うつしよの波 ~波およぎ兼光異伝~

春疾風

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豊臣秀次の章

第一話 吉野の桜

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 満開の桜がはらはらと散る。花弁は風にそよい、聚楽第のえんに落ちた。

  おさまれる 世のかたちこそ みよしのゝ
  花にしつやも なさけくむ声

 この年、文禄三年(一五九四年)二月。吉野の花見にそう詠んだ男、関白・豊臣秀次は聚楽第の一室で自身の愛刀を手入れしていた。櫃から出された刀・脇差・短刀らがその刀身に桜を映している。

  君か代は たゝしかりけり みよしのゝ
  はなにをとせぬ みねの春風

 同じく二月の花見にそう詠んだ少年、豊臣秀俊は大きな瞳を興味深げにくるくると動かし、その様子を眺めていた。
義兄上あにうえは刀を沢山お持ちなのですね」
 義兄上と呼んだが、正確には秀次は太閤・豊臣秀吉の甥であり秀俊は秀吉の正室・おねの甥である。しかしながら二人とも秀吉の養子となっており、また秀俊は物心ついた時より秀次を兄として慕っていた。故に、二人は「兄弟」であった。
「ああ、刀は武士の誇りだからね。私はもう、刀を振るうことも無いだろうが……その心を失いたくはない、いや、失ってはならないんだ。だからこうして時折、刀と語り合うことにしている」
 そう言った義兄の目が僅かに曇った事を、秀俊は見逃さなかった。が――その理由を問う気にはなれず秀次から少し視線を外し、暫し押し黙っていた。
「その刀は厚藤四郎と言うんだよ」
 突然の義兄の声にうつつへと引き戻される秀俊。どうやら、秀次から外した視線はある短刀に向けられていたらしい。その短刀を見ていた訳ではないものの、秀次の目から先ほどの曇りが消えていることに気づいた秀俊はそのまま義兄の声に耳を傾けた。
「他の短刀と比べて刀身が分厚いだろう? だから『厚藤四郎』と言うんだよ」
 秀次はまた別の短刀へと目をやった。生き生きとした目だ。理由は分からないが、秀俊はそんな義兄の様子が何故かとても嬉しかった。
「これはしのぎ籐四郎」
「この刀も籐四郎と言うのですか?」
「そうだよ。籐四郎吉光。同じ刀工の手で鍛えられた、兄弟みたいなものかな」
 そう言って秀次は秀俊の方を見て微笑んだ。秀俊も思わず微笑みを返す。
「籐四郎吉光の刀は、持ち主に腹を切らせないと言われているんだよ。畠山政長、聞いたことはあるだろう」
「はい」
「政長が籐四郎の短刀で腹を切ろうとしたが、どうしても切れない。苛立って放り投げたら薬研を貫いた。だから『薬研籐四郎』と言われるようになった……とね」
 しかし、政長は結局別の刀で自害したんだけどね――と言おうとして秀次は止めた。その様な世の無常まで秀俊に言う必要もあるまい。
「義兄上の一番の愛刀はあるのですか?」
 ふと秀俊は気になった事を秀次に問う。これほどの刀を集めている義兄の一番の愛刀となれば相当な名刀に違いない。
 秀次はあまり迷う様子もなく、一振りの刀を手にした。
「やはりこの備前長船兼光だろうな」
 龍が泳いでいた。
 秀俊の目はその刀身に泳ぐ龍に釘付けとなった。波間にたゆたう白銀の龍――。
「おっと、不用意に触らないように。人の胴体くらいなら切れてしまうからね」
 突然、秀俊は秀次にたしなめられる。そこで初めて、秀俊は自分が刀に手を伸ばしていたことを知った。
「胴体。そんなに……」
 気付けば、桜は暮れなずんでいた。春とはいえ、夕暮れともなれば肌寒い。その寒暖の差か、義兄の言葉にか、秀俊は一つ身震いをした。
 ほのかに背が温かい。
 秀次は、狩衣の袖で秀俊の身体を温めるように秀俊の肩を抱いていた。義兄はこういった事によく気づく。秀俊の言外の言の葉を拾ってくれるのである。その温かさに、秀俊は一抹の寂しさを覚えた。
「どうかしたのかい」
 そのような義兄に隠し事など出来ない。
「今までのようにここへ通うことができなくなるやも知れません」
 ぽつり、と小さな声で秀俊が呟く。なにゆえ、と問い返そうとした秀次であったが、一つの理由に思い当たった。
 養子入り。
 秀俊は秀吉の後継者として育てられた。しかし、秀吉に子・鶴松が産まれるとにわかに毛利家への養子入りの噂を耳にするようになった。しかし結局、鶴松の死により毛利家への養子入りの話は立ち消えることとなった。
 だが、翌年にまた秀吉に子・御ひろいが誕生する。なれば、再度養子入りの話が持ち上がるのも当然であった。
 豊臣の支柱とするため、有力大名の養子とする……と言えば聞こえは良いだろう。だが実のところ体の良い厄介払いであろうと秀次は思っていた。秀吉は実子である御ひろいに跡目を継がせようとしている。そのため一度は後継者として扱っていた秀俊、そして現に関白として政務に携わっている己が邪魔なのだ、と。
「私は、小早川隆景様に貰われるようです」
 秀俊のその言を聞いた時、秀次は少し安堵した。鶴松誕生の頃からだろうか、隆景は何かと秀俊のことを気づかっていた印象がある。その様子からは秀吉への機嫌取りといった打算ではなく、愛情を持って接しているように秀次には感じられた。
 隆景自身も養子として小早川家に入った身である。秀俊の立場に思うところがあったのやもしれない。秀俊も口には出さないが、隆景には少し懐いているようであった。前年、隆景が朝鮮の戦で病を患い帰ってきた際、秀次は見舞いの手紙を送ったのだが、秀俊は自ら見舞いに赴いたのである。
「そうか」
 ただそれだけを言い、秀次は秀俊の頭を撫でた。秀俊は小早川へ行くことで救われるのかもしれない。それは喜ばしいことである。しかし、秀俊がここへ今ほど来れなくなることは寂しくもあった。安堵と寂寥が混濁した意識の中で、秀次はただ秀俊の言葉にそのまま返答するより他は無かった。
 その年の十一月、秀俊は小早川隆景の元へ養子入りし、小早川秀俊となった。

 そして年は明け、文禄四年(一五九五年)四月十六日。
 秀次の実弟、豊臣秀保は数え十七の若い生涯を終えた。病死である。秀次は三兄弟の長男であったが次男の秀勝は文禄元年(一五九二年)既に他界しており、三男の秀保が亡くなったことで一人残された形となってしまった。
 無論、何を悔む事も出来ない。しかし、己より若くして亡くなった弟達の事はやはり不憫ではあった。
 それゆえに、この知らせを看過することは秀次には出来なかったのである。
「殿下。なにゆえ大和大納言家を途絶えさせるお積もりなのですか」
 伏見城。その謁見の間で秀次は秀吉と相対していた。大和大納言家とは秀吉の弟である豊臣秀長、そしてその養子となった秀保の家系である。
「秀保にゃあ子がおらんかった。なら仕方ないじゃろう」
 秀吉は掌に顎を載せ、扇で顔を煽いでいた。分かり切った事を聞くな、と言わんばかりの様子であった。
 甥の死を何だと思っているのだ。
 その秀吉の様子に、秀次はどうしても言葉尻が荒くなる。掌を固く握り、秀次は言った。
「藤堂高吉殿がおられます。元は秀長叔父上の御養子であった御方、問題は無いと存じますが」
 藤堂高吉。織田家の重臣であった丹羽長秀の息子であり、当初秀長の養子となっていた男である。しかし秀保が秀長の娘と婚姻したことで廃嫡となり、今は大和大納言家の家老であった藤堂高虎の養子となっている。
「くどいわ、孫七郎。何度も言わせるな。儂はあの家は潰すと決めたんじゃ」
 孫七郎とは秀次の仮名けみょうである。公の場や書簡でなければ秀吉は秀次をこう呼んでいた。彼なりの甥への親愛の情であったのかも知れない。
「それが本当に豊家の……御ひろい様の為になるとお思いですか! 豊家の連枝を自ら落とす事が!」
 気が付けば、秀次は叫ぶように奏上していた。すぐさま秀吉が肘掛けを叩きつけるように立ち上がる。手にした扇で秀次を指す。
「おんみゃあ、いま己が何言うたか分かっとるんかあ! 儂が御ひろいの事を考えて無いと思うてかあ!」
 訛りの強い言葉で秀吉が叫んだ。その顔は烈火の如く昂揚している。
「その様な事は申しておりません! ただ、先頃の殿下はあまりにも独断に過ぎると申しているのです!」
 秀次のその言に、秀吉は怒髪天に達したようである。これ以上赤くならないと思っていた顔が更に赤くなる。
「孫七郎、おみゃあは、おみゃあは誰に物言うとるんじゃあ!」
「太閤殿下、いえ、叔父上でございます! 蒲生家の一件から叔父上は、叔父上は周りの言を聞かなくなり申した!」
 蒲生家の一件とは、蒲生氏郷が亡くなった際の御家騒動である。嫡子の秀行がその領土・会津九十二万石を継ぐ事になっていたのだが、蒲生家の重臣達が主導権を巡り争いを始めてしまう。秀行は数え十三である。当然、家老らの独断を止められる筈もなかった。秀吉はこの件を理由に、秀行へ近江国内二万石への減封を申し付けたのである。
「おみゃあは、おみゃあは……あん吉野の時からそうじゃったのお!」
 唐突に吉野の花見を持ち出され、秀次の目が丸くなる。
「おさまれる世のかたち、なさけくむ声、ありゃあ儂への当てつけか?」
「な、何を仰っているのですか叔父上! それとこれとは何の関係も」
 無論、秀次にその意図は無かった。ただ自身への道標として、思い描く世の形を歌に乗せただけなのだ。
 叔父上は、これ程までに私を疑っているのか。
 失望か寂寞か、秀次はただ胸に大きな穴の開いたような虚しさだけを覚えていた。
 秀吉は唐突に怒りの感情が切れたかのように、その場で胡坐をかいて溜息を吐いた。
「秀俊は儂の世が正しいと言うてくれたんに。えらい違いじゃ」
 秀俊。その名を聞いた時、秀次の鼓動が一瞬止まる。
 やはり秀俊は、豊臣を離れて良かったのだ。私の、最後に残された弟。
 弟に恥じぬ兄でありたい。大和大納言家は、私の一存ではどうにもならぬやも知れない。しかし、せめて蒲生家の一件だけは。
 皆の声に耳を傾けることこそ、私の思い描く世の形なのだから。
 秀次は、爪が掌に食い込む程にきつく握り締めた。
「殿下、私は私の信じる道を往きます」
 かくして六月二十一日。秀次は、朱印状を発行して蒲生秀行の減封を撤回した。

 七月三日。遂にこの時が来たか。それが秀次の率直な感想であった。
「高野山へ上れと、関白の位を退けと、太閤殿下はそう申されているのだな」
 盛夏の日差しの中、聚楽第の一室で秀次は静かに、しかし明瞭な声で相対する使者に伝えた。その横に座っていた男が唐突に立ち上がる。
「ふざけるよ三成! 関白様に何の咎があると!」
「止めよ、重茲」
 秀次の側に控えていた木村重茲は、なりふり構わず使者――石田三成へと激昂した。その重茲を秀次が手で制す。
「し、しかしっ!」
「三成殿はただ伝えに来られただけだ。そうだろう」
 三成はただ押し黙り俯いていた。その顔は重く沈んでいる。
「これでは……これでは関白様が謀叛人だと断じられたようなものではないですか!」
「口が過ぎるぞ、重茲!」
 平素の温和な表情からは想像もつかぬような荒声で、秀次が言い放つ。その二人の様子を見、三成は深く頭を下げた後、何か思い切ったように顔を上げた。
「これは単なるわたくしの独言です。なので聞き流して頂きたい」
 秀次と重茲が三成に向き直る。
「私も、関白様が謀叛をくわだてているとは思っておりませぬ」
「では何故」
 聞き返す重茲に気づかぬ素振りで、三成は続けた。
「昨今の太閤殿下は感情の起伏が激しくなっておられる……。故に、このお怒りも一時のものと存じ上げまする。なればこそ高野山にて隠遁し、ほとぼりが冷めるのを待つのが上策かと」
 秀次の目が、わずか曇る。
「あい分かった。私は高野山へ上る」
「は……」
 落ち着き払った声で言う秀次に、三成は神妙な面持ちで頭を下げた。動作の一つ一つが重い。
 三成は重々しい足取りで向かった襖に手を掛けると、秀次に振り向くことなく呟いた。
「豊臣の連枝を失う事は、豊家の為にもなりませぬ。それは太閤殿下もきっと分かっておられましょう」
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