった男である。稲葉正成の娘婿であり、その立場もあってかこの名島城の留守居を任されていた。
「臆されたか」
「いいえ。秀秋様の御活躍で大勢の決した以上、此処で戦う事に何の意味もありません。秀秋様は戦を望んでおられる訳でも、三成殿憎しで兵を挙げたのでもありません。ただ、秀頼様の御無事と天下の静謐を望まれているのです」
正吉の返答に、宗茂は思い起こす。秀秋は家康に与したのだから、当然三成に与した己とは敵対するものだと考えていた。しかし、そうは成らなかった。
秀秋殿は、敵と味方と言う二元では物を見ていないのやも知れない。
「心得た。非礼を許されよ。なれば我らはこれより筑前を進み柳川へと向かわせて頂こう」
宗茂は深く辞儀をすると、名島城を後にした。
九月二十三日、宗茂は柳川へと帰還する。
そして十月十五日より、鍋島直茂・勝茂父子、黒田如水による柳川攻めが始まる。
鍋島勝茂は元々会津征伐に与する算段で出立したが、三成による関所の封鎖により三成方に与する事を余儀無くされた。故に、鍋島家が生き残る為には家康方として武功を挙げねばならぬ状況に陥っていたのである。黒田如水はその鍋島勢の軍監として赴いていた。
江上・八院の戦いでは鍋島勢を多数討ち取った立花勢であったが、大軍の前には如何ともし難く柳川城への籠城を余儀なくされる事となる。
其処へ、一人の男が調停に訪れる。加藤清正であった。
小西行長の居城・宇土城を接収した清正は、九州の騒乱を収めるべく柳川へと馬を奔らせていたのである。
「これ以上の戦いは無意味だ。下ってくれないか、宗茂殿」
柳川城の一室で、清正は宗茂と相対する。
「意味の有無は当方が決める事。我らは、生半可で膝を屈する事は出来ぬのだ」
宗茂は固く拳を握り締めた。己の半身とも言える相棒を、秀包を撃ってまでこの戦に臨んでいるのだ。その秀包に恥ずべき戦は出来ない。秀包と別れ一月近くが経った今、その思いはより強固になっていた。
「鍋島殿には既に話を付けている。江上と八院の戦で鍋島勢は十分に活躍した、これで家康殿への義理は立ったであろうと。故に、もう鍋島勢が攻めかかる事は無い。立花勢も同じだ。あの戦で十二分に武門の意地を見せ付けた。故に家康殿も決して悪くは扱わない」
「だが、俺は」
眉間に皺を寄せ唇を噛む宗茂に、清正は慮る様に言った。
「秀包殿の事を気にかけているのか」
宗茂が僅かに清正から視線を離した。
「秀包殿は秀包殿、宗茂殿は宗茂殿だろう」
ふと、秀包の声が宗茂の脳裏に蘇る。
――俺は俺、あいつはあいつ、お前はお前だ。
溢れそうな涙を、一層唇を噛み締め抑え付ける。
「正直に申せば、立花家の改易は免れないだろう。だが宗茂殿に奥方殿、そして御家衆の無事は俺が必ず保証する。若し家康殿がこれを違えるのならば俺が斬る。宗茂殿の武勇なれば、必ず復領は成るだろう」
清正が、ぐい、と頭を下げた。
「だから、どうか頼む」
宗茂は僅かに目を伏せた。怜悧だが優しい、あの声が脳裏に浮かぶ。
――お前の望みは遂げさせたい。故に俺はお前を止めない。
秀包の心中も、今ならば理解できる気がした。否。本当は分かっていたのだ。刃を交えたあの時、既に。
それを納得できず、俺は刃を振り翳していたのだ。
俺は、生きよう。生きて立花の名を残そう。
「相分かった。家康殿の元へ下ろう」
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